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第6話:越えられぬ壁
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「また、頼むかもしれん」
あの言葉は、春にとって、甘い蜜であると同時に、身を焦がす毒にもなった。
恋、というものを自覚してしまってから、世界は色を変えた。
法務庁の無機質な建物も、そこに立つ清純の姿を思うだけで、特別な場所に思えた。
庭の草花はより一層輝きを増し、風の音や鳥の声にまで、胸がときめいた。
だが、熱に浮かされたような日々は長くは続かない。
ふとした瞬間に、現実という冷水が春の頭上から降り注ぐ。
相手は、この維之国の法を司る法務局長。
自分は異国の血を引き、今日を生きるのがやっとの、ただの庭師。
天と地ほどに離れた身分。
あまりにも、分不相応だ。
それに気づいて以来、春は新しい薬草を見つけても、それを摘むことができなくなった。
清純の言葉は、ただの気まぐれだったのではないか。
自分の浅はかな行動が、あの人の立場に迷惑をかけているのではないか。
そう思うと、怖くてたまらない。
春は無意識に、清純を避けるようになった。
執務室の窓が気になっても、決して視線を上げない。
廊下でその気配を感じれば、息を潜めて通り過ぎるのを待つ。
目を合わせないようにと、いつもどこか俯きがちになった。
*
一方の清純もまた、深い懊悩の淵に沈んでいた。
あの日、柄にもなく口走ってしまった言葉を、幾度となく後悔していた。
春の喜ぶ顔が見たかった。
ただそれだけだったはずなのに、あの言葉は二人の間に、無視できない楔を打ち込んでしまった。
春が自分を避けていることには、すぐに気づいた。
「……やはり、迷惑だったか」
胸に鉛を流し込まれたように重苦しくなる。
だが、それでいいのだ、と清純は自分に言い聞かせた。
あの少年は、まだ十代。
年頃の娘と恋をし、いずれ心に決めた者と一緒になり、温かな家庭を築き、陽の当たる道を歩むべきだ。
齢四十二の男である自分が、その未来を曇らせてなど断じてならない。
法の番人である自分が、人の道を踏み外すなどあってはならない。
この感情は、誰にも知られてはならない。
墓場まで、己の胸一つに収めて消え去るべきものだ。
そう決意すればするほど、春の面影は鮮明になる。
陽光に透ける銀の髪。
涙に潤んだ玻璃玉の瞳。
そして、心を解きほぐした、あの薬草茶の香り。
また薬草茶を作ってはくれないか。
ただ一言、そう言えたらいいのに。
ふと、鼻先にその香りが漂ってきたような気がした。
*
その日の夕刻、二人は庁舎の薄暗い廊下で偶然鉢合わせになった。
先に気づいた春が、びくりと体を強張らせる。
「……っ、きょ、局長さま、お疲れ様です」
春はそう言うのがやっとだった。
顔を上げられず、板張りの床を見つめたまま、足早に横を通り過ぎようとする。
清純は、何かを言わねば、と思った。
だが、どんな言葉をかければいいのか分からない。
春を安心させる言葉も、突き放す言葉も、どちらも今の彼には選べなかった。
「……ああ」
結局、口から出たのは、そんな味気ない相槌だけだった。
すれ違いざま、春の纏う陽だまりの匂いがふわりと鼻をかすめる。
清純は思わず拳を固く握りしめた。
春が走り去っていく小さな背中を、清純は目で追う。
春もまた、角を曲がる直前、振り返りたい衝動をぐっと堪えた。
お互いが、お互いの背中を見つめていたことなど、知る由もない。
ただ、二人の間に横たわる、見えない壁の厚さだけを痛感していた。
自室に戻った春は、文箱に仕舞っていた空の布包みを取り出し、ぎゅっと握りしめた。
清純と話がしたい。
声が聞きたい。
でも、怖い。
矛盾した想いが春の心を締め付け、その瞳からぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
同じ頃、清純は自邸で、一人静かに杯を傾けていた。
「……これで、いいのだ」
自分に言い聞かせるように、杯の酒をあおる。
喉を焼く強い酒ですら、心に根を張った甘い想いを消し去ることは、できそうになかった。
あの言葉は、春にとって、甘い蜜であると同時に、身を焦がす毒にもなった。
恋、というものを自覚してしまってから、世界は色を変えた。
法務庁の無機質な建物も、そこに立つ清純の姿を思うだけで、特別な場所に思えた。
庭の草花はより一層輝きを増し、風の音や鳥の声にまで、胸がときめいた。
だが、熱に浮かされたような日々は長くは続かない。
ふとした瞬間に、現実という冷水が春の頭上から降り注ぐ。
相手は、この維之国の法を司る法務局長。
自分は異国の血を引き、今日を生きるのがやっとの、ただの庭師。
天と地ほどに離れた身分。
あまりにも、分不相応だ。
それに気づいて以来、春は新しい薬草を見つけても、それを摘むことができなくなった。
清純の言葉は、ただの気まぐれだったのではないか。
自分の浅はかな行動が、あの人の立場に迷惑をかけているのではないか。
そう思うと、怖くてたまらない。
春は無意識に、清純を避けるようになった。
執務室の窓が気になっても、決して視線を上げない。
廊下でその気配を感じれば、息を潜めて通り過ぎるのを待つ。
目を合わせないようにと、いつもどこか俯きがちになった。
*
一方の清純もまた、深い懊悩の淵に沈んでいた。
あの日、柄にもなく口走ってしまった言葉を、幾度となく後悔していた。
春の喜ぶ顔が見たかった。
ただそれだけだったはずなのに、あの言葉は二人の間に、無視できない楔を打ち込んでしまった。
春が自分を避けていることには、すぐに気づいた。
「……やはり、迷惑だったか」
胸に鉛を流し込まれたように重苦しくなる。
だが、それでいいのだ、と清純は自分に言い聞かせた。
あの少年は、まだ十代。
年頃の娘と恋をし、いずれ心に決めた者と一緒になり、温かな家庭を築き、陽の当たる道を歩むべきだ。
齢四十二の男である自分が、その未来を曇らせてなど断じてならない。
法の番人である自分が、人の道を踏み外すなどあってはならない。
この感情は、誰にも知られてはならない。
墓場まで、己の胸一つに収めて消え去るべきものだ。
そう決意すればするほど、春の面影は鮮明になる。
陽光に透ける銀の髪。
涙に潤んだ玻璃玉の瞳。
そして、心を解きほぐした、あの薬草茶の香り。
また薬草茶を作ってはくれないか。
ただ一言、そう言えたらいいのに。
ふと、鼻先にその香りが漂ってきたような気がした。
*
その日の夕刻、二人は庁舎の薄暗い廊下で偶然鉢合わせになった。
先に気づいた春が、びくりと体を強張らせる。
「……っ、きょ、局長さま、お疲れ様です」
春はそう言うのがやっとだった。
顔を上げられず、板張りの床を見つめたまま、足早に横を通り過ぎようとする。
清純は、何かを言わねば、と思った。
だが、どんな言葉をかければいいのか分からない。
春を安心させる言葉も、突き放す言葉も、どちらも今の彼には選べなかった。
「……ああ」
結局、口から出たのは、そんな味気ない相槌だけだった。
すれ違いざま、春の纏う陽だまりの匂いがふわりと鼻をかすめる。
清純は思わず拳を固く握りしめた。
春が走り去っていく小さな背中を、清純は目で追う。
春もまた、角を曲がる直前、振り返りたい衝動をぐっと堪えた。
お互いが、お互いの背中を見つめていたことなど、知る由もない。
ただ、二人の間に横たわる、見えない壁の厚さだけを痛感していた。
自室に戻った春は、文箱に仕舞っていた空の布包みを取り出し、ぎゅっと握りしめた。
清純と話がしたい。
声が聞きたい。
でも、怖い。
矛盾した想いが春の心を締め付け、その瞳からぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
同じ頃、清純は自邸で、一人静かに杯を傾けていた。
「……これで、いいのだ」
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