3 / 5
3
しおりを挟む
ミュゼーの職場でアイラは雑用でも任されるかと思えば違った。
「アイラ、貴方のとりあえずの仕事は私について回ることよ。カバン持ちをしてもらうわ」
「カバン持ち?」
それはどういう仕事なのだろう? と外でする仕事は食堂での皿洗いなど肉体労働しかしたことのないアイラにはわからなかった。
「私の仕事を全部見ていてちょうだい。見るだけでメモを取ったりは絶対にしないで。見る、それだけでいいの」
そう言い切ったミュゼーに、たったそれだけなの? と思ったアイラだったが、周囲の羨望の目にさらされて戸惑った。それは楽な仕事に対する羨みかと思えば、全然違うものだった。
「羨ましいです……」
アイラより年上の男性でも露骨に妬ましさを露わにした言葉を漏らした。
「そうなのですか?」
「はい。貴方はこれから商会トップの経営手腕を全部見て、覚えて、手に入れることができるんですよ。一代で叩きあげたノウハウを。それは私たちのように将来的に自分の起業を考えている人間には喉から手が出るほど欲しい経験です」
「……」
周囲の話を聞くと、ミュゼーがアイラに命じたことは企業の跡継ぎなどに施す実地教育のようだ。
一年しか契約してないアイラに、どうして自分の全てを見せるようなことをするのか。
アイラは困惑しながらも懸命にミュゼーに言われたことを守り、彼女と相手の話を聞いているだけだ。
経済や経営のことなどまるでわからないアイラの中でその知識は素通りするだけである。こうすることに価値があるかどうかすらもわからない。
ミュゼーは何もアイラに言わない。ただ自分のやることなすこと全てを見ていろと言うだけで、何かを教えるわけでも吸収しろと言うでもなかった。
仕事の一環として新しい人にもどんどんと出会う。
確かにミュゼーは同じところに何度も足しげく通いもするが、知らない人ともどんどんと出会い、新しい仕事につなげていっているのだ。
それは同時に、アイラが新しい人と出会うことにもなる。
「紹介するわ。オーベル商会の新しいオーナーで、今後毛皮の取引きを行うオーベルさんよ。こちらはうちの商会の者でアイラ・バーンズ子爵夫人」
「初めまして」
一日のうちに、何度初めましての挨拶をするだろう。
今まで会った事のないような人達に強制的に会わされることは、最初は混乱でしかなかった。
ミュゼーが打ちあわせをしている間、アイラは相手たちを観察する。それしかすることがないからだ。
しかしそれは貴族令嬢であったアイラが社交界でも見ることのできない、男の働く姿だった。
夫の姿とも違う自分の知らない異性の姿は、アイラの目には新鮮にうつってもいた。
それだけでも刺激の多い毎日だったが、そんな日常の合間をぬって、ミュゼーはアイラを自分がひいきしているサロンに連れていった。
そこは紹介を受けた人しか入ることが許されない、美を求める女性たちのプライベートな場所であった。
「この子の髪と肌と爪の手入れをお願いね」
そう言って、週に1度はアイラを美しく磨き上げる。
「食べ物は私と同じものを用意するわ」
普段食べるものは一緒に食事をするので当然商会会長であるミュゼーと同じになるが、家で食べるものも持ち帰らせられていた。
仕事の時間は決まっていたが、ミュゼーは人をやり、バーンズ子爵家の家の雑用は全て使用人が済ませられるようにさせてしまった。
ミュゼーはアイラを自分の商会が経営するブティックに連れていき、そこで一通り服を買い与えれば、初めて出会った時のようなみすぼらしい姿は消え失せていた。
そんな日が続いたある日のことだった。
家に帰ってきた夫は、唐突にアイラに対して激昂し、問い詰めだした。
「お前、浮気しているんだろう!」
「は?」
何を言っているのだろう、それは貴方だろう、と思ってアイラは夫を見る。
「最近やたらと身ぎれいにしている。男ができたんだろう!?」
「それは社長のご厚意で……」
「そうか、社長の愛人になったんだな」
夫は勝手に一人合点し、何事かをぶつぶつ言ったかと思うと、またもや出て行ってしまった。
まるで嵐が去っていったようだった。
アイラはため息をつくと一人きりになって、自分以外の誰もいない部屋を見渡した。
それは不思議と、以前に比べて居心地が悪いような気がせず、むしろ気楽に思える自分がいた。
「アイラ、貴方のとりあえずの仕事は私について回ることよ。カバン持ちをしてもらうわ」
「カバン持ち?」
それはどういう仕事なのだろう? と外でする仕事は食堂での皿洗いなど肉体労働しかしたことのないアイラにはわからなかった。
「私の仕事を全部見ていてちょうだい。見るだけでメモを取ったりは絶対にしないで。見る、それだけでいいの」
そう言い切ったミュゼーに、たったそれだけなの? と思ったアイラだったが、周囲の羨望の目にさらされて戸惑った。それは楽な仕事に対する羨みかと思えば、全然違うものだった。
「羨ましいです……」
アイラより年上の男性でも露骨に妬ましさを露わにした言葉を漏らした。
「そうなのですか?」
「はい。貴方はこれから商会トップの経営手腕を全部見て、覚えて、手に入れることができるんですよ。一代で叩きあげたノウハウを。それは私たちのように将来的に自分の起業を考えている人間には喉から手が出るほど欲しい経験です」
「……」
周囲の話を聞くと、ミュゼーがアイラに命じたことは企業の跡継ぎなどに施す実地教育のようだ。
一年しか契約してないアイラに、どうして自分の全てを見せるようなことをするのか。
アイラは困惑しながらも懸命にミュゼーに言われたことを守り、彼女と相手の話を聞いているだけだ。
経済や経営のことなどまるでわからないアイラの中でその知識は素通りするだけである。こうすることに価値があるかどうかすらもわからない。
ミュゼーは何もアイラに言わない。ただ自分のやることなすこと全てを見ていろと言うだけで、何かを教えるわけでも吸収しろと言うでもなかった。
仕事の一環として新しい人にもどんどんと出会う。
確かにミュゼーは同じところに何度も足しげく通いもするが、知らない人ともどんどんと出会い、新しい仕事につなげていっているのだ。
それは同時に、アイラが新しい人と出会うことにもなる。
「紹介するわ。オーベル商会の新しいオーナーで、今後毛皮の取引きを行うオーベルさんよ。こちらはうちの商会の者でアイラ・バーンズ子爵夫人」
「初めまして」
一日のうちに、何度初めましての挨拶をするだろう。
今まで会った事のないような人達に強制的に会わされることは、最初は混乱でしかなかった。
ミュゼーが打ちあわせをしている間、アイラは相手たちを観察する。それしかすることがないからだ。
しかしそれは貴族令嬢であったアイラが社交界でも見ることのできない、男の働く姿だった。
夫の姿とも違う自分の知らない異性の姿は、アイラの目には新鮮にうつってもいた。
それだけでも刺激の多い毎日だったが、そんな日常の合間をぬって、ミュゼーはアイラを自分がひいきしているサロンに連れていった。
そこは紹介を受けた人しか入ることが許されない、美を求める女性たちのプライベートな場所であった。
「この子の髪と肌と爪の手入れをお願いね」
そう言って、週に1度はアイラを美しく磨き上げる。
「食べ物は私と同じものを用意するわ」
普段食べるものは一緒に食事をするので当然商会会長であるミュゼーと同じになるが、家で食べるものも持ち帰らせられていた。
仕事の時間は決まっていたが、ミュゼーは人をやり、バーンズ子爵家の家の雑用は全て使用人が済ませられるようにさせてしまった。
ミュゼーはアイラを自分の商会が経営するブティックに連れていき、そこで一通り服を買い与えれば、初めて出会った時のようなみすぼらしい姿は消え失せていた。
そんな日が続いたある日のことだった。
家に帰ってきた夫は、唐突にアイラに対して激昂し、問い詰めだした。
「お前、浮気しているんだろう!」
「は?」
何を言っているのだろう、それは貴方だろう、と思ってアイラは夫を見る。
「最近やたらと身ぎれいにしている。男ができたんだろう!?」
「それは社長のご厚意で……」
「そうか、社長の愛人になったんだな」
夫は勝手に一人合点し、何事かをぶつぶつ言ったかと思うと、またもや出て行ってしまった。
まるで嵐が去っていったようだった。
アイラはため息をつくと一人きりになって、自分以外の誰もいない部屋を見渡した。
それは不思議と、以前に比べて居心地が悪いような気がせず、むしろ気楽に思える自分がいた。
40
あなたにおすすめの小説
『婚約破棄はご自由に。──では、あなた方の“嘘”をすべて暴くまで、私は学園で優雅に過ごさせていただきます』
佐伯かなた
恋愛
卒業後の社交界の場で、フォーリア・レーズワースは一方的に婚約破棄を宣告された。
理由は伯爵令嬢リリシアを“旧西校舎の階段から突き落とした”という虚偽の罪。
すでに場は整えられ、誰もが彼女を断罪するために招かれ、驚いた姿を演じていた──最初から結果だけが決まっている出来レース。
家名にも傷がつき、貴族社会からは牽制を受けるが、フォーリアは怯むことなく、王国の中央都市に存在する全寮制のコンバシオ学園へ。
しかし、そこでは婚約破棄の噂すら曖昧にぼかされ、国外から来た生徒は興味を向けるだけで侮蔑の視線はない。
──情報が統制されている? 彼らは、何を隠したいの?
静かに観察する中で、フォーリアは気づく。
“婚約破棄を急いで既成事実にしたかった誰か”が必ずいると。
歪んだ陰謀の糸は、学園の中にも外にも伸びていた。
そしてフォーリアは決意する。
あなた方が“嘘”を事実にしたいのなら──私は“真実”で全てを焼き払う、と。
婚約破棄までにしたい10のこと
みねバイヤーン
恋愛
デイジーは聞いてしまった。婚約者のルークがピンク髪の女の子に言い聞かせている。
「フィービー、もう少しだけ待ってくれ。次の夜会でデイジーに婚約破棄を伝えるから。そうすれば、次はフィービーが正式な婚約者だ。私の真実の愛は君だけだ」
「ルーク、分かった。アタシ、ルークを信じて待ってる」
屋敷に戻ったデイジーは紙に綴った。
『婚約破棄までにしたい10のこと』
「婚約破棄だ」と叫ぶ殿下、国の実務は私ですが大丈夫ですか?〜私は冷徹宰相補佐と幸せになります〜
万里戸千波
恋愛
公爵令嬢リリエンは卒業パーティーの最中、突然婚約者のジェラルド王子から婚約破棄を申し渡された
あなたへの愛は枯れ果てました
しまうま弁当
恋愛
ルイホルム公爵家に嫁いだレイラは当初は幸せな結婚生活を夢見ていた。
だがレイラを待っていたのは理不尽な毎日だった。
結婚相手のルイホルム公爵であるユーゲルスは善良な人間などとはほど遠い性格で、事あるごとにレイラに魔道具で電撃を浴びせるようなひどい男であった。
次の日お茶会に参加したレイラは友人達からすぐにユーゲルスから逃げるように説得されたのだった。
ユーゲルスへの愛が枯れ果てている事に気がついたレイラはユーゲルスより逃げる事を決意した。
そしてレイラは置手紙を残しルイホルム公爵家から逃げたのだった。
次の日ルイホルム公爵邸ではレイラが屋敷から出ていった事で騒ぎとなっていた。
だが当のユーゲルスはレイラが自分の元から逃げ出した事を受け入れられるような素直な人間ではなかった。
彼はレイラが逃げ出した事を直視せずに、レイラが誘拐されたと騒ぎ出すのだった。
他の女にうつつを抜かす夫は捨てます
りんごあめ
恋愛
幼いころから婚約者同士だったメアリーとダン
幼少期を共にし、ついに結婚した
二人の間に愛が芽生えることはなかったが、せめて気の置ける夫婦になれたらと思っていた
最初は上手くやっていた二人だったが、二人の間を引き裂くようにあらわれた女によってメアリーとダンの関係は壊れていく
すっかり冷たくなったダンに、私に情なんてないのね
メアリーの心はどんどん冷えていく
婚約破棄騒動が割と血まみれの断罪劇に変わった。
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢に仕立て上げられた姉。そんな姉が心を病み、そっと復讐の機会を待っていた妹。
ざまぁというにはちょっと血みどろ。
奇跡というのは起きるもの。
小説家になろう様でも投稿しています。
それなら、あなたは要りません!
じじ
恋愛
カレン=クーガーは元伯爵家令嬢。2年前に二つ上のホワン子爵家の長男ダレスに嫁いでいる。ホワン子爵家は財政難で、クーガー伯爵家に金銭的な援助を頼っている。それにも関わらず、夫のホワンはカレンを裏切り、義母のダイナはカレンに辛く当たる日々。
ある日、娘のヨーシャのことを夫に罵倒されカレンはついに反撃する。
1話完結で基本的に毎話、主人公が変わるオムニバス形式です。
夫や恋人への、ざまぁが多いですが、それ以外の場合もあります。
不定期更新です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる