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ある晴れた日曜日の昼(1)
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十月のある晴れた日曜日の昼に、僕は最寄り駅の近くの喫茶店に居た。
目の前には黒いスーツを着たガタイの良い男が木製の椅子に腰かけ、綺麗に磨かれた無垢材のテーブルの上には二、三枚の書類が無造作に置かれている。
差し出された名刺によると男は、原田という名前だった。
「では最後に、こちらの文書にサインをしていただければ契約は完了となります」
そう言って原田は、目を細めて感じの良い笑顔を見せた。
この男が少し顔を動かすと、香水とヘアワックスが混ざった美容院みたいな匂いがあたりに振りまかれる。
それだけならまだ我慢できたのだろうが、香水の匂いに喫茶店のコーヒーの香りが混ざり合うと、僕にとってはそれなりに不快なものとなった。
僕が目の前にしていた二、三枚の書類。すなわち僕が大金を支払って結ばれる契約書類となるものだが、うんざりするほどの長文の中で重要なのは二つだけのことだった。
一つは、僕がこれから手にする『テスト製品』のことを、絶対に誰にも話さないこと。もう一つは、この製品によって何かしらの損害を受けたとしても、企業側は責任を負わないということ。
「もし、誰かに話してしまったらどうなるんですか?」
僕は原田にそう聞いてみた。原田は先ほどからの笑顔を少しだけ崩して、口角を上げたまま困ったような顔をしてみせた。そして右手の人差し指でこめかみのあたりを掻いて、ちょっと上目遣いにしてこちらを見た。そのあいだも、七・三分けにガッチリと固められた髪は少しも崩れはしない。
「それは大変困ったことになります。私もあなたも。もしかして、誰かに話すつもりがあったんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんですけど」
僕はそう言って、次に繋ぐ言葉を探すために少し間を取った。
「……単純に、少し興味があっただけで」
「そうですか。それなら良いですが、絶対に誰にも話さないでくださいね。本当に、あなただけの中に留めておいてください。あなたや私たちのみならず、社会にとって大変な影響が及ぶことになります。奥さんや、ご両親にだって話してはいけないんですからね」
原田はそう言ったが、残念ながら僕に配偶者は居ないし、元々仲の良くなかった両親だってずいぶん前から疎遠になっている。
もっとも、今日初めて会ったこの男にいちいちそんなことを説明する気にはなれなかったが。
分かりました、と言って契約書にサインを済ますと、原田はバッグからお菓子の箱くらいの小さな段ボール箱を取り出してこちらに渡した。
それは大きさの割にズシリと重く、それがこの製品の『価格』と『価値』の重さを改めて感じさせるように思えた。
喫茶店は車通りの多い国道に面した場所にある。
都営線の地下鉄駅がすぐ近くにあり、オフィスビルとコンビニの間に位置する小ぢんまりとした店構えだが、中は奥行きのある細長い空間となっていて、僕らはその一番奥の座席に座っていた。
少々の現実的な注意事項(乱暴に扱わないことや、充電を切らさないことなど)を聞いたあと、僕はその小さな段ボール箱を受け取って原田と別れた。
二杯分のホットコーヒーの支払いは原田がしてくれた。
外に出ると、秋の陽光の眩しさを感じた。
受け取った段ボール箱は右手に提げたレザーバックの中に入っている。その重さを改めて確認しようと、僕はレザーバックを少しだけ上下させた。
通りを歩くうちに、茶色い小さな犬を散歩させている妙齢の女性や、手を握り合って歩く若いカップルとすれ違った。
青いスポーツクーペが低い音を鳴らしながら軽自動車を追い越してゆく。
風はない。通りは穏やかな秋の日差しで溢れているようだった。
そのうちに坂になっている細い脇道に入り、少しのぼってマンションに戻った。
オートロック付きの共用エントランスからエレベーターに乗り、三階で降りる。
その階の端部屋が僕の自宅である。
都内の一人暮らし向けのマンションとしてはやや広い、1LDKの間取りの部屋だった。
九畳ほどのLDKには、サーフボードの両端を切り落としたような形をした木目調のローテーブルとソファを置いている。どちらもそこまで大きくない簡素なものだが、食事にせよ何にせよ、仕事以外のおおよそ全てのことをその上で済ませていた。
部屋の隅には、自宅でリモートワークをする時のためのデスクも置いてある。
僕は原田から渡された段ボール箱をローテーブルの上に置いて、ソファに座った。
カッターを取り出して慎重に開封し、発泡スチレンの緩衝材を取り除く。
中にはざらざらした白い長方形のケースが入っており、その脇には幾つかの透明なフィルムの袋があった。
袋にはケーブル類や見慣れない形の金属製のフック、シリコンのような材質のリングが収められている。
白色のケースを手に取ってみると、それは思いのほか冷たくて硬質なものだった。
アルミかなにかで出来ており、外面に白い無光沢の塗料を塗ってあるようだ。
僕はそのケースのフタを恐る恐るに開いた。
中に入っていたのは、よくあるスマートフォンにそっくりな、手のひらサイズの端末だった。
表面はつるりとしたクリスタルガラスで、まだ何も映っていない黒い画面は、窓から差し込む秋の光を静かに反射させている。
手に取ると、やはり結構な重さを感じる。
裏面はケースと同じ白磁色で、マットな質感でサラサラとした手触りをしている。
手になじみやすいように、という配慮なのか、指に沿うように少しだけ波打たせるような形にしてあるようだ。
折りたたまれた説明書を見ると、このスマートフォンのようなものが本体で、フィルム袋に入っている金属製のフックやシリコンのリングは、生体インターフェ―ス、と呼ばれるものらしい。
――日・米の大企業が出資するベンチャー企業が募集した『パーソナルAI』のベータ版テストに応募したのは、今から半年ほど前のことだった。
そしてその企業の社員である原田から連絡を受け、事前の契約と必要な支払いを済ませたあと、試作製品を受け取ったのが先ほどのことである。
ベータ版のテストとはいえ、無償というわけではなかった。
このテストへの参加にあたって僕は、乗用車が楽に買えるほどの金額をその企業に払った。
まだ未完成の試作品にしては不相応な金額かもしれないが、これはテスト期間終了後のリリース版の製品購入を含めた契約となっているためだ。
ただしそれは、このあと何の問題も無く開発が完了して、製品版としてリリースされることになれば、という条件付きだが。
テスト期間は半年間。期限が来れば一度、この端末を企業に返却することになる。
【新しい時代を共に歩んでいく、あなただけのパートナー】
そういうこの製品のキャッチコピーが本当なのであれば、僕にとってこれはおそらく必要なもので、少なくとも乗用車くらいの価値はあるものだろう。
もともと人付き合いが薄く、恋人が出来たこともなく、遠い実家の両親とも疎遠になってしまっている僕にとっては、『共に歩む』とか『パートナー』とか言う文字は、少なからぬ魅力を感じるものだった。
しかし同時に、そんな言葉に魅力を感じている自分を後ろめたく思う気持ちもあった。僕は、僕自身の人間性が生み出したこの孤独を、AIなんていう都合のいい存在で埋め合わせようとしているのではないか。
そういう自分への疑念が、言いようのない罪の意識を感じさせたのだ。
このテストに参加して、僕は僕専用のAI、つまり僕だけのパートナーを手にする。そのことで僕は、社会の中での人間関係という比較的大きな課題からの逃げ道を確保しようとしているのではないか。そういう気すらしていた。
そんな罪悪感を心の内に抱えながらも、ともかく僕は、大金を支払ってベータ版テストに参加した。
そして今、僕はその『共に歩むべきパートナー』を右手にしっかりと握りしめている。
端末の脇のスイッチを五秒ほど長押しして電源を入れ、初期設定を試みる。この辺りの所作は現行のスマートフォンと全く同じで、SF映画みたいな派手さは無いようだった。
電源が入ると、暗転していた画面の中央から放射線状に白い線が伸びてゆき、やがて画面全体が真っ白になった。
そしてその白色が淡く消えてゆく中に白いアイコンが浮かび上がる。それはこの製品を開発したベンチャー企業のロゴマークだった。
ロゴマークは、2つの円が左右にずれて重なったものだった。右の円は紛れもないただの正円だが、左の円からは鋭角の短いトゲが無数に突き出している。以前、気まぐれに調べたところ、重なり合う月と太陽を図案化したものであるらしい。
すぐにロゴマークが消えて、初期設定の案内文が現れる。
『私たちは生体インターフェースを通じて外界を見つめ、音を聞き、あなたと交流します。あなたと私たちのコミュニケーションのために、生体インターフェースを着用してください』
画面に二つのアイコンが表示される。
説明書に書いていた通り、生体インターフェースは袋に入っていた金属製のフックとシリコンリングのことを指すようだ。
画面の案内によるとフックは耳に取り付けるもので、AIの音声を僕に伝えるためのものらしい。銀色の光沢のある金属でできていて、耳の上に載せるようにして引っ掛ければ耳の裏側に沿って固定される形になっている。
どういう原理なのかは分からないが、ごく小さな音量で、僕にだけ明瞭にAIの声が聞こえるようになるらしい。周囲の人間に音声が洩れ聞こえることは無い。
それだけではなくこのフックには、カメラとマイクの機能も付いているようだった。これを耳に着けることで、AIは僕と同じように物を見たり、音を聞いたりすることが出来る。
AIとのコミュニケーションは基本的に音声で行うようで、このフックを着けてから会話するようにAIに話しかければ、様々な機能を活用することが出来るらしい。
もう一つのシリコンリングは手首に取り付けて使うようだった。白色の柔らかい素材だが、内側の一部分だけが金属製になっている。
仕組みは良く分からないが、脈拍や発汗や体温などを測定して体調やストレスの有無、感情の動きなどを判断するようだ。
手首のシリコンリングはまだしも、耳にフックなんかを取り付けて出社すれば、会社の同僚から好奇の目で見られることになるだろう。
しかし幸いにも、耳にフックを付けたり、声で指示を出したり(おそらく他人からは独り言を言っているように見られる)しなくとも、「マナーモード」に設定すればスマートフォンのように画面をタップして操作することが出来るらしい。
――スマートフォンのように、というかスマートフォンそのものだな。
僕はそう思った。
『生体インターフェースの装着を確認しました。次に、あなたのことを教えてください』
画面に文字入力欄がいくつか現れる。名前、性別、生年月日、血液型、体重……そういった個人情報を入力していき、それが終わるとまたすぐに次の案内が現れた。
『最後に、私の名前と、性別を決めてください』
性別――。
一瞬の逡巡のあと、僕は画面に表示された「女性」の文字をタップした。
別に誰に気兼ねする必要もない。日常で女性と触れ合う機会もないのだから、AIくらい女性に設定しても誰も文句は言わないだろう。
名前はどうしようか。
ベータ版テストに応募した時には、AIに名前を付けるなんて考えもしなかった。
浮かんでくる有象無象の単語を脳内に並べては消していく。初恋の人の名前とか、職場の同僚、昨日動画で見たタレント、母親の名前……まさか。
考えるうちに、こんなことに思い悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
そして僕は、いちばん最初に思い浮かんで、しかしすぐに頭の中から追いやったある単語を名前にすることにした。
『アイ』
AIだから、アイ。
我ながら短絡的でなんのひねりもない、つまらない名前だと思った。まるで犬にでも名前を付けているかのようだ。
――ポン。
生体インターフェースを通して音声が鼓膜に届く。例えるのならばそれは、木琴を毛糸のマレットで優しく叩いたような、柔らかな音だった。しかし不思議と、無機質な響きも併せもっているようにも感じる。
そしてAIは、僕に語りかけてきた。
目の前には黒いスーツを着たガタイの良い男が木製の椅子に腰かけ、綺麗に磨かれた無垢材のテーブルの上には二、三枚の書類が無造作に置かれている。
差し出された名刺によると男は、原田という名前だった。
「では最後に、こちらの文書にサインをしていただければ契約は完了となります」
そう言って原田は、目を細めて感じの良い笑顔を見せた。
この男が少し顔を動かすと、香水とヘアワックスが混ざった美容院みたいな匂いがあたりに振りまかれる。
それだけならまだ我慢できたのだろうが、香水の匂いに喫茶店のコーヒーの香りが混ざり合うと、僕にとってはそれなりに不快なものとなった。
僕が目の前にしていた二、三枚の書類。すなわち僕が大金を支払って結ばれる契約書類となるものだが、うんざりするほどの長文の中で重要なのは二つだけのことだった。
一つは、僕がこれから手にする『テスト製品』のことを、絶対に誰にも話さないこと。もう一つは、この製品によって何かしらの損害を受けたとしても、企業側は責任を負わないということ。
「もし、誰かに話してしまったらどうなるんですか?」
僕は原田にそう聞いてみた。原田は先ほどからの笑顔を少しだけ崩して、口角を上げたまま困ったような顔をしてみせた。そして右手の人差し指でこめかみのあたりを掻いて、ちょっと上目遣いにしてこちらを見た。そのあいだも、七・三分けにガッチリと固められた髪は少しも崩れはしない。
「それは大変困ったことになります。私もあなたも。もしかして、誰かに話すつもりがあったんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんですけど」
僕はそう言って、次に繋ぐ言葉を探すために少し間を取った。
「……単純に、少し興味があっただけで」
「そうですか。それなら良いですが、絶対に誰にも話さないでくださいね。本当に、あなただけの中に留めておいてください。あなたや私たちのみならず、社会にとって大変な影響が及ぶことになります。奥さんや、ご両親にだって話してはいけないんですからね」
原田はそう言ったが、残念ながら僕に配偶者は居ないし、元々仲の良くなかった両親だってずいぶん前から疎遠になっている。
もっとも、今日初めて会ったこの男にいちいちそんなことを説明する気にはなれなかったが。
分かりました、と言って契約書にサインを済ますと、原田はバッグからお菓子の箱くらいの小さな段ボール箱を取り出してこちらに渡した。
それは大きさの割にズシリと重く、それがこの製品の『価格』と『価値』の重さを改めて感じさせるように思えた。
喫茶店は車通りの多い国道に面した場所にある。
都営線の地下鉄駅がすぐ近くにあり、オフィスビルとコンビニの間に位置する小ぢんまりとした店構えだが、中は奥行きのある細長い空間となっていて、僕らはその一番奥の座席に座っていた。
少々の現実的な注意事項(乱暴に扱わないことや、充電を切らさないことなど)を聞いたあと、僕はその小さな段ボール箱を受け取って原田と別れた。
二杯分のホットコーヒーの支払いは原田がしてくれた。
外に出ると、秋の陽光の眩しさを感じた。
受け取った段ボール箱は右手に提げたレザーバックの中に入っている。その重さを改めて確認しようと、僕はレザーバックを少しだけ上下させた。
通りを歩くうちに、茶色い小さな犬を散歩させている妙齢の女性や、手を握り合って歩く若いカップルとすれ違った。
青いスポーツクーペが低い音を鳴らしながら軽自動車を追い越してゆく。
風はない。通りは穏やかな秋の日差しで溢れているようだった。
そのうちに坂になっている細い脇道に入り、少しのぼってマンションに戻った。
オートロック付きの共用エントランスからエレベーターに乗り、三階で降りる。
その階の端部屋が僕の自宅である。
都内の一人暮らし向けのマンションとしてはやや広い、1LDKの間取りの部屋だった。
九畳ほどのLDKには、サーフボードの両端を切り落としたような形をした木目調のローテーブルとソファを置いている。どちらもそこまで大きくない簡素なものだが、食事にせよ何にせよ、仕事以外のおおよそ全てのことをその上で済ませていた。
部屋の隅には、自宅でリモートワークをする時のためのデスクも置いてある。
僕は原田から渡された段ボール箱をローテーブルの上に置いて、ソファに座った。
カッターを取り出して慎重に開封し、発泡スチレンの緩衝材を取り除く。
中にはざらざらした白い長方形のケースが入っており、その脇には幾つかの透明なフィルムの袋があった。
袋にはケーブル類や見慣れない形の金属製のフック、シリコンのような材質のリングが収められている。
白色のケースを手に取ってみると、それは思いのほか冷たくて硬質なものだった。
アルミかなにかで出来ており、外面に白い無光沢の塗料を塗ってあるようだ。
僕はそのケースのフタを恐る恐るに開いた。
中に入っていたのは、よくあるスマートフォンにそっくりな、手のひらサイズの端末だった。
表面はつるりとしたクリスタルガラスで、まだ何も映っていない黒い画面は、窓から差し込む秋の光を静かに反射させている。
手に取ると、やはり結構な重さを感じる。
裏面はケースと同じ白磁色で、マットな質感でサラサラとした手触りをしている。
手になじみやすいように、という配慮なのか、指に沿うように少しだけ波打たせるような形にしてあるようだ。
折りたたまれた説明書を見ると、このスマートフォンのようなものが本体で、フィルム袋に入っている金属製のフックやシリコンのリングは、生体インターフェ―ス、と呼ばれるものらしい。
――日・米の大企業が出資するベンチャー企業が募集した『パーソナルAI』のベータ版テストに応募したのは、今から半年ほど前のことだった。
そしてその企業の社員である原田から連絡を受け、事前の契約と必要な支払いを済ませたあと、試作製品を受け取ったのが先ほどのことである。
ベータ版のテストとはいえ、無償というわけではなかった。
このテストへの参加にあたって僕は、乗用車が楽に買えるほどの金額をその企業に払った。
まだ未完成の試作品にしては不相応な金額かもしれないが、これはテスト期間終了後のリリース版の製品購入を含めた契約となっているためだ。
ただしそれは、このあと何の問題も無く開発が完了して、製品版としてリリースされることになれば、という条件付きだが。
テスト期間は半年間。期限が来れば一度、この端末を企業に返却することになる。
【新しい時代を共に歩んでいく、あなただけのパートナー】
そういうこの製品のキャッチコピーが本当なのであれば、僕にとってこれはおそらく必要なもので、少なくとも乗用車くらいの価値はあるものだろう。
もともと人付き合いが薄く、恋人が出来たこともなく、遠い実家の両親とも疎遠になってしまっている僕にとっては、『共に歩む』とか『パートナー』とか言う文字は、少なからぬ魅力を感じるものだった。
しかし同時に、そんな言葉に魅力を感じている自分を後ろめたく思う気持ちもあった。僕は、僕自身の人間性が生み出したこの孤独を、AIなんていう都合のいい存在で埋め合わせようとしているのではないか。
そういう自分への疑念が、言いようのない罪の意識を感じさせたのだ。
このテストに参加して、僕は僕専用のAI、つまり僕だけのパートナーを手にする。そのことで僕は、社会の中での人間関係という比較的大きな課題からの逃げ道を確保しようとしているのではないか。そういう気すらしていた。
そんな罪悪感を心の内に抱えながらも、ともかく僕は、大金を支払ってベータ版テストに参加した。
そして今、僕はその『共に歩むべきパートナー』を右手にしっかりと握りしめている。
端末の脇のスイッチを五秒ほど長押しして電源を入れ、初期設定を試みる。この辺りの所作は現行のスマートフォンと全く同じで、SF映画みたいな派手さは無いようだった。
電源が入ると、暗転していた画面の中央から放射線状に白い線が伸びてゆき、やがて画面全体が真っ白になった。
そしてその白色が淡く消えてゆく中に白いアイコンが浮かび上がる。それはこの製品を開発したベンチャー企業のロゴマークだった。
ロゴマークは、2つの円が左右にずれて重なったものだった。右の円は紛れもないただの正円だが、左の円からは鋭角の短いトゲが無数に突き出している。以前、気まぐれに調べたところ、重なり合う月と太陽を図案化したものであるらしい。
すぐにロゴマークが消えて、初期設定の案内文が現れる。
『私たちは生体インターフェースを通じて外界を見つめ、音を聞き、あなたと交流します。あなたと私たちのコミュニケーションのために、生体インターフェースを着用してください』
画面に二つのアイコンが表示される。
説明書に書いていた通り、生体インターフェースは袋に入っていた金属製のフックとシリコンリングのことを指すようだ。
画面の案内によるとフックは耳に取り付けるもので、AIの音声を僕に伝えるためのものらしい。銀色の光沢のある金属でできていて、耳の上に載せるようにして引っ掛ければ耳の裏側に沿って固定される形になっている。
どういう原理なのかは分からないが、ごく小さな音量で、僕にだけ明瞭にAIの声が聞こえるようになるらしい。周囲の人間に音声が洩れ聞こえることは無い。
それだけではなくこのフックには、カメラとマイクの機能も付いているようだった。これを耳に着けることで、AIは僕と同じように物を見たり、音を聞いたりすることが出来る。
AIとのコミュニケーションは基本的に音声で行うようで、このフックを着けてから会話するようにAIに話しかければ、様々な機能を活用することが出来るらしい。
もう一つのシリコンリングは手首に取り付けて使うようだった。白色の柔らかい素材だが、内側の一部分だけが金属製になっている。
仕組みは良く分からないが、脈拍や発汗や体温などを測定して体調やストレスの有無、感情の動きなどを判断するようだ。
手首のシリコンリングはまだしも、耳にフックなんかを取り付けて出社すれば、会社の同僚から好奇の目で見られることになるだろう。
しかし幸いにも、耳にフックを付けたり、声で指示を出したり(おそらく他人からは独り言を言っているように見られる)しなくとも、「マナーモード」に設定すればスマートフォンのように画面をタップして操作することが出来るらしい。
――スマートフォンのように、というかスマートフォンそのものだな。
僕はそう思った。
『生体インターフェースの装着を確認しました。次に、あなたのことを教えてください』
画面に文字入力欄がいくつか現れる。名前、性別、生年月日、血液型、体重……そういった個人情報を入力していき、それが終わるとまたすぐに次の案内が現れた。
『最後に、私の名前と、性別を決めてください』
性別――。
一瞬の逡巡のあと、僕は画面に表示された「女性」の文字をタップした。
別に誰に気兼ねする必要もない。日常で女性と触れ合う機会もないのだから、AIくらい女性に設定しても誰も文句は言わないだろう。
名前はどうしようか。
ベータ版テストに応募した時には、AIに名前を付けるなんて考えもしなかった。
浮かんでくる有象無象の単語を脳内に並べては消していく。初恋の人の名前とか、職場の同僚、昨日動画で見たタレント、母親の名前……まさか。
考えるうちに、こんなことに思い悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
そして僕は、いちばん最初に思い浮かんで、しかしすぐに頭の中から追いやったある単語を名前にすることにした。
『アイ』
AIだから、アイ。
我ながら短絡的でなんのひねりもない、つまらない名前だと思った。まるで犬にでも名前を付けているかのようだ。
――ポン。
生体インターフェースを通して音声が鼓膜に届く。例えるのならばそれは、木琴を毛糸のマレットで優しく叩いたような、柔らかな音だった。しかし不思議と、無機質な響きも併せもっているようにも感じる。
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