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前編 約束の日
しおりを挟む天気予報が珍しく外れて、雨は降らず桜雫愛は胸を撫で下ろした。
雨が降らなかったおかげで、外の空気はカラリと乾いている。
買ったばかりのワンピースでも、とても歩きやすい。
今年は「例年よりも気温が高い」とニュースで散々に言われていたが、今日に限っては風が静かに吹いている。とはいえ、新品のサンダルで歩くのは、それなりに疲れる。
さらに、人混み特有の熱気に当てられてしまい、愛は道路脇のベンチに腰をかけた。
「今日は『あの日』だよね……」
愛より少し年下であろう中学生の声が聞こえてくる。
ちらりと視線を横に流すと、髪型をお団子にした浴衣姿の女の子が、二人でこそこそと話をしている。
「ね、あの橋だよね」
「そう、フルートの先輩が身を投げたらしいよね」
「綺麗な人だったって聞いたことある」
「それが理由なのかな。亡くなった日を『約束の日』って呼んでいるとか……」
愛はこれ以上、その会話を聞きたくなかった。
ベンチから思い切って立ち上がるが、少し、ふらついてしまう。
「彼」の背中を目で捉えたのは、その瞬間だった。
あの後ろ姿は「間違いないだろう」と思い、痛む脚に無理を言わせて、そっと1メートル程、近づいてみる。
自分よりも頭二つ分くらい高いであろう彼の背中は、無防備で隙だらけ。
変わらないなぁ。
「彼」だと確信した愛は、そのまま思いっきり右腕を小突いてみる。
少しの驚きの声と、小さな苦笑い。
彼の顔を見ながら「久しぶり」と愛は軽く笑った。
「こんなことするのは愛くらいだと思ったけどな。変わらないな。安心したよ」
そう言って草間悠馬は今度は愛の頭をポンと叩く。
愛の名前を文字って愛。
まだ、この呼び方をしてくれることが嬉しくなって、思わず顔が綻んでしまう。
「遠かったな。ここの公園。アクセス悪いよな」
「そうだね」
愛は彼の言葉を否定しない。
「思っていたよりも疲れちゃった」
「同じ六ヶ原市の中なのに、なんで、こうもバスの本数が少ないんだろうな」
二人は同じタイミングでため息を吐く。
「でも、こんなに人が来るなんて、思っていなかったよ」
「去年よりも、明らかに人、増えているよな」
草間はそう言って公園を見渡す。
「やっぱりドローンのショーの影響だよね。去年、私もSNSを見てびっくりしちゃった」
「今年はさらに、台数を増やすらしいぞ」
彼の言葉に釣られて、愛は空を見上げる。
あの空に、光るドローンが並ぶのか。
素直に「楽しそう」と愛は口にする。
「来週は伊佐木市でも、花火大会があるんでしょ。草間くんはそっちの方が近いんじゃない?」
「最近、雨が続いてるし、来週の天気もなんだか怪しそうだったからな」
「でも、本当はさ。六ヶ原に用事があったんじゃないの?」
愛は振り返って、彼の目を見つめる。
「こっちの花火大会はロマンチックだもんね」
愛が揶揄うように笑うと「はいはい、そうですよ」と草間はあっさりと観念する。
「とても凛とした人だったよね。後ろ姿しか見てないけど、浴衣とっても似合ってた」
草間くんの浴衣も似合っていたよ、と愛は付け加えた。
「オーケストラ部の人? なんだかミステリアスな雰囲気だった」
「そう、あの人は今、『オーケストラ部』でコンサート・ミストレスしてるんだ」
「え、すごい人だね!」
「だからさ、わかるだろ?」
「何が?」
「あの人、俺の先輩」
「だから?」
草間は、視線を落とす。
「俺なんかと一緒に花火大会に来て良かったのかなって」
「別にデートすることは、やましいことじゃないでしょ?」
「それはそうだけど、俺には不釣り合いだと思わないか?」
愛は少し背伸びをして、草間の目を見つめる。
「一緒に行くって決めたのは、その方の自由意思。ふさわしいかどうかなんて、草間くんが決めることじゃないよ」
「自由意思?」
「そう。その方は、草間くんのことを見て、聞いて、話して、今日、一緒に行くと決めた。だから、その方の決めたことを草間くんが心配する必要なんてないはずだよ。ふさわしいかどうかなんて、私には判断できないし、誰にだって判断できないし、ましてや草間くんにだって判断する権利はない。私はそう思う。そう思っているよ」
草間は愛の言葉を聞いた後、数秒黙り込んだ。そして、もう一度、愛の目を見つめる。
「つまり、余計なことは心配しないで、楽しめってこと?」
「そう。そういうこと」
愛は思い切り笑ってみせる。
「愛は相変わらずだな」
「当然じゃん」
愛は胸を張って宣言する。
「それが私。桜雫愛という『人間』だから」
「でもね」
愛は、夜空を見上げる。
「今日、私は『人間』として、間違いを犯す。一線を越える。そう決めたから、今、私はここにいる」
数拍の間を置いてから、草間は声を絞り出す。
「今日が『約束の日』か」
「そう」
「日枯もここに?」
「そう」
愛は顔を上げずに、話を続ける。
「きっと、あの橋は私たちにとっては別世界。むー君もそれを知っている。ちゃんと分かっている。それでも、今でも、あの人との約束を守っている」
日枯の下の名前の頭文字から「むー君」。
日枯のことを「むー君」と呼ぶ人が減ってしまったことに、愛は切なくなる。
「あの人が…………」
草間が口籠る。
そして、慎重に愛に聞く。
「あの人が亡くなった場所に、日枯は今日も一人で向かうのか?」
「自ら命を絶った」ではなく「亡くなった」という表現を草間が選んだことに、愛は少しだけ救われた気がした。
そして、同時に、日枯 が一人で空を見上げているという事実に、首を絞められているような苦しみを感じる。
「本当はね。『約束の日に会いに行く』というむー君の『意志』を尊重したかった。彼があの橋に立つことを、私は肯定したかったの」
「……でも、事情が変わった?」
「うん」
愛はたくさんの空気を吸ってから、言葉を繋いだ。
「むー君は、もうマンドリン部の一員。むー君は、もう一人じゃない」
「マンドリン部か……」
愛が友人と共に「マンドリン部」を創設したことは、草間に既に伝えている。
「むー君の周りに、距離が近い人が増えた。それがきっかけだったんだと思う。部員が増えるにつれ、むー君の悪い癖が悪化した。それも急速に」
「彼はまだ、人の心を先読みしようとしているのか?」
「そう。しかも心を読む精度が格段に、明らかに上がっている。でも、むー君はそれを自覚していない。毎日、心が疲弊し続けていることを、むー君は自覚しようとしないの」
ごめんね。
花火の光が、彼女の瞳に虹色に反射する。
楽しいはずの花火大会の日に、こんなことを話しちゃって。
愛の心の中の空気が減ってゆく。
「私は今日、むー君の決めたことを否定しに行くの。他人の『意志』を否定して、私の『理論』を押し付ける。『人』としての倫理を、私は踏み外す。そして、彼の手を引っ張って、マンドリン部のみんなと一緒に花火を見る」
草間は黙ったままだった。
言葉の続きを待ってくれているのが、愛にもはっきりと伝わっていた。
「今日、むー君は『暁ひかり』という『人』のために花を添える。私はその行動は否定しない。けれども、彼がひかり先輩のために夜空を一人で見上げ続けるのなら、私は彼を止めるしかない。むしろ遅すぎたのかもしれない。だから、彼が花を添えたら、私は彼を『私たちの世界』に連れて帰る」
愛は深呼吸をした。
今日の中で一番深く、人生の中で一番深く。
「今から、私は『日枯』という『人間』の境界線を越えて、そして、彼から自由意志を奪う。その権利が私にないことは分かっているの。でも、それでも、彼の決断を否定できるのは、もう私しかいないから」
愛は自分自身に対して宣誓をした。
「彼の境界線を踏み躙った結果を、その責任を、私は受け入れる」
そして、愛は息を吐き切った。
不意に愛の手に、草間の指が触れる。
「愛、指に力が入りすぎている。それだと、血が出ちゃうよ」
硬く握り締められていた愛の指を、草間は一本ずつ解いてゆく。
そして、草間が呆れたように笑う。
「愛、気がついていないかもしれないけれどさ」
愛が「え?」と顔をあげる。
「愛がこれからしようとすることを、俺は全て聞いてしまった。知ってしまった。でも、俺は愛という『人間』の決断を否定するつもりはない」
草間は愛の目をしっかりと見る。
「知っていたのに止めなかった。止める機会も、タイミングさえあったのに、それでも俺は止めなかった。だから、これから起きる責任は俺も背負ってゆく」
愛が笑った。
「草間くん。相変わらずだね」
「そっちこそ」
二人で苦笑いをしたときに、草間の肩越しに、先程、愛が目撃した女性の影が見えた。
肩まで届かないほどに短い髪先は、少し青く染まっている。
おそらく、彼女の着ている浅葱色の浴衣に合わせたのだろう。
「会話に割り込んじゃったかな、ごめんなさい……」
彼女が顔を伏せたので、愛の方から笑って見せる。
「草間くんのこと、よろしくお願いします」
何様だよ、とむくれる草間の目を無視して「じゃあね!」と言いながら、愛はりんご飴を買いにゆく。
生前、暁ひかりが好きだったりんご飴を。
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