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みえない
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本作品には、精神疾患、希死念慮、自傷行為、暴力的描写を含む表現があります。
読者の方の心身の状態によっては、強い不安や動揺を引き起こす可能性があります。
これらの表現に不安を感じる方は、閲覧をお控えいただくよう、お願いいたします。
【みえない】
今日はね。
いつもより疲れちゃった。なんだか。
台所からなんとかリビングまで戻り、それからソファに横たわって、右腕に自分のおでこを乗せて、やっと、ほっと一息を吐いた。
小学生の頃は、自然に湧いてくる元気のおかげで、遊びも宿題も、友達との関係だって続けることができた。
でも、中学生になって、半年くらい過ぎた頃から、朝は起きても疲れが取れていないし、吹奏楽部の練習では上手くなっている実感が湧かなくなってしまったし、勉強に至っては宿題をこなすので精一杯。
中間試験や期末試験に向けて、計画を立てて勉強している友達は皆、偉いと思っている。
高校入試に向けて県内模試に挑み始めた友人たちのことは、ちゃんと偉いと思っている。
わたしは毎日を生き延びるだけで、全てが終わってしまうというのに。
どこで差が付いてしまったのかな、あの子たちと。
そんな小さな嘆きをしていたところとて、現状が変わらないことなんて、知ってる。
人に言われなくたって、知ってる。
あなたに言われなくたって、知ってる。
静かなため息が喉から漏れたとき、迂闊に左手の甲を、ソファの端の木にぶつけてしまう。
自分はいつも、うっかりしすぎ。
じんじんと痛む左手を右手でさすった。
その時だった。
家の外の道路から、ちいさな音楽が聴こえてきた。
金管楽器の音色だということは、すぐに分かった。
そして、心地よい高音の響きから、それがトランペットだというのも分かった。
とても心地よい音色。
自分には到底出すことができない優しい響き。
音はだんだん大きくなる。
音がわたしの家に向かって近づいてくる。
これって、マーチングかな。
歩きながら、演奏しているのかな。
マーチのテンポに合わせて、ピッコロが軽快に歌い出した。
あんなに楽しく吹けたなら、きっと毎日、楽しかっただろうな。
まるで睡眠導入剤を一度にたくさん口にしたときに感じる安心感と高揚感。
そして、ふわふわ感。
道路の楽器の音色に、わたしはただ、聴き惚れるだけ。
ふと興味が出て、窓の近くに行こうと思ったけれど、ソファにうずくまっている身体が「動きたくない」と小言を言う。
音は家から遠ざかってゆく。
わたしはそのまま、ソファのクッションに身体をそのまま沈めた。
楽器の音が遠ざかり、無音の瞬間が訪れる。
なぜだろう。
今日は外が賑やかだ。
子猫の鳴き声が聞こえてきた。
わたしの家の猫も、小さい頃はあんな可愛い鳴き方をしていたっけ。
一ヶ月前、いつもどおりに朝を迎えてカーテンを開けて、陽の光を浴びたとき、足元で猫が丸まっていた。
いつもどおりの、幸せそうな丸いシルエット。
でも、朝だから、ここ、寒いでしょ。
そう言って、猫をそっと抱き抱えると、その子の腕が重力に逆らって、ぶらりと下を向いた。
抱きしめたとき、その子は温もりを返してくれなかった。
幸せそうな口元から、その子の息はしなかった。
道路から聞こえてくるのは、わたしがずっと聞きたかった、あの子の声を彷彿とさせた。
わたしが離れようとすると、必死でみゃあみゃあと引き止めた、小さなあの子の声。
道路の子猫も、誰かを呼んでいる。
母猫かな?
それとも飼い主さん?
誰を呼んでいるのかは分からない。
けれども、わたしの耳を暖めてくれる、そんな鳴き声。
懐かしさから、思わず、わたしの頬が緩んでしまう。
けれどもね、道路で鳴いていたら、カラスにすぐ見つかっちゃうよ。ヘビだって来ちゃうかもしれないよ。
だけど、それは杞憂だった。
子猫の呼ぶ声を聞いたのだろう。大人の猫の声が聞こえて、その子の声と重なった。
母親に会えたんだね。
成熟した優しい母猫の声と、まだ無垢でちいさなその子の声が重なったとき、わたしはまた幸福感に浸ることができた。
2匹の猫の声は遠ざかってゆくけれど、きっと今度は離れ離れにならないだろう。
あの2匹が幸せな時間を過ごしていると想像してみたら、また幸せな気持ちに浸れた。
それにしても、なんで今日はこんなにたくさんの音が聞こえてくるのだろう。
無機質で無意味で、空白だらけの毎日。
そんな日々の中で、幸せだと思える音がこんなにも聞こえてくるなんて、とても意外な一日だ。
きっと今日は、特別な日なんだろう。
そう確信したのは、道路脇から同級生たちの笑い声が聞こえて来た瞬間だった。
彼女たちの姿を見ることはできないけれど、とても楽しそうな声だった。
「ねえ、そのヘアピン、ちょっと派手じゃない?」
「そう? 300円で売ってたけど、一目惚れしちゃって」
「わかる! 私もその色味タイプだわ!」
「でよ、校則に引っかかりそうじゃない?」
「あんな古くさい校則なんて、先生たちだって忘れているよ」
とても、心地よいみんなの声。
そして、その声で笑い合う幸せそうな時間を私は、ただ耳で追うだけ。
わたしもヘアピンを褒めてもらいたかったな。
今朝、鏡の前に立った時、わたしは願っていた。心の奥で、期待していた。
300円で買った、このヘアピン。
それをクラスの皆から、ささやかに褒めてもらえる。そんな展開を。
ヘアピンを付けて登校したのは、わたしなりの最後の抵抗だった。
昔のみんななら、きっと褒めてくれたはず。
「似合っていないかもしれない」
そんな不安を鏡の前で押し殺して、頭に無理やり引っ付ける。
少しでもいい。
誰でもいい。
昔みたいに誰かとの輪に入れる、そんな空間に戻ってくれれば、それでよかった。
でも、それは高望みでしかなかった。
昔のように戻ることなんて、最初から無理な話しだったのだ。
全て、わたしが、間違っていた。
教室に入る前に、皆が私を笑った。
「きもちわるいヘアピン」
それからの教室での空気は、いつもどおりの平穏そのもの。
クラスの女子が談笑をし、わたしの存在を無視し続ける。
授業と授業の間に、わたしに聞こえるくらいの声の大きさで、ふと思い出したかのように、わたし自身を指さして笑う。
そんな場から思わず、廊下から飛び出していた。
昨日までは、恐怖から脚がすくんで、机から離れられなかった。
でも、今日は限界だったのだろう。
足が当てもなく、廊下を彷徨った。
音楽室から聞こえる下手くそなトランペットとピッコロの音を、なんとか聞こえないふりをしながら廊下を進んだ。
図書室の前で、たまたま小学生の頃の友人と鉢合わせた。
その子は勇気を振り絞り、わたしに言い放った。
「ごめん。ほんと、むり。近づかないでくれる?」
わたしは、その言葉をただ聞くだけ。
「私もさ、あなたに関わるとそれだけで大変っていうか」
わかってほしいの。悪意はないの。
彼女はそう続けた。
「私の視界にあなたが入ってしまうと、今度は私の世界が壊されてしまうの。だから、本当にね。本当に一生のお願いだからね」
彼女は真っ直ぐに私の目を見てから、息を吸って、口を開いた。
「これから、この先。私の視界に入らないで欲しいの。あなたも私に対して視線を送らないでほしいの。これは友達としてのお願い。私たち、友達だよね? だから、私の言うことを守ってくれるよね? 私のことを見ないようにしてね。友達としての約束だよ」
ごめんね。
謝罪すれば全てが許されるこの社会において、彼女は真摯に頭を下げた。
だから、わたしは、台所で包丁を手にした。
あの子のお願いをしっかり受け止めるために、包丁の刃を垂直にわたしの両目に突き立てて、そのまま左に向かって、すーっと真横に一本の線を引いた。
痛みが来るよりも先に音がやってきた。
家の外から。
道路から流れる、幸せな音楽。
それに釣られるように、私は手探りでリビングに向かってから、ソファの中に身を沈めた。
家の外から聞こえる音が本物かどうかなんて、わたしには関係ない。
わたしに聞こえる音が幸せなものなら、なんでもいい。
今のわたしは、ただ、何も見えなくなった。
たった、それだけ。
その中で、幸せな音をみつけて、幸せを感じる。
たった、それだけ。
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