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第42話:残すもの、継ぐもの
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その日、法務局は珍しく華やいだ祝賀の空気に包まれていた。
清純と同輩で、長年の友人でもある文官の長が、初孫を授かったのだ。
「いやはや、ついに私も『じいじ』と呼ばれる日が来ようとは!」
皺の刻まれた顔をこれ以上ないほどくしゃくしゃにして喜ぶ、友人の姿。
周囲の官僚たちも、口々に祝いの言葉を手向けている。
「それは誠に、おめでとうございます!」
「これで、お家も安泰ですな」
「今度ぜひ、お孫さんのお顔を拝ませてください」
清純もまたその輪に加わり、「めでたいことだ」と、短い祝いの言葉を述べた。
だがその心の内側には、誰にも気づかれぬ、静かで冷たい風が吹き始めていた。
祝いの酒宴の席で上機嫌になった友人が、清純の肩を叩いた。
「清純、お前はどうなのだ。国一番の切れ者と謳われ、司法長官にまで上り詰めたのだ……。そろそろ身を固めて、お前自身の血を残すことも考えねばならんのではないか?」
それは悪意のない、長年の友人だからこその、言葉だった。
周囲も、そうだそうだと、囃し立てる。
「閣下ほどのお方であれば、名門の姫君がよりどりみどりでしょうに」
「世継ぎのお顔を拝見できる日を、楽しみにしておりますぞ」
清純はいつものように、完璧な無表情で、その言葉のすべてを受け流した。
「私には、国に仕えること以上の望みは、ない」と。
だが、その夜。
屋敷へと戻る道すがら、清純の心は、静かな波の中にあった。
血を残す。
世継ぎ。
耳が腐るほどに言われて、飽きるほどに受け流してきた言葉だ。
ごく当たり前の幸福の形の一つ。
脳裏に浮かぶのは、春の顔。
あの陽だまりのような、笑顔。
自分を、ただひたすらに慕ってくれる、美しい青年。
彼との生活は、満ち足りている。
清純にとって、これ以上の幸せはない。
春にとってもそれは同じなのだと、彼は言ってくれていた。
ただ、最近ふと思うことがある。
春と二人で、何かを「残す」、未来に「継ぐ」ことができることは無いだろうかと。
屋敷に戻ると、春が「お帰りなさいませ」と、花のような笑顔で出迎えてくれた。
一点の曇りもない美しい笑顔を見るたびに、清純の胸は春への愛おしさで締め付けられた。
*
夕餉の後、清純は私室で一人、夜の庭を眺めていた。
考えていたのは、二人が何を残せるのか、ということ。
どれほど深く愛し合おうとも、その愛が新しい命となって生まれることはない。
春との間に子どもをもつことはできなくとも、子どもと同じくらいに尊い何かを築きあげることはできないだろうか。
それがこの先もずっと、誰かの助けや役にたつような、そんな何かを。
その考えに、ふと記憶の片隅にあった、ある案件が脳裏をよぎった。
清純は物思いから立ち上がると、壁一面を埋め尽くす書棚へと向かった。
膨大な過去の案件記録の中から、記憶の糸をたぐるように、一冊の古い綴りを取り出す。
「確か、このあたりに……」
独り言ちながら、埃っぽい頁をめくっていく。
目的の資料を、見つけ出した。
それは、彼がまだ法務局長であった頃に決裁を下した案件の中で、やけに印象に残っていたものだった。
ある、子どものいない富豪の夫婦からの、相談。
二人は自分たちの死後に残されるであろう莫大な遺産を、これまで金の無心ばかりしてきた意地汚い親戚たちではなく、身寄りのない、恵まれない子どもたちや孤児たちへ役立てたいと、寄付の手続きの相談にきたのだ。
予想通り、親戚縁者の抵抗はそれは醜いもので辟易(へきえき)させられたが、清純は法と論理を盾に、そのすべての妨害を退け、結果、夫婦の強い望み通りに遺産は孤児院の設立と、向学心のある恵まれない子たちへの奨学金として使われることになった。
記録の最後の頁に添えられていた、夫婦からの感謝の手紙を、清純はもう一度読み返す。
『私たちは、子を残すことは叶いませんでした。ですが閣下のおかげで、この財産がこれからたくさんの子たちの未来の礎となる。そう思うと、まるでたくさんの「子ども」が、できたような、そんな幸せな気持ちでございます』
夫婦の優しさが、清純の心の中にも染み渡っていった。
そうだ。
この夫婦のように、何か方法があるはずだ。
春と二人で築き上げたものを、未来の誰かのために役立てるという道が。
それを、春と二人で考えてみるのも楽しそうだ。
これから何をしようか、議論し、語り合うのも。
そうか。また楽しみが、増えるのだな。
知らぬうちに口元に笑みを浮かべていた、その時だった。
部屋の向こう、廊下をこちらへ向かってくる、愛しい恋人の気配がした。
清純は、その大切な記録の綴りを静かに閉じる。
そして春を出迎えるために、立ち上がった。
今宵は素晴らしい夜になりそうだ。
そんな予感を、胸に抱きながら。
清純と同輩で、長年の友人でもある文官の長が、初孫を授かったのだ。
「いやはや、ついに私も『じいじ』と呼ばれる日が来ようとは!」
皺の刻まれた顔をこれ以上ないほどくしゃくしゃにして喜ぶ、友人の姿。
周囲の官僚たちも、口々に祝いの言葉を手向けている。
「それは誠に、おめでとうございます!」
「これで、お家も安泰ですな」
「今度ぜひ、お孫さんのお顔を拝ませてください」
清純もまたその輪に加わり、「めでたいことだ」と、短い祝いの言葉を述べた。
だがその心の内側には、誰にも気づかれぬ、静かで冷たい風が吹き始めていた。
祝いの酒宴の席で上機嫌になった友人が、清純の肩を叩いた。
「清純、お前はどうなのだ。国一番の切れ者と謳われ、司法長官にまで上り詰めたのだ……。そろそろ身を固めて、お前自身の血を残すことも考えねばならんのではないか?」
それは悪意のない、長年の友人だからこその、言葉だった。
周囲も、そうだそうだと、囃し立てる。
「閣下ほどのお方であれば、名門の姫君がよりどりみどりでしょうに」
「世継ぎのお顔を拝見できる日を、楽しみにしておりますぞ」
清純はいつものように、完璧な無表情で、その言葉のすべてを受け流した。
「私には、国に仕えること以上の望みは、ない」と。
だが、その夜。
屋敷へと戻る道すがら、清純の心は、静かな波の中にあった。
血を残す。
世継ぎ。
耳が腐るほどに言われて、飽きるほどに受け流してきた言葉だ。
ごく当たり前の幸福の形の一つ。
脳裏に浮かぶのは、春の顔。
あの陽だまりのような、笑顔。
自分を、ただひたすらに慕ってくれる、美しい青年。
彼との生活は、満ち足りている。
清純にとって、これ以上の幸せはない。
春にとってもそれは同じなのだと、彼は言ってくれていた。
ただ、最近ふと思うことがある。
春と二人で、何かを「残す」、未来に「継ぐ」ことができることは無いだろうかと。
屋敷に戻ると、春が「お帰りなさいませ」と、花のような笑顔で出迎えてくれた。
一点の曇りもない美しい笑顔を見るたびに、清純の胸は春への愛おしさで締め付けられた。
*
夕餉の後、清純は私室で一人、夜の庭を眺めていた。
考えていたのは、二人が何を残せるのか、ということ。
どれほど深く愛し合おうとも、その愛が新しい命となって生まれることはない。
春との間に子どもをもつことはできなくとも、子どもと同じくらいに尊い何かを築きあげることはできないだろうか。
それがこの先もずっと、誰かの助けや役にたつような、そんな何かを。
その考えに、ふと記憶の片隅にあった、ある案件が脳裏をよぎった。
清純は物思いから立ち上がると、壁一面を埋め尽くす書棚へと向かった。
膨大な過去の案件記録の中から、記憶の糸をたぐるように、一冊の古い綴りを取り出す。
「確か、このあたりに……」
独り言ちながら、埃っぽい頁をめくっていく。
目的の資料を、見つけ出した。
それは、彼がまだ法務局長であった頃に決裁を下した案件の中で、やけに印象に残っていたものだった。
ある、子どものいない富豪の夫婦からの、相談。
二人は自分たちの死後に残されるであろう莫大な遺産を、これまで金の無心ばかりしてきた意地汚い親戚たちではなく、身寄りのない、恵まれない子どもたちや孤児たちへ役立てたいと、寄付の手続きの相談にきたのだ。
予想通り、親戚縁者の抵抗はそれは醜いもので辟易(へきえき)させられたが、清純は法と論理を盾に、そのすべての妨害を退け、結果、夫婦の強い望み通りに遺産は孤児院の設立と、向学心のある恵まれない子たちへの奨学金として使われることになった。
記録の最後の頁に添えられていた、夫婦からの感謝の手紙を、清純はもう一度読み返す。
『私たちは、子を残すことは叶いませんでした。ですが閣下のおかげで、この財産がこれからたくさんの子たちの未来の礎となる。そう思うと、まるでたくさんの「子ども」が、できたような、そんな幸せな気持ちでございます』
夫婦の優しさが、清純の心の中にも染み渡っていった。
そうだ。
この夫婦のように、何か方法があるはずだ。
春と二人で築き上げたものを、未来の誰かのために役立てるという道が。
それを、春と二人で考えてみるのも楽しそうだ。
これから何をしようか、議論し、語り合うのも。
そうか。また楽しみが、増えるのだな。
知らぬうちに口元に笑みを浮かべていた、その時だった。
部屋の向こう、廊下をこちらへ向かってくる、愛しい恋人の気配がした。
清純は、その大切な記録の綴りを静かに閉じる。
そして春を出迎えるために、立ち上がった。
今宵は素晴らしい夜になりそうだ。
そんな予感を、胸に抱きながら。
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