国一番のカタブツ閣下(四十路)は、陽だまりの庭で不器用な初恋を知る

冬苑

文字の大きさ
6 / 47

第6話:越えられぬ壁

しおりを挟む
「また、頼むかもしれん」
 あの言葉は、春にとって、甘い蜜であると同時に、身を焦がす毒にもなった。

 恋、というものを自覚してしまってから、世界は色を変えた。
 法務庁の無機質な建物も、そこに立つ清純の姿を思うだけで、特別な場所に思えた。
 庭の草花はより一層輝きを増し、風の音や鳥の声にまで、胸がときめいた。

 だが、熱に浮かされたような日々は長くは続かない。
 ふとした瞬間に、現実という冷水が春の頭上から降り注ぐ。

 相手は、この維之国の法を司る法務局長。
 自分は異国の血を引き、今日を生きるのがやっとの、ただの庭師。

 天と地ほどに離れた身分。
 あまりにも、分不相応だ。

 それに気づいて以来、春は新しい薬草を見つけても、それを摘むことができなくなった。

 清純の言葉は、ただの気まぐれだったのではないか。
 自分の浅はかな行動が、あの人の立場に迷惑をかけているのではないか。
 そう思うと、怖くてたまらない。

 春は無意識に、清純を避けるようになった。
 
 執務室の窓が気になっても、決して視線を上げない。
 廊下でその気配を感じれば、息を潜めて通り過ぎるのを待つ。
 目を合わせないようにと、いつもどこか俯きがちになった。



 一方の清純もまた、深い懊悩おうのうの淵に沈んでいた。

 あの日、柄にもなく口走ってしまった言葉を、幾度となく後悔していた。
 春の喜ぶ顔が見たかった。
 ただそれだけだったはずなのに、あの言葉は二人の間に、無視できないくさびを打ち込んでしまった。

 春が自分を避けていることには、すぐに気づいた。

「……やはり、迷惑だったか」
 胸に鉛を流し込まれたように重苦しくなる。

 だが、それでいいのだ、と清純は自分に言い聞かせた。

 あの少年は、まだ十代。
 年頃の娘と恋をし、いずれ心に決めた者と一緒になり、温かな家庭を築き、陽の当たる道を歩むべきだ。

 齢四十二の男である自分が、その未来を曇らせてなど断じてならない。
 法の番人である自分が、人の道を踏み外すなどあってはならない。

 この感情は、誰にも知られてはならない。
 墓場まで、己の胸一つに収めて消え去るべきものだ。

 そう決意すればするほど、春の面影は鮮明になる。
 陽光に透ける銀の髪。
 涙に潤んだ玻璃玉の瞳。
 そして、心を解きほぐした、あの薬草茶の香り。

 また薬草茶を作ってはくれないか。
 ただ一言、そう言えたらいいのに。

 ふと、鼻先にその香りが漂ってきたような気がした。



 その日の夕刻、二人は庁舎の薄暗い廊下で偶然鉢合わせになった。
 先に気づいた春が、びくりと体を強張らせる。

「……っ、きょ、局長さま、お疲れ様です」

 春はそう言うのがやっとだった。
 顔を上げられず、板張りの床を見つめたまま、足早に横を通り過ぎようとする。

 清純は、何かを言わねば、と思った。
 だが、どんな言葉をかければいいのか分からない。
 春を安心させる言葉も、突き放す言葉も、どちらも今の彼には選べなかった。

「……ああ」

 結局、口から出たのは、そんな味気ない相槌だけだった。
 すれ違いざま、春の纏う陽だまりの匂いがふわりと鼻をかすめる。
 清純は思わず拳を固く握りしめた。

 春が走り去っていく小さな背中を、清純は目で追う。

 春もまた、角を曲がる直前、振り返りたい衝動をぐっと堪えた。

 お互いが、お互いの背中を見つめていたことなど、知る由もない。
 ただ、二人の間に横たわる、見えない壁の厚さだけを痛感していた。


 自室に戻った春は、文箱に仕舞っていた空の布包みを取り出し、ぎゅっと握りしめた。
 清純と話がしたい。
 声が聞きたい。
 でも、怖い。
 矛盾した想いが春の心を締め付け、その瞳からぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。

 同じ頃、清純は自邸で、一人静かに杯を傾けていた。
「……これで、いいのだ」
 自分に言い聞かせるように、杯の酒をあおる。

 喉を焼く強い酒ですら、心に根を張った甘い想いを消し去ることは、できそうになかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

オメガはオメガらしく生きろなんて耐えられない

子犬一 はぁて
BL
「オメガはオメガらしく生きろ」 家を追われオメガ寮で育ったΩは、見合いの席で名家の年上αに身請けされる。 無骨だが優しく、Ωとしてではなく一人の人間として扱ってくれる彼に初めて恋をした。 しかし幸せな日々は突然終わり、二人は別れることになる。 5年後、雪の夜。彼と再会する。 「もう離さない」 再び抱きしめられたら、僕はもうこの人の傍にいることが自分の幸せなんだと気づいた。 彼は温かい手のひらを持つ人だった。 身分差×年上アルファ×溺愛再会BL短編。

孤独なオメガは、龍になる。

二月こまじ
BL
 【本編完結済み】 中華風異世界オメガバース。  孤独なオメガが、オリエンタルファンタジーの世界で俺様皇帝のペットになる話です。(SMではありません) 【あらすじ】  唯一の肉親祖父にに先立たれ、隠れオメガとして生きてきた葵はある日祖父の遺言を目にする──。  遺言通りの行動を起こし、目が覚めるとそこは自分を青龍と崇める世界だった。  だが王のフェイロンだけは、葵に対して悪感情を持っているようで──?  勿論全てフィクションで実際の人物などにモデルもおりません。ご了承ください。 ※表紙絵は紅様に依頼して描いて頂きました。Twitter:紅様@xdkzw48

白金の花嫁は将軍の希望の花

葉咲透織
BL
義妹の身代わりでボルカノ王国に嫁ぐことになったレイナール。女好きのボルカノ王は、男である彼を受け入れず、そのまま若き将軍・ジョシュアに下げ渡す。彼の屋敷で過ごすうちに、ジョシュアに惹かれていくレイナールには、ある秘密があった。 ※個人ブログにも投稿済みです。

氷の支配者と偽りのベータ。過労で倒れたら冷徹上司(銀狼)に拾われ、極上の溺愛生活が始まりました。

水凪しおん
BL
オメガであることを隠し、メガバンクで身を粉にして働く、水瀬湊。 ※この作品には、性的描写の表現が含まれています。18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。 過労と理不尽な扱いで、心身ともに限界を迎えた夜、彼を救ったのは、冷徹で知られる超エリートα、橘蓮だった。 「君はもう、頑張らなくていい」 ――それは、運命の番との出会い。 圧倒的な庇護と、独占欲に戸惑いながらも、湊の凍てついた心は、次第に溶かされていく。 理不尽な会社への華麗なる逆転劇と、極上に甘いオメガバース・オフィスラブ!

【完結】名前のない皇后 −記憶を失ったSubオメガはもう一度愛を知る−

社菘
BL
息子を産んで3年。 瀕死の状態で見つかったエリアスは、それ以前の記憶をすっかり失っていた。 自分の名前も覚えていなかったが唯一所持品のハンカチに刺繍されていた名前を名乗り、森の中にひっそりと存在する地図上から消された村で医師として働く人間と竜の混血種。 ある日、診療所に運ばれてきた重病人との出会いがエリアスの止まっていた時を動かすことになる。 「――お前が俺の元から逃げたからだ、エリアス!」 「本当に、本当になにも覚えていないんだっ!」 「ととさま、かかさまをいじめちゃメッ!」 破滅を歩む純白竜の皇帝《Domアルファ》× 記憶がない混血竜《Subオメガ》 「俺の皇后……」 ――前の俺?それとも、今の俺? 俺は一体、何者なのだろうか? ※オメガバース、ドムサブユニバース特殊設定あり(かなり好き勝手に詳細設定をしています) ※本作では第二性→オメガバース、第三性(稀)→ドムサブユニバース、二つをまとめてSubオメガ、などの総称にしています ※作中のセリフで「〈〉」この中のセリフはコマンドになります。読みやすいよう、コマンドは英語表記ではなく、本作では言葉として表記しています ※性的な描写がある話数に*をつけています ✧毎日7時40分+17時40分に更新予定✧ ✧お気に入り登録・各話♡・エール📣作者大歓喜します✧

巣ごもりオメガは後宮にひそむ【続編完結】

晦リリ@9/10『死に戻りの神子~』発売
BL
後宮で幼馴染でもあるラナ姫の護衛をしているミシュアルは、つがいがいないのに、すでに契約がすんでいる体であるという判定を受けたオメガ。 発情期はあるものの、つがいが誰なのか、いつつがいの契約がなされたのかは本人もわからない。 そんななか、気になる匂いの落とし物を後宮で拾うようになる。 第9回BL小説大賞にて奨励賞受賞→書籍化しました。ありがとうございます。

希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう

水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」 辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。 ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。 「お前のその特異な力を、帝国のために使え」 強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。 しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。 運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。 偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

処理中です...