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第二話 そのご飯、未完成
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第二話 そのご飯、未完成
土日も出勤がある真幌にとっては、何も嬉しくない金曜日。
特に調査もなく事務作業を午前中に片づけた真幌は、久しぶりにのんびりした時間をすごしていた。約二〇人が働く事務所も、この時間は五人しか人がおらず落ち着いている。
「せんぱーい、角のとこのコンビニ、イケメンの店員入ってましたよー! さっきお弁当買ったとき、外についてるマヨネーズ取らずにレンジに入れて、爆発させてあたふたしてたの、めちゃくちゃ可愛かった!」
真幌がゆっくりしているのに気づいてか、コンビニのカップコーヒーを片手に持った明日花が真幌のデスクに近づいてきた。
「それ、明日花がお客さんでよかったねー。この前さ、他のコンビニで同じミスをした子がいて、客にめっちゃ怒られてたよ。急いでるのにって」
「うーん、イケメンだから大丈夫じゃないですか? あたしも普段ならイラッとしてたかもだし」
どうも、この世は美男美女に優しくできているらしい。
「へぇ、やっぱりイケメンは得だねー。俺もそんな恵まれた顔面で産まれたかったな」
急に太い声が話に混ざってきて、明日花が振り返った。真幌も椅子の背もたれに身体を預けるようにしながら事務所の入口の方を見る。丁度荷物の集荷にきた運送屋の兄ちゃん、高梨良樹(ルビ:たかなしよしき)が受付テーブルの前でこちらに笑みを浮かべていた。
「何言ってんのー、お兄さんもイケメンじゃーん。こんちは!」
明日花が冗談っぽく語尾を伸ばして楽しげに言い、そのあとにはきはきとした挨拶をつけ加えた。真幌もつられるように「ご苦労さまです!」と声をかける。
「こんにちは! いやー、全然そんなことないから。明日花ちゃんや牧原ちゃんに相手してもらえるようなイケメンになりたいよ。あ、この荷物もらってくね!」
そう言って、高梨は勝手知ったるように受付横に置かれた白いカゴから封筒の束を取り、ハンディを操作してバーコードを読み取っていく。その横顔は爽やか系で、真幌からすると文句なしのイケメンだ。
「お兄さんもお兄さんでイケてるよー? ちょいチャラい感じだけど。筋肉あるし、クラブとかでモテそう。ねぇ、先輩」
明日花が真幌に向き直り、話を振ってくる。
「あー、そうだね。クラブ行ったことないけど」
「うーん、先輩はどっちかというとコンビニのバイトくんのがタイプかもですねー。あっちはジャニーズ系でしたよ! マジでおすすめ」
「へぇ、明日花がそこまで言うってことはよっぽどだ。ちょっと見てこようかな」
「行きましょう先輩! 新しい恋が始まるかも!」
そう、高梨をほったらかしに、女子二人で盛り上がり始めたときだった。
「なぁにが出会いだ! お前ら、仕事中に何してんだ! 特に真幌、お前は恋だの愛だのぬかしてる場合じゃねぇだろ。調査もまともにこなせねぇくせに、サボってふわふわしてんじゃねぇ!」
外出から戻り事務所に入ってきた明地所長が、自分のデスクに向かいつつこちらに怒声を浴びせてきた。受付の方では荷物を抱えた高梨が、苦笑いをしながら頭を下げ、踵を返して逃げようとしている。
「別にふわふわしてるわけじゃないですもんねー、真幌先輩。サボってるって、今日は調査がないから中にいるだけですし」
明日花が真幌を庇ってくれる。この事務所で、こんなふうに明地に反論できるのは明日花だけだ。そのギャル特有の軽い雰囲気で絡まれると、オヤジ共は何も言えなくなるのだろうか。明地が明日花を咎めるところを見たことがない。
代わりに、その厳しい視線は真幌に向けられる。
「何が調査がないだ。暇なら見積もり段階の依頼をもらって外に出ろ。お前は調査員だろ」
屋内でネットを使って情報収集するのだって、立派な調査だ。最近では浮気調査の際、まずはSNSでの交流を探るという場合も多くある――と言い返してやりたかったが、真幌は口を噤んだ。
ここで揉めてもいいことはない。だいたい、勤務中に喋っていた自分が悪いのだ。
明地探偵事務所に所属する職員は、調査員と事務員の二種類に分かれる。
調査員の仕事はもちろん、依頼を解決に導くための調査だ。それに付随する報告書の作成や、証拠品の確保なども業務に入ってくる。
事務員の仕事は、依頼者との面談、見積書の作成、依頼と調査員のマッチングなどだ。人によっては経理やカウンセラーなどを任されている者もいる。
明日花は事務員で主にお客さんからの依頼を管理している。真幌は彼女に訊ねてみた。
「今、なんか見積もり出してる依頼ある? できれば調査が決まりそうなやつで」
見積もり段階の依頼の調査を進めることなんて、本来は絶対にない。相談にくるだけきて、調査は依頼しないお客さんも結構いるからだ。本当に困っている急ぎのお客さんはざっくりとした金額だけ聞いてすぐに調査に移ってくれと言う。一方、見積もりを待ってから進行を決める人は、他事務所からも見積もりを取って値段を比較している可能性もある。
そんな中、明地は調査を進めるように言った。真幌が事務所でだべっていたのがよほど気に食わなかったらしい。
「んー。多分進行にならなさそうなのしかないですよー? 明らかに他と値段比べされてる、素性調査。ペットの猫がいなくなって慌てた飼い主が突発的に飛びこんできた、迷い猫捜し。親御さんから、最近夜中に遊びに出る息子の行動監視。それくらいですねー」
明日花が視線を斜め上に向け、思い出しながら言う。すると所長がくくっと笑った。
「ほぅ、いいじゃねぇか。選び放題だ」
そう言って、真幌のデスクから離れていく。
冗談だよね、と真幌は思う。
それは完全に所長の思いつきだ。しかし、冗談か本気かわからない。自分は本当に調査に出た方がいいのだろうか。
「何あれー。やな感じー。いっつも真幌先輩ばっかぐちぐち言われて」
明日花が所長に聞こえそうな声で言う。真幌は焦って明日花に声をかけた。
「や、わたしは大丈夫だよ! ほら、そろそろ仕事に戻ろっか!」
「そうですねー。ま、あたしは特にすることないんですけど。今日、かなり暇だしー」
じゅうっとストローでコーヒーを一吸いし、明日花は自分の席へ戻っていく。その様子を見て、真幌はふぅと息をついた。明地だけでなく、明日花の言動にも気を遣わなければならない。なんだか急に疲れが湧いてきた。
しかし、これからどうするか。調査の件はおそらく冗談なので一旦置いておくにしても、このまま事務所にいてはまた怒られそうだ。そう真幌が考えたときだった。
机に置いていたスマホの画面が、パッと明るくなった。
表示された通知の内容を見て、真幌はおっと声を上げそうになる。
なんとタイミングがいいのだろう。丁度、今からできる仕事を見つけた。探偵として、見過ごせない事態である。
なぜか胸が浮き浮きするのを感じつつ、真幌は出かける準備をしに自分の席へ戻った。
*
その通知の内容は、とあるアプリからのお知らせだった。
自動追跡装置――いわゆるGPS追跡機の連動アプリである。今はそれを対象が五〇メートル以上移動すると、通知がくるように設定してあった。
明地探偵事務所で調査員に支給されるGPS追跡機は、最新の国産衛星の電波を利用するので、位置情報のズレがとても少ない。それに、移動経路や速度、滞在時間まで記録され、その履歴は裁判所に証拠として提出できるクオリティである。加えて、発信器は親指の爪ほどの大きさでターゲットに見つかりにくく、それでいて衝撃に強く頑丈な作りだ。
真幌はその発信器を、こっそりと疑明に持たせていた。
仕掛けたのは一週間前、疑明が真幌の部屋に忍びこみ、問題を解決していった日だ。真幌は玄関で母親と電話をしながら発信器を準備し、部屋に戻る前に疑名の革靴に触れて中敷きの下に忍びこませた。これにより、疑明が自由が丘駅近くのとある低層レジデンスに住んでいることを突き止めていた。
しかし、それから一週間、動きがなかった。普段、どんな生活をしているのか知らないが、革靴はあまり履かないようだ。そろそろこちらから動き、素性を探ろうと思っていたとき、今回の通知があったというわけだ。
またどこかの家に忍びこむつもりかもしれない。
パーカーにデニム、動きやすい運動靴、それにキャップを目深にかぶったラフな尾行スタイルで、真幌は事務所を飛び出した。
*
疑明を追って辿り着いたのは、丸の内線、茗荷谷駅付近の住宅街だった。辺りには大学のキャンパスや大きな公園があり、緑が多く閑静な雰囲気が保たれている。
スマホを見ると、明日花からメールが届いていた。見積もり依頼の詳細ファイルが添付されており、真幌はそれに軽く目を通す。このようにちゃっかりと仕事はこなすところが、明日花の好かれる要因でもあるのだろう。一方、自分はこうして言うことを聞かずに勝手に動くから目をつけられてしまうのだろう、と真幌は思う。
でも今は、これから起こるかもしれない一人の泥棒の犯行を止める方が重要だ。
追跡アプリを開くと、地図に表示されているターゲットのマークはもう三〇メートル以内に迫っていた。先程から辺りは一軒家の住宅に囲まれている。こんなところにくるなんて、やはり晩ご飯をいただきにきた可能性が高そうだ。
真幌はスマホ画面を見つつ先を急ぐ。そして曲がり角に差しかかったとき、すぐに反応して足をストップさせた。
道の先に、以前と同じジャケット姿の疑明の背中を捉えたのだ。
真幌は角にあった電柱の陰に身を隠しながら、疑明の行動を観察する。彼は少し古めの洋館風の家の前で立ち止まっていた。数度辺りを見回すと、門から中へ入っていく。真幌は電柱の陰から飛び出して、早足にその家へと近づいた。
洋館風と言っても、大きさは周りの戸建て住宅と変わらない。門から中を窺い見ると、高めのレンガ塀の内側には木が数本植えられた小さな庭があった。駐車場はなく、軒下に子供用の自転車が一台置かれている。
疑明の姿はもうなかった。
住人は出かけているのだろうか。あの用意周到な疑明が侵入するということは、おそらく留守なのだろう。
逡巡ののち、真幌は疑明の後を追うことにした。このまま彼の悪事を見逃すわけにはいかない。まぁ、晩ご飯泥棒の目的は可愛い盗み食いなのだが。
建物の周りの細い通路を、疑明もここを通ったと予想して進んでいく。一五メートルほど進むと、裏庭にあたる少し開けたスペースに出た。レンガ塀に囲まれ、外は見えない。隣の家の二階の窓からばっちり見下ろせる位置だったが、カーテンが閉まっており真幌は安心する。
しかし、疑明がいない。
家の壁には勝手口があり、脇には蓋をかぶせられた大容量のゴミ箱が置かれている。ドアの向こうはキッチンだろうか。真幌はその勝手口に近づいた。
ドアの鍵はドアノブとシリンダーが一体となっている、ドアノブの中心に鍵穴があるタイプのものだった。これは古い家の勝手口や学校の屋上の扉など、シンプルなドアにつけられていることが多く、ピッキングが容易な種類のものだ。
この短時間で不正解錠し、侵入することも、疑明なら朝飯前だろう。
一応、指紋対策はしておこうと思い、真幌はポケットから出したハンカチでドアノブを覆った。その上から手をかけて、恐る恐る回す。そっと、手前に引いてみた。
すると、まるで来客を招き入れるかのように、なんの抵抗もなくドアは開いた。
真幌はこくりと唾を飲む。きっと、疑明は家の中に入ったのだ。今頃作り置きご飯を盗み食いし、そして、何か問題を解決しようとしているのかもしれない。
ドクンと一つ、胸が高く鳴った。
不法侵入という言葉が、一瞬頭をよぎる。しかし、真幌は靴を脱いで手に持って、勝手口から建物の中へ足を踏み入れていた。
ドアの奥は予想通りキッチンとなっていた。右手に広がる真っ白い壁に囲まれた空間にシンクがあり、正面へ数歩進むとリビングに通じている。外観は古めの建物だが、シンクは新調したばかりなのか、水垢一つなく輝きを保っていた。
疑明はまだ見つからない。
しかし真幌そこで、決定的な犯行現場を見た。
二つ並んだ鍋の片方が、火にかけられていた。
「絶対食べる気だ……」
真幌は思わず呟き、辺りを見回す。キッチンを出て、リビングの入口に立った。
長方形で腰の高さの木製テーブルに、それと同じ素材の椅子が四脚置かれている。奥にはL字型のソファと、両腕いっぱい広げたサイズの液晶テレビが設置されている。
左手には表の庭に繋がっているらしい、天井近くまである掃き出し窓が見える。その窓につけられている抹茶色の遮光カーテンが、かすかに揺れた気がした。
「……そこにいるんですね、疑明さん」
そう、真幌は口にした。
約一秒。それが彼の、最低限の状況を把握するための時間だったのだろうか。
真幌の声からほぼ間を置かず、カーテンが静かな音を立てて少し開いた。
「どうしてあんたがここにいる? 牧原真幌」
カーテンの隙間から、イケメンの泥棒が現れた。
「たまたま偶然あなたの姿を見かけて、そしたらこの家に入ろうとしてたから」
疑明は訝しげな眼差しで真幌の顔を見る。
「本当に偶然? こんな住宅街で偶然出会うってどんな確率だ?」
「あなたを見かけたのは駅前です」
「そこから後をつけてきたって? ずっと周りは確認してたはずだが」
「そこはほら、わたし、探偵ですよ? 尾行のプロなんです」
「あんたにそんな技術があるとは思えないけど」
疑明はまだ疑わしそうな目を向けてくる。
実際のところ、疑明の姿を目で捉えられる位置にいたのは、彼がこの家に侵入する直前だけだった。しかし、あなたのことが気になって発信器を仕掛けていましたなんて、まさか言えない。
「偶然駅前……。どうしてあんたはこっちの駅にきてるんだ?」
疑明は追及を続けてくる。
「そ、そりゃあ、仕事ですよ。こっちの方で依頼のあった案件が」
「ん? 今仕事中なの? その仕事、ほったらかしでこんなとこきちゃっていいの?」
「い、今はちょっと空き時間で……」
やばい、と真幌は思った。我ながら咄嗟の嘘が下手すぎる。
疑明は「ふーん」と声を伸ばした。
「本当はどこからつけてきたのか。ストーカーさん」
「す、ストーカーじゃありませんし! 何回も言ってますが偶然です。どこからって、わたしあなたのこと名前しか知らないのに、つけようがないじゃないですか」
「あー。その唯一知ってる名前も、ギメイだけど」
ん?
一瞬、話の内容がよくわからず、真幌は疑問符を浮かべる。
――疑明だけど? それってそのまんまではないか。いやでも待て、ギメイ、の発音に少し違和感があったような……。
そこまで考えて、思い至る。
「えっ、ギメイって偽名? ほんとの名前じゃないんですか!?」
「いや、普通わかるだろ。というか、気づいてなかったのか?」
疑明は目を丸くし、心から驚いた表情を浮かべていた。多分、真幌の鈍さに対してだ。
疑明、偽名、単純な文字遊びだ。疑明は咄嗟に思いついてこの名前を述べたのだろうか。どちらにせよ、偽名だとバレるのを想定しながら口にしていたようだ。そもそも泥棒が名前を訊かれ、バカ正直に名乗るわけがない。
それなのに、真幌は疑いもしなかった。自分はなんてバカなんだと、ショックからずんと肩を落とす。その前で、疑明がふっと息をついた。
「まぁ、この話はもういい。今はこんなことしてる場合じゃないんだ」
そう言うと窓から離れ、真幌の横を通ってキッチンの方へと歩いていく。
確かに、今は落ちこんでいられる状況ではない。自分は今、泥棒を追って知らない誰かの家に忍びこんでいる真っ最中なのだ。真幌はぱっと顔を上げ、疑明の背中に続いた。
「ていうか、どうしてカーテンの裏にいたんですか? 何かあったんですか?」
気を取り直し、質問をする。
「誰かが入ってきた音がしたから、いつでも逃げられるようにな」
「あ、なるほど。そうだったんですね……」
「ん? 何かおかしいか?」
「い、いえ、それより、ほんとに家の人が帰ってきてたら、火にかけられた鍋を見てびっくりしますよ! 誰が? なんの目的で!? って」
そう話しつつ、真幌の心は全く違うことを考えていた。疑明が、この家の問題を解決すべく、何か推理していたのではと思っていたのだ。
――そうか。窓から逃げようとしていたのか。
そのとき真幌は、がっかりしている自分に気がついた。
いやいや、自分は何をしに疑明の後を追ってこの家に入ったのだ。彼の悪事を止めるためだろう。ぶんぶんと首を振り、頬をぱんと両手で叩く。
「ちょ、待ってください! ダメですよ、盗み食いは立派な泥棒です。それに、勝手に人の家に入るのだって――」
「それは、あんたも同罪だよな」
調理台の前に辿り着いていた疑明が振り返り、真幌の声に被せるように言う。
「わ、わたしはあなたを止めようとして」
「じゃあ何? オレを止めて、警察に突き出す?」
「そ、それは……。まずこんなことをする理由を――」
「オレは抵抗しないよ? この前あんたに隠しカメラで顔や声が入った動画を撮られてるし、逃げられそうにないからね」
疑明はどこかどうでもよさそうに、一方的にそう真幌に告げた。
別に容赦なく通報するとは言っていない。真幌はまず、彼の事情を聞きたかった。しかし真幌が口を開く前に、疑明は鍋の方へ向き直ってしまう。
疑明はずっとつけている白い手袋をしっかりとはめ直し、鍋の蓋を指で掴んだ。白い湯気が舞い上がると共に、ふんわりと甘い醤油の香りが漂ってくる。
言いたいことや聞きたいことはたくさんあった。しかし、どう話を続けていいかわからない。考えながらも、真幌は食欲を誘う香りにつられ、疑明の横から鍋を覗きこんだ。
鍋の中身は、魚のあらと大根の煮物だった。
「香りからわかる。みりんと砂糖の量の調整が絶妙、濃い味の家庭みたいだな。大根にもしっかりと色がついてて、味が染みこんでるのが見るだけでわかる」
確かに、煮汁に浸かる大根はキラキラと黄金色に輝いていてとても綺麗だ。無意識に唾液が湧いてきて、真幌は小さく喉を鳴らした。
いつの間にかマイ箸を取り出していた疑明が、軽く両手を合わせて言う。
「いただきます」
「あっ――」
真幌が止める間もなく、疑明が鍋に箸を伸ばしてしまう。魚のあらを取り、空いた左手を下に添えながら口に運んだ。
「ほう。口に入れた瞬間、ほろっとほぐれる。けど身はしっかりしてて、噛み応えもある。これはマグロのあらだな。油と灰汁の処理を丁寧にしてるんだろう、雑味が一切なく、淡泊な白身と出汁の甘さをしみじみと味わうことができる」
疑明は手を頬に当てながら、うっとりとした表情で言った。と思ったら、すぐにまた箸を伸ばし、今度は一口サイズに切られた大根を一切れ、鍋から引き上げる。
「はふ。大根も、香りからの期待を裏切らない味だ。舌で押すだけで溢れてくるほど、しっかり味が染みてる。お酒と、あと生姜も入ってるな。こういう煮物は家庭の特徴が色濃く出るからいい」
疑明が食べている間、真幌は彼の顔にまじまじ見入ってしまっていた。前回真幌の家に忍びこんでいたときは、真幌が寝ている間に盗み食いを終えていたので、彼がご飯を食べているのを見るのは今回が初めてだった。
いつもクールな雰囲気の疑明だが、盗み食いするときの顔はとても幸せそうだ。普段の顔からは想像できない、至福の表情。その中には子供っぽい無邪気さが混ざっている。
なんかちょっと、可愛いかも。
真幌がそんなことを思っていると、視線に気づいた疑明がちらりとこちらを見た。
「何? もの欲しそうな顔して」
「えっ、違、そんな顔――」
物欲しそうな顔などしていないが、あなたの表情に見惚れていましたとも言えない。
真幌が言葉に窮していると、突然、
「ほら、これであんたも完全に同罪だ」
疑明が箸で掴んだ大根を、真幌の唇につけてきた。
ちょ、いきなり何してるの!?
真幌は一気にパニックに陥る。しかし大根は一度口についてしまった。そこから首を振って退けるわけにもいかず、おずおずと口で受け取る。ほわっと温かで、ほっとするような甘さが口いっぱいに広がった。
その料理はなんとも絶品だった。先程疑明が挙げたもの以外に隠し味があるのか、奥深い旨みが潜んでいる。あら大根は真幌も作るが、それにはないまろやかさがある気がした。
「とてもおいしいですけど! 何してくれてるんですか!」
「いや、せっかくついてきたんだから、家庭の味のよさを知ってもらおうと」
箸を軽く掲げて見せながら、疑明が言う。その箸の先端を見て、真幌は気づく。
もしかしてこれ、間接キスではないのか?
真幌はハッと手で唇を押さえた。しかし、数秒経っても全くドキドキしてこない。シチュエーションが悪すぎた。
自分はいったい人の家に不法侵入して何をしているのだ。
「ああもう! ほら、目的は済みましたか?」
真幌は急かすように、疑明に声をかける。しかし、疑明はまた調理台に視線を戻していた。コンロに並ぶ二つの鍋。その、火をかけずに置いていた方にそっと手を伸ばす。
「そっちも味見するんですか? 中身は?」
「こっちは味噌汁だ。珍しい、ねばねば味噌汁。見たところ少し減ってるから、朝か昼に作って一度食べたみたいだな。味噌汁は沸騰させると味が飛ぶから、さっと温める」
そう言いつつ、疑明は味噌汁の鍋が乗るコンロの火をつける。しっかりいただくつもりのようだ。
「濃い味が好きな家族なら、食べる前に少し味噌を足すのかもしれないな。溶き立ての香りもほしいだろうし」
濃い味好きというのは、先程の料理の香りからの疑明の推測だ。そういった各家庭の特徴を、重視しているようである。
そこで真幌はふと何やら引っかかりを覚え、一人かすかに眉をひそめた。しかし覚えた違和感をうまく言語化できず、しばし考えこむ。
鍋のお湯がぐらぐらしかけると、疑明はすぐに火を止めた。蓋を開けると、薄い湯気が空気に巻かれてふわりと消える。ねばねば味噌汁とは名前の通り。その味噌汁にはなめこを始めとするキノコ類、納豆、オクラ、それから丸い山芋が入っていた。豆腐とネギの姿も見て取れ、実に具沢山だ。
疑明がジャケットの内ポケットから布にくるんだ小さいサイズのレンゲを取り出す。
「なんでも持ち歩いてるんですね」
考え事を中断し、真幌は疑明に声をかけた。
「ああ。フォークや小皿、ソースにマヨネーズといった調味料も持ってる。家庭の味を変えることはしないが、皿の上で多少のアレンジを加えてみたくなることもあるから」
「はぁ。ピッキング道具より、そっちの方が多いんじゃないですか?」
「それはもちろん」
もちろんと言い切られてしまった。それが晩ご飯泥棒の正しい装備らしい。
疑明はレンゲで味噌汁を掬い、一口飲んだ。舌で味わい、感想を口にする。
「納豆――大豆の強い風味が残ってるな。味噌の香りが少ないのは、作り置きだからしょうがないが……。それにしても、雑多な味がする。詰めこみすぎ? まぁ、そこも味があっていいが」
疑明はもう一度レンゲを鍋へ。今度は具を掬って口に運んだ。
「キノコも、もう少し煮るか、先にしっかり炒めるかした方がいいな」
「味噌汁にはダメ出しが多いですね」
少し怪訝に思い、真幌は言った。疑明なら料理に気になる部分があっても、それが家庭の味だと言って納得しそうなものだと思ったのだ。
「いや、悪くはないんだが……。なんと言うか、まだあまり完成されてない気がして」
そう言いつつ、疑明はレンゲと箸をまとめて布でくるんだ。それから、「ご馳走様でした」と手を合わせる。
真幌も一口いただいてしまったのを思い出し、疑明の横で小さく手を合わせた。なんだかこれでは、自分も泥棒の片棒を担いでいるみたいだ。
どこかのタイミングで、力づくでも疑明を止めればよかったのだろうか。こんなことしてはいけないと、強く咎めればよかったのだろうか。しかしもう自分には、彼に物申す資格はない気がした。
「さて」
疑明が切り替えるように言って、リビングの方に目を向ける。
「晩ご飯もいただいたし、問題を一つ解決いたしましょうか」
俯きながら、罪悪感に押し潰されかけていた真幌だが、急いでがばりと顔を上げた。
真幌の心には矛盾が存在する。疑明が人の家に侵入するのは止めなければと思うが、彼がその家で問題を推理するのは期待している。
ダメだとは自分でも思う。だけど今回、ここまできてしまったものは仕方がない。
「はい!」
思わず大きく返事してしまった真幌を、疑明がとても不審そうな目で見てきた。
*
「小学二年生の男の子が一人、いるみたいですね」
リビングに入ると、壁に習字の半紙が貼られているのに気がついた。子供が学校の授業で書いたのか、「友だち」という文字の横に、学年と名前が記されている。字はお世辞にもうまいとは言えない。その隣に並べて、同じく男の子がクレヨンで描いたと見られる、家族の絵も飾られていた。メガネをかけた男と茶色い髪の女、それに麦わら帽子をかぶって虫取り網を持った少年。背景は緑に塗り潰された山で、どうやら夏の思い出のワンシーンらしかった。
「さっき食器を見て確認したけど、家族三人で暮らしてると見て間違いないだろう。父、母、子供」
疑明は室内を壁沿いに歩きつつ、本棚、テレビラック、ローテーブルの上と順番にチェックしている。ソファの後ろを通ってパソコンデスクの前へ。そこで振り返り、もう一度室内を見回す。
「三人暮らしなんですね! それで、この家の問題ってなんですか?」
「まだ探し始めたばかりだろ」
「え、今、問題を探してたんですか? この前みたいに入ってすぐに見つけてるんじゃないんですか?」
真幌はてっきり、疑明は問題を解決するための調査を始めているとばかり思っていた。
「いや、まず見つけるところからだ。あんたの部屋は散らかってたからな、問題もその辺に落ちてただけ。この家には几帳面な人がいるのか、整理整頓が隅々まで行き届いてる」
「ちょっ、わたしの部屋もそこまで散らかってないですし! ていうか、ヤバいんじゃないですか? 家の人、帰ってきちゃいますよ?」
「いろいろとうるさいな。父親は仕事で、母親もこの時間はパートに出てる。子供は学童保育で、集団下校のある一八時までは学校だ。温めた鍋が冷める時間くらい計算してるさ。というか、あんたはいつまでここにいるんだ?」
少し苛立ちの混ざる声で、疑明が訊いてくる。
「わ、わたしは、あなたがこれ以上悪事を重ねないように見張ってるんです。それから、警察に届け出ることになったときの、証拠集めですね」
あなたの推理を待っているとは、口が裂けても言えなかった。
「ふーん。そう」
真幌の言い分に対し、疑明はそれだけ言って問題探しを続ける。パソコンデスクの前を離れ、部屋を出た。
廊下を玄関の方へ歩いていくと、二階へ続く階段と、濃い茶色の木製のドアがあった。
外観から感じた通り、この建物は少し古いようだ。板張りの床はギシギシと鳴るし、柱や壁は全体的にくすんでいる。廊下と階段には窓がなく、玄関扉のガラスから光が差しこんでいるだけで、辺りが暗く薄気味悪い。
疑明が玄関脇のドアに近づこうとする間、真幌はちらっと階段を覗き、薄暗い二階の方を見上げてみた。
そして、総毛立った。
「ひ、ひぃっ!」
そこにあったものに、思わず声にならない声を漏らしてしまう。
「一人で騒がしいな。どうかしたか?」
疑明が振り返り、訊ねてくる。
「あ、あれ」
真幌は伸ばした人さし指を、二階の階段の壁に向かって何度も指した。疑明が寄ってきて、頭上に伸びる階段の奥を真幌と同じように覗きこむ。
そこには壁を覆い尽くすが如く大量の、御札のようなものが、向きも間隔もばらばらに、乱雑に貼りつけられていた。長方形の白い紙に、何やらよくわからない文字が筆で書かれた御札。それが二階の階段から廊下へ続くように、めちゃくちゃに貼られている。
「こ、ここは心霊スポットか何かなんですか?」
真幌はきゅっと胸元の服を握り、身を強張らせながら疑明に訊ねる。古い洋館風の建物で、気味が悪いと感じていたが、まさか本当に何か出るというのか。
「ふむ」
疑明は顎に指をやると、階段をのぼり始めた。
「えっ、行くんですか? 行っちゃうんですか?」
「当然。近くで見てみないとなんとも言えないだろ」
疑明はあの御札に囲まれた空間が怖くないのだろうか。というか、近くで見て何かわかるのだろうか。
――いや、疑明ならあの大量の御札が貼られた理由を解き明かして説明してくれるかも。
真幌はもう一度御札に目をやり、こくっと息を呑む。それから急いで疑明の後を追いかけた。
「ちょ、近い」
「あ、あなたが遅いんですよ」
「危ないから離れろ! それに暑苦しい!」
「いいから早く進んでください」
怖さから、ほとんど疑明の背中にくっつく距離で、真幌は階段をのぼっていった。ほどなくして、真幌たちは二階の御札に囲まれたエリアに辿り着く。
「これは……子供が書いたものか。半紙を切って作ったようだな」
御札を一枚一枚観察しながら、疑明が言う。
御札には、平仮名で「あくりょうたいさん」や「かないあんぜん」、「ゆーれいじょうぶつ」などと書かれていた。どうやらこれはこの家の、小学二年の男の子が書いたものらしい。階段の下からだと暗かったこともあり、習字の続け字のような、何か難しい字が書かれているように見えていたのだ。
「全部、セロテープで貼られてる。木の素材の壁に貼られてるけど、剥がれてるものはないな。テープが劣化してる様子もないし、貼られたのは最近かもしれない」
疑明は冷静に分析しているが、真幌は気味が悪くて仕方なかった。
「この量、ちょっと異常ですよ……」
脇をぎゅっと締めて肩を縮めながら、真幌は恐る恐る周囲を見回す。
御札はよくよく見れば、壁の低いところに多く集中していた。これも、子供が貼ったという根拠の一つになる。だが、高いところにないというわけでもなく、壁が見えている部分よりは御札が貼られた面積の方が大きくなっている。何か台座を用意して貼っていったのだろう。天井にも三枚ほど貼られている。
そしてその御札のトンネルが、廊下の途中まで続いていた。
「子供が何かを怖がってるのは確かなようだな。御札の内容からすると、幽霊が出るのか」
「ちょっと、怖いこと言うのやめてくださいよ!」
「まぁ、オレは幽霊なんて信じてないけど」
真幌の文句を軽く受け流し、疑明は御札のトンネルを進む。そして、左手にあったドアを開いた。
「なるほど。ここが子供部屋か」
室内に足を踏み入れる疑明に続き、真幌も部屋の中を見た。
「げっ……」
確かに疑明の言う通り、そこは子供部屋のようだった。カーテンが引かれた室内には、教科書が立てられた学習机に、時間割が貼られたコルクボード、漫画や昆虫図鑑が入った本棚などが置かれている。だがそれよりも、やはり目は壁にひきつけられてしまう。重なるのも気にせず無造作に貼られた、大量の御札。この部屋もか、と真幌は苦い声を漏らしてしまう。
「いったい何があるの、この家に!」
「あまり大きい声出すなよ。この部屋の窓は隣の家と近い」
「ご、ごめんなさい。でも……」
「何があるのかはまだわからない。けどまぁ、この御札が集中してる辺りで異様な出来事があったんだろうな。子供が貼った御札を放っておくってことは、親もその奇妙な現象に手を打てていないということか」
疑明は室内を見回すと、考えこむように眉間を指で挟む。御札以外、おかしな点はなさそうだがと思いつつ、真幌も部屋の隅から見て回る。
学習机の奥の壁際にはベッドがあった。
「こんな部屋で、一人で寝るの怖いだろうな」
なんとなく真幌が言うと、疑明もベッドに目を移した。
「……というか、ここでは寝てないんじゃないか? ベッドの上に掛け布団はあるが、枕がない。きっと親がいる別の部屋で一緒に寝てるんだ」
「ほんとだ! 枕がない」
どうして気づかなかったのだろう。自分の方が先に確認していたのに。こういう小さな発見をできる力が、探偵には必要なのに。
そう真幌が悔しがっている間、疑明は背筋を伸ばした立ち姿で考えながら小さく呟く。
「幽霊、か……」
「ちょっと、またそんなこと言って。幽霊、信じてないんですよね?」
「それは当然。でも、ここまで怖がってるということは、それに近いものが見えてるということだろう?」
その疑明の言葉には、真幌も納得する。得体の知れない何か――それも子供に幽霊と思われるような何かが出ているからこそ、この御札の量なのだ。
「何か自然現象で、目の錯覚が起きてるとか」
真幌は考えられそうな可能性を挙げてみるが、
「その自然現象がなんなのかを考えてるところだろ」
疑明にあっさりとあしらわれる。
「わかってますけど、一応こう、思考状況を共有しておこうと思っただけです」
真幌は唇を尖らせて言うと、もう一度室内に首を巡らす。
しかし、自然現象とひとまとめにするのは簡単だが、それ以上の詳細はさっぱりわからない。光の反射、風による悪戯、はたまた幾何学的に起こった錯覚か。可能性はいくらでも挙げられるが、そのどれかに言及していくことができない。
現実で起きていることの、原因を解明する。
これができなければ、探偵として働いていてもただの調査員で終わってしまう。
「ちょっと他の部屋を見てきます!」
そう言い残し、真幌は一人で廊下に出た。疑明の推理を楽しみにしているだけではダメだ。他人任せではいけない。自分は父のような、困っている人の役に立つことができる探偵を目指しているのだ。背後から飛んできた、「几帳面な人が住んでるからな、散らかすなよ」という疑明の声に、「はーい」と返事をする。
二階にはあと二つ、部屋があるようだった。ハンカチを使ってドアノブを持ちながら、先程の子供部屋の隣のドアを開いてみる。
「ここもだ……」
その部屋も、無数の御札が壁に貼られていた。全部数えることはできないが、廊下と同じか、それ以上の量がある。
「……この部屋で何が起こるの?」
そう呟いた瞬間、ぶるりと身震いに襲われた。真幌は腕をクロスさせて自分の肩を抱くようにしながら、調査を続行する。
夕陽がカーテンを透かして照らす室内には、物がたくさん置いてあった。掃除機に扇風機、買い替えたためか使われていない液晶テレビなど。クローゼットは片方の扉が開いており、クリーニング屋でつけてもらえるビニールを被ったままの服がずらりとかけられている。冬物のコートやジャンバーのようだ。
どうやら他の部屋をすっきり見せるため、この一部屋を物置として使っているらしい。
白いカーテンの隙間からは、バルコニーが覗いている。頭上を見れば固そうな紐が一本、部屋の角からカーテンレールへ張られており、おそらくこの部屋で洗濯物を干しているのだろうとわかる。
室内の右手には、こちらも扉が開いた状態の、二段で大きめの収納スペースがあった。木製でペンキも塗られておらず、暗くて何が入っているかわからないところから、押入れと呼んでしまいたいが、扉はフルオープン可能な折りこみ式の洋風である。
真幌はその収納スペースの脇に置かれていた、二組の分厚い布団に気づく。冬用の布団のようだ。暑くなってきたので夏用と取り換えて洗おうとしているのか。真幌も最近、同じように入れ替えをしたばかりだ。
やはりここは物干し部屋と、不要な物を置いておく場所として使われているようだ。家族が三人だと部屋も余ってくるのだろう。
しかし、幽霊に繋がるようなヒントはない。
先程からずっと気味の悪さは続いているが、御札以外、この部屋で特に違和感を覚える部分はなかった。真幌は仕方なく廊下へ出ようとする。すると丁度、疑明が部屋を覗こうとしていたところだった。
「何かわかった? 探偵さん」
部屋の入口で肩を軽くよけて真幌を通しながら、疑明が訊いてくる。
「いえ、何も……」
疑明の胸の前をひょいと抜けて、真幌は廊下へ出る。彼のそばで動くと、空気に乗って清潔感のある石鹸の香りが漂ってきた。思わずもう一度、鼻で息を吸ってしまうが、もうそのかすかな香りは感じ取れない。特徴のある体臭でもなく、香りの強い香水でもない。きっと人の家に侵入した際、匂いが残らないよう気をつけているのだろう。
そんな推測をしながら、真幌は廊下の突き当たりにあるドアへ向かおうとする。
すると疑明が後ろから訊ねてきた。
「この部屋、ほんとに何もなかったのか?」
「と、特に気になるものは。ていうか確認するくらいなら入ってみた方がいいですよ」
振り返り、部屋を指さしながら中へ入ることを勧める。真幌が見落としている点に疑明なら気づくかもしれないし、そもそも、何もなかったという言葉を信用されても困る。
しかし疑明は最後にちらとだけ部屋の中を見ただけで、踵を返した。
「そろそろ時間がなくなってきたからな。下の部屋も見ておきたいし、急ごう」
そう言って、先に廊下の突き当たりの部屋へと歩きだす。
真幌はパンツの尻ポケットからスマホを抜き、時間を確認する。時刻は午後四時半をすぎていた。午後六時を回れば子供が下校してくるし、その時間ギリギリまで粘るわけにもいかない。タイムリミットは迫っている。
そこまで考え、真幌はハッとする。
――完全に、泥棒の思考になってる……。
お父さんごめんなさい、と心の中で謝る。こんなこと早くやめなければならないのだが、今はこの御札の真相が気になる。この家の男の子は、いったい何に怯えているのか。
廊下の御札ゾーンを抜け、真幌も次の部屋へ。疑明はもうドアを開け、部屋に入ろうとしているところだった。
真幌は疑明に追いつき、彼の背中から背伸びをして部屋の全貌を確認する。
「ここは……家族の寝室ですかね?」
部屋の真ん中にダブルサイズのベッドが一台、どんと横向きに設置されていた。奥には大きな出窓があり、その木目調の窓枠と似た素材のチェストが枕元の横に置かれている。その上にはアンティーク調の、白い傘のテーブルランプが乗せられていた。さっきの物置のような部屋とは逆で、今度はかなりシンプル、毎日使わないものは全て隣の部屋にまとめて置いているようだ。
そして、この部屋には御札がなかった。
ここでは何も起こらないのか、それとも親が自分たちの寝室には貼らせないようにしているのかはわからないが、四方の白い壁は経年劣化で少しくすんで見えるだけだ。
「あっ」
そうして室内の観察をしていると、真幌はすぐに一つおかしな点に気づいた。それは先程、疑明が指摘していたことだ。
「さっきわたし、家族の寝室と言いましたが、ベッドに枕が一つしかないです!」
「そうだな。それに、今は家族と一緒に寝てると予想した、子供の枕もない」
真幌と話しながら、疑明はベッドに近づいていく。じっと観察していたかと思えば、さっと枕の辺りに手を伸ばし、手袋の指で何かを摘まみ上げた。
「なんですか?」
彼の指先に何があるのかよく見えず、真幌は目を凝らしながら訊ねる。
「少々癖のある、短い白髪だ。枕についてた。おそらく今ここで寝ているのは父親だ。パッと見、黒い髪も落ちているが、長い髪は見当たらない」
「母親の髪が短い可能性は?」
「あんた、リビングに貼ってあった子供が描いた絵、見てただろ」
「あっ、そうだ……」
疑明に言われて真幌は気づいた。不覚だった。あの夏のワンシーンを描いた絵では、母親は茶色の長い髪をしていた。黒髪に変え、三センチほどまで短く切り、さらにパーマを当てている可能性なんてとんでもなく低そうだ。
疑明は改めて部屋を見渡し、それから廊下の方へつま先を向けた。
「もういいんですか?」
「ああ。チェックしそびれていた一階の部屋も見ておきたいからな」
御札が大量に貼られた異様な光景を目にし、真幌たちは引き寄せられるように二階へ上がってきた。しかし今のところ、謎を解く手掛かりは全く得られていない。
いや、そう思っているのは自分だけで、疑明の方は何か気づいていたりするのだろうか。考えるがわからず、真幌は細めた目で疑明の背中を眺める。時間は刻一刻となくなりつつあり、このままでは何も解決することなく盗み食いだけして家を出ることになってしまう。
――ご飯をいただきに侵入したあと、必ずお返しにしていることがある。
初めて疑明と出会った日、彼はそんなふうに真幌に言った。そのセリフから考えるに、何も解決せずに家を出るのはきっと彼のポリシーに反している。今回も、なんとしてでもこの御札の謎を解き、問題を解決してくれるはずだ。
真幌が廊下に顔を出したとき、疑明はすでに階段を下り始めたところだった。
窓からの明かりだけでは薄暗い廊下に、大量の御札。その気味悪い空間に一人で取り残されたくなく、真幌は急いで疑明の背中を追いかけた。
*
「ここにあったのか」
部屋に入ってすぐ、疑明の口からそんな声が漏れた。
「あっ、子供用の枕ですね!」
床にはサラサラとした毛のふかふかな茶色いカーペットが敷かれており、その中央に敷布団が畳まれて置かれていた。そしてその三つ折りになった布団の上に、枕が二つ乗っている。内一つには、ゲームのキャラクターが描かれたタオルケット地の枕カバーがつけられており、すぐに子供用とわかった。
「お母さんと二人で、この部屋で寝てるんですね」
「大方、二階で何かが起こるのを子供が怖がるから、一階に避難させて一緒に寝るようにしてるんだろうな。それより……」
疑明は目を横に向ける。真幌もつられて左方向を見た。
出入口のすぐ横のコンセントに繋がれ、空気清浄機があった。その電源ボタン部分に、緑色のランプが点いている。よく耳をすませば、空気が流れる音が聞こえてきた。
「つけっ放しで出かけてるんですねぇ」
そう言って、真幌は疑明の顔を見上げる。疑明は視線を床に落とし、丸めた人さし指を眉間に当てながら何やら考えこんでいた。
「つけっ放し……。今は特に病気が流行るような季節でもないし、他の部屋を見る限り、特にハウスダストなどを気にしている様子もなかったけど」
「寝る場所だけは綺麗にしておきたい、とかじゃないですか?」
「それはそうなんだろうけど……。この機械、操作パネルに保護シールもまだ貼られたまま、綺麗な状態だ。最近買ったんじゃないか?」
疑明は空気清浄機に近づく。そしてその後ろに何かを見つけたようで、さっと腰を曲げて拾い上げた。見れば、それは空気清浄機の取扱い説明書のようだった。疑明はその薄い冊子をぱらりとめくる。
「間に保証書とレシートが挟まってる。購入日は前の日曜日だ。やっぱり、最近必要になり、買いに行ったんだ」
そこで疑明は何かに気づいたように、バッと部屋の入口の方を振り向いた。説明書を元の場所に戻し、急ぐように廊下へと出ていく。
「ちょっ、どうしたんですか!?」
真幌は廊下の床で滑りそうになりながら、慌てて疑明の後を追った。
疑明は真っ直ぐにキッチンに入っていく。それから冷蔵庫を開け、中身をチェックし始めた。それを終えると、今度は食器棚の隣のラックを漁りだす。
「いきなり置いてかないでください! 何かわかったんですか?」
真幌は背後から疑明に訊ねる。すると、疑明は手を動かすのを止めずに変なことを訊き返してきた。
「あんた、アレルギーとか持ってる?」
「アレルギー? 特にないですけど……」
特定の食材はもちろん、毎年春や秋に猛威を振るう花粉にも、特に反応を示さない図太い身体を持ち合わせている。だが、なぜそんなことを訊いてくるのだろう。
「そうか。オレも鼻炎や痒みなんかとは無縁の生活を送ってきた。だから、気づくのが遅れたんだ」
「気づく? 何に?」
今、アレルギーの話が何かに関係しているのだろうか。
首を捻る真幌を、疑明が振り返った。ラックから取り出した何かをこちらに見せてくる。
「なんですか? ……グァバ茶?」
疑明が持っていたのは、開封済みのグァバ茶のティーパックのパッケージだった。
「グァバ茶の主成分はポリフェノール。ポリフェノールには抗酸化作用があり、炎症を防ぎアレルギー性の鼻炎の症状を抑える働きがある。ラックにはお得用の麦茶のパックも開いた状態で残っているが、それを使いきらずにグァバ茶を飲み始めてる」
「アレルギーの症状を抑える……」
「そう。それから、さっきいただいた晩ご飯」
疑明は次に、コンロの鍋の方を顎で示す。
「ねばねば味噌汁も、アレルギー症状に効くものがたくさん入ってる。納豆やキノコは抗体の過剰反応を抑える働きがあるし、オクラなんかは喉や鼻の粘膜を保護し免疫力向上の効果も期待できる。家庭の味と言うには、味が完成されていないように感じたんだ。きっと、急に家族の誰かにアレルギーが発症し、初めて作ったんだろう。初めから、そこに気づけてればよかったけど、特にアレルギー持ちでもないし、そんな効果を求めてねばねば味噌汁を食べたことがなかったから」
なるほど、と真幌は思う。疑明が味噌汁に対し微妙な感想を述べていたのは印象に残っていた。作り慣れたものではなかったため、味が洗練されていなかったということらしい。
「じゃあ、あのつけっ放しの空気清浄機も――」
「ああ。きっとアレルギーの症状を緩和しようと買って、つけっ放しにしてるんだろう」
繋がっていく。これまでこの家で得た情報が、一つずつ。快感に似た感覚に襲われ、真幌は身体を小刻みに震わせる。
疑明はグァバ茶のパッケージを元の場所に戻し、ラックの違う段を調べ始めていた。そしてまた何か気になるものを見つけたようだ。白い紙袋を手に取り、中身を検め始める。
「それ、病院の薬じゃないですか?」
袋の表に「おくすり」と書かれているのを見て、真幌は言った。
「オレの考えは間違ってなかったようだ。処方されてるのは抗ヒスタミンの錠剤、アレルギーの鼻炎か何かで受診したと見ていいだろう。それから、症状が出ているのは子供のようだな。処方箋に名前がある」
真幌も見せてもらい、確認する。処方箋にある名前は、リビングに貼られていた習字に書かれていた名前と同じだった。
「でも、アレルギーか。それで幻覚でも見えたりしてるのかな。そんな症状、聞いたことないけど……」
そう真幌は一人で言う。
どんどん事実が明らかになっていくが、まだ肝心な部分がわからない。御札の謎。この家族が抱える問題に関して、である。アレルギーとは全く関係がないのだろうか。
「幻覚なわけがないだろ。ここまでヒントを出されてまだわからないのか?」
疑明の若干呆れたような声に、真幌はハッと彼に顔を向ける。
「謎が解けたんですか?」
「一つの可能性が浮かんだだけだ。それが正しいかは、あとで確認すればいい」
「ほんとですか! あの御札はいったい?」
期待に目を輝かせて一歩詰め寄る真幌を、疑明はひらりとかわしてラックの前から広いスペースへ移動する。
「子供が御札を貼らずにいられない現象が、この家で起きてる。その現象には、例えばどんなものがあるか。さっきあんたは幻覚と言ったが、視覚だけに絞って考えてちゃダメだ」
「視覚だけに……」
「ポルターガイストと呼ばれるような現象は、目に見えて起きるものばかりか?」
その言葉に、真幌は納得する。疑明の言う通りではないか。勝手に幽霊をイメージし、何かが見えたものだと思いこんでいた。不可解な現象にも、さまざまな種類のものがある。
「勝手にお皿が割れたり……や、それは目に見えますね。じゃあ、誰もいない場所から足音が聞こえるとか」
真幌の挙げてみた答えに、疑明が深く頷いた。
「そう、まさにそれだ。だけど、誰もいない場所から足音が聞こえるのは、現実ではあり得ないとオレは考える」
「で、でも、それだったら、この家で起きてる心霊現象には誰か犯人がいるとでも言うんですか?」
早く答えが知りたくて、急かすような口調になってしまう。そんな真幌に対し、疑明はふっと微笑を浮かべて口を動かす。
「御札が貼られたのはおそらく最近だと、さっき話したな。そして、この家では最近、それとは別にもう一つ問題が発生してる」
「あっ、子供のアレルギーですね!」
「そう。アレルギーも、何もないところから発生するものではない。必ず抗原――原因が存在する。そして、この家の二つの問題に繋がりがあると考えたとき、浮かんでくる可能性が一つある」
謎の大量の御札。それに、子供のアレルギー。この二つが無関係と言ってしまうのは簡単だ。だが、それらが実は関係のあるものだとしたら――。
「……うーん」
真幌は考えこんでしまう。
「もっと頭を働かせろ。アレルギーの原因にはどんなものがある?」
もう脳みそは回転しすぎてショートしそうになっているが、疑明のその言葉に、真幌はさらに思考を巡らせる。
アレルギーの原因には何があるか。花粉、食物、ハウスダスト、それから――。
そう言えば、先程真幌がポルターガイストの現象として足音を挙げた際、疑明がまさにそれだと言っていた。
不意に頭に蘇ったそのセリフをヒントに、真幌はある答えに思い当たる。
「……もしかして、動物アレルギー? ポルターガイストは、動物の足音?」
疑明がぴっと人さし指で真幌を指した。
「そう。動物――おそらく猫か何かが、屋根裏に忍びこんだんだろう。その足音を、子供が幽霊と勘違いして怖がり、御札を作った。あんな大量の御札が貼られたままになってるということは、まだ親も足音の正体に気づけていないという可能性がある」
「なるほど。屋根裏から足音が聞こえるから、二階に御札が貼られてたんですね! もしかしたら、御札が集中してた場所の頭上に潜んでるのかも」
「ああ。それから、二階のあんたが見てた部屋に、冬用の布団が置いてあっただろ?」
置いてあった。真幌はこくこく頷く。だけどそれがどうかしたのだろうか。
「あそこにあったということは、夏用の布団と取り換えたということだろう。夏の布団をあの部屋の収納スペースから出してきたんだ。猫のアレルゲンはな、花粉やほこりの一〇分の一の大きさで非常に飛び散りやすい。それは猫を飼っていない家でもなぜか発見されるほどなんだ。この家、結構古いだろ? 収納スペースの天井の板もきっと傷んでる。ほんのわずかな隙間からアレルゲンは落ちてくるから、それで夏用の布団に付着していた」
「なるほど。付着したタイミングで布団を入れ替えたせいで、アレルギーが発症したというわけですね」
全てが一つに繋がっていく。真幌はかなり興奮しつつ、同時に悔しさも感じていた。
真幌はあの二階の真ん中の部屋をじっくりと観察していたが、疑明はさっと覗いただけだった。それなのに彼は、その短時間で謎にかかわってきそうなポイントをきちんと押さえていた。そして、こうして全容を完全に推理してしまう。
「あの未完成の味噌汁には、母の愛がたっぷり溶けてたんだな……」
そう一人呟く疑明の顔を、真幌はこっそりと盗み見る。
やっぱりこの人はすごい! と気持ちが昂る中、彼の言葉はさほど気に留めなかった。
「それで、このあとはどうするんですか?」
確か、疑明の目標はあくまで、問題の解決だったはずである。それは原因の解明だけではいけないはずだ。
「そうだな。さっきも言ったが、まずは思い浮かんだ可能性が正しいか確かめるところからだ」
「なるほど。それで、その確認の仕方って?」
真幌は訊ねる。すると視線を天井に向けて何やら考えていた疑明が、ついと真幌を見た。
「丁度、時間もなくなってきたことだし、あんたに手伝ってもらおうかな。共犯者さん」
一緒に家に忍びこみ、作り置きのご飯も無理やりだがいただき、問題解決のための推理にも最後までつき合ってしまった。ここまできて、誰が共犯者ですか、などと逃げることはできなかった。
それに、今は疑明の推理を聞いて、気持ちがとても昂っている。
真幌は彼に訊ねた。
「それで、わたしはどうすればいいですか?」
*
時刻は午後七時、辺りはだんだん薄暗くなってきており、頭上の街灯もつい先程点灯した。すぐに街は夜にすっぽり包まれるだろう。
だが、探偵業に定時はない。
「突然すいません、わたし、明地探偵事務所の牧原と申します」
そう言って、真幌は名刺を両手で持って差し出した。
「探偵事務所? あなた探偵さん? 探偵さんがうちになんの用事ですか?」
玄関から出てきた女性は物珍しそうに、受け取った名刺と真幌の顔を交互に見る。探偵から名刺をもらうことなんて滅多にないだろうし、これが普通の反応だろう。
「少々お訊ねしたいことがございまして――」
現在、真幌は晩ご飯をいただいた家に、正面から挨拶にきていた。
この家の住人に、直接訊いてみればいい。それが疑明の言った、推理が正しいかどうか確認する方法だった。あの状態から、本当に猫か何かの動物が屋根裏に潜んでいるか確かめにいく時間はなかった。それに、問題の解決を目指す際、家主と接触するというのも一つの手とのことだった。自分が忍びこんだ家の家主にあとから接触しようとするなんて、改めて思うが本当に泥棒らしくない。
しかし、極力顔は見られたくないのか、疑明は今、少し離れたところで待機している。
「この辺で野良猫がうろうろしているとの情報がありましてですね、こちらのお家にきていませんか? 例えば、屋根で物音がするとか――」
真幌がそう訊ねると、女性はあっと口を開けて何度も頷いた。
「そうそう。よく屋根裏に猫が入って困ってるんです。うちを休憩場所に使われてるみたいでね、でもどこから入ってるのかわからなくて。保健所か、害獣駆除か、どこにお願いしたらいいかもわからないし、子供は幽霊の足音がするなんて怖がって一人で寝れなくなっちゃって。変な御札をたくさん作って、剥がすと怒るし……」
どうやら両親の方は、足音の正体に気づいていたらしい。御札は怖がる息子のため、剥がせずにいるようだ。
それにしても、これで疑明の推理が正しいことが証明された。
「たとえ屋根裏でも、猫がいるとアレルギーが出る人もいるかもしれませんし大変ですよね。猫のアレルゲンは細かくて散布されやすいそうですし」
真幌がそう言うと、女性は何かに気づいたように目を大きくした。
「最近息子の鼻炎が酷くって。部屋の中じゃないし、関係ないと思っていたけれど……」
どうやら息子のアレルギーの原因まで猫のせいだとは、考えていなかったらしい。
「どうしよう。入口を塞げたらいいんだけど、場所がわからないし。すぐにでもどこかに依頼して、駆除してもらいたいけど……。でも、あの猫、どこかの飼い猫みたいなのよね」
「飼い猫? どうしてわかるんですか?」
「見たことがあるんです。家の横の塀を歩いているのを。真っ黒な猫で、黄色い首輪をしてたんです」
首輪をしているなら、十中八九飼い猫で間違いないだろう。
黄色い首輪の黒猫……。
「……ん?」
そこで真幌は待てよ、と思った。まさか、そんな偶然があるか? だが、これは確認する必要がある。真幌はポケットからスマホを取り出して操作する。
メールボックスの一番上に、今日の午後、明日花から送られてきた見積もり段階の依頼の詳細ファイルが入っている。その中の、迷い猫捜しの依頼ファイルを開いた。GPSで疑明を追う途中、一応チェックはしていたので、その中に写真が一枚入っていることは知っている。すぐに表示された写真を、女性の方に見せる。
「もしかして、この猫だったりしますか?」
女性は真幌の持つスマホに顔を近づけ、「あー」と声を伸ばした。
「すごく似てるわ。真っ黒で、黄色い首輪。大きさもこれくらいだったはず。こんなつやつやした毛並みじゃないけど」
真幌はもう一度スマホを見た。映っているのは大人サイズの黒猫である。毛並みは数日の野良生活で悪くなってしまったのだろう。画面に指を滑らせ、依頼者の情報を確認する。住所はこの近くだ。引っ越してきたばかりで、脱走した猫が迷子になってしまったらしい。
これは確定ではないだろうか。
「わかりました。教えていただきありがとうございます。それでなんですけど、この猫、わたしに捕まえさせてもらえませんか?」
まず、猫の侵入経路を見つけ出す。それから捕まえて、飼い主のもとに返す。
張りこみなら得意である。迷い猫が休憩にやってくるまで、いつまででも粘ってやろう。
ここからは、探偵の仕事だ。
*
もうすぐ日付が変わろうかという頃、ようやく猫は見つかった。
先に家の周りから屋根を観察、特に御札があった辺りを見て猫が入れそうな隙間を探したのだが、見つからず。不思議に思いつつ庭の隅で隠れて張りこむこと五時間弱、迷い猫は現れた。
黒猫は闇に紛れながら、家の横の塀の上を軽い足取りで歩いてきた。気づいた真幌は、息を凝らして猫の行く先を見守った。塀を真ん中の辺りまで進んだ猫は、一旦周りをきょろきょろ見回したあと、前脚から地面に飛び降りた。そして、家に近づき、そのまま建物の壁に頭を突っこんだ。
真幌は目を疑った。慌ててその場所へ飛んでいく。そこには家の床下に繋がっているのであろう、通気口があった。その通気口の柵が、腐食して一部折れてしまっており、猫はそこにできた穴を通ろうとしていた。
どうやら猫は、家の床下から屋根裏に侵入していたようだ。おそらく壁の中にある隙間を、補強板の出っ張りなんかを利用してのぼっていったのだろう。そして、安全な屋根裏で眠っていた。
通気口の穴は猫がすんなり通れるほど広くはなかった。真幌が近づいたとき、猫は穴に頭を突っこみ、次に多少無理やり身体を通そうとしていたところだった。物音から気配を察知したのか、猫は頭をさっと抜き、真幌の方を見た。
真幌は張りこみ前にペットショップで買ってきたまたたびを袋から出し、しゃがみながら差し出してみた。猫は警戒しながらも真幌のもとへ寄ってきて、前脚でちょいちょいとまたたびに触れてきた。
助かった。猫を見つけても、捕まえるのに苦労しそうだと思っていたのだ。どうやら飼い猫だけあって、人には馴れているようだった。真幌が手を伸ばしても猫は逃げずに、頭を撫でるのを許してくれた。
チャイムを鳴らして女性を呼ぶと、一緒に旦那である男性も出てきた。真幌は二人に猫を捕まえたことと、屋根裏への侵入ルートを説明し、今日はその家を後にした。
猫を抱えたままでも乗せてくれるタクシーを探そうと、真幌が駅方面へ歩きだしたときだった。
「解決したみたいだな」
本日疑明をつける際、真幌が彼を監視していた電柱から、今度は彼が顔を覗かせた。
「はい。待っててくれたんですね」
「そりゃ、あんたに失敗でもされたら、また何か策を考えなければならないからな」
「でも、任せてくれたってことは、一応信用してくれてたんですよね?」
「信用も何も、張りこみなんて面倒な真似、絶対に自分じゃしたくないからな。仕方なくあんたに投げただけだ」
「もー、素直にありがとうでいいじゃないですか」
真幌が呆れた笑みと共にそう言うと、疑明はとても嫌そうな顔で真幌を見下ろす。
「何を調子に乗ってるんだ。いつもオレ一人で全部やってるところ、あんたが首を突っこんできたんだろ。もうかかわらないでくれ」
疑明はさっと踵を返し、四つ角を折れて去っていく。止める暇なく、真幌は猫と共にその背中を見送った。
謎に包まれた晩ご飯泥棒は、またしても家庭の問題を推理し、解決してしまった。
本当に、彼は何者なのだろう。住所や顔は知っていても、名前は偽名だし、生い立ちや何を稼業にしているのかもわからない。
家に侵入してもご飯以外盗らないところから、本職が泥棒ということはないはずだが。
それともう一つ、心に引っかかることがあった。
真幌が彼を警察に突き出すつもりかという話になったとき、彼は『抵抗しないよ――』と言った。
そのときの、どこかどうでもよさそうな表情が忘れられない。
あの投げやりな雰囲気、自分がどうなってもいいと思っているような。
彼はいったいどんな事情を抱えながら生きているのだろうか。
その姿は完全に夜の闇の中に消えてしまった。
大丈夫、彼の靴にはまだ発信機が仕込まれたままだ。会おうと思えばいつでも会える。
真幌の腕の中で黒猫が、道の先の暗闇に向かって「にゃおー」と鳴いた。
*
真幌の家はペット禁止だ。ということで、真幌はタクシーで事務所へと帰った。
時刻は午後一時をすぎたところだった。雑居ビルの二階へ上がると、事務所のドアの磨りガラスから灯りが漏れていた。ドアを開けると、立てられた書類ファイルに囲まれた一番奥のデスクで明地所長が一人、仕事をしていた。
「おお、真幌。遅いな」
「お疲れ様です。所長こそ、こんな時間まで仕事してるんですか?」
「あー、本来の納期は二日後だが、どうしても明日に報告書がほしいって客がいてな。急いで作ってるところなんだ。まったく金払ってるからって、探偵使いが荒い客だよ」
そう言って笑い、明地はコーヒーショップチェーンで買ったらしき蓋つきカップのコーヒーをすする。
なんだかんだ文句を言いつつも、遅くまで残って仕事をしている。明地のそんなお客さん思いなところが、真幌は好きだった。探偵として、労力を惜しまず、困っている人を助けようとしている。そこはとても尊敬できる。
「ところで、お前はどうしたんだ? 全然帰ってこないから直帰したのかと思ってたんだが。何してたんだ?」
「直帰のときはちゃんと連絡しますよ! わたしは――」
真幌が今日の夕方からの出来事を、嘘を織り交ぜ話そうとしたとき、
「にゃあ!」
抱きかかえられたままで疲れたのか、真幌の腕から猫が暴れて飛び出した。
「おい、なんだそれ、猫か? 事務所に捨て猫を拾ってきたのか!? お前、何考えてんだ」
デスクにそびえる書類ファイルの壁のせいで、明地からは真幌の抱く猫が見えていなかったようだ。明地は驚いた声を上げ、デスクに両手を突いて席を立つ。
「この猫はほら、あれですよ。所長が調査に出ろと言った、見積もり段階の依頼の」
「見積もり段階の依頼? ちょっと待て、確か猫捜しの依頼があった気がするが……。お前、ほんとにその調査に行っていたのか?」
「はい。そう言ってるじゃないですか。え、ほんとにって、冗談だったんですか?」
真幌は得意げになりながら言った。明地は呆気に取られたような顔で、真幌と、近くのデスクに飛び乗る猫を見る。
「いや、嘘だね。何かトリックがあるはずだ。真幌がそんな簡単に、依頼を達成できるはずがない」
「ちょ、どうして疑いだすんですか! しっかり猫ちゃん見つけてつれて帰ってきてるじゃないですか!」
「どっかで写真とそっくりの野良猫を拾ってきただろ」
「そんなことしないですって!」
「じゃあどうやってその猫を捜しだした?」
そう訊かれ、真幌は言葉に詰まる。
今回、この猫を見つけられたのはほとんどラッキーパンチだ。晩ご飯泥棒を追って入った家に手掛かりが転がっており、あとはちょこっと待っただけ。明地の読みは正解なのだ。
しかし、ここまでくるともう引けない。
「ちゃんと猫の飼い主の住所やその周辺の環境、それから猫の習性などを調べ、近所の住民に聞きこみをしながら当たりをつけて張りこんだんですよ。それで、他の家の屋根裏に入りこもうとしているところを見つけました」
まさに探偵の基本と言うべき捜査内容を盛りこんで、真幌は話した。
「お前がぁ? そんな優秀だったっけなぁ。それに、うまくいきすぎな気もするが」
「そんなこと言われても、解決しちゃったので……。あ、注文前に勝手に着手しちゃったので、お値段や請求の方は所長がお客さんと話してくださいね」
そこまで言って、真幌は明地の表情をちらりと窺う。明地はじっと疑り深い目で、真幌を見ていた。
「あ、えっと……」
真幌はそれ以上何も言えず、明地も何も言わず、会話が止まった。お互いの沈黙は、深夜の事務所にひんやりとした静寂をもたらした。
その間、明地の視線を受けて、真幌は冷や汗を浮かべていた。
きっと明地は猫捜しの結果なんてどうでもいい。真幌と話す中でなんらかの違和感を覚え、こうして探ろうとしてきているのだ。何か、隠しているのではないかと。
だけど、真幌はそこで正直に話そうとは思わなかった。
「報告は以上です。わたしの家、猫が飼えないので、とりあえずお客様に引き渡すまで事務所で飼ってほしいと思うんですが」
疑明のことは、明地には関係ない。そして、猫捜しの成功には運が絡めど、しっかりと張りこみをして捕まえた自分の功績もあるはずだと真幌は考える。
明地はまだ真幌の顔を見つめていたが、ふいと目を逸らし、それからゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……そうか、わかった。あー、俺、今日は事務所に泊まりのつもりだから、猫のこと見といてやるよ。あとでコンビニ行く予定だから、餌も飼って与えとく」
「そ、そうですか? お願いできるなら」
「ああ、構わん」
事務所の中をデスク伝いにひょこひょこ歩いていた猫が、明地のデスクに飛び移った。明地は猫の背中を優しく撫でる。
そう言うなら、帰ろうか。少し猫と別れるのが寂しいが、明日、飼い主に引き渡す前にもう一度撫でるくらいできるだろう。
真幌は一旦自分のデスクへ行き、帰り支度を整える。と言っても、電車は動いていないので、こういうときに泊まる近所のネットカフェに行くつもりだが。
真幌がリュックを背負い、ドアの方へ歩きだしたときだった。
「依頼一つ解決、よくやったな」
そんな明地の声が背中にかかった。
「あ、ありがとうございます」
真幌はドキドキしながらそう言って、ドアの方へ向かう。
珍しく、明地に褒められた。腹の奥がふわふわとし、単純に浮かれてしまっているのが自分でもわかった。同時に、胸にちくりとした痛みも感じた。
これは罪悪感だろうか。
しかし、そんな複雑な気分は一瞬。次の明地の一言に真幌は呼吸を止めることになる。
「ところで真幌、捜査に出てる間、一緒にいた男は誰なんだ?」
どうして自分が男性といたことを、明地が知っているのだ。あまりの衝撃に身体が硬直してしまい、真幌はぎぎぎと首だけ明地の方へ向ける。
「なんだ、驚いた顔して。何が意外だった?」
「いえ……。いつ頃、どの辺りでわたしの姿を見られたのかなと」
「あー、そうだな。あれは五時すぎくらいか。茗荷谷の住宅街で、一軒の家を見ながら何やら話し合ってた」
間違いなく、明地が言っているのは真幌と疑明のことのようだった。時間から判断するに、忍びこんでいた家を出て家主が帰ってくるまでの間、張りこみの打ち合わせをしていたときだ。
しかし、なぜその様子を明地に見られていたのか。
「真幌、お前、俺に何か話し忘れてることはないか?」
明地がそう、訊いてくる。同時に、真幌はあることを悟り、ハッとしたように上着やズボンのポケットを探る。
きっと自分は明地に監視されていた。理由はおそらく勤務態度チェックといったところだろう。見積もり段階の依頼の調査を命じられ、どう動くか。それで仕事への姿勢を見ようとしていたのかもしれない。
なんの用もなしにあんな住宅街に明地がいるのはおかしいし、部下の姿を見かけながら声をかけてこないのも不自然である。
もしかすると、疑明の靴に仕掛けたような発信機が、自分にも仕こまれているかもしれない。そう思い、真幌は着ている服を探る。その間、明地が続けて口を動かす。
「話すことはないかって。例えばほらさっきの、お前が依頼を最速解決したトリックとか」
そう言われ、真幌は気づく。明地は最初から探りを入れてきていたのだ。真幌が今日、男性と行動を共にしていたのを知った上で、どうやって依頼を解決したのかと訊いてきていた。白々しい態度でこちらの様子、出方を窺われていた。
実際のところ、どこまで掴まれているのか。家に侵入したところまで、見られていたのだろうか。だとしたら、下手な誤魔化しは逆に命取りである。しかし、どう説明すればいいのか。
何も喋れず固まってしまった真幌を、明地はじっと奥の深い目で見つめていた。こうして黙っている時点で、かなり疑われているだろう。なんだか全てを見透かされているような気分になり、真幌はさらに話すことができなくなる。
しばらくして、明地がふっと息を切った。
「まぁいいや。今日はもう帰んな。また何か言うことがあったら、いつでも話しにこい。とりあえず、依頼の解決はよくやった。ほんとは遊んでたもんだと思ってたんだが、あれがちゃんとした調査だったとは。お疲れさん」
よくやった、と再び労われた。しかし、今度は浮かれることなんてできない。真幌は深く礼だけして、慌てたようにドアの方へ向かう。
元々、依頼の調査なんてしていない。遊ぶ、どころか自分は一般家庭に不法侵入して泥棒の片棒を担ぐような真似をしていた。
事務所を出て、ドアを閉めると真幌はその場で立ち尽くした。頭の中は後悔の感情で埋め尽くされている。珍しく、妙に優しく聞こえた所長の労いの声が、罪悪感を掻き立てる。
その後しばらく、真幌は事務所の前から動くことができなかった。
土日も出勤がある真幌にとっては、何も嬉しくない金曜日。
特に調査もなく事務作業を午前中に片づけた真幌は、久しぶりにのんびりした時間をすごしていた。約二〇人が働く事務所も、この時間は五人しか人がおらず落ち着いている。
「せんぱーい、角のとこのコンビニ、イケメンの店員入ってましたよー! さっきお弁当買ったとき、外についてるマヨネーズ取らずにレンジに入れて、爆発させてあたふたしてたの、めちゃくちゃ可愛かった!」
真幌がゆっくりしているのに気づいてか、コンビニのカップコーヒーを片手に持った明日花が真幌のデスクに近づいてきた。
「それ、明日花がお客さんでよかったねー。この前さ、他のコンビニで同じミスをした子がいて、客にめっちゃ怒られてたよ。急いでるのにって」
「うーん、イケメンだから大丈夫じゃないですか? あたしも普段ならイラッとしてたかもだし」
どうも、この世は美男美女に優しくできているらしい。
「へぇ、やっぱりイケメンは得だねー。俺もそんな恵まれた顔面で産まれたかったな」
急に太い声が話に混ざってきて、明日花が振り返った。真幌も椅子の背もたれに身体を預けるようにしながら事務所の入口の方を見る。丁度荷物の集荷にきた運送屋の兄ちゃん、高梨良樹(ルビ:たかなしよしき)が受付テーブルの前でこちらに笑みを浮かべていた。
「何言ってんのー、お兄さんもイケメンじゃーん。こんちは!」
明日花が冗談っぽく語尾を伸ばして楽しげに言い、そのあとにはきはきとした挨拶をつけ加えた。真幌もつられるように「ご苦労さまです!」と声をかける。
「こんにちは! いやー、全然そんなことないから。明日花ちゃんや牧原ちゃんに相手してもらえるようなイケメンになりたいよ。あ、この荷物もらってくね!」
そう言って、高梨は勝手知ったるように受付横に置かれた白いカゴから封筒の束を取り、ハンディを操作してバーコードを読み取っていく。その横顔は爽やか系で、真幌からすると文句なしのイケメンだ。
「お兄さんもお兄さんでイケてるよー? ちょいチャラい感じだけど。筋肉あるし、クラブとかでモテそう。ねぇ、先輩」
明日花が真幌に向き直り、話を振ってくる。
「あー、そうだね。クラブ行ったことないけど」
「うーん、先輩はどっちかというとコンビニのバイトくんのがタイプかもですねー。あっちはジャニーズ系でしたよ! マジでおすすめ」
「へぇ、明日花がそこまで言うってことはよっぽどだ。ちょっと見てこようかな」
「行きましょう先輩! 新しい恋が始まるかも!」
そう、高梨をほったらかしに、女子二人で盛り上がり始めたときだった。
「なぁにが出会いだ! お前ら、仕事中に何してんだ! 特に真幌、お前は恋だの愛だのぬかしてる場合じゃねぇだろ。調査もまともにこなせねぇくせに、サボってふわふわしてんじゃねぇ!」
外出から戻り事務所に入ってきた明地所長が、自分のデスクに向かいつつこちらに怒声を浴びせてきた。受付の方では荷物を抱えた高梨が、苦笑いをしながら頭を下げ、踵を返して逃げようとしている。
「別にふわふわしてるわけじゃないですもんねー、真幌先輩。サボってるって、今日は調査がないから中にいるだけですし」
明日花が真幌を庇ってくれる。この事務所で、こんなふうに明地に反論できるのは明日花だけだ。そのギャル特有の軽い雰囲気で絡まれると、オヤジ共は何も言えなくなるのだろうか。明地が明日花を咎めるところを見たことがない。
代わりに、その厳しい視線は真幌に向けられる。
「何が調査がないだ。暇なら見積もり段階の依頼をもらって外に出ろ。お前は調査員だろ」
屋内でネットを使って情報収集するのだって、立派な調査だ。最近では浮気調査の際、まずはSNSでの交流を探るという場合も多くある――と言い返してやりたかったが、真幌は口を噤んだ。
ここで揉めてもいいことはない。だいたい、勤務中に喋っていた自分が悪いのだ。
明地探偵事務所に所属する職員は、調査員と事務員の二種類に分かれる。
調査員の仕事はもちろん、依頼を解決に導くための調査だ。それに付随する報告書の作成や、証拠品の確保なども業務に入ってくる。
事務員の仕事は、依頼者との面談、見積書の作成、依頼と調査員のマッチングなどだ。人によっては経理やカウンセラーなどを任されている者もいる。
明日花は事務員で主にお客さんからの依頼を管理している。真幌は彼女に訊ねてみた。
「今、なんか見積もり出してる依頼ある? できれば調査が決まりそうなやつで」
見積もり段階の依頼の調査を進めることなんて、本来は絶対にない。相談にくるだけきて、調査は依頼しないお客さんも結構いるからだ。本当に困っている急ぎのお客さんはざっくりとした金額だけ聞いてすぐに調査に移ってくれと言う。一方、見積もりを待ってから進行を決める人は、他事務所からも見積もりを取って値段を比較している可能性もある。
そんな中、明地は調査を進めるように言った。真幌が事務所でだべっていたのがよほど気に食わなかったらしい。
「んー。多分進行にならなさそうなのしかないですよー? 明らかに他と値段比べされてる、素性調査。ペットの猫がいなくなって慌てた飼い主が突発的に飛びこんできた、迷い猫捜し。親御さんから、最近夜中に遊びに出る息子の行動監視。それくらいですねー」
明日花が視線を斜め上に向け、思い出しながら言う。すると所長がくくっと笑った。
「ほぅ、いいじゃねぇか。選び放題だ」
そう言って、真幌のデスクから離れていく。
冗談だよね、と真幌は思う。
それは完全に所長の思いつきだ。しかし、冗談か本気かわからない。自分は本当に調査に出た方がいいのだろうか。
「何あれー。やな感じー。いっつも真幌先輩ばっかぐちぐち言われて」
明日花が所長に聞こえそうな声で言う。真幌は焦って明日花に声をかけた。
「や、わたしは大丈夫だよ! ほら、そろそろ仕事に戻ろっか!」
「そうですねー。ま、あたしは特にすることないんですけど。今日、かなり暇だしー」
じゅうっとストローでコーヒーを一吸いし、明日花は自分の席へ戻っていく。その様子を見て、真幌はふぅと息をついた。明地だけでなく、明日花の言動にも気を遣わなければならない。なんだか急に疲れが湧いてきた。
しかし、これからどうするか。調査の件はおそらく冗談なので一旦置いておくにしても、このまま事務所にいてはまた怒られそうだ。そう真幌が考えたときだった。
机に置いていたスマホの画面が、パッと明るくなった。
表示された通知の内容を見て、真幌はおっと声を上げそうになる。
なんとタイミングがいいのだろう。丁度、今からできる仕事を見つけた。探偵として、見過ごせない事態である。
なぜか胸が浮き浮きするのを感じつつ、真幌は出かける準備をしに自分の席へ戻った。
*
その通知の内容は、とあるアプリからのお知らせだった。
自動追跡装置――いわゆるGPS追跡機の連動アプリである。今はそれを対象が五〇メートル以上移動すると、通知がくるように設定してあった。
明地探偵事務所で調査員に支給されるGPS追跡機は、最新の国産衛星の電波を利用するので、位置情報のズレがとても少ない。それに、移動経路や速度、滞在時間まで記録され、その履歴は裁判所に証拠として提出できるクオリティである。加えて、発信器は親指の爪ほどの大きさでターゲットに見つかりにくく、それでいて衝撃に強く頑丈な作りだ。
真幌はその発信器を、こっそりと疑明に持たせていた。
仕掛けたのは一週間前、疑明が真幌の部屋に忍びこみ、問題を解決していった日だ。真幌は玄関で母親と電話をしながら発信器を準備し、部屋に戻る前に疑名の革靴に触れて中敷きの下に忍びこませた。これにより、疑明が自由が丘駅近くのとある低層レジデンスに住んでいることを突き止めていた。
しかし、それから一週間、動きがなかった。普段、どんな生活をしているのか知らないが、革靴はあまり履かないようだ。そろそろこちらから動き、素性を探ろうと思っていたとき、今回の通知があったというわけだ。
またどこかの家に忍びこむつもりかもしれない。
パーカーにデニム、動きやすい運動靴、それにキャップを目深にかぶったラフな尾行スタイルで、真幌は事務所を飛び出した。
*
疑明を追って辿り着いたのは、丸の内線、茗荷谷駅付近の住宅街だった。辺りには大学のキャンパスや大きな公園があり、緑が多く閑静な雰囲気が保たれている。
スマホを見ると、明日花からメールが届いていた。見積もり依頼の詳細ファイルが添付されており、真幌はそれに軽く目を通す。このようにちゃっかりと仕事はこなすところが、明日花の好かれる要因でもあるのだろう。一方、自分はこうして言うことを聞かずに勝手に動くから目をつけられてしまうのだろう、と真幌は思う。
でも今は、これから起こるかもしれない一人の泥棒の犯行を止める方が重要だ。
追跡アプリを開くと、地図に表示されているターゲットのマークはもう三〇メートル以内に迫っていた。先程から辺りは一軒家の住宅に囲まれている。こんなところにくるなんて、やはり晩ご飯をいただきにきた可能性が高そうだ。
真幌はスマホ画面を見つつ先を急ぐ。そして曲がり角に差しかかったとき、すぐに反応して足をストップさせた。
道の先に、以前と同じジャケット姿の疑明の背中を捉えたのだ。
真幌は角にあった電柱の陰に身を隠しながら、疑明の行動を観察する。彼は少し古めの洋館風の家の前で立ち止まっていた。数度辺りを見回すと、門から中へ入っていく。真幌は電柱の陰から飛び出して、早足にその家へと近づいた。
洋館風と言っても、大きさは周りの戸建て住宅と変わらない。門から中を窺い見ると、高めのレンガ塀の内側には木が数本植えられた小さな庭があった。駐車場はなく、軒下に子供用の自転車が一台置かれている。
疑明の姿はもうなかった。
住人は出かけているのだろうか。あの用意周到な疑明が侵入するということは、おそらく留守なのだろう。
逡巡ののち、真幌は疑明の後を追うことにした。このまま彼の悪事を見逃すわけにはいかない。まぁ、晩ご飯泥棒の目的は可愛い盗み食いなのだが。
建物の周りの細い通路を、疑明もここを通ったと予想して進んでいく。一五メートルほど進むと、裏庭にあたる少し開けたスペースに出た。レンガ塀に囲まれ、外は見えない。隣の家の二階の窓からばっちり見下ろせる位置だったが、カーテンが閉まっており真幌は安心する。
しかし、疑明がいない。
家の壁には勝手口があり、脇には蓋をかぶせられた大容量のゴミ箱が置かれている。ドアの向こうはキッチンだろうか。真幌はその勝手口に近づいた。
ドアの鍵はドアノブとシリンダーが一体となっている、ドアノブの中心に鍵穴があるタイプのものだった。これは古い家の勝手口や学校の屋上の扉など、シンプルなドアにつけられていることが多く、ピッキングが容易な種類のものだ。
この短時間で不正解錠し、侵入することも、疑明なら朝飯前だろう。
一応、指紋対策はしておこうと思い、真幌はポケットから出したハンカチでドアノブを覆った。その上から手をかけて、恐る恐る回す。そっと、手前に引いてみた。
すると、まるで来客を招き入れるかのように、なんの抵抗もなくドアは開いた。
真幌はこくりと唾を飲む。きっと、疑明は家の中に入ったのだ。今頃作り置きご飯を盗み食いし、そして、何か問題を解決しようとしているのかもしれない。
ドクンと一つ、胸が高く鳴った。
不法侵入という言葉が、一瞬頭をよぎる。しかし、真幌は靴を脱いで手に持って、勝手口から建物の中へ足を踏み入れていた。
ドアの奥は予想通りキッチンとなっていた。右手に広がる真っ白い壁に囲まれた空間にシンクがあり、正面へ数歩進むとリビングに通じている。外観は古めの建物だが、シンクは新調したばかりなのか、水垢一つなく輝きを保っていた。
疑明はまだ見つからない。
しかし真幌そこで、決定的な犯行現場を見た。
二つ並んだ鍋の片方が、火にかけられていた。
「絶対食べる気だ……」
真幌は思わず呟き、辺りを見回す。キッチンを出て、リビングの入口に立った。
長方形で腰の高さの木製テーブルに、それと同じ素材の椅子が四脚置かれている。奥にはL字型のソファと、両腕いっぱい広げたサイズの液晶テレビが設置されている。
左手には表の庭に繋がっているらしい、天井近くまである掃き出し窓が見える。その窓につけられている抹茶色の遮光カーテンが、かすかに揺れた気がした。
「……そこにいるんですね、疑明さん」
そう、真幌は口にした。
約一秒。それが彼の、最低限の状況を把握するための時間だったのだろうか。
真幌の声からほぼ間を置かず、カーテンが静かな音を立てて少し開いた。
「どうしてあんたがここにいる? 牧原真幌」
カーテンの隙間から、イケメンの泥棒が現れた。
「たまたま偶然あなたの姿を見かけて、そしたらこの家に入ろうとしてたから」
疑明は訝しげな眼差しで真幌の顔を見る。
「本当に偶然? こんな住宅街で偶然出会うってどんな確率だ?」
「あなたを見かけたのは駅前です」
「そこから後をつけてきたって? ずっと周りは確認してたはずだが」
「そこはほら、わたし、探偵ですよ? 尾行のプロなんです」
「あんたにそんな技術があるとは思えないけど」
疑明はまだ疑わしそうな目を向けてくる。
実際のところ、疑明の姿を目で捉えられる位置にいたのは、彼がこの家に侵入する直前だけだった。しかし、あなたのことが気になって発信器を仕掛けていましたなんて、まさか言えない。
「偶然駅前……。どうしてあんたはこっちの駅にきてるんだ?」
疑明は追及を続けてくる。
「そ、そりゃあ、仕事ですよ。こっちの方で依頼のあった案件が」
「ん? 今仕事中なの? その仕事、ほったらかしでこんなとこきちゃっていいの?」
「い、今はちょっと空き時間で……」
やばい、と真幌は思った。我ながら咄嗟の嘘が下手すぎる。
疑明は「ふーん」と声を伸ばした。
「本当はどこからつけてきたのか。ストーカーさん」
「す、ストーカーじゃありませんし! 何回も言ってますが偶然です。どこからって、わたしあなたのこと名前しか知らないのに、つけようがないじゃないですか」
「あー。その唯一知ってる名前も、ギメイだけど」
ん?
一瞬、話の内容がよくわからず、真幌は疑問符を浮かべる。
――疑明だけど? それってそのまんまではないか。いやでも待て、ギメイ、の発音に少し違和感があったような……。
そこまで考えて、思い至る。
「えっ、ギメイって偽名? ほんとの名前じゃないんですか!?」
「いや、普通わかるだろ。というか、気づいてなかったのか?」
疑明は目を丸くし、心から驚いた表情を浮かべていた。多分、真幌の鈍さに対してだ。
疑明、偽名、単純な文字遊びだ。疑明は咄嗟に思いついてこの名前を述べたのだろうか。どちらにせよ、偽名だとバレるのを想定しながら口にしていたようだ。そもそも泥棒が名前を訊かれ、バカ正直に名乗るわけがない。
それなのに、真幌は疑いもしなかった。自分はなんてバカなんだと、ショックからずんと肩を落とす。その前で、疑明がふっと息をついた。
「まぁ、この話はもういい。今はこんなことしてる場合じゃないんだ」
そう言うと窓から離れ、真幌の横を通ってキッチンの方へと歩いていく。
確かに、今は落ちこんでいられる状況ではない。自分は今、泥棒を追って知らない誰かの家に忍びこんでいる真っ最中なのだ。真幌はぱっと顔を上げ、疑明の背中に続いた。
「ていうか、どうしてカーテンの裏にいたんですか? 何かあったんですか?」
気を取り直し、質問をする。
「誰かが入ってきた音がしたから、いつでも逃げられるようにな」
「あ、なるほど。そうだったんですね……」
「ん? 何かおかしいか?」
「い、いえ、それより、ほんとに家の人が帰ってきてたら、火にかけられた鍋を見てびっくりしますよ! 誰が? なんの目的で!? って」
そう話しつつ、真幌の心は全く違うことを考えていた。疑明が、この家の問題を解決すべく、何か推理していたのではと思っていたのだ。
――そうか。窓から逃げようとしていたのか。
そのとき真幌は、がっかりしている自分に気がついた。
いやいや、自分は何をしに疑明の後を追ってこの家に入ったのだ。彼の悪事を止めるためだろう。ぶんぶんと首を振り、頬をぱんと両手で叩く。
「ちょ、待ってください! ダメですよ、盗み食いは立派な泥棒です。それに、勝手に人の家に入るのだって――」
「それは、あんたも同罪だよな」
調理台の前に辿り着いていた疑明が振り返り、真幌の声に被せるように言う。
「わ、わたしはあなたを止めようとして」
「じゃあ何? オレを止めて、警察に突き出す?」
「そ、それは……。まずこんなことをする理由を――」
「オレは抵抗しないよ? この前あんたに隠しカメラで顔や声が入った動画を撮られてるし、逃げられそうにないからね」
疑明はどこかどうでもよさそうに、一方的にそう真幌に告げた。
別に容赦なく通報するとは言っていない。真幌はまず、彼の事情を聞きたかった。しかし真幌が口を開く前に、疑明は鍋の方へ向き直ってしまう。
疑明はずっとつけている白い手袋をしっかりとはめ直し、鍋の蓋を指で掴んだ。白い湯気が舞い上がると共に、ふんわりと甘い醤油の香りが漂ってくる。
言いたいことや聞きたいことはたくさんあった。しかし、どう話を続けていいかわからない。考えながらも、真幌は食欲を誘う香りにつられ、疑明の横から鍋を覗きこんだ。
鍋の中身は、魚のあらと大根の煮物だった。
「香りからわかる。みりんと砂糖の量の調整が絶妙、濃い味の家庭みたいだな。大根にもしっかりと色がついてて、味が染みこんでるのが見るだけでわかる」
確かに、煮汁に浸かる大根はキラキラと黄金色に輝いていてとても綺麗だ。無意識に唾液が湧いてきて、真幌は小さく喉を鳴らした。
いつの間にかマイ箸を取り出していた疑明が、軽く両手を合わせて言う。
「いただきます」
「あっ――」
真幌が止める間もなく、疑明が鍋に箸を伸ばしてしまう。魚のあらを取り、空いた左手を下に添えながら口に運んだ。
「ほう。口に入れた瞬間、ほろっとほぐれる。けど身はしっかりしてて、噛み応えもある。これはマグロのあらだな。油と灰汁の処理を丁寧にしてるんだろう、雑味が一切なく、淡泊な白身と出汁の甘さをしみじみと味わうことができる」
疑明は手を頬に当てながら、うっとりとした表情で言った。と思ったら、すぐにまた箸を伸ばし、今度は一口サイズに切られた大根を一切れ、鍋から引き上げる。
「はふ。大根も、香りからの期待を裏切らない味だ。舌で押すだけで溢れてくるほど、しっかり味が染みてる。お酒と、あと生姜も入ってるな。こういう煮物は家庭の特徴が色濃く出るからいい」
疑明が食べている間、真幌は彼の顔にまじまじ見入ってしまっていた。前回真幌の家に忍びこんでいたときは、真幌が寝ている間に盗み食いを終えていたので、彼がご飯を食べているのを見るのは今回が初めてだった。
いつもクールな雰囲気の疑明だが、盗み食いするときの顔はとても幸せそうだ。普段の顔からは想像できない、至福の表情。その中には子供っぽい無邪気さが混ざっている。
なんかちょっと、可愛いかも。
真幌がそんなことを思っていると、視線に気づいた疑明がちらりとこちらを見た。
「何? もの欲しそうな顔して」
「えっ、違、そんな顔――」
物欲しそうな顔などしていないが、あなたの表情に見惚れていましたとも言えない。
真幌が言葉に窮していると、突然、
「ほら、これであんたも完全に同罪だ」
疑明が箸で掴んだ大根を、真幌の唇につけてきた。
ちょ、いきなり何してるの!?
真幌は一気にパニックに陥る。しかし大根は一度口についてしまった。そこから首を振って退けるわけにもいかず、おずおずと口で受け取る。ほわっと温かで、ほっとするような甘さが口いっぱいに広がった。
その料理はなんとも絶品だった。先程疑明が挙げたもの以外に隠し味があるのか、奥深い旨みが潜んでいる。あら大根は真幌も作るが、それにはないまろやかさがある気がした。
「とてもおいしいですけど! 何してくれてるんですか!」
「いや、せっかくついてきたんだから、家庭の味のよさを知ってもらおうと」
箸を軽く掲げて見せながら、疑明が言う。その箸の先端を見て、真幌は気づく。
もしかしてこれ、間接キスではないのか?
真幌はハッと手で唇を押さえた。しかし、数秒経っても全くドキドキしてこない。シチュエーションが悪すぎた。
自分はいったい人の家に不法侵入して何をしているのだ。
「ああもう! ほら、目的は済みましたか?」
真幌は急かすように、疑明に声をかける。しかし、疑明はまた調理台に視線を戻していた。コンロに並ぶ二つの鍋。その、火をかけずに置いていた方にそっと手を伸ばす。
「そっちも味見するんですか? 中身は?」
「こっちは味噌汁だ。珍しい、ねばねば味噌汁。見たところ少し減ってるから、朝か昼に作って一度食べたみたいだな。味噌汁は沸騰させると味が飛ぶから、さっと温める」
そう言いつつ、疑明は味噌汁の鍋が乗るコンロの火をつける。しっかりいただくつもりのようだ。
「濃い味が好きな家族なら、食べる前に少し味噌を足すのかもしれないな。溶き立ての香りもほしいだろうし」
濃い味好きというのは、先程の料理の香りからの疑明の推測だ。そういった各家庭の特徴を、重視しているようである。
そこで真幌はふと何やら引っかかりを覚え、一人かすかに眉をひそめた。しかし覚えた違和感をうまく言語化できず、しばし考えこむ。
鍋のお湯がぐらぐらしかけると、疑明はすぐに火を止めた。蓋を開けると、薄い湯気が空気に巻かれてふわりと消える。ねばねば味噌汁とは名前の通り。その味噌汁にはなめこを始めとするキノコ類、納豆、オクラ、それから丸い山芋が入っていた。豆腐とネギの姿も見て取れ、実に具沢山だ。
疑明がジャケットの内ポケットから布にくるんだ小さいサイズのレンゲを取り出す。
「なんでも持ち歩いてるんですね」
考え事を中断し、真幌は疑明に声をかけた。
「ああ。フォークや小皿、ソースにマヨネーズといった調味料も持ってる。家庭の味を変えることはしないが、皿の上で多少のアレンジを加えてみたくなることもあるから」
「はぁ。ピッキング道具より、そっちの方が多いんじゃないですか?」
「それはもちろん」
もちろんと言い切られてしまった。それが晩ご飯泥棒の正しい装備らしい。
疑明はレンゲで味噌汁を掬い、一口飲んだ。舌で味わい、感想を口にする。
「納豆――大豆の強い風味が残ってるな。味噌の香りが少ないのは、作り置きだからしょうがないが……。それにしても、雑多な味がする。詰めこみすぎ? まぁ、そこも味があっていいが」
疑明はもう一度レンゲを鍋へ。今度は具を掬って口に運んだ。
「キノコも、もう少し煮るか、先にしっかり炒めるかした方がいいな」
「味噌汁にはダメ出しが多いですね」
少し怪訝に思い、真幌は言った。疑明なら料理に気になる部分があっても、それが家庭の味だと言って納得しそうなものだと思ったのだ。
「いや、悪くはないんだが……。なんと言うか、まだあまり完成されてない気がして」
そう言いつつ、疑明はレンゲと箸をまとめて布でくるんだ。それから、「ご馳走様でした」と手を合わせる。
真幌も一口いただいてしまったのを思い出し、疑明の横で小さく手を合わせた。なんだかこれでは、自分も泥棒の片棒を担いでいるみたいだ。
どこかのタイミングで、力づくでも疑明を止めればよかったのだろうか。こんなことしてはいけないと、強く咎めればよかったのだろうか。しかしもう自分には、彼に物申す資格はない気がした。
「さて」
疑明が切り替えるように言って、リビングの方に目を向ける。
「晩ご飯もいただいたし、問題を一つ解決いたしましょうか」
俯きながら、罪悪感に押し潰されかけていた真幌だが、急いでがばりと顔を上げた。
真幌の心には矛盾が存在する。疑明が人の家に侵入するのは止めなければと思うが、彼がその家で問題を推理するのは期待している。
ダメだとは自分でも思う。だけど今回、ここまできてしまったものは仕方がない。
「はい!」
思わず大きく返事してしまった真幌を、疑明がとても不審そうな目で見てきた。
*
「小学二年生の男の子が一人、いるみたいですね」
リビングに入ると、壁に習字の半紙が貼られているのに気がついた。子供が学校の授業で書いたのか、「友だち」という文字の横に、学年と名前が記されている。字はお世辞にもうまいとは言えない。その隣に並べて、同じく男の子がクレヨンで描いたと見られる、家族の絵も飾られていた。メガネをかけた男と茶色い髪の女、それに麦わら帽子をかぶって虫取り網を持った少年。背景は緑に塗り潰された山で、どうやら夏の思い出のワンシーンらしかった。
「さっき食器を見て確認したけど、家族三人で暮らしてると見て間違いないだろう。父、母、子供」
疑明は室内を壁沿いに歩きつつ、本棚、テレビラック、ローテーブルの上と順番にチェックしている。ソファの後ろを通ってパソコンデスクの前へ。そこで振り返り、もう一度室内を見回す。
「三人暮らしなんですね! それで、この家の問題ってなんですか?」
「まだ探し始めたばかりだろ」
「え、今、問題を探してたんですか? この前みたいに入ってすぐに見つけてるんじゃないんですか?」
真幌はてっきり、疑明は問題を解決するための調査を始めているとばかり思っていた。
「いや、まず見つけるところからだ。あんたの部屋は散らかってたからな、問題もその辺に落ちてただけ。この家には几帳面な人がいるのか、整理整頓が隅々まで行き届いてる」
「ちょっ、わたしの部屋もそこまで散らかってないですし! ていうか、ヤバいんじゃないですか? 家の人、帰ってきちゃいますよ?」
「いろいろとうるさいな。父親は仕事で、母親もこの時間はパートに出てる。子供は学童保育で、集団下校のある一八時までは学校だ。温めた鍋が冷める時間くらい計算してるさ。というか、あんたはいつまでここにいるんだ?」
少し苛立ちの混ざる声で、疑明が訊いてくる。
「わ、わたしは、あなたがこれ以上悪事を重ねないように見張ってるんです。それから、警察に届け出ることになったときの、証拠集めですね」
あなたの推理を待っているとは、口が裂けても言えなかった。
「ふーん。そう」
真幌の言い分に対し、疑明はそれだけ言って問題探しを続ける。パソコンデスクの前を離れ、部屋を出た。
廊下を玄関の方へ歩いていくと、二階へ続く階段と、濃い茶色の木製のドアがあった。
外観から感じた通り、この建物は少し古いようだ。板張りの床はギシギシと鳴るし、柱や壁は全体的にくすんでいる。廊下と階段には窓がなく、玄関扉のガラスから光が差しこんでいるだけで、辺りが暗く薄気味悪い。
疑明が玄関脇のドアに近づこうとする間、真幌はちらっと階段を覗き、薄暗い二階の方を見上げてみた。
そして、総毛立った。
「ひ、ひぃっ!」
そこにあったものに、思わず声にならない声を漏らしてしまう。
「一人で騒がしいな。どうかしたか?」
疑明が振り返り、訊ねてくる。
「あ、あれ」
真幌は伸ばした人さし指を、二階の階段の壁に向かって何度も指した。疑明が寄ってきて、頭上に伸びる階段の奥を真幌と同じように覗きこむ。
そこには壁を覆い尽くすが如く大量の、御札のようなものが、向きも間隔もばらばらに、乱雑に貼りつけられていた。長方形の白い紙に、何やらよくわからない文字が筆で書かれた御札。それが二階の階段から廊下へ続くように、めちゃくちゃに貼られている。
「こ、ここは心霊スポットか何かなんですか?」
真幌はきゅっと胸元の服を握り、身を強張らせながら疑明に訊ねる。古い洋館風の建物で、気味が悪いと感じていたが、まさか本当に何か出るというのか。
「ふむ」
疑明は顎に指をやると、階段をのぼり始めた。
「えっ、行くんですか? 行っちゃうんですか?」
「当然。近くで見てみないとなんとも言えないだろ」
疑明はあの御札に囲まれた空間が怖くないのだろうか。というか、近くで見て何かわかるのだろうか。
――いや、疑明ならあの大量の御札が貼られた理由を解き明かして説明してくれるかも。
真幌はもう一度御札に目をやり、こくっと息を呑む。それから急いで疑明の後を追いかけた。
「ちょ、近い」
「あ、あなたが遅いんですよ」
「危ないから離れろ! それに暑苦しい!」
「いいから早く進んでください」
怖さから、ほとんど疑明の背中にくっつく距離で、真幌は階段をのぼっていった。ほどなくして、真幌たちは二階の御札に囲まれたエリアに辿り着く。
「これは……子供が書いたものか。半紙を切って作ったようだな」
御札を一枚一枚観察しながら、疑明が言う。
御札には、平仮名で「あくりょうたいさん」や「かないあんぜん」、「ゆーれいじょうぶつ」などと書かれていた。どうやらこれはこの家の、小学二年の男の子が書いたものらしい。階段の下からだと暗かったこともあり、習字の続け字のような、何か難しい字が書かれているように見えていたのだ。
「全部、セロテープで貼られてる。木の素材の壁に貼られてるけど、剥がれてるものはないな。テープが劣化してる様子もないし、貼られたのは最近かもしれない」
疑明は冷静に分析しているが、真幌は気味が悪くて仕方なかった。
「この量、ちょっと異常ですよ……」
脇をぎゅっと締めて肩を縮めながら、真幌は恐る恐る周囲を見回す。
御札はよくよく見れば、壁の低いところに多く集中していた。これも、子供が貼ったという根拠の一つになる。だが、高いところにないというわけでもなく、壁が見えている部分よりは御札が貼られた面積の方が大きくなっている。何か台座を用意して貼っていったのだろう。天井にも三枚ほど貼られている。
そしてその御札のトンネルが、廊下の途中まで続いていた。
「子供が何かを怖がってるのは確かなようだな。御札の内容からすると、幽霊が出るのか」
「ちょっと、怖いこと言うのやめてくださいよ!」
「まぁ、オレは幽霊なんて信じてないけど」
真幌の文句を軽く受け流し、疑明は御札のトンネルを進む。そして、左手にあったドアを開いた。
「なるほど。ここが子供部屋か」
室内に足を踏み入れる疑明に続き、真幌も部屋の中を見た。
「げっ……」
確かに疑明の言う通り、そこは子供部屋のようだった。カーテンが引かれた室内には、教科書が立てられた学習机に、時間割が貼られたコルクボード、漫画や昆虫図鑑が入った本棚などが置かれている。だがそれよりも、やはり目は壁にひきつけられてしまう。重なるのも気にせず無造作に貼られた、大量の御札。この部屋もか、と真幌は苦い声を漏らしてしまう。
「いったい何があるの、この家に!」
「あまり大きい声出すなよ。この部屋の窓は隣の家と近い」
「ご、ごめんなさい。でも……」
「何があるのかはまだわからない。けどまぁ、この御札が集中してる辺りで異様な出来事があったんだろうな。子供が貼った御札を放っておくってことは、親もその奇妙な現象に手を打てていないということか」
疑明は室内を見回すと、考えこむように眉間を指で挟む。御札以外、おかしな点はなさそうだがと思いつつ、真幌も部屋の隅から見て回る。
学習机の奥の壁際にはベッドがあった。
「こんな部屋で、一人で寝るの怖いだろうな」
なんとなく真幌が言うと、疑明もベッドに目を移した。
「……というか、ここでは寝てないんじゃないか? ベッドの上に掛け布団はあるが、枕がない。きっと親がいる別の部屋で一緒に寝てるんだ」
「ほんとだ! 枕がない」
どうして気づかなかったのだろう。自分の方が先に確認していたのに。こういう小さな発見をできる力が、探偵には必要なのに。
そう真幌が悔しがっている間、疑明は背筋を伸ばした立ち姿で考えながら小さく呟く。
「幽霊、か……」
「ちょっと、またそんなこと言って。幽霊、信じてないんですよね?」
「それは当然。でも、ここまで怖がってるということは、それに近いものが見えてるということだろう?」
その疑明の言葉には、真幌も納得する。得体の知れない何か――それも子供に幽霊と思われるような何かが出ているからこそ、この御札の量なのだ。
「何か自然現象で、目の錯覚が起きてるとか」
真幌は考えられそうな可能性を挙げてみるが、
「その自然現象がなんなのかを考えてるところだろ」
疑明にあっさりとあしらわれる。
「わかってますけど、一応こう、思考状況を共有しておこうと思っただけです」
真幌は唇を尖らせて言うと、もう一度室内に首を巡らす。
しかし、自然現象とひとまとめにするのは簡単だが、それ以上の詳細はさっぱりわからない。光の反射、風による悪戯、はたまた幾何学的に起こった錯覚か。可能性はいくらでも挙げられるが、そのどれかに言及していくことができない。
現実で起きていることの、原因を解明する。
これができなければ、探偵として働いていてもただの調査員で終わってしまう。
「ちょっと他の部屋を見てきます!」
そう言い残し、真幌は一人で廊下に出た。疑明の推理を楽しみにしているだけではダメだ。他人任せではいけない。自分は父のような、困っている人の役に立つことができる探偵を目指しているのだ。背後から飛んできた、「几帳面な人が住んでるからな、散らかすなよ」という疑明の声に、「はーい」と返事をする。
二階にはあと二つ、部屋があるようだった。ハンカチを使ってドアノブを持ちながら、先程の子供部屋の隣のドアを開いてみる。
「ここもだ……」
その部屋も、無数の御札が壁に貼られていた。全部数えることはできないが、廊下と同じか、それ以上の量がある。
「……この部屋で何が起こるの?」
そう呟いた瞬間、ぶるりと身震いに襲われた。真幌は腕をクロスさせて自分の肩を抱くようにしながら、調査を続行する。
夕陽がカーテンを透かして照らす室内には、物がたくさん置いてあった。掃除機に扇風機、買い替えたためか使われていない液晶テレビなど。クローゼットは片方の扉が開いており、クリーニング屋でつけてもらえるビニールを被ったままの服がずらりとかけられている。冬物のコートやジャンバーのようだ。
どうやら他の部屋をすっきり見せるため、この一部屋を物置として使っているらしい。
白いカーテンの隙間からは、バルコニーが覗いている。頭上を見れば固そうな紐が一本、部屋の角からカーテンレールへ張られており、おそらくこの部屋で洗濯物を干しているのだろうとわかる。
室内の右手には、こちらも扉が開いた状態の、二段で大きめの収納スペースがあった。木製でペンキも塗られておらず、暗くて何が入っているかわからないところから、押入れと呼んでしまいたいが、扉はフルオープン可能な折りこみ式の洋風である。
真幌はその収納スペースの脇に置かれていた、二組の分厚い布団に気づく。冬用の布団のようだ。暑くなってきたので夏用と取り換えて洗おうとしているのか。真幌も最近、同じように入れ替えをしたばかりだ。
やはりここは物干し部屋と、不要な物を置いておく場所として使われているようだ。家族が三人だと部屋も余ってくるのだろう。
しかし、幽霊に繋がるようなヒントはない。
先程からずっと気味の悪さは続いているが、御札以外、この部屋で特に違和感を覚える部分はなかった。真幌は仕方なく廊下へ出ようとする。すると丁度、疑明が部屋を覗こうとしていたところだった。
「何かわかった? 探偵さん」
部屋の入口で肩を軽くよけて真幌を通しながら、疑明が訊いてくる。
「いえ、何も……」
疑明の胸の前をひょいと抜けて、真幌は廊下へ出る。彼のそばで動くと、空気に乗って清潔感のある石鹸の香りが漂ってきた。思わずもう一度、鼻で息を吸ってしまうが、もうそのかすかな香りは感じ取れない。特徴のある体臭でもなく、香りの強い香水でもない。きっと人の家に侵入した際、匂いが残らないよう気をつけているのだろう。
そんな推測をしながら、真幌は廊下の突き当たりにあるドアへ向かおうとする。
すると疑明が後ろから訊ねてきた。
「この部屋、ほんとに何もなかったのか?」
「と、特に気になるものは。ていうか確認するくらいなら入ってみた方がいいですよ」
振り返り、部屋を指さしながら中へ入ることを勧める。真幌が見落としている点に疑明なら気づくかもしれないし、そもそも、何もなかったという言葉を信用されても困る。
しかし疑明は最後にちらとだけ部屋の中を見ただけで、踵を返した。
「そろそろ時間がなくなってきたからな。下の部屋も見ておきたいし、急ごう」
そう言って、先に廊下の突き当たりの部屋へと歩きだす。
真幌はパンツの尻ポケットからスマホを抜き、時間を確認する。時刻は午後四時半をすぎていた。午後六時を回れば子供が下校してくるし、その時間ギリギリまで粘るわけにもいかない。タイムリミットは迫っている。
そこまで考え、真幌はハッとする。
――完全に、泥棒の思考になってる……。
お父さんごめんなさい、と心の中で謝る。こんなこと早くやめなければならないのだが、今はこの御札の真相が気になる。この家の男の子は、いったい何に怯えているのか。
廊下の御札ゾーンを抜け、真幌も次の部屋へ。疑明はもうドアを開け、部屋に入ろうとしているところだった。
真幌は疑明に追いつき、彼の背中から背伸びをして部屋の全貌を確認する。
「ここは……家族の寝室ですかね?」
部屋の真ん中にダブルサイズのベッドが一台、どんと横向きに設置されていた。奥には大きな出窓があり、その木目調の窓枠と似た素材のチェストが枕元の横に置かれている。その上にはアンティーク調の、白い傘のテーブルランプが乗せられていた。さっきの物置のような部屋とは逆で、今度はかなりシンプル、毎日使わないものは全て隣の部屋にまとめて置いているようだ。
そして、この部屋には御札がなかった。
ここでは何も起こらないのか、それとも親が自分たちの寝室には貼らせないようにしているのかはわからないが、四方の白い壁は経年劣化で少しくすんで見えるだけだ。
「あっ」
そうして室内の観察をしていると、真幌はすぐに一つおかしな点に気づいた。それは先程、疑明が指摘していたことだ。
「さっきわたし、家族の寝室と言いましたが、ベッドに枕が一つしかないです!」
「そうだな。それに、今は家族と一緒に寝てると予想した、子供の枕もない」
真幌と話しながら、疑明はベッドに近づいていく。じっと観察していたかと思えば、さっと枕の辺りに手を伸ばし、手袋の指で何かを摘まみ上げた。
「なんですか?」
彼の指先に何があるのかよく見えず、真幌は目を凝らしながら訊ねる。
「少々癖のある、短い白髪だ。枕についてた。おそらく今ここで寝ているのは父親だ。パッと見、黒い髪も落ちているが、長い髪は見当たらない」
「母親の髪が短い可能性は?」
「あんた、リビングに貼ってあった子供が描いた絵、見てただろ」
「あっ、そうだ……」
疑明に言われて真幌は気づいた。不覚だった。あの夏のワンシーンを描いた絵では、母親は茶色の長い髪をしていた。黒髪に変え、三センチほどまで短く切り、さらにパーマを当てている可能性なんてとんでもなく低そうだ。
疑明は改めて部屋を見渡し、それから廊下の方へつま先を向けた。
「もういいんですか?」
「ああ。チェックしそびれていた一階の部屋も見ておきたいからな」
御札が大量に貼られた異様な光景を目にし、真幌たちは引き寄せられるように二階へ上がってきた。しかし今のところ、謎を解く手掛かりは全く得られていない。
いや、そう思っているのは自分だけで、疑明の方は何か気づいていたりするのだろうか。考えるがわからず、真幌は細めた目で疑明の背中を眺める。時間は刻一刻となくなりつつあり、このままでは何も解決することなく盗み食いだけして家を出ることになってしまう。
――ご飯をいただきに侵入したあと、必ずお返しにしていることがある。
初めて疑明と出会った日、彼はそんなふうに真幌に言った。そのセリフから考えるに、何も解決せずに家を出るのはきっと彼のポリシーに反している。今回も、なんとしてでもこの御札の謎を解き、問題を解決してくれるはずだ。
真幌が廊下に顔を出したとき、疑明はすでに階段を下り始めたところだった。
窓からの明かりだけでは薄暗い廊下に、大量の御札。その気味悪い空間に一人で取り残されたくなく、真幌は急いで疑明の背中を追いかけた。
*
「ここにあったのか」
部屋に入ってすぐ、疑明の口からそんな声が漏れた。
「あっ、子供用の枕ですね!」
床にはサラサラとした毛のふかふかな茶色いカーペットが敷かれており、その中央に敷布団が畳まれて置かれていた。そしてその三つ折りになった布団の上に、枕が二つ乗っている。内一つには、ゲームのキャラクターが描かれたタオルケット地の枕カバーがつけられており、すぐに子供用とわかった。
「お母さんと二人で、この部屋で寝てるんですね」
「大方、二階で何かが起こるのを子供が怖がるから、一階に避難させて一緒に寝るようにしてるんだろうな。それより……」
疑明は目を横に向ける。真幌もつられて左方向を見た。
出入口のすぐ横のコンセントに繋がれ、空気清浄機があった。その電源ボタン部分に、緑色のランプが点いている。よく耳をすませば、空気が流れる音が聞こえてきた。
「つけっ放しで出かけてるんですねぇ」
そう言って、真幌は疑明の顔を見上げる。疑明は視線を床に落とし、丸めた人さし指を眉間に当てながら何やら考えこんでいた。
「つけっ放し……。今は特に病気が流行るような季節でもないし、他の部屋を見る限り、特にハウスダストなどを気にしている様子もなかったけど」
「寝る場所だけは綺麗にしておきたい、とかじゃないですか?」
「それはそうなんだろうけど……。この機械、操作パネルに保護シールもまだ貼られたまま、綺麗な状態だ。最近買ったんじゃないか?」
疑明は空気清浄機に近づく。そしてその後ろに何かを見つけたようで、さっと腰を曲げて拾い上げた。見れば、それは空気清浄機の取扱い説明書のようだった。疑明はその薄い冊子をぱらりとめくる。
「間に保証書とレシートが挟まってる。購入日は前の日曜日だ。やっぱり、最近必要になり、買いに行ったんだ」
そこで疑明は何かに気づいたように、バッと部屋の入口の方を振り向いた。説明書を元の場所に戻し、急ぐように廊下へと出ていく。
「ちょっ、どうしたんですか!?」
真幌は廊下の床で滑りそうになりながら、慌てて疑明の後を追った。
疑明は真っ直ぐにキッチンに入っていく。それから冷蔵庫を開け、中身をチェックし始めた。それを終えると、今度は食器棚の隣のラックを漁りだす。
「いきなり置いてかないでください! 何かわかったんですか?」
真幌は背後から疑明に訊ねる。すると、疑明は手を動かすのを止めずに変なことを訊き返してきた。
「あんた、アレルギーとか持ってる?」
「アレルギー? 特にないですけど……」
特定の食材はもちろん、毎年春や秋に猛威を振るう花粉にも、特に反応を示さない図太い身体を持ち合わせている。だが、なぜそんなことを訊いてくるのだろう。
「そうか。オレも鼻炎や痒みなんかとは無縁の生活を送ってきた。だから、気づくのが遅れたんだ」
「気づく? 何に?」
今、アレルギーの話が何かに関係しているのだろうか。
首を捻る真幌を、疑明が振り返った。ラックから取り出した何かをこちらに見せてくる。
「なんですか? ……グァバ茶?」
疑明が持っていたのは、開封済みのグァバ茶のティーパックのパッケージだった。
「グァバ茶の主成分はポリフェノール。ポリフェノールには抗酸化作用があり、炎症を防ぎアレルギー性の鼻炎の症状を抑える働きがある。ラックにはお得用の麦茶のパックも開いた状態で残っているが、それを使いきらずにグァバ茶を飲み始めてる」
「アレルギーの症状を抑える……」
「そう。それから、さっきいただいた晩ご飯」
疑明は次に、コンロの鍋の方を顎で示す。
「ねばねば味噌汁も、アレルギー症状に効くものがたくさん入ってる。納豆やキノコは抗体の過剰反応を抑える働きがあるし、オクラなんかは喉や鼻の粘膜を保護し免疫力向上の効果も期待できる。家庭の味と言うには、味が完成されていないように感じたんだ。きっと、急に家族の誰かにアレルギーが発症し、初めて作ったんだろう。初めから、そこに気づけてればよかったけど、特にアレルギー持ちでもないし、そんな効果を求めてねばねば味噌汁を食べたことがなかったから」
なるほど、と真幌は思う。疑明が味噌汁に対し微妙な感想を述べていたのは印象に残っていた。作り慣れたものではなかったため、味が洗練されていなかったということらしい。
「じゃあ、あのつけっ放しの空気清浄機も――」
「ああ。きっとアレルギーの症状を緩和しようと買って、つけっ放しにしてるんだろう」
繋がっていく。これまでこの家で得た情報が、一つずつ。快感に似た感覚に襲われ、真幌は身体を小刻みに震わせる。
疑明はグァバ茶のパッケージを元の場所に戻し、ラックの違う段を調べ始めていた。そしてまた何か気になるものを見つけたようだ。白い紙袋を手に取り、中身を検め始める。
「それ、病院の薬じゃないですか?」
袋の表に「おくすり」と書かれているのを見て、真幌は言った。
「オレの考えは間違ってなかったようだ。処方されてるのは抗ヒスタミンの錠剤、アレルギーの鼻炎か何かで受診したと見ていいだろう。それから、症状が出ているのは子供のようだな。処方箋に名前がある」
真幌も見せてもらい、確認する。処方箋にある名前は、リビングに貼られていた習字に書かれていた名前と同じだった。
「でも、アレルギーか。それで幻覚でも見えたりしてるのかな。そんな症状、聞いたことないけど……」
そう真幌は一人で言う。
どんどん事実が明らかになっていくが、まだ肝心な部分がわからない。御札の謎。この家族が抱える問題に関して、である。アレルギーとは全く関係がないのだろうか。
「幻覚なわけがないだろ。ここまでヒントを出されてまだわからないのか?」
疑明の若干呆れたような声に、真幌はハッと彼に顔を向ける。
「謎が解けたんですか?」
「一つの可能性が浮かんだだけだ。それが正しいかは、あとで確認すればいい」
「ほんとですか! あの御札はいったい?」
期待に目を輝かせて一歩詰め寄る真幌を、疑明はひらりとかわしてラックの前から広いスペースへ移動する。
「子供が御札を貼らずにいられない現象が、この家で起きてる。その現象には、例えばどんなものがあるか。さっきあんたは幻覚と言ったが、視覚だけに絞って考えてちゃダメだ」
「視覚だけに……」
「ポルターガイストと呼ばれるような現象は、目に見えて起きるものばかりか?」
その言葉に、真幌は納得する。疑明の言う通りではないか。勝手に幽霊をイメージし、何かが見えたものだと思いこんでいた。不可解な現象にも、さまざまな種類のものがある。
「勝手にお皿が割れたり……や、それは目に見えますね。じゃあ、誰もいない場所から足音が聞こえるとか」
真幌の挙げてみた答えに、疑明が深く頷いた。
「そう、まさにそれだ。だけど、誰もいない場所から足音が聞こえるのは、現実ではあり得ないとオレは考える」
「で、でも、それだったら、この家で起きてる心霊現象には誰か犯人がいるとでも言うんですか?」
早く答えが知りたくて、急かすような口調になってしまう。そんな真幌に対し、疑明はふっと微笑を浮かべて口を動かす。
「御札が貼られたのはおそらく最近だと、さっき話したな。そして、この家では最近、それとは別にもう一つ問題が発生してる」
「あっ、子供のアレルギーですね!」
「そう。アレルギーも、何もないところから発生するものではない。必ず抗原――原因が存在する。そして、この家の二つの問題に繋がりがあると考えたとき、浮かんでくる可能性が一つある」
謎の大量の御札。それに、子供のアレルギー。この二つが無関係と言ってしまうのは簡単だ。だが、それらが実は関係のあるものだとしたら――。
「……うーん」
真幌は考えこんでしまう。
「もっと頭を働かせろ。アレルギーの原因にはどんなものがある?」
もう脳みそは回転しすぎてショートしそうになっているが、疑明のその言葉に、真幌はさらに思考を巡らせる。
アレルギーの原因には何があるか。花粉、食物、ハウスダスト、それから――。
そう言えば、先程真幌がポルターガイストの現象として足音を挙げた際、疑明がまさにそれだと言っていた。
不意に頭に蘇ったそのセリフをヒントに、真幌はある答えに思い当たる。
「……もしかして、動物アレルギー? ポルターガイストは、動物の足音?」
疑明がぴっと人さし指で真幌を指した。
「そう。動物――おそらく猫か何かが、屋根裏に忍びこんだんだろう。その足音を、子供が幽霊と勘違いして怖がり、御札を作った。あんな大量の御札が貼られたままになってるということは、まだ親も足音の正体に気づけていないという可能性がある」
「なるほど。屋根裏から足音が聞こえるから、二階に御札が貼られてたんですね! もしかしたら、御札が集中してた場所の頭上に潜んでるのかも」
「ああ。それから、二階のあんたが見てた部屋に、冬用の布団が置いてあっただろ?」
置いてあった。真幌はこくこく頷く。だけどそれがどうかしたのだろうか。
「あそこにあったということは、夏用の布団と取り換えたということだろう。夏の布団をあの部屋の収納スペースから出してきたんだ。猫のアレルゲンはな、花粉やほこりの一〇分の一の大きさで非常に飛び散りやすい。それは猫を飼っていない家でもなぜか発見されるほどなんだ。この家、結構古いだろ? 収納スペースの天井の板もきっと傷んでる。ほんのわずかな隙間からアレルゲンは落ちてくるから、それで夏用の布団に付着していた」
「なるほど。付着したタイミングで布団を入れ替えたせいで、アレルギーが発症したというわけですね」
全てが一つに繋がっていく。真幌はかなり興奮しつつ、同時に悔しさも感じていた。
真幌はあの二階の真ん中の部屋をじっくりと観察していたが、疑明はさっと覗いただけだった。それなのに彼は、その短時間で謎にかかわってきそうなポイントをきちんと押さえていた。そして、こうして全容を完全に推理してしまう。
「あの未完成の味噌汁には、母の愛がたっぷり溶けてたんだな……」
そう一人呟く疑明の顔を、真幌はこっそりと盗み見る。
やっぱりこの人はすごい! と気持ちが昂る中、彼の言葉はさほど気に留めなかった。
「それで、このあとはどうするんですか?」
確か、疑明の目標はあくまで、問題の解決だったはずである。それは原因の解明だけではいけないはずだ。
「そうだな。さっきも言ったが、まずは思い浮かんだ可能性が正しいか確かめるところからだ」
「なるほど。それで、その確認の仕方って?」
真幌は訊ねる。すると視線を天井に向けて何やら考えていた疑明が、ついと真幌を見た。
「丁度、時間もなくなってきたことだし、あんたに手伝ってもらおうかな。共犯者さん」
一緒に家に忍びこみ、作り置きのご飯も無理やりだがいただき、問題解決のための推理にも最後までつき合ってしまった。ここまできて、誰が共犯者ですか、などと逃げることはできなかった。
それに、今は疑明の推理を聞いて、気持ちがとても昂っている。
真幌は彼に訊ねた。
「それで、わたしはどうすればいいですか?」
*
時刻は午後七時、辺りはだんだん薄暗くなってきており、頭上の街灯もつい先程点灯した。すぐに街は夜にすっぽり包まれるだろう。
だが、探偵業に定時はない。
「突然すいません、わたし、明地探偵事務所の牧原と申します」
そう言って、真幌は名刺を両手で持って差し出した。
「探偵事務所? あなた探偵さん? 探偵さんがうちになんの用事ですか?」
玄関から出てきた女性は物珍しそうに、受け取った名刺と真幌の顔を交互に見る。探偵から名刺をもらうことなんて滅多にないだろうし、これが普通の反応だろう。
「少々お訊ねしたいことがございまして――」
現在、真幌は晩ご飯をいただいた家に、正面から挨拶にきていた。
この家の住人に、直接訊いてみればいい。それが疑明の言った、推理が正しいかどうか確認する方法だった。あの状態から、本当に猫か何かの動物が屋根裏に潜んでいるか確かめにいく時間はなかった。それに、問題の解決を目指す際、家主と接触するというのも一つの手とのことだった。自分が忍びこんだ家の家主にあとから接触しようとするなんて、改めて思うが本当に泥棒らしくない。
しかし、極力顔は見られたくないのか、疑明は今、少し離れたところで待機している。
「この辺で野良猫がうろうろしているとの情報がありましてですね、こちらのお家にきていませんか? 例えば、屋根で物音がするとか――」
真幌がそう訊ねると、女性はあっと口を開けて何度も頷いた。
「そうそう。よく屋根裏に猫が入って困ってるんです。うちを休憩場所に使われてるみたいでね、でもどこから入ってるのかわからなくて。保健所か、害獣駆除か、どこにお願いしたらいいかもわからないし、子供は幽霊の足音がするなんて怖がって一人で寝れなくなっちゃって。変な御札をたくさん作って、剥がすと怒るし……」
どうやら両親の方は、足音の正体に気づいていたらしい。御札は怖がる息子のため、剥がせずにいるようだ。
それにしても、これで疑明の推理が正しいことが証明された。
「たとえ屋根裏でも、猫がいるとアレルギーが出る人もいるかもしれませんし大変ですよね。猫のアレルゲンは細かくて散布されやすいそうですし」
真幌がそう言うと、女性は何かに気づいたように目を大きくした。
「最近息子の鼻炎が酷くって。部屋の中じゃないし、関係ないと思っていたけれど……」
どうやら息子のアレルギーの原因まで猫のせいだとは、考えていなかったらしい。
「どうしよう。入口を塞げたらいいんだけど、場所がわからないし。すぐにでもどこかに依頼して、駆除してもらいたいけど……。でも、あの猫、どこかの飼い猫みたいなのよね」
「飼い猫? どうしてわかるんですか?」
「見たことがあるんです。家の横の塀を歩いているのを。真っ黒な猫で、黄色い首輪をしてたんです」
首輪をしているなら、十中八九飼い猫で間違いないだろう。
黄色い首輪の黒猫……。
「……ん?」
そこで真幌は待てよ、と思った。まさか、そんな偶然があるか? だが、これは確認する必要がある。真幌はポケットからスマホを取り出して操作する。
メールボックスの一番上に、今日の午後、明日花から送られてきた見積もり段階の依頼の詳細ファイルが入っている。その中の、迷い猫捜しの依頼ファイルを開いた。GPSで疑明を追う途中、一応チェックはしていたので、その中に写真が一枚入っていることは知っている。すぐに表示された写真を、女性の方に見せる。
「もしかして、この猫だったりしますか?」
女性は真幌の持つスマホに顔を近づけ、「あー」と声を伸ばした。
「すごく似てるわ。真っ黒で、黄色い首輪。大きさもこれくらいだったはず。こんなつやつやした毛並みじゃないけど」
真幌はもう一度スマホを見た。映っているのは大人サイズの黒猫である。毛並みは数日の野良生活で悪くなってしまったのだろう。画面に指を滑らせ、依頼者の情報を確認する。住所はこの近くだ。引っ越してきたばかりで、脱走した猫が迷子になってしまったらしい。
これは確定ではないだろうか。
「わかりました。教えていただきありがとうございます。それでなんですけど、この猫、わたしに捕まえさせてもらえませんか?」
まず、猫の侵入経路を見つけ出す。それから捕まえて、飼い主のもとに返す。
張りこみなら得意である。迷い猫が休憩にやってくるまで、いつまででも粘ってやろう。
ここからは、探偵の仕事だ。
*
もうすぐ日付が変わろうかという頃、ようやく猫は見つかった。
先に家の周りから屋根を観察、特に御札があった辺りを見て猫が入れそうな隙間を探したのだが、見つからず。不思議に思いつつ庭の隅で隠れて張りこむこと五時間弱、迷い猫は現れた。
黒猫は闇に紛れながら、家の横の塀の上を軽い足取りで歩いてきた。気づいた真幌は、息を凝らして猫の行く先を見守った。塀を真ん中の辺りまで進んだ猫は、一旦周りをきょろきょろ見回したあと、前脚から地面に飛び降りた。そして、家に近づき、そのまま建物の壁に頭を突っこんだ。
真幌は目を疑った。慌ててその場所へ飛んでいく。そこには家の床下に繋がっているのであろう、通気口があった。その通気口の柵が、腐食して一部折れてしまっており、猫はそこにできた穴を通ろうとしていた。
どうやら猫は、家の床下から屋根裏に侵入していたようだ。おそらく壁の中にある隙間を、補強板の出っ張りなんかを利用してのぼっていったのだろう。そして、安全な屋根裏で眠っていた。
通気口の穴は猫がすんなり通れるほど広くはなかった。真幌が近づいたとき、猫は穴に頭を突っこみ、次に多少無理やり身体を通そうとしていたところだった。物音から気配を察知したのか、猫は頭をさっと抜き、真幌の方を見た。
真幌は張りこみ前にペットショップで買ってきたまたたびを袋から出し、しゃがみながら差し出してみた。猫は警戒しながらも真幌のもとへ寄ってきて、前脚でちょいちょいとまたたびに触れてきた。
助かった。猫を見つけても、捕まえるのに苦労しそうだと思っていたのだ。どうやら飼い猫だけあって、人には馴れているようだった。真幌が手を伸ばしても猫は逃げずに、頭を撫でるのを許してくれた。
チャイムを鳴らして女性を呼ぶと、一緒に旦那である男性も出てきた。真幌は二人に猫を捕まえたことと、屋根裏への侵入ルートを説明し、今日はその家を後にした。
猫を抱えたままでも乗せてくれるタクシーを探そうと、真幌が駅方面へ歩きだしたときだった。
「解決したみたいだな」
本日疑明をつける際、真幌が彼を監視していた電柱から、今度は彼が顔を覗かせた。
「はい。待っててくれたんですね」
「そりゃ、あんたに失敗でもされたら、また何か策を考えなければならないからな」
「でも、任せてくれたってことは、一応信用してくれてたんですよね?」
「信用も何も、張りこみなんて面倒な真似、絶対に自分じゃしたくないからな。仕方なくあんたに投げただけだ」
「もー、素直にありがとうでいいじゃないですか」
真幌が呆れた笑みと共にそう言うと、疑明はとても嫌そうな顔で真幌を見下ろす。
「何を調子に乗ってるんだ。いつもオレ一人で全部やってるところ、あんたが首を突っこんできたんだろ。もうかかわらないでくれ」
疑明はさっと踵を返し、四つ角を折れて去っていく。止める暇なく、真幌は猫と共にその背中を見送った。
謎に包まれた晩ご飯泥棒は、またしても家庭の問題を推理し、解決してしまった。
本当に、彼は何者なのだろう。住所や顔は知っていても、名前は偽名だし、生い立ちや何を稼業にしているのかもわからない。
家に侵入してもご飯以外盗らないところから、本職が泥棒ということはないはずだが。
それともう一つ、心に引っかかることがあった。
真幌が彼を警察に突き出すつもりかという話になったとき、彼は『抵抗しないよ――』と言った。
そのときの、どこかどうでもよさそうな表情が忘れられない。
あの投げやりな雰囲気、自分がどうなってもいいと思っているような。
彼はいったいどんな事情を抱えながら生きているのだろうか。
その姿は完全に夜の闇の中に消えてしまった。
大丈夫、彼の靴にはまだ発信機が仕込まれたままだ。会おうと思えばいつでも会える。
真幌の腕の中で黒猫が、道の先の暗闇に向かって「にゃおー」と鳴いた。
*
真幌の家はペット禁止だ。ということで、真幌はタクシーで事務所へと帰った。
時刻は午後一時をすぎたところだった。雑居ビルの二階へ上がると、事務所のドアの磨りガラスから灯りが漏れていた。ドアを開けると、立てられた書類ファイルに囲まれた一番奥のデスクで明地所長が一人、仕事をしていた。
「おお、真幌。遅いな」
「お疲れ様です。所長こそ、こんな時間まで仕事してるんですか?」
「あー、本来の納期は二日後だが、どうしても明日に報告書がほしいって客がいてな。急いで作ってるところなんだ。まったく金払ってるからって、探偵使いが荒い客だよ」
そう言って笑い、明地はコーヒーショップチェーンで買ったらしき蓋つきカップのコーヒーをすする。
なんだかんだ文句を言いつつも、遅くまで残って仕事をしている。明地のそんなお客さん思いなところが、真幌は好きだった。探偵として、労力を惜しまず、困っている人を助けようとしている。そこはとても尊敬できる。
「ところで、お前はどうしたんだ? 全然帰ってこないから直帰したのかと思ってたんだが。何してたんだ?」
「直帰のときはちゃんと連絡しますよ! わたしは――」
真幌が今日の夕方からの出来事を、嘘を織り交ぜ話そうとしたとき、
「にゃあ!」
抱きかかえられたままで疲れたのか、真幌の腕から猫が暴れて飛び出した。
「おい、なんだそれ、猫か? 事務所に捨て猫を拾ってきたのか!? お前、何考えてんだ」
デスクにそびえる書類ファイルの壁のせいで、明地からは真幌の抱く猫が見えていなかったようだ。明地は驚いた声を上げ、デスクに両手を突いて席を立つ。
「この猫はほら、あれですよ。所長が調査に出ろと言った、見積もり段階の依頼の」
「見積もり段階の依頼? ちょっと待て、確か猫捜しの依頼があった気がするが……。お前、ほんとにその調査に行っていたのか?」
「はい。そう言ってるじゃないですか。え、ほんとにって、冗談だったんですか?」
真幌は得意げになりながら言った。明地は呆気に取られたような顔で、真幌と、近くのデスクに飛び乗る猫を見る。
「いや、嘘だね。何かトリックがあるはずだ。真幌がそんな簡単に、依頼を達成できるはずがない」
「ちょ、どうして疑いだすんですか! しっかり猫ちゃん見つけてつれて帰ってきてるじゃないですか!」
「どっかで写真とそっくりの野良猫を拾ってきただろ」
「そんなことしないですって!」
「じゃあどうやってその猫を捜しだした?」
そう訊かれ、真幌は言葉に詰まる。
今回、この猫を見つけられたのはほとんどラッキーパンチだ。晩ご飯泥棒を追って入った家に手掛かりが転がっており、あとはちょこっと待っただけ。明地の読みは正解なのだ。
しかし、ここまでくるともう引けない。
「ちゃんと猫の飼い主の住所やその周辺の環境、それから猫の習性などを調べ、近所の住民に聞きこみをしながら当たりをつけて張りこんだんですよ。それで、他の家の屋根裏に入りこもうとしているところを見つけました」
まさに探偵の基本と言うべき捜査内容を盛りこんで、真幌は話した。
「お前がぁ? そんな優秀だったっけなぁ。それに、うまくいきすぎな気もするが」
「そんなこと言われても、解決しちゃったので……。あ、注文前に勝手に着手しちゃったので、お値段や請求の方は所長がお客さんと話してくださいね」
そこまで言って、真幌は明地の表情をちらりと窺う。明地はじっと疑り深い目で、真幌を見ていた。
「あ、えっと……」
真幌はそれ以上何も言えず、明地も何も言わず、会話が止まった。お互いの沈黙は、深夜の事務所にひんやりとした静寂をもたらした。
その間、明地の視線を受けて、真幌は冷や汗を浮かべていた。
きっと明地は猫捜しの結果なんてどうでもいい。真幌と話す中でなんらかの違和感を覚え、こうして探ろうとしてきているのだ。何か、隠しているのではないかと。
だけど、真幌はそこで正直に話そうとは思わなかった。
「報告は以上です。わたしの家、猫が飼えないので、とりあえずお客様に引き渡すまで事務所で飼ってほしいと思うんですが」
疑明のことは、明地には関係ない。そして、猫捜しの成功には運が絡めど、しっかりと張りこみをして捕まえた自分の功績もあるはずだと真幌は考える。
明地はまだ真幌の顔を見つめていたが、ふいと目を逸らし、それからゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……そうか、わかった。あー、俺、今日は事務所に泊まりのつもりだから、猫のこと見といてやるよ。あとでコンビニ行く予定だから、餌も飼って与えとく」
「そ、そうですか? お願いできるなら」
「ああ、構わん」
事務所の中をデスク伝いにひょこひょこ歩いていた猫が、明地のデスクに飛び移った。明地は猫の背中を優しく撫でる。
そう言うなら、帰ろうか。少し猫と別れるのが寂しいが、明日、飼い主に引き渡す前にもう一度撫でるくらいできるだろう。
真幌は一旦自分のデスクへ行き、帰り支度を整える。と言っても、電車は動いていないので、こういうときに泊まる近所のネットカフェに行くつもりだが。
真幌がリュックを背負い、ドアの方へ歩きだしたときだった。
「依頼一つ解決、よくやったな」
そんな明地の声が背中にかかった。
「あ、ありがとうございます」
真幌はドキドキしながらそう言って、ドアの方へ向かう。
珍しく、明地に褒められた。腹の奥がふわふわとし、単純に浮かれてしまっているのが自分でもわかった。同時に、胸にちくりとした痛みも感じた。
これは罪悪感だろうか。
しかし、そんな複雑な気分は一瞬。次の明地の一言に真幌は呼吸を止めることになる。
「ところで真幌、捜査に出てる間、一緒にいた男は誰なんだ?」
どうして自分が男性といたことを、明地が知っているのだ。あまりの衝撃に身体が硬直してしまい、真幌はぎぎぎと首だけ明地の方へ向ける。
「なんだ、驚いた顔して。何が意外だった?」
「いえ……。いつ頃、どの辺りでわたしの姿を見られたのかなと」
「あー、そうだな。あれは五時すぎくらいか。茗荷谷の住宅街で、一軒の家を見ながら何やら話し合ってた」
間違いなく、明地が言っているのは真幌と疑明のことのようだった。時間から判断するに、忍びこんでいた家を出て家主が帰ってくるまでの間、張りこみの打ち合わせをしていたときだ。
しかし、なぜその様子を明地に見られていたのか。
「真幌、お前、俺に何か話し忘れてることはないか?」
明地がそう、訊いてくる。同時に、真幌はあることを悟り、ハッとしたように上着やズボンのポケットを探る。
きっと自分は明地に監視されていた。理由はおそらく勤務態度チェックといったところだろう。見積もり段階の依頼の調査を命じられ、どう動くか。それで仕事への姿勢を見ようとしていたのかもしれない。
なんの用もなしにあんな住宅街に明地がいるのはおかしいし、部下の姿を見かけながら声をかけてこないのも不自然である。
もしかすると、疑明の靴に仕掛けたような発信機が、自分にも仕こまれているかもしれない。そう思い、真幌は着ている服を探る。その間、明地が続けて口を動かす。
「話すことはないかって。例えばほらさっきの、お前が依頼を最速解決したトリックとか」
そう言われ、真幌は気づく。明地は最初から探りを入れてきていたのだ。真幌が今日、男性と行動を共にしていたのを知った上で、どうやって依頼を解決したのかと訊いてきていた。白々しい態度でこちらの様子、出方を窺われていた。
実際のところ、どこまで掴まれているのか。家に侵入したところまで、見られていたのだろうか。だとしたら、下手な誤魔化しは逆に命取りである。しかし、どう説明すればいいのか。
何も喋れず固まってしまった真幌を、明地はじっと奥の深い目で見つめていた。こうして黙っている時点で、かなり疑われているだろう。なんだか全てを見透かされているような気分になり、真幌はさらに話すことができなくなる。
しばらくして、明地がふっと息を切った。
「まぁいいや。今日はもう帰んな。また何か言うことがあったら、いつでも話しにこい。とりあえず、依頼の解決はよくやった。ほんとは遊んでたもんだと思ってたんだが、あれがちゃんとした調査だったとは。お疲れさん」
よくやった、と再び労われた。しかし、今度は浮かれることなんてできない。真幌は深く礼だけして、慌てたようにドアの方へ向かう。
元々、依頼の調査なんてしていない。遊ぶ、どころか自分は一般家庭に不法侵入して泥棒の片棒を担ぐような真似をしていた。
事務所を出て、ドアを閉めると真幌はその場で立ち尽くした。頭の中は後悔の感情で埋め尽くされている。珍しく、妙に優しく聞こえた所長の労いの声が、罪悪感を掻き立てる。
その後しばらく、真幌は事務所の前から動くことができなかった。
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