先生と千鶴

三糸タルト

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千鶴と私

出遭い

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千鶴と初めて出会ったのは一昨年の冬だ。

その日、私は朝からすこぶる体調が悪かった。
酷い倦怠感に、頭痛、目眩、高熱、完全に風邪を引いている。
しかし、私の手元には今日取引先に持っていかねばならない資料がある。
当たり前だが官能小説の執筆は趣味に過ぎず、私は普通の会社員として働いているのだ。

せめて資料だけでも届けなければ。
私は社会人としての責務を全うするため、解熱剤を流し込み、マスクを二重にかけてタクシーに乗り込む。
車に揺られているだけでもどんどん気分が悪くなってくる。
頭はグラグラと煮えるように熱いのに背筋には悪寒が走り、なにより関節という関節が重く痛い。
タクシーが角を曲がるだけでミシミシ響く。

会社の前で降りて、ふらふらと上下の感覚も狂いそうな状態で自分の部署へ向かった。

「福田…」

掠れた声を絞り出す。

「うっわ、どうしたんすか?」

今日一緒に商談に行く予定だった後輩が目を丸くして近づいてきた。

「すまない、体調を崩してしまったんだ。
資料を持ち帰っていたから届けには来たが、今日は出勤できそうにない」

「それはいいけど、随分キツそうっすね。
ちゃんと病院行ってくださいよ?」

USBメモリを受け取りながら福田は私のことを心配そうに覗く。
なんとも、雑種の犬のような顔だ。

「そうするよ」

そう淡白に応えて職場を後にする。
その後の記憶はもはや朦朧としていて曖昧だ。
再びタクシーを捕まえ、病院に行き、薬と安静にするようにという指示をもらったのだが、飛び込みの診察になる故にえらく長い時間待たされた。
帰路につく頃にはお昼を過ぎていたはずだ。

家の近くのコンビニに寄ってから帰ろうとタクシーを少し手前で降りたのだが、もう私は立って歩くことも辛く、ひとまず公共のベンチに腰かけた。
残念ながら我が家には今なにもない。
せめてスポーツドリンク類だけでも買って帰らなければ…。

こう言う時、独り身の辛さを実感する。

少し休んでから行こうと軽く目を閉じたとき、

「大丈夫ですか?」

と声をかけられた。若い女の声だ。
霞む目を開くと、茶色いローファーが目に入る。
黒い靴下、紺の、太いプリーツの入ったスカート。

女子高生か…?

見上げるとそこにはマフラーを巻いた真面目そうな高校生の女の子が立っていた。
今思うと妙な時間にうろうろしているのだが、その時は考える余裕はなかった。

「救急車とか呼びますか?」

「いや、病院には行きました。大丈夫です。
少し体調が悪くて…」

「なにかお手伝いできることはありますか?」

随分ぐいぐいくる子だな…と思ったことを妙に覚えている。

「…じゃあ悪いんだけど、そこのコンビニでスポーツドリンク買ってきてもらえませんか?」

風邪で判断力が鈍っていたのか、はたまた真面目そうな見た目だったからか、座り込む人に声をかけるほど優しい子だと思って信用したのか、私は不用心にも財布を丸ごと彼女に渡してそう頼んだ。

「わかりました。待っててください」

女子高生の子は嫌な顔ひとつせずに小走りに行った。
そしてきちんとすぐに戻ってきて、ペットボトルのフタを開けて渡してくれた。
冷たく甘い液体は気持ち良く、少しすっきりした。

「すみません、ありがとうございました」

「おうちは近いんですか?お荷物お運びしますよ」

そう言ってペットボトルが2本ほど入っているだろうレジ袋をかかげた。

「そこまでしてもらうわけには…感染うつしても悪いですし…」

そう言って立ち上がろうとしたが、少し座っただけの身体は全く回復なんてしておらずフラりとよろけた。
そこを彼女が咄嗟に支えてくれた。

「随分具合が悪いんですね。私なら大丈夫です。行きましょう」

もう考えることも面倒くさく、好意に甘えることにした。半ば支えられるようにしながらアパートに向かう。

鍵を開け、玄関先でお礼を行って別れようとしたがなんと女の子は上がり込んできた。
上着を脱ぐように促され、薬を飲むように指示される。

私ももうフラフラでなされるがままベッドに倒れこみ、気絶するように眠ってしまった。
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