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後編
しおりを挟む今日は満月だね。
暁ひかりは空を見上げる。
今日という「約束の日」まで、ひかりは太陽が沈む瞬間を数え続けた。
満月だった日も、三日月だった日も、雲で月が見えない日も、全てを数えた。
雨と風が舞い、散ってゆく花びらの枚数も、一枚一枚、ひかりは数えた。
そして、数えた数をひかりは覚えている。
だから、控えめに歩いてくる足音に心が跳ねた。
ゆっくりと振り向くと、日枯 が花束を持ちながら、悲しそうに笑う。
「お久しぶりです」
暁ひかりは、ゆっくりと笑ってみせる。
「こんばんは」
日枯 は、暁ひかりの足元に花束を置いた。
花の色は赤、オレンジ、黄色、黄緑。
全て、ひかりが好きな色だった。
「ありがとう」
ひかりの言葉に、日枯 の目が少し潤む。
「今日までの僕の思い出、聞いてくれますか?」
日枯 の言葉にひかりは頷く。
「聞きたいな」
「僕、高校生になりました」
「そうだね」
「制服、似合っていないですよね」
「ううん。とてもかっこいいな」
橙色のブレザーを1ミリのズレもなく、しっかりと着ている。小学生の頃から、変わらないなぁ。
「髪も短くしたんだね」
「はい」
「でも、目の色は黄色のままだね」
「はい。生まれつきなので……」
「うん。知ってる。私が一番好きな色」
日枯 が顔をあげる。
「僕の顔、変わりましたか?」
「むー君の顔、全然、変わっていないね。私が小学生の頃から知っている顔」
「でも……」
日枯 は言葉を飲み込む。
「そうだね。でも、もう、私より年上になっちゃったね」
立派な高校生になったんだね。
嬉しいな。
暁ひかりは、ふたたび空を見上げる。
「今日は花火大会らしいね」
「はい」
「せっかくなら、この橋からも見えたらよかったのにね」
「そうですね……」
狼煙の音がした。
そして、夜空が青く光り出す。
「ひかりさんに見てほしいんです」
日枯 は携帯電話を取り出して、画面を見せる。
紺色と茜色が重なる夕焼け空の写真に、ひかりの目が輝く。
「とても綺麗な空の色。とても綺麗な写真だね」
「この空の色、教室の窓から見えるんです」
だから、僕、夕陽に見惚れて部活に遅刻しちゃうんです。
日枯 の言葉にひかりは「むー君らしいね」と笑った。
「でも、僕、しっかりとフルートを練習しているんですよ」
「そうなんだ。私のお母さん、とても厳しいでしょ」
「はい。今年も毎日、怒られっぱなしです」
「よく続けられているね。偉いよ」
「だって楽しいんです。どうしようもなく楽しいんです」
日枯 が泣きそうな声で笑う。
「ひかりさんにフルートの吹き方を教えてもらえた日のこと、僕の人生の中で、一番楽しい思い出だったから……」
ひかりは、日枯 の言葉を待つ。
焦らなくていい。
「今日」という日はまだ終わらないのだから。
「自分の中で演奏できる楽器は、ピアノだけだと思っていました」
「うん、それが、すごく微笑ましくて、今でも笑っちゃうの」
「僕もです」
やっと二人で同時に笑えた。
日枯 の笑顔が本物に近づいたように見えた。
「実は、僕、新しい楽器に挑戦しているんです」
「そうなんだ。すごいね」
また、演奏できる楽器が増えたんだね。
ひかりの言葉に日枯 は、照れくさそうに俯く。
「僕、マンドリンって楽器を始めたんです」
「マンドリンって、どんな楽器なの?」
「イタリア発祥の弦楽器なんです。音がきらきらしているんです。まるで星空みたいに」
日枯 は、携帯電話を出して、マンドリンの音を流す。
「これ、僕たちの……マンドリン部としての初めての合奏なんです」
「すごいね。たしかにお星様みたいな音」
日枯 の肩から、少し力が抜けたように見えた。
「私の知らない場所で、知らない楽器に挑戦して、知らない音楽を奏でる。むー君が楽しそうで嬉しいな」
でも……と日枯 は唇を噛む。
「みんなと合奏して、新しい曲に挑戦して、うまく行かないこともあって、それでも楽しくて」
ひかりは静かに、日枯 の言葉を聞き続ける。
「みんなで笑い合って、みんなで校舎を出たときに、やっぱり思っちゃうんです。この中に、ひかりさんがいたら『もっと毎日が楽しくなるのに』って」
日枯 の語気が強くなってゆく。
「夜に一番、明るい星が見えたとき、思ってしまうんです。
ひかりさんの世界で生きて、ひかりさんと同じ時間を過ごして、ひかりさんと同じ景色を見る。そういう道を選ぶのも悪くないかもしれないって」
日枯 はまた俯いてしまう。
ひかりは星の数を数えるふりをする。
彼は何かを言いたげに時々、顔を上げようとする。
でも、顔を上げきることができないのは、きっと彼の中で、言葉が選べないからだろう。
口に出したい感情がある。
でも、その感情を表現する言葉が見つからない。
きっと、その感情そのものに、まだ、誰も名前をつけていない。
数秒の沈黙が流れた。
流れ星が見えた。
そして、ひかりは息を吸い、日枯 の顔を見つめた。
「私ね、ずっとこの橋にいて、気がついたことがあるの」
日枯 が顔を上げた。
彼の目はやっぱり綺麗な黄色の目。
でも、その目には星の光が届いてはいない。
「この橋にはね、たくさんの人が私に逢いに来てくれるの」
「僕みたいに?」
「そう」
ひかりはにこりと笑ってみせる。
「お母さんやお父さん、ピアノの先生とか、クラスで一緒だったみんながね。逢いに来てくれるの」
日枯 は黙って、ひかりの顔を見つめ続けていた。
ひかりはもう一度、笑ってみせてから、そっと口を開く。
「私に逢いに来てくれる人たちはね、みんな優しい顔をしているの。でも、みんなの声はいつも悲しそうなの」
「……僕の声も、悲しそうに聞こえているんですか?」
日枯 の問いに、ひかりは答えなかった。
「私ね、思ったんだ。自ら命を断つ人の選択を、私は責めることができない。自ら命を断つ人の価値観を否定することはできない。その人たちの人生を私は非難することができないの」
でもね。
ひかりはゆっくりと目を閉じた。
「人が自ら命を絶ったとき、必ず誰かが悲しむ。誰からも悲しまれない人なんていない。必ず誰かは悲しむ。それがたとえ一人であっても、必ず悲しむ人がいるの」
ひかりは目を開けて、今度こそ、しっかりと、まっすぐに日枯 の目を見つめる。
「自らの命を手放す選択を、私は否定することができない。けれどね、誰かが一人でも悲しむのなら、その行いは、きっと、正しくないんだって。ようやく気がついたの」
風が吹いた。
気持ちの良い夏の香りの風が。
ひかりの髪がゆらりとなびいた。
「今日の風の香り。一緒に帰ったあの日と同じだね」
「……はい。本当に、同じです……」
「あの日ね、むー君に楽譜を渡せて良かったって、今でも思っているの」
日枯 が顔を上げて尋ねる。「本当に、僕で良かったのですか?」
「私の譜面、今日も持ってきてくれたんでしょ」
「はい。もちろんです」
「私、実はね、むー君がずっと大切に持ち歩いてくれているのを知っているんだ」
「……どうしてですか?」
「だってそれは」
夜空の星を眺めながら、ひかりは優しく微笑んだ。
「むー君が『むー君』だから。そういう『人』だって知っているから」
日枯 は悲しそうに「嬉しいです」と声を絞り出す。
「僕と愛さんで、約束したんです。今日という日、『約束の日』以外は、ひかりさんに会わないって。だから、ひかりさんに会えるのがこれからは少なくなってしまって……でも、やっぱり……やっぱり、それが苦しくて……」
ひかりは何も言わずに、日枯 の言葉の続きを待つ。
風がまた静かに二人の顔を掠める。
「愛さんとの約束を破ることは、僕という『人間』が許してくれないんです。でも、ひかりさんの世界に行くことは、愛さんからは禁じられていないんです。だから、ひかりさんの世界に行くことを選んでも、約束を破ったことにはならないと思うんです」
満月を眺めながら、日枯 が口から息を吸った。
「けれど、その選択をすることは、僕の『倫理』に反するんです。決められていないから選ぶことはできる。でも、それを選んでしまうことは、きっと愛さんの信頼を、『心』を踏み躙るって、分かるんです。彼女が誠実であればあるほど、僕もそれに応えて、誠実でなければならない。それが僕の中での結論でした。僕の中の『僕が自分に課した倫理』でした」
日枯 の言葉をひかりは抱きしめる。
今のひかりにできるのは、それしかなかったから。
日枯 はひかりの横に立ち、一緒に星を眺める。
どちらが先に「右から二番目の星」を探せるか。
ひかりと日枯 の二人で勝負をして、ひかりが負けたことは一度もなかった。
でも、今日は負けちゃうかもなぁ。
二人で一緒に、「一番明るい星」を探し始める。
「ひかりさんの作った曲……『星空マーチ』を僕、編曲しているんです」
「とても嬉しいな。でも、大変じゃない? あの曲は未完成のまま、むー君に託しちゃったし」
「大変じゃないです。むしろ、楽しいというか、生き甲斐というか」
生き甲斐。
その言葉に、ひかりの心が締め付けられる。
この世に存在しない「人間」の遺産を、彼の生き甲斐にはしてほしくなかった。
ひかりは目を伏せる。
「ごめんね。私が未熟だったばかりに」
「そういう意味じゃないんです」
日枯 が初めて笑顔を見せた。
偽物ではない、本物の笑顔を。
「ひかりさんの曲に縛られているって意味じゃないんです。ひかりさんの曲を僕が演奏すると、部のみんなが明るくなるんです。みんなが楽しそうに笑うんです」
日枯 は嬉しそうに星の数を数える。
「みんなが喜んでくれる。だから、僕、大変じゃないんです。「星空マーチ」は「みんな」で作っているんです」
日枯 が「一等星を見つけた!」とはしゃいだ。
そっか。
君の出会った人たちは、きっと、優しい人たちだったんだね。
君は、これから、私が知らない曲をたくさん演奏していくんだね。
君は、私の知らない音が溢れる世界に踏み出そうとしているんだね。
それなら、私がすることはただ一つ。
ひかりは目を閉じて心を決めた。
その瞬間だった。
聞き慣れた軽快な足音が聞こえてきた。
ひかりが振り向くと、桜雫愛が、息を切らしながら、立っていた。
履き慣れないサンダルで必死に歩いて来たのだろう。
足が弱々しく震えていた。
橋の街灯と星の光で、橋と道に綺麗な影の線ができていた。
愛は、その線の前で立ち止まる。
日枯 は彼女に向かって、ゆっくりと笑う。
「ごめん。僕は今日、行けない」
「知っているよ」
「なら、どうしてここに?」
愛は橋の前で立ち尽くすだけ。
あと、一歩。
どうしても、愛は前に進めない。
日枯 はただ、静かに笑ってから謝る。
「ごめんね。みんなには、そう伝えてくれるかな」
日枯 が造花のように笑ったとき、彼の背中を誰かがふわりと優しく押し、日枯 が前に一歩を踏み出してしまう。
日枯 は驚いて振り返った。
暁ひかりが笑っていた。
彼女の目に、月と星が反射している。
ひかりの目を見ながら、日枯 は目で問いかける。
「あなたは、僕が生み出した幻だったはず」
ひかりもゆっくりと目を見て答える。
「前に進む日が来ただけだよ」
あと数歩だけ進めば、愛の小さな手に、日枯 の指が届くだろう。
それでも、日枯 は前には進まない。
ひかりはゆっくりと、彼に手を振った。
「大丈夫。『暁ひかり』という『人間』は、いつもここにいるから。私という『心』は必ずここにいるから」
その言葉を聞き、日枯 が瞳で問いかける。
「もし、ひかりさんが……ひかりさんの『心』がずっと待っていてくれるのなら、ひかりさんの曲を必ず……きっと、必ず完成させるので……そのときは……」
日枯 とひかりは一緒に笑い合った。
お互いに笑顔で、お互いの心を伝え合う。
そして、心で約束を交わした。
前に踏み出した日枯 の手を愛が掴もうとする。
しかし、愛は躊躇ったかのように、一度、手を自分の方に戻してしまう。
だから、日枯 の方から彼女の指を取って、笑顔を見せる。
星の光が反射した、黄色の目が静かにゆらめいた。「花火、まだ間に合うかな?」
日枯 が聞いた。
「うん。きっと、間に合う」
愛の言葉とともに、二人で一緒に歩き始める。
日枯 は、もう、橋の方を振り向かなかった。
二人が遠ざかるにつれ、花火の音が大きくなってゆく。
ひかりは一人で手すりに寄りかかり、目を閉じ、風の香りをたどる。
ようやく、ひとりぼっちになっちゃった。
ひかりは嬉しかった。
日枯 が無闇に走る時間を終わらせることができたから。
ひかりは微笑んだ。
日枯 の幸せを願って。
ひかりは微笑んだ。
自分の幸せを抱きしめながら。
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