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第8話:陽だまりと硝子の壁
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あの日、夕闇の中で母の形見を取り戻してから、春の心は不思議なほどに静かだった。
もう、清純を避けることはない。
叶わぬ恋だと、分かっている。身分の違いも、男同士であることも。
それでも、この胸にある温かい想いは、尊いもの。そう思えるようになってからというもの、春は自分が強くなれた気がした。
庭仕事をする春は、以前にも増して生き生きとして見えた。
その背筋はすっと伸び、俯くこともない。
時折、清純のいる執務室の窓を一瞬だけ、悪戯っぽく見上げる。その瞳に宿っているのは、ただひたむきな光だけ。
ある朝、清純が庁舎へ向かうと、かつて二人で雨宿りをした縁側にぽつんと一輪、露に濡れた竜胆が置かれていた。
誰が置いたものかなど、考えるまでもない。
その深く、誠実な青色は、まるで春の心のようだった。
清純はその花を手に取ることもできず、ただ遠巻きに眺めることしかできなかった。
春の変化は、清純の心をより一層かき乱した。
以前のように避けられるのも辛かったが、真っ直ぐな好意を向けられるのは、それ以上に苦しい。
窓硝子一枚を隔てた向こう側で、春は陽光を浴び、風と戯れ、命そのものを謳歌している。
その姿はあまりに眩しく、清純のいる薄暗い執務室とは、まるで世界が違っていた。
あの子は、光。
書類の山に埋もれながら、清純は思う。
十代という、何にでもなれる可能性の塊。
その未来は、どこまでも明るく、広く続いているはずだ。
それに比べて自分はどうだ。
四十二歳。半生を法の理と共に過ごし、心も体もとうに乾ききっている。
人の罪を裁き、秩序を守ることだけが己の存在意義。
そんな男が、あの光に手を伸ばすなど許されるはずがない。
それは、罪だ。
あの若く清らかな魂を、己の薄汚れた欲望で縛り付けること。
法務局長として、何よりも人としての道に背く、許されざる大罪。
清純は、己の心に幾重にも蓋をした。
年齢差。
男同士であるという事実。
そして法務局長という、決して揺らいではならない立場。
その一つ一つが、分厚い壁となって、彼の感情の前に立ちはだかる。
春を守らねばならない。
その未来を守るためには、自分がこの感情を殺すしかない。
それが、このどうしようもない恋心に対する自分なりの誠意であり、贖罪なのだ。
その夜も清純は一人、執務室で明かりを灯していた。
積み上げられた訴状をめくる指が、ふと止まる。
窓の外、月明かりに照らされた庭は静寂に包まれていた。
そこに、春の幻が見える。
楽しそうに草花と語らい、軽やかに笑う姿。
……会いたい。
心の奥底から、本音が漏れ出た。
一目、顔が見たい。声が聞きたい。
あの不器用な手で入れた、温かい薬草茶が飲みたい。
だがその願いを、清純は即座に首を振って打ち消した。
窓硝子に、疲れた己の顔が映っている。
眉間に刻まれた深い皺、感情を失った冷たい目。
これが、自分だ。
清純は、そっと窓の帳を引いた。
自ら、光を遮断するように。
硝子一枚隔てた向こうの陽だまりに背を向け、再び書類の闇へと戻っていく。
それが、春のために自分ができる唯一のことだと信じて。
その胸の痛みの名が、紛れもない「愛」であることに、気づかないふりをしながら。
もう、清純を避けることはない。
叶わぬ恋だと、分かっている。身分の違いも、男同士であることも。
それでも、この胸にある温かい想いは、尊いもの。そう思えるようになってからというもの、春は自分が強くなれた気がした。
庭仕事をする春は、以前にも増して生き生きとして見えた。
その背筋はすっと伸び、俯くこともない。
時折、清純のいる執務室の窓を一瞬だけ、悪戯っぽく見上げる。その瞳に宿っているのは、ただひたむきな光だけ。
ある朝、清純が庁舎へ向かうと、かつて二人で雨宿りをした縁側にぽつんと一輪、露に濡れた竜胆が置かれていた。
誰が置いたものかなど、考えるまでもない。
その深く、誠実な青色は、まるで春の心のようだった。
清純はその花を手に取ることもできず、ただ遠巻きに眺めることしかできなかった。
春の変化は、清純の心をより一層かき乱した。
以前のように避けられるのも辛かったが、真っ直ぐな好意を向けられるのは、それ以上に苦しい。
窓硝子一枚を隔てた向こう側で、春は陽光を浴び、風と戯れ、命そのものを謳歌している。
その姿はあまりに眩しく、清純のいる薄暗い執務室とは、まるで世界が違っていた。
あの子は、光。
書類の山に埋もれながら、清純は思う。
十代という、何にでもなれる可能性の塊。
その未来は、どこまでも明るく、広く続いているはずだ。
それに比べて自分はどうだ。
四十二歳。半生を法の理と共に過ごし、心も体もとうに乾ききっている。
人の罪を裁き、秩序を守ることだけが己の存在意義。
そんな男が、あの光に手を伸ばすなど許されるはずがない。
それは、罪だ。
あの若く清らかな魂を、己の薄汚れた欲望で縛り付けること。
法務局長として、何よりも人としての道に背く、許されざる大罪。
清純は、己の心に幾重にも蓋をした。
年齢差。
男同士であるという事実。
そして法務局長という、決して揺らいではならない立場。
その一つ一つが、分厚い壁となって、彼の感情の前に立ちはだかる。
春を守らねばならない。
その未来を守るためには、自分がこの感情を殺すしかない。
それが、このどうしようもない恋心に対する自分なりの誠意であり、贖罪なのだ。
その夜も清純は一人、執務室で明かりを灯していた。
積み上げられた訴状をめくる指が、ふと止まる。
窓の外、月明かりに照らされた庭は静寂に包まれていた。
そこに、春の幻が見える。
楽しそうに草花と語らい、軽やかに笑う姿。
……会いたい。
心の奥底から、本音が漏れ出た。
一目、顔が見たい。声が聞きたい。
あの不器用な手で入れた、温かい薬草茶が飲みたい。
だがその願いを、清純は即座に首を振って打ち消した。
窓硝子に、疲れた己の顔が映っている。
眉間に刻まれた深い皺、感情を失った冷たい目。
これが、自分だ。
清純は、そっと窓の帳を引いた。
自ら、光を遮断するように。
硝子一枚隔てた向こうの陽だまりに背を向け、再び書類の闇へと戻っていく。
それが、春のために自分ができる唯一のことだと信じて。
その胸の痛みの名が、紛れもない「愛」であることに、気づかないふりをしながら。
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