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第35話:初めての喧嘩と、不器用な仲直り
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侍女長の、千代でございます。
わたくしたち、この屋敷に仕える者たちは、いつしかこの家の季節の移ろいを、庭の草花ではなく、お二人の様子で感じるようになっておりました。
春様の笑顔が太陽であれば、清純様の穏やかな眼差しは、それを照らす月。
その完璧な調和が、この屋敷の何よりの安らぎでございました。
ですから、その日の凍てつくような空気には、誰もがすぐに気づきました。
事の起こりは、些細なこと。
冬の初め、冷たい雨が、しとしとと降る日のことでした。
春様は、新しく植えた寒さに弱い花の苗を霜から守るため、雨に濡れるのも構わず庭で藁を被せる作業に没頭しておられました。
そこへ、庁舎からお戻りになった清純様が。
縁側からその姿を見つけるなり、普段は人前で決して見せることのない厳しいお声で、春さまをお叱りになったのです。
「何を考えている! そのような薄着で体を冷やして、どうするのだ! 風邪でも引いたら、元も子もないだろうが!」
と。
春様は驚いたように、目を見開いて言い返しておられました。
「ですが、この子たちを今、守ってあげないと枯れてしまいます……!」
「花の命と君の体と、どちらが大事だと思っている!」
「ぼくは庭師です! 庭の命を守るのは、ぼくの仕事です!」
売り言葉に、買い言葉。
普段あれほど穏やかな春様が、こと、お庭のこととなると、一歩も引かない。
そして清純様も、春様を愛するがゆえに、その身を案じるあまり、言葉が厳しくなってしまう。
結局、春様は唇をきゅっと噛み締め、俯いたままその場から走り去ってしまいました。
清純様も苦虫を噛み潰したようなお顔で、書斎に閉じこもってしまわれた。
その夜は屋敷中の空気が、氷のように冷たく、重く、感じられました。
夕餉の席に現れた春様は、ほとんど食事に手をつけず。
そして夜。
いつもであれば、清純様の私室へと向かうその足がぴたりと止まり、ご自身の庭師用の質素な部屋へと、戻ってしまわれたのです。
ああ、今宵は「しるし」はないのだな、と。
わたくしたちも、悟りました。
清純様のお部屋の灯りも、春様のお部屋の灯りも、夜更けまでこうこうと、灯っておりました。
お二人とも、意地を張って眠れずにいらっしゃるのでしょう。
「まあ、お若いということは、時に、厄介なものですねぇ」
わたくしはやきもきしながらも、どこか微笑ましく、その様子を見守っておりました。
愛が深いがゆえの、初めてのすれ違い。
夜がさらに更けた頃。
わたくしが、そろそろ休もうかと思っていた、その時です。
すっ、と、清純様のお部屋の襖が開きました。
出てこられた主の手には、何やら分厚く温かそうなものが抱えられております。
それは上等な、綿の入った新しい仕事用の半纏(はんてん)でございました。
清純様は誰にも気づかれぬよう、静かな足取りで春様のお部屋の前へと、向かわれます。
そして戸の前でしばらく逡巡(しゅんじゅん)しておられる。
あの威風堂々とした法務局長が、まるで初めて恋文を渡すうぶな若者のように、戸を叩くこともできず、ためらっておられる。
そんなお姿があまりにいじらしく、わたくしは、思わず、袂(たもと)で口元を覆いました。
やがて意を決したように、こん、こん、と、小さな音で戸が叩かれます。
しばらくの沈黙の後、す、と静かに戸が開きました。
きっとお布団の中で泣いていたのでしょう、目を真っ赤に腫らした春様が、立っておられました。
春様は、清純様のお顔と、その手に抱えられた半纏を交互に見つめ、そしてすべてを悟ったようでした。
言葉は、ありません。
ただ、春様がそっと道を開け、清純様が、春様の小さなお部屋へと、吸い込まれていく。
とん、と、戸が閉められました。
わたくしはそれを見送ってから、自室へと戻りました。
しばらくして、窓の向こうに見える春様のお部屋の灯りが、ふっと、消えるのが見えました。
そしてさらに半刻(はんとき)ほど、経ったでしょうか。
再び戸が開き、今度は清純様だけが出てこられました。
翌朝。
庭には、少しはにかんだような顔で、真新しい温かな半纏を誇らしげに着て仕事に励む、春様の姿がございました。
嵐の後の空が、ことさらに青く澄み渡るように。
痴話喧嘩というものは時に、二人の絆をより強く、固く結びつける、何よりの妙薬になるものなのでございます。
わたくしは、侍女たちに今日の春様のお茶には、とびきり甘いお菓子をお付けするように、そう、申し付けたのでした。
わたくしたち、この屋敷に仕える者たちは、いつしかこの家の季節の移ろいを、庭の草花ではなく、お二人の様子で感じるようになっておりました。
春様の笑顔が太陽であれば、清純様の穏やかな眼差しは、それを照らす月。
その完璧な調和が、この屋敷の何よりの安らぎでございました。
ですから、その日の凍てつくような空気には、誰もがすぐに気づきました。
事の起こりは、些細なこと。
冬の初め、冷たい雨が、しとしとと降る日のことでした。
春様は、新しく植えた寒さに弱い花の苗を霜から守るため、雨に濡れるのも構わず庭で藁を被せる作業に没頭しておられました。
そこへ、庁舎からお戻りになった清純様が。
縁側からその姿を見つけるなり、普段は人前で決して見せることのない厳しいお声で、春さまをお叱りになったのです。
「何を考えている! そのような薄着で体を冷やして、どうするのだ! 風邪でも引いたら、元も子もないだろうが!」
と。
春様は驚いたように、目を見開いて言い返しておられました。
「ですが、この子たちを今、守ってあげないと枯れてしまいます……!」
「花の命と君の体と、どちらが大事だと思っている!」
「ぼくは庭師です! 庭の命を守るのは、ぼくの仕事です!」
売り言葉に、買い言葉。
普段あれほど穏やかな春様が、こと、お庭のこととなると、一歩も引かない。
そして清純様も、春様を愛するがゆえに、その身を案じるあまり、言葉が厳しくなってしまう。
結局、春様は唇をきゅっと噛み締め、俯いたままその場から走り去ってしまいました。
清純様も苦虫を噛み潰したようなお顔で、書斎に閉じこもってしまわれた。
その夜は屋敷中の空気が、氷のように冷たく、重く、感じられました。
夕餉の席に現れた春様は、ほとんど食事に手をつけず。
そして夜。
いつもであれば、清純様の私室へと向かうその足がぴたりと止まり、ご自身の庭師用の質素な部屋へと、戻ってしまわれたのです。
ああ、今宵は「しるし」はないのだな、と。
わたくしたちも、悟りました。
清純様のお部屋の灯りも、春様のお部屋の灯りも、夜更けまでこうこうと、灯っておりました。
お二人とも、意地を張って眠れずにいらっしゃるのでしょう。
「まあ、お若いということは、時に、厄介なものですねぇ」
わたくしはやきもきしながらも、どこか微笑ましく、その様子を見守っておりました。
愛が深いがゆえの、初めてのすれ違い。
夜がさらに更けた頃。
わたくしが、そろそろ休もうかと思っていた、その時です。
すっ、と、清純様のお部屋の襖が開きました。
出てこられた主の手には、何やら分厚く温かそうなものが抱えられております。
それは上等な、綿の入った新しい仕事用の半纏(はんてん)でございました。
清純様は誰にも気づかれぬよう、静かな足取りで春様のお部屋の前へと、向かわれます。
そして戸の前でしばらく逡巡(しゅんじゅん)しておられる。
あの威風堂々とした法務局長が、まるで初めて恋文を渡すうぶな若者のように、戸を叩くこともできず、ためらっておられる。
そんなお姿があまりにいじらしく、わたくしは、思わず、袂(たもと)で口元を覆いました。
やがて意を決したように、こん、こん、と、小さな音で戸が叩かれます。
しばらくの沈黙の後、す、と静かに戸が開きました。
きっとお布団の中で泣いていたのでしょう、目を真っ赤に腫らした春様が、立っておられました。
春様は、清純様のお顔と、その手に抱えられた半纏を交互に見つめ、そしてすべてを悟ったようでした。
言葉は、ありません。
ただ、春様がそっと道を開け、清純様が、春様の小さなお部屋へと、吸い込まれていく。
とん、と、戸が閉められました。
わたくしはそれを見送ってから、自室へと戻りました。
しばらくして、窓の向こうに見える春様のお部屋の灯りが、ふっと、消えるのが見えました。
そしてさらに半刻(はんとき)ほど、経ったでしょうか。
再び戸が開き、今度は清純様だけが出てこられました。
翌朝。
庭には、少しはにかんだような顔で、真新しい温かな半纏を誇らしげに着て仕事に励む、春様の姿がございました。
嵐の後の空が、ことさらに青く澄み渡るように。
痴話喧嘩というものは時に、二人の絆をより強く、固く結びつける、何よりの妙薬になるものなのでございます。
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追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
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