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第41話:昼の顔、夜の顔
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書斎の重い木の扉を、叩く。
中から「入れ」という、低く威厳のある声がして、ぼくは息を一つ、吸い込んだ。
よし、と心の中で己に気合を入れる。
ここから一歩足を踏み入れたら、ぼくはもう、ただの「春」ではない。庭園工房『いずみえん』の、主。
そして声の主はぼくの愛しい恋人ではなく、この国で最も尊いお取引相手「司法長官閣下」なのだ、と。
「失礼いたします、司法長官閣下」
深く一礼をする。顔を上げた先、大きな黒檀の文机の向こうで、清純さまが厳しい「職務中」のお顔でこちらを見ていた。
ああ、その、お顔。
国中の高官たちが、その一瞥だけで身を縮こまらせるという、司法の頂点に立つ男の顔。
ぞくぞく、と、背筋が痺れるような感覚。
同時に、胸の奥が、きゅう、と熱くなる。
なんて、素敵なお人なんだろう。
毎回、思わず見惚れそうになって我に帰る。
ぼくは、内心のときめきを完璧に押し隠し、あくまでも仕事用の冷静な声を作った。
「来季の西の庭の改修計画書と、見積もりをお持ちいたしました。ご確認を」
計画書を文机の上へ広げる。
清純さまの視線が、紙の上を滑っていく。
その鋭い、知的な光を宿した瞳。
いくつもの難解な法文を読み解いてきたその目が、今はぼくの拙い絵図を、真剣に追ってくれている。
それだけで、ぼくは毎回舞い上がってしまいそうになる。
彼の、指。
いつも夜には、ぼくの体を隅々まで優しく愛撫してくれる、その大きくて節くれだった指が、今は筆を取り、計画書の隅に何かを書き込んでいる。
ぼくの体を伝う指の感触を思い出して、くらりと眩暈(めまい)さえ、覚えそうになる。
いけない、いけない。
ぼくは内心で、かぶりを振った。
集中しなければ。
清純さまは、ぼくを一人前の職人として扱ってくれている。
その信頼に、応えなければ。
彼が与えてくれた、この立場を、ぼく自身が汚すようなことがあってはならない。
「……この、白梅の横に、紅梅を対で植える案、面白いな。予算については、問題ない。進めてくれ」
彼の低い声が、決裁を下す。
その裁きを下す者の、声。
この声が夜には、ぼくの名前を甘く呼ぶのだと思うと、膝の力が抜けそうになるのを、必死で堪えた。
「かしこまりました。では、そのように手配を進めさせていただきます」
完璧な受け答え。完璧な、仕事仲間としての振る舞い。
ぼくは計画書を畳むと、もう一度深く一礼した。そして一分の隙も見せないよう、書斎を後にする。
扉が閉まった瞬間。
ぼくは廊下の壁に背中を預け、はぁ、と大きなため息をついた。
心臓がばくばくと、うるさいくらいに、鳴っている。
ああ、駄目だ。
やっぱり、駄目だ。
いくら昼間は「仕事相手だ」と自分に言い聞かせても。
あの人の職務中の厳しいお顔を見るたびに。
威厳に満ちた、声を聞くたびに。
ぼくはどうしようもなく、この人にまた、新しく恋をしてしまうのだ。
夜の、ぼくだけに見せてくれる、甘く乱れた顔も。
昼間の、誰もがひれ伏す厳格なこの顔も。
そのすべてが、ぼくの愛する清純さまだ。
今夜が、待ち遠しい。
ぼくは、火照った頬を両手で、ぱちん、と叩いた。
そして、仕事用の顔に切り替える。
夜に、あの素敵な人をもっと、もっと骨抜きにしてあげるために。
昼間の仕事も、完璧にこなさなくては。
そんな、誰にも言えない密やかな決意を胸に。
ぼくはいそいそと、庭へと向かう足の歩みを速めるのだった。
中から「入れ」という、低く威厳のある声がして、ぼくは息を一つ、吸い込んだ。
よし、と心の中で己に気合を入れる。
ここから一歩足を踏み入れたら、ぼくはもう、ただの「春」ではない。庭園工房『いずみえん』の、主。
そして声の主はぼくの愛しい恋人ではなく、この国で最も尊いお取引相手「司法長官閣下」なのだ、と。
「失礼いたします、司法長官閣下」
深く一礼をする。顔を上げた先、大きな黒檀の文机の向こうで、清純さまが厳しい「職務中」のお顔でこちらを見ていた。
ああ、その、お顔。
国中の高官たちが、その一瞥だけで身を縮こまらせるという、司法の頂点に立つ男の顔。
ぞくぞく、と、背筋が痺れるような感覚。
同時に、胸の奥が、きゅう、と熱くなる。
なんて、素敵なお人なんだろう。
毎回、思わず見惚れそうになって我に帰る。
ぼくは、内心のときめきを完璧に押し隠し、あくまでも仕事用の冷静な声を作った。
「来季の西の庭の改修計画書と、見積もりをお持ちいたしました。ご確認を」
計画書を文机の上へ広げる。
清純さまの視線が、紙の上を滑っていく。
その鋭い、知的な光を宿した瞳。
いくつもの難解な法文を読み解いてきたその目が、今はぼくの拙い絵図を、真剣に追ってくれている。
それだけで、ぼくは毎回舞い上がってしまいそうになる。
彼の、指。
いつも夜には、ぼくの体を隅々まで優しく愛撫してくれる、その大きくて節くれだった指が、今は筆を取り、計画書の隅に何かを書き込んでいる。
ぼくの体を伝う指の感触を思い出して、くらりと眩暈(めまい)さえ、覚えそうになる。
いけない、いけない。
ぼくは内心で、かぶりを振った。
集中しなければ。
清純さまは、ぼくを一人前の職人として扱ってくれている。
その信頼に、応えなければ。
彼が与えてくれた、この立場を、ぼく自身が汚すようなことがあってはならない。
「……この、白梅の横に、紅梅を対で植える案、面白いな。予算については、問題ない。進めてくれ」
彼の低い声が、決裁を下す。
その裁きを下す者の、声。
この声が夜には、ぼくの名前を甘く呼ぶのだと思うと、膝の力が抜けそうになるのを、必死で堪えた。
「かしこまりました。では、そのように手配を進めさせていただきます」
完璧な受け答え。完璧な、仕事仲間としての振る舞い。
ぼくは計画書を畳むと、もう一度深く一礼した。そして一分の隙も見せないよう、書斎を後にする。
扉が閉まった瞬間。
ぼくは廊下の壁に背中を預け、はぁ、と大きなため息をついた。
心臓がばくばくと、うるさいくらいに、鳴っている。
ああ、駄目だ。
やっぱり、駄目だ。
いくら昼間は「仕事相手だ」と自分に言い聞かせても。
あの人の職務中の厳しいお顔を見るたびに。
威厳に満ちた、声を聞くたびに。
ぼくはどうしようもなく、この人にまた、新しく恋をしてしまうのだ。
夜の、ぼくだけに見せてくれる、甘く乱れた顔も。
昼間の、誰もがひれ伏す厳格なこの顔も。
そのすべてが、ぼくの愛する清純さまだ。
今夜が、待ち遠しい。
ぼくは、火照った頬を両手で、ぱちん、と叩いた。
そして、仕事用の顔に切り替える。
夜に、あの素敵な人をもっと、もっと骨抜きにしてあげるために。
昼間の仕事も、完璧にこなさなくては。
そんな、誰にも言えない密やかな決意を胸に。
ぼくはいそいそと、庭へと向かう足の歩みを速めるのだった。
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