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1巻
1-2
* * *
この日は先日キャンセルされたデートの仕切り直しの日だ。
ユウナは待ち合わせ場所で今度は来るかと疑心暗鬼になりながら待っていると、後ろから声をかけられる。
「ユウナ、お待たせ」
六度目にしてようやくちゃんと来たかと安堵したユウナは、振り返って唖然とした。
にこやかに微笑むジュードの隣には、なんとアリアの姿が。
「ど、どうしてアリアさんがここに?」
頬が引き攣るユウナに、ジュードは悪びれることなく答えた。
「今日はアリアの体調がいいみたいで一緒に行きたいって言うもんだからさ。ほら、どうせなら人数が多い方が楽しいだろう?」
ユウナは頭が痛くなってきた。ジュードはここまで馬鹿だったろうか?
いや、もうなにも言うまい。言ったところで、ジュードが逆ギレしていつものパターンになるのがオチだ。
実際にそれで過去の恋人と喧嘩しているところをユウナは学校で見ていたはずである。
まさかデートに幼馴染みを連れてくるなど非常識なことを本当にするなんて、冗談だと思っていたのだが……
しかし、連れてくる方も問題だが、行きたいとついてくる方も問題である。
アリアの交友関係は非常に狭く、箱入りで育ったようなのだが、さすがに婚約者とのデートに行きたいと言うのが常識外れだということが分からないのか。
「そ、そうなの……」
そんな言葉しか出てこないユウナをよそに、ジュードとアリアは楽しそうにしている。
「ジュードとお出かけするなんて久しぶりね」
「今日はアリアの行きたい所を回ろう。どこがいい?」
「嬉しい。どこにしようかしら」
手を繋いで楽しそうに会話する二人。
これではどちらが婚約者か分かったものではない。
本当ならばシャロン商会が経営している最近できたカフェでランチの予定だが、そんなことすら忘れているのか、ユウナを無視して行き先を決めていく二人。
一応とばかりにユウナに「そこでいいだろ?」と聞いてくるが、決定事項と言わんばかりで、ユウナに拒否権などなかった。
すでにユウナは帰りたくなっていたが、そこに留まった。
そろそろ考えなければならないところまで来ていると考えていたからだ。
そのためにも、二人を側で少し観察するのは悪くないと思えた。
決定的な判断材料をくれる気がする。
まあ、すでに愛想を尽かすには十分すぎるものがそろっているようには思う。
それでもユウナは口を挟むことなく二人について歩いた。
アリアの体が弱いとジュードは言っていたが、様子を見ている限りそうは思えなかった。
普通の年頃の少女のようにはしゃぎ、笑い、楽しそうに町中を歩き回っている。
以前にユウナが疑念を抱いたように、仮病という言葉が頭をよぎった。
だとしたらアリアという女性はかなりしたたかな人間かもしれない。
なにせ、五度もデートを狙って体調を崩し、今度は無邪気を装ってデートにくっついてくるのだから、気が弱いはずがない。
父親のせいで婚約せざるを得なかったものの、結婚までする気はとっくに失せていた。
最初こそ好青年と思っていたのに、今のような扱いをされてどうしてこの先も一緒にいたいと思うだろうか。
無自覚だったとしても、あまりにユウナをないがしろにしすぎである。
ジュードはどういうつもりなのか。
破断にしたいのかと、疑念が湧く。
アリアにしてもそうだ。歴代のジュードの恋人に対しても同じように、『お邪魔虫』と言えるような行動を取っていたようだし、これで裏がないとは考えられなかった。
これではアリアを止めようともしないジュードも、婚約継続を望んでいないと判断されてもおかしくない。
ユウナとの結婚が嫌ならとっととジュードの方から言ってくれればいいものを、わざわざユウナを仲間外れにするようにして見せつけるのだからたちが悪い。
これだけ側にいながらユウナを無視してどういう気持ちでいるのか。
歴代のジュードの恋人の苦労が目に見えるようだ。
もうこれは決定打を与えられたようなものである。
まあ、オペラを三時間待たされた時点で十分な理由になっていたが、それでも今まで婚約を解消しなかったのはユウナにも打算があったからだ。
少し欲をかいてしまった。
それがそもそもの失敗だったのだ。
「はぁ、やっぱりことはそううまくいかないわね」
ユウナはため息を吐いてそう呟いた。
その言葉は、目の前で楽しそうにしているジュードとアリアには聞こえていない。
「ここらが潮時かな……」
ジュードが問題ありなのは最初から知っていたことだ。
それでも、婚約者となればこれまでの恋人とは重さが違う。
さすがに幼馴染みよりは優先させるだろうと思ったのだが、見通しが甘かった。
これはユウナが楽観しすぎた故の誤算だ。
しかも、まさかジュードの両親もアリア側に立っているとは思わなかったのだ。
このまま結婚までしようものなら、その後の結婚生活を想像しただけで頭が痛くなる。
さて、どうしたものか……
ユウナがそんなことを考えているなど知らず、二人は疲れたからとお洒落なカフェに入っていく。
振り返りもしない二人を見て、一瞬このまま帰ろうかと思ったが、ユウナも歩き回って疲れていたので、後についていく。
椅子に座ってほっとする。
健康体のユウナですら疲れているのに、アリアは相変わらずテンションが高めだ。
まあ、ユウナの場合は精神的な疲労も加算されているのだが。
「どれにしよう。迷っちゃう」
「頼みたいものを頼んだらいいよ。余ったら僕が食べるから」
「ジュードったら相変わらず優しいわね」
楽しそうな二人をユウナは冷めた眼差しで見つめる。
歴代の恋人達が怒るわけである。
ここまで完全に存在を無視してイチャつかれたら彼女としての立場がない。
いっそこの二人が付き合えばいいんじゃないかと思うのに、ジュードが彼女をとっかえひっかえしている理由がいまいち分からない。
この二人がくっつけばそれで周りの被害もなくなるだろうに。
この二人が先に付き合っていたら、ジュードの父親がユウナと婚約させようなどとは思わなかったかもしれない。
アリアは男爵の一人娘で、男爵を継がねばならないはずだ。
貴族と縁故関係になりたいならアリアはもってこい。
これだけ仲がいいなら結婚までとんとん拍子に進むだろうに。
いや、きっと男爵では満足できなかったのかもしれない。
ユウナは伯爵の孫娘であると同時に、国内で最も大きい商会の娘だ。
貴族と商会と二つの縁を繋ぐことができる。
そう考えると、少し困ったことになる。
貴族にならないからという理由だけでは婚約を解消できないかもしれない。
ジュードと結婚することによって貴族にならなくとも、商会の娘という価値は残る。伯爵との縁も完全になくなるわけではない。
果たして素直に婚約を解消してくれるだろうか。
ユウナは頭を悩ませた。
一人無口にお茶を飲んでいると、ジュードとアリアが視線を合わせヒソヒソとしている。
町を歩いていた時からユウナに聞こえないように声を潜めて話していたようだが、ユウナは気にしなかった。
特に興味なく無視してケーキを一口、口に入れると、ジュードが申し訳なさそうにユウナに声をかけてきた。
「あのさ、ユウナ」
本人は気づいているか分からないが、ジュードがユウナに話しかけたのは、このカフェに入って初めてだ。
愛想も尽き果てたユウナが無表情で目を向ける。
「ユウナに大事な話があるんだ」
「待って、ジュード。そのことは私の口から話したいわ」
そう言ってさりげなくジュードの腕に触れているその様子は、二人の親密さを感じさせられる。
婚約者であるユウナよりもよほど。
「じゃあ、僕は少し席を外しているよ」
「ええ」
何故かジュードが席を立ちどこかへ行ってしまう。
それにより、ユウナは嫌々ながらアリアと二人きりになった。
「話というのは?」
前置きを聞くつもりのないユウナはさっさと本題を話せとばかりに催促する。
アリアはもじもじと言いづらそうにしているが、ユウナから見たらあざとさが際立つだけで無性に腹立たしく感じる。
「あ、あのね、ユウナさんには申し訳ないって思ってるの。けど、どうにもならなくて、それで……その……」
「はっきりと言ってくれますか?」
若干イラつきながらも冷静な声色で促す。口調がどうしてもきつく感じるようになってしまうのは仕方ない。
「私、ジュードが好きなの」
いや、今さら? という気持ちだった。
アリアがジュードと話している姿を近くで見ていたら、アリアがジュードに好意を持っているのは恋愛経験の乏しいユウナにも分かる。
ジュードがそれに気づいているのかまでは分からないが。
「分かっているのよ。ジュードにはユウナさんという婚約者がいるのは。けれど、この気持ちを止めることなんてできなくて。本当に悪いと思ってるのよ?」
必死に言い訳をするアリアを、ユウナはしらけた目で見る。
「私は二番目でいいの。正妻はユウナさんに譲るわ。だから伯爵になるジュードを二人で支えていきましょう!」
「は!?」
唖然とする。
今、アリアはなんと言ったのか。
理解するのに少し時間を要した。
二番目でいいという発言や譲るという上から目線。いろいろとツッコミどころ満載だが、それ以上に気になる言葉が含まれている。
「ジュードが伯爵?」
「ええ。ユウナさんの婿に入れば伯爵を継ぐのはジュードでしょう?」
「……それ誰が言ったんですか?」
無表情で問うユウナに、アリアはきょとんとする。
「えっ? ジュードよ。ユウナさんと結婚すれば自分は伯爵だから、貴族なら妻が二人いてもおかしくないって」
ユウナは頭が痛くなってきた。
確かに貴族の中には第二夫人どころか第三夫人を持つ者もいるが、それはあくまで正妻に子ができなかった場合に限る。
そもそもだ、ユウナが伯爵になることはあっても、ただの平民であるジュードがどうして伯爵家を継げるのだ。
血筋は当然のことながら、そもそも貴族としての教育を受けていないだろうに。
いろいろと間違えている。
ジュードの父親も勘違いしていたようだったが、ジュードはさらに上を行く。
とりあえず、勘違いを正すべく口を開いた。
「ならないわよ」
思いのほか冷淡な声が出たが、これぐらいでなくてはアリアはきっと理解しなそうだ。
「えっ?」
「私がジュードと結婚した場合は、伯爵は弟が継ぐことになるから、ジュードが伯爵になることは永遠にないわよ」
「えっ……うそ! そんな……」
アリアは本気で驚いていた。
アリアとて男爵令嬢なのだから、跡取りに関する諸事情を分かっていそうなのに、その様子を見るとちゃんと勉強してきたのか疑問である。
功績を挙げて自力で爵位を得たならともかく、貴族の血を引いていない平民が伯爵になれるはずがない。
「どうやら、あなたもジュードも勘違いしているようね。私と結婚する限りジュードが貴族の仲間入りをすることはないし、私は夫を誰かと共有する気もさらさらないわ。むしろあなたと結婚した方が貴族になれるんじゃないかしら? アリアさんは男爵の一人娘なわけだし」
「待って、待って。話が違うわ」
アリアは焦燥感を露わにするが、ユウナには知ったこっちゃない。
たとえそれが可能だったとして、どうしてユウナが受け入れると思っているのだろうか。
馬鹿にするにもほどがある。
ユウナを無視してデートをするのとはわけが違う。
この際、爵位どうこうを置いておくとしても、今日のジュードとアリアのユウナへの態度は最悪だ。
仮にジュードが平民ではなく貴族だったとしても、そんな二人との結婚生活など想像するだけで、ユウナが尊重されるはずがないのは目に見えている。
待っているのは不幸だと分かって、誰が結婚するだろうか。
この話を聞かされてユウナが頷くと本当に思っているのだとしたら、完全に舐められている。
逆ならどうなのかと問いたいが、答えは聞くまでもなく分かっている。
自分がそうなったら悲劇のヒロインのごとく嘆くのだろう。
そんな茶番に付き合わされるのはごめんだ。
怒りすら通り越して、逆に冷静になるユウナは、もう、これ以上関わり合いたくはないと、密かに最終的な判断を決めた。
よし、捨てよう、と。
「そんなこと私は知らないわよ。文句があるならジュードと話し合ってちょうだい。私は帰るわ」
テーブルの上に自分の分の料金を叩きつけて、ユウナは席を立った。
残されたアリアは唖然としていたが、ユウナには関係ない。
今後彼女達がどうなっても気にならないほど感情が冷めている。
ユウナはとっととその店を後にした。
第二章 兄の帰還
激しい疲労感を全身に覚えながら帰宅したユウナは、使用人に父の在宅を確認してから、そのまま父の部屋を目指した。
どうにかジュードとの婚約を解消できないかと相談するためだ。
一応あちらとの約束である婚約は果たしたので、うまいこと解消させられないものか。
できれば揉めることなく解決させたいが、それが難しいことは分かっている。
なにせ向こう側がユウナのバックにある伯爵家に異様に執着しているからだ。
「あの駄目親父でなんとかできるかなぁ」
酒に酔って婚約を決めてきたようなアホである。
けれど、あんなのでも一応国内最大の商会のトップなのだから、多少の策はあるかもしれないと淡い期待を持つ。
「父様、ユウナです。ちょっといいですか?」
コンコンとノックをして声をかけたが、いっこうに返事がない。
不思議に思い、もう一度扉をノックする。
「父様?」
「……ぐっ……がが……ぐっ」
なにやら中からうめき声のようなものがする。
父の身になにかあったのではないかと、ユウナは慌てて扉を開けて中に入った。
「父様!?」
そこで見たのは、コブラツイストをかけられている父の姿であった。
だが、ユウナの頬を引き攣らせたのはそれが理由ではない。
「に、兄様……」
父にコブラツイストをしていたのは、隣国に留学しているはずのユウナの兄であるノアだった。
「やあ、ユウナ。久しぶり」
なんとも爽やかな笑顔を向けてくるが、その腕は父親に技をかけている。
そのギャップがなんとも空恐ろしい。
「どうして兄様が……?」
「帰ってきたんだよ、ついさっきね」
「そんなこと誰も言ってなかったのに」
先程父親の所在を聞いた時には、ノアが帰ってきていることなど誰もユウナに教えなかった。
「それは内緒にしててもらったからだよ。ユウナを驚かせようと思ってね。驚いたかい?」
「そりゃあ、もちろん」
扉を開けたら父親をコブラツイストしているのだから驚かぬはずがない。
気になるのは、もがいている父親だ。
「えーと、兄様。それぐらいにしとかないと父様が再起不能になるかも」
「はははっ、大丈夫だよ。死にはしないから」
「なにゆえ父様にそんなことしてるの?」
遊んでいるなどとは父親の顔を見ていて思えない。
苦悶の表情を浮かべており、楽しそうな顔をしているのはノアだけだ。
「なんだか俺がいない間に、このくそ親父がふざけたことをしちゃったみたいだからさ、ちょっとお仕置きしていたんだよ」
「ぐっ……たすけ……」
父親は必死にユウナに助けを求めている。
「兄様。せっかくだからお茶にしましょう」
「それはいいね。久しぶりにかわいい妹の淹れるお茶が飲みたいな」
「がふっ」
ようやくノアが父親から手を離すと、父親は体を床にしたたかに打ちつけた。
「このアホがやらかした婚約についても、ゆっくりと話をしたいしね」
目の笑っていない笑顔を向けられて、ユウナは逃げ出したくなった。
ユウナがお茶を淹れて部屋に戻ると、今度は父親はノアに人間椅子をさせられていた。
ここはツッコミを入れるべきか。
いや、藪から蛇が出てはかなわない。
ユウナは無視をすることにした。
「兄様、どうぞ」
「嬉しいなぁ。隣国にいる間、ユウナの淹れるお茶が恋しくて仕方なかったよ」
この兄はべらぼうに優秀で、誰よりも母親に似ていて男女問わず魅了するほど、すこぶる顔がいい。さらに物腰は柔らかで、その微笑みは天使の微笑み。
だが、ユウナ達家族は知っている。
家族の中で母親以上に怒らせたらヤバいのは彼であると。
そんなノアは妹であるユウナを溺愛している。
それはもうシスコンをこじらせているのだ。
そんな彼にユウナが婚約したなんて言ったらどうなるかは目に見えている。
相手の生命のために、しばらく黙っていることになったのだが、いったい誰が知らせたのだろうか。
父親のはずがない。
酔っぱらった勢いで婚約の約束しちゃった、などと言おうものなら、先に父の命が危ないのは明白。
ならば、誰なのか。
「兄様は隣国で忙しいのではなかったですか?」
「ああ、もちろん忙しかったよ。だけど、お祖母様から手紙をいただいてね。どこぞのアホがアホなことをやらかしたって」
いまだ人間椅子の父親を見下ろす目は、とても実の父を見るものではなかった。
「よりによってユウナの婚約の約束だと? いつから貴様にそんな権限が与えられたんだ、ああん? 何様だと思ってるんだ?」
いや、一応父親なのでその権限はあるのだが、今それを口に出すほどユウナは馬鹿ではない。
父親はただただ、シクシク泣きながら無言を貫いている。
兄の前では父親の威厳は皆無だ。
「しかも酒に酔った上での約束だったと? ふざけてるのか? そんなことあるはずないだろ」
「で、でも兄様。さすがに酔ってたら仕方ないかもだし。もしかしたら、婚約目的でジュードの父親に無理やり飲まされて、判断能力鈍らされたのかも」
無神経な発言が多々見られるジュードの父親ならやりかねないとユウナは思っている。
だが、ますますノアの目は冷めていく。
「ユウナ、騙されてる。このくそ親父はザルだ。酔って向こうに有利な約束なんぞするはずがない。こいつは故意にこの婚約をまとめて来やがったんだよ」
「え!? でも、たまに家でお酒に酔って、母様に介抱されてるし」
「ただ、母様に甘えてるだけだよ。くそ親父の分際で厚かましい。そのまま酒に溺れろ」
「父様、それ本当なの!?」
父親はばつが悪そうに視線をそらした。
それがノアの言葉が真実であると語っている。
「父様!」
ユウナは父親の上に乗っているノアをどかし、父親の胸倉を掴み上げた。
「どういうことなの、父様!?」
「いやぁ、それはまあ、その……」
「はっきりしなさい!」
口ごもる父親の背後からノアが耳元で呟いた。
「もぐぞ」
「ひぃ!」
なにをとは聞かない。
父親がずいぶん怯えているので効果はてきめんだった。
「どうして婚約の約束なんてしてきたの?」
「いやあ、実は……」
父親は背後にいるノアに怯えながら真実を吐いた。
「事業をホテル業界にも拡大したくてさ。とってもいい場所を見つけたんだ。王都の一等地。人通りも多い賑やかなところでぇ。でもそこはクエンティン商会の土地らしくてさ。頼んだけど売ってくれなかったから、ユウナの婚約をちらつかせて、もしあっちの有責で婚約破棄になったらそこを慰謝料にもらうって言いくるめたんだよぉ」
「「……」」
「なんか向こうはユウナと婚約したら伯爵と縁づけるって勘違いしてるっぽかったから、とんとん拍子に話がまとまってさ。後はあっちの有責で婚約破棄になれば、か・ん・ぺ・き」
えへっと笑う父親に殺意が湧いた。
クズがここにいる。
てっきり父親が騙された方かと思えば、こっちが騙していた方だった。
「証文はどこにある? 当然契約を交わしているだろう?」
ノアが後ろから、父親の両こめかみを拳でグリグリしながら問う。
「ぎゃあぁぁ! 机の引き出しの中ですぅぅ!」
父親をポイッと投げ捨てて、父親の机の中を漁る。すると、それらしき契約書が出てきた。
ざっと目を通したノアが、父親をゴミでも見るかのような目で見る。
「兄様、どう?」
「確かに、あちら有責での婚約破棄の場合は、王都の土地を譲ると書かれている。あちらのサインも一緒に」
「くっ……。父様! 私を利用したわね! このクズ親父!」
「だって、欲しかったんだもん」
「私がジュードとそのまま結婚したらどうするのよ!?」
「ないない。だってジュード君は幼馴染みの子にお熱だし。実際にそういう関係じゃなかったとしても、あれだけべったりで噂もあるから、十分向こう有責で婚約破棄できるよ」
勝ち目のない戦はしない主義だ、としたり顔で言う父親に、ノアはドロップキックをお見舞いする。
「ぎゃうん!」
「いっそ、土に還すか。馬鹿は死ななきゃ治らないって言うし」
「兄様、さすがにそれはマズいです!」
ノアが父親を見る目は確実に殺る者の目つきだ。
気持ちは分かるが、さすがに止めなければ。
「と、とりあえず、婚約を破棄するのが先かと」
「それもそうだね。ユウナの方が大事だ。……それが終わったら覚えておけよ、クソが」
「ひどい、父親に対してこの対応……」
シクシク泣く父親をその場に放置して、ユウナとノアは部屋から出た。
これから対策会議だ。
場所をノアの部屋に移して話し合いを始める。
ノアの手には先程の契約書が。
「……一応ちゃんとした契約内容にはなっている。あちらが有責の場合だけでなく、こちらが有責の場合の慰謝料についても書かれているようだね。渡す金額にかなりの差があるが、クエンティン商会がこれに納得してサインしたなら向こうの責任だ。なにも問題はない。……問題があるとしたら、ユウナだ」
この日は先日キャンセルされたデートの仕切り直しの日だ。
ユウナは待ち合わせ場所で今度は来るかと疑心暗鬼になりながら待っていると、後ろから声をかけられる。
「ユウナ、お待たせ」
六度目にしてようやくちゃんと来たかと安堵したユウナは、振り返って唖然とした。
にこやかに微笑むジュードの隣には、なんとアリアの姿が。
「ど、どうしてアリアさんがここに?」
頬が引き攣るユウナに、ジュードは悪びれることなく答えた。
「今日はアリアの体調がいいみたいで一緒に行きたいって言うもんだからさ。ほら、どうせなら人数が多い方が楽しいだろう?」
ユウナは頭が痛くなってきた。ジュードはここまで馬鹿だったろうか?
いや、もうなにも言うまい。言ったところで、ジュードが逆ギレしていつものパターンになるのがオチだ。
実際にそれで過去の恋人と喧嘩しているところをユウナは学校で見ていたはずである。
まさかデートに幼馴染みを連れてくるなど非常識なことを本当にするなんて、冗談だと思っていたのだが……
しかし、連れてくる方も問題だが、行きたいとついてくる方も問題である。
アリアの交友関係は非常に狭く、箱入りで育ったようなのだが、さすがに婚約者とのデートに行きたいと言うのが常識外れだということが分からないのか。
「そ、そうなの……」
そんな言葉しか出てこないユウナをよそに、ジュードとアリアは楽しそうにしている。
「ジュードとお出かけするなんて久しぶりね」
「今日はアリアの行きたい所を回ろう。どこがいい?」
「嬉しい。どこにしようかしら」
手を繋いで楽しそうに会話する二人。
これではどちらが婚約者か分かったものではない。
本当ならばシャロン商会が経営している最近できたカフェでランチの予定だが、そんなことすら忘れているのか、ユウナを無視して行き先を決めていく二人。
一応とばかりにユウナに「そこでいいだろ?」と聞いてくるが、決定事項と言わんばかりで、ユウナに拒否権などなかった。
すでにユウナは帰りたくなっていたが、そこに留まった。
そろそろ考えなければならないところまで来ていると考えていたからだ。
そのためにも、二人を側で少し観察するのは悪くないと思えた。
決定的な判断材料をくれる気がする。
まあ、すでに愛想を尽かすには十分すぎるものがそろっているようには思う。
それでもユウナは口を挟むことなく二人について歩いた。
アリアの体が弱いとジュードは言っていたが、様子を見ている限りそうは思えなかった。
普通の年頃の少女のようにはしゃぎ、笑い、楽しそうに町中を歩き回っている。
以前にユウナが疑念を抱いたように、仮病という言葉が頭をよぎった。
だとしたらアリアという女性はかなりしたたかな人間かもしれない。
なにせ、五度もデートを狙って体調を崩し、今度は無邪気を装ってデートにくっついてくるのだから、気が弱いはずがない。
父親のせいで婚約せざるを得なかったものの、結婚までする気はとっくに失せていた。
最初こそ好青年と思っていたのに、今のような扱いをされてどうしてこの先も一緒にいたいと思うだろうか。
無自覚だったとしても、あまりにユウナをないがしろにしすぎである。
ジュードはどういうつもりなのか。
破断にしたいのかと、疑念が湧く。
アリアにしてもそうだ。歴代のジュードの恋人に対しても同じように、『お邪魔虫』と言えるような行動を取っていたようだし、これで裏がないとは考えられなかった。
これではアリアを止めようともしないジュードも、婚約継続を望んでいないと判断されてもおかしくない。
ユウナとの結婚が嫌ならとっととジュードの方から言ってくれればいいものを、わざわざユウナを仲間外れにするようにして見せつけるのだからたちが悪い。
これだけ側にいながらユウナを無視してどういう気持ちでいるのか。
歴代のジュードの恋人の苦労が目に見えるようだ。
もうこれは決定打を与えられたようなものである。
まあ、オペラを三時間待たされた時点で十分な理由になっていたが、それでも今まで婚約を解消しなかったのはユウナにも打算があったからだ。
少し欲をかいてしまった。
それがそもそもの失敗だったのだ。
「はぁ、やっぱりことはそううまくいかないわね」
ユウナはため息を吐いてそう呟いた。
その言葉は、目の前で楽しそうにしているジュードとアリアには聞こえていない。
「ここらが潮時かな……」
ジュードが問題ありなのは最初から知っていたことだ。
それでも、婚約者となればこれまでの恋人とは重さが違う。
さすがに幼馴染みよりは優先させるだろうと思ったのだが、見通しが甘かった。
これはユウナが楽観しすぎた故の誤算だ。
しかも、まさかジュードの両親もアリア側に立っているとは思わなかったのだ。
このまま結婚までしようものなら、その後の結婚生活を想像しただけで頭が痛くなる。
さて、どうしたものか……
ユウナがそんなことを考えているなど知らず、二人は疲れたからとお洒落なカフェに入っていく。
振り返りもしない二人を見て、一瞬このまま帰ろうかと思ったが、ユウナも歩き回って疲れていたので、後についていく。
椅子に座ってほっとする。
健康体のユウナですら疲れているのに、アリアは相変わらずテンションが高めだ。
まあ、ユウナの場合は精神的な疲労も加算されているのだが。
「どれにしよう。迷っちゃう」
「頼みたいものを頼んだらいいよ。余ったら僕が食べるから」
「ジュードったら相変わらず優しいわね」
楽しそうな二人をユウナは冷めた眼差しで見つめる。
歴代の恋人達が怒るわけである。
ここまで完全に存在を無視してイチャつかれたら彼女としての立場がない。
いっそこの二人が付き合えばいいんじゃないかと思うのに、ジュードが彼女をとっかえひっかえしている理由がいまいち分からない。
この二人がくっつけばそれで周りの被害もなくなるだろうに。
この二人が先に付き合っていたら、ジュードの父親がユウナと婚約させようなどとは思わなかったかもしれない。
アリアは男爵の一人娘で、男爵を継がねばならないはずだ。
貴族と縁故関係になりたいならアリアはもってこい。
これだけ仲がいいなら結婚までとんとん拍子に進むだろうに。
いや、きっと男爵では満足できなかったのかもしれない。
ユウナは伯爵の孫娘であると同時に、国内で最も大きい商会の娘だ。
貴族と商会と二つの縁を繋ぐことができる。
そう考えると、少し困ったことになる。
貴族にならないからという理由だけでは婚約を解消できないかもしれない。
ジュードと結婚することによって貴族にならなくとも、商会の娘という価値は残る。伯爵との縁も完全になくなるわけではない。
果たして素直に婚約を解消してくれるだろうか。
ユウナは頭を悩ませた。
一人無口にお茶を飲んでいると、ジュードとアリアが視線を合わせヒソヒソとしている。
町を歩いていた時からユウナに聞こえないように声を潜めて話していたようだが、ユウナは気にしなかった。
特に興味なく無視してケーキを一口、口に入れると、ジュードが申し訳なさそうにユウナに声をかけてきた。
「あのさ、ユウナ」
本人は気づいているか分からないが、ジュードがユウナに話しかけたのは、このカフェに入って初めてだ。
愛想も尽き果てたユウナが無表情で目を向ける。
「ユウナに大事な話があるんだ」
「待って、ジュード。そのことは私の口から話したいわ」
そう言ってさりげなくジュードの腕に触れているその様子は、二人の親密さを感じさせられる。
婚約者であるユウナよりもよほど。
「じゃあ、僕は少し席を外しているよ」
「ええ」
何故かジュードが席を立ちどこかへ行ってしまう。
それにより、ユウナは嫌々ながらアリアと二人きりになった。
「話というのは?」
前置きを聞くつもりのないユウナはさっさと本題を話せとばかりに催促する。
アリアはもじもじと言いづらそうにしているが、ユウナから見たらあざとさが際立つだけで無性に腹立たしく感じる。
「あ、あのね、ユウナさんには申し訳ないって思ってるの。けど、どうにもならなくて、それで……その……」
「はっきりと言ってくれますか?」
若干イラつきながらも冷静な声色で促す。口調がどうしてもきつく感じるようになってしまうのは仕方ない。
「私、ジュードが好きなの」
いや、今さら? という気持ちだった。
アリアがジュードと話している姿を近くで見ていたら、アリアがジュードに好意を持っているのは恋愛経験の乏しいユウナにも分かる。
ジュードがそれに気づいているのかまでは分からないが。
「分かっているのよ。ジュードにはユウナさんという婚約者がいるのは。けれど、この気持ちを止めることなんてできなくて。本当に悪いと思ってるのよ?」
必死に言い訳をするアリアを、ユウナはしらけた目で見る。
「私は二番目でいいの。正妻はユウナさんに譲るわ。だから伯爵になるジュードを二人で支えていきましょう!」
「は!?」
唖然とする。
今、アリアはなんと言ったのか。
理解するのに少し時間を要した。
二番目でいいという発言や譲るという上から目線。いろいろとツッコミどころ満載だが、それ以上に気になる言葉が含まれている。
「ジュードが伯爵?」
「ええ。ユウナさんの婿に入れば伯爵を継ぐのはジュードでしょう?」
「……それ誰が言ったんですか?」
無表情で問うユウナに、アリアはきょとんとする。
「えっ? ジュードよ。ユウナさんと結婚すれば自分は伯爵だから、貴族なら妻が二人いてもおかしくないって」
ユウナは頭が痛くなってきた。
確かに貴族の中には第二夫人どころか第三夫人を持つ者もいるが、それはあくまで正妻に子ができなかった場合に限る。
そもそもだ、ユウナが伯爵になることはあっても、ただの平民であるジュードがどうして伯爵家を継げるのだ。
血筋は当然のことながら、そもそも貴族としての教育を受けていないだろうに。
いろいろと間違えている。
ジュードの父親も勘違いしていたようだったが、ジュードはさらに上を行く。
とりあえず、勘違いを正すべく口を開いた。
「ならないわよ」
思いのほか冷淡な声が出たが、これぐらいでなくてはアリアはきっと理解しなそうだ。
「えっ?」
「私がジュードと結婚した場合は、伯爵は弟が継ぐことになるから、ジュードが伯爵になることは永遠にないわよ」
「えっ……うそ! そんな……」
アリアは本気で驚いていた。
アリアとて男爵令嬢なのだから、跡取りに関する諸事情を分かっていそうなのに、その様子を見るとちゃんと勉強してきたのか疑問である。
功績を挙げて自力で爵位を得たならともかく、貴族の血を引いていない平民が伯爵になれるはずがない。
「どうやら、あなたもジュードも勘違いしているようね。私と結婚する限りジュードが貴族の仲間入りをすることはないし、私は夫を誰かと共有する気もさらさらないわ。むしろあなたと結婚した方が貴族になれるんじゃないかしら? アリアさんは男爵の一人娘なわけだし」
「待って、待って。話が違うわ」
アリアは焦燥感を露わにするが、ユウナには知ったこっちゃない。
たとえそれが可能だったとして、どうしてユウナが受け入れると思っているのだろうか。
馬鹿にするにもほどがある。
ユウナを無視してデートをするのとはわけが違う。
この際、爵位どうこうを置いておくとしても、今日のジュードとアリアのユウナへの態度は最悪だ。
仮にジュードが平民ではなく貴族だったとしても、そんな二人との結婚生活など想像するだけで、ユウナが尊重されるはずがないのは目に見えている。
待っているのは不幸だと分かって、誰が結婚するだろうか。
この話を聞かされてユウナが頷くと本当に思っているのだとしたら、完全に舐められている。
逆ならどうなのかと問いたいが、答えは聞くまでもなく分かっている。
自分がそうなったら悲劇のヒロインのごとく嘆くのだろう。
そんな茶番に付き合わされるのはごめんだ。
怒りすら通り越して、逆に冷静になるユウナは、もう、これ以上関わり合いたくはないと、密かに最終的な判断を決めた。
よし、捨てよう、と。
「そんなこと私は知らないわよ。文句があるならジュードと話し合ってちょうだい。私は帰るわ」
テーブルの上に自分の分の料金を叩きつけて、ユウナは席を立った。
残されたアリアは唖然としていたが、ユウナには関係ない。
今後彼女達がどうなっても気にならないほど感情が冷めている。
ユウナはとっととその店を後にした。
第二章 兄の帰還
激しい疲労感を全身に覚えながら帰宅したユウナは、使用人に父の在宅を確認してから、そのまま父の部屋を目指した。
どうにかジュードとの婚約を解消できないかと相談するためだ。
一応あちらとの約束である婚約は果たしたので、うまいこと解消させられないものか。
できれば揉めることなく解決させたいが、それが難しいことは分かっている。
なにせ向こう側がユウナのバックにある伯爵家に異様に執着しているからだ。
「あの駄目親父でなんとかできるかなぁ」
酒に酔って婚約を決めてきたようなアホである。
けれど、あんなのでも一応国内最大の商会のトップなのだから、多少の策はあるかもしれないと淡い期待を持つ。
「父様、ユウナです。ちょっといいですか?」
コンコンとノックをして声をかけたが、いっこうに返事がない。
不思議に思い、もう一度扉をノックする。
「父様?」
「……ぐっ……がが……ぐっ」
なにやら中からうめき声のようなものがする。
父の身になにかあったのではないかと、ユウナは慌てて扉を開けて中に入った。
「父様!?」
そこで見たのは、コブラツイストをかけられている父の姿であった。
だが、ユウナの頬を引き攣らせたのはそれが理由ではない。
「に、兄様……」
父にコブラツイストをしていたのは、隣国に留学しているはずのユウナの兄であるノアだった。
「やあ、ユウナ。久しぶり」
なんとも爽やかな笑顔を向けてくるが、その腕は父親に技をかけている。
そのギャップがなんとも空恐ろしい。
「どうして兄様が……?」
「帰ってきたんだよ、ついさっきね」
「そんなこと誰も言ってなかったのに」
先程父親の所在を聞いた時には、ノアが帰ってきていることなど誰もユウナに教えなかった。
「それは内緒にしててもらったからだよ。ユウナを驚かせようと思ってね。驚いたかい?」
「そりゃあ、もちろん」
扉を開けたら父親をコブラツイストしているのだから驚かぬはずがない。
気になるのは、もがいている父親だ。
「えーと、兄様。それぐらいにしとかないと父様が再起不能になるかも」
「はははっ、大丈夫だよ。死にはしないから」
「なにゆえ父様にそんなことしてるの?」
遊んでいるなどとは父親の顔を見ていて思えない。
苦悶の表情を浮かべており、楽しそうな顔をしているのはノアだけだ。
「なんだか俺がいない間に、このくそ親父がふざけたことをしちゃったみたいだからさ、ちょっとお仕置きしていたんだよ」
「ぐっ……たすけ……」
父親は必死にユウナに助けを求めている。
「兄様。せっかくだからお茶にしましょう」
「それはいいね。久しぶりにかわいい妹の淹れるお茶が飲みたいな」
「がふっ」
ようやくノアが父親から手を離すと、父親は体を床にしたたかに打ちつけた。
「このアホがやらかした婚約についても、ゆっくりと話をしたいしね」
目の笑っていない笑顔を向けられて、ユウナは逃げ出したくなった。
ユウナがお茶を淹れて部屋に戻ると、今度は父親はノアに人間椅子をさせられていた。
ここはツッコミを入れるべきか。
いや、藪から蛇が出てはかなわない。
ユウナは無視をすることにした。
「兄様、どうぞ」
「嬉しいなぁ。隣国にいる間、ユウナの淹れるお茶が恋しくて仕方なかったよ」
この兄はべらぼうに優秀で、誰よりも母親に似ていて男女問わず魅了するほど、すこぶる顔がいい。さらに物腰は柔らかで、その微笑みは天使の微笑み。
だが、ユウナ達家族は知っている。
家族の中で母親以上に怒らせたらヤバいのは彼であると。
そんなノアは妹であるユウナを溺愛している。
それはもうシスコンをこじらせているのだ。
そんな彼にユウナが婚約したなんて言ったらどうなるかは目に見えている。
相手の生命のために、しばらく黙っていることになったのだが、いったい誰が知らせたのだろうか。
父親のはずがない。
酔っぱらった勢いで婚約の約束しちゃった、などと言おうものなら、先に父の命が危ないのは明白。
ならば、誰なのか。
「兄様は隣国で忙しいのではなかったですか?」
「ああ、もちろん忙しかったよ。だけど、お祖母様から手紙をいただいてね。どこぞのアホがアホなことをやらかしたって」
いまだ人間椅子の父親を見下ろす目は、とても実の父を見るものではなかった。
「よりによってユウナの婚約の約束だと? いつから貴様にそんな権限が与えられたんだ、ああん? 何様だと思ってるんだ?」
いや、一応父親なのでその権限はあるのだが、今それを口に出すほどユウナは馬鹿ではない。
父親はただただ、シクシク泣きながら無言を貫いている。
兄の前では父親の威厳は皆無だ。
「しかも酒に酔った上での約束だったと? ふざけてるのか? そんなことあるはずないだろ」
「で、でも兄様。さすがに酔ってたら仕方ないかもだし。もしかしたら、婚約目的でジュードの父親に無理やり飲まされて、判断能力鈍らされたのかも」
無神経な発言が多々見られるジュードの父親ならやりかねないとユウナは思っている。
だが、ますますノアの目は冷めていく。
「ユウナ、騙されてる。このくそ親父はザルだ。酔って向こうに有利な約束なんぞするはずがない。こいつは故意にこの婚約をまとめて来やがったんだよ」
「え!? でも、たまに家でお酒に酔って、母様に介抱されてるし」
「ただ、母様に甘えてるだけだよ。くそ親父の分際で厚かましい。そのまま酒に溺れろ」
「父様、それ本当なの!?」
父親はばつが悪そうに視線をそらした。
それがノアの言葉が真実であると語っている。
「父様!」
ユウナは父親の上に乗っているノアをどかし、父親の胸倉を掴み上げた。
「どういうことなの、父様!?」
「いやぁ、それはまあ、その……」
「はっきりしなさい!」
口ごもる父親の背後からノアが耳元で呟いた。
「もぐぞ」
「ひぃ!」
なにをとは聞かない。
父親がずいぶん怯えているので効果はてきめんだった。
「どうして婚約の約束なんてしてきたの?」
「いやあ、実は……」
父親は背後にいるノアに怯えながら真実を吐いた。
「事業をホテル業界にも拡大したくてさ。とってもいい場所を見つけたんだ。王都の一等地。人通りも多い賑やかなところでぇ。でもそこはクエンティン商会の土地らしくてさ。頼んだけど売ってくれなかったから、ユウナの婚約をちらつかせて、もしあっちの有責で婚約破棄になったらそこを慰謝料にもらうって言いくるめたんだよぉ」
「「……」」
「なんか向こうはユウナと婚約したら伯爵と縁づけるって勘違いしてるっぽかったから、とんとん拍子に話がまとまってさ。後はあっちの有責で婚約破棄になれば、か・ん・ぺ・き」
えへっと笑う父親に殺意が湧いた。
クズがここにいる。
てっきり父親が騙された方かと思えば、こっちが騙していた方だった。
「証文はどこにある? 当然契約を交わしているだろう?」
ノアが後ろから、父親の両こめかみを拳でグリグリしながら問う。
「ぎゃあぁぁ! 机の引き出しの中ですぅぅ!」
父親をポイッと投げ捨てて、父親の机の中を漁る。すると、それらしき契約書が出てきた。
ざっと目を通したノアが、父親をゴミでも見るかのような目で見る。
「兄様、どう?」
「確かに、あちら有責での婚約破棄の場合は、王都の土地を譲ると書かれている。あちらのサインも一緒に」
「くっ……。父様! 私を利用したわね! このクズ親父!」
「だって、欲しかったんだもん」
「私がジュードとそのまま結婚したらどうするのよ!?」
「ないない。だってジュード君は幼馴染みの子にお熱だし。実際にそういう関係じゃなかったとしても、あれだけべったりで噂もあるから、十分向こう有責で婚約破棄できるよ」
勝ち目のない戦はしない主義だ、としたり顔で言う父親に、ノアはドロップキックをお見舞いする。
「ぎゃうん!」
「いっそ、土に還すか。馬鹿は死ななきゃ治らないって言うし」
「兄様、さすがにそれはマズいです!」
ノアが父親を見る目は確実に殺る者の目つきだ。
気持ちは分かるが、さすがに止めなければ。
「と、とりあえず、婚約を破棄するのが先かと」
「それもそうだね。ユウナの方が大事だ。……それが終わったら覚えておけよ、クソが」
「ひどい、父親に対してこの対応……」
シクシク泣く父親をその場に放置して、ユウナとノアは部屋から出た。
これから対策会議だ。
場所をノアの部屋に移して話し合いを始める。
ノアの手には先程の契約書が。
「……一応ちゃんとした契約内容にはなっている。あちらが有責の場合だけでなく、こちらが有責の場合の慰謝料についても書かれているようだね。渡す金額にかなりの差があるが、クエンティン商会がこれに納得してサインしたなら向こうの責任だ。なにも問題はない。……問題があるとしたら、ユウナだ」
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