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第3章 1
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姉を、恐怖していた。
姉が僕の前から消えて以来、僕の日常は姉のいない日常として、外面的には今までと然したる変化のないまま淡々と流れていき、気がつけば新しい環境の中に一人放り込まれ、新しい生活と新しい友人に囲まれながら、その一方で名家の後継息子として首からぶら下げられた重たい看板に内心辟易しながらも、結局はただ淡々と流れていくばかりの日常を皆の前で取り繕っていた。
しかし、その水面下では、喫水線上の平衡を保つため船が腐ったバラスト水を排出するように意識の外に捨て去ったもの――かつて自分を浅ましい醜貌に貶めていた汚らわしい劣情とそれに対する嫌悪、当時の思い出に纏わるものを一切合切禁忌として水底深く沈め、永久に封印しようとしていた負の記憶を密かに食みながら、着実に成長と変貌を遂げる怪物が息を潜めていた。
まるで共食いのように負の感情を喰らい続けた負からなる怪物は、貪欲にも更なる餌食となる犠牲を求め、船乗りを脅かす大海蛇のように時折水面に顔を覗かせては、平穏な航海に動揺をもたらした。
そして、時の流れとともにいずれ拙い思い出の一つとして希釈されるべきはずの姉への恐怖はむしろ日を追う毎に膨張と変貌を続け、それを意識し忌避しようとすればするほど、姉の影はその色を増しながら僕の精神を徐々に暗く侵食し、やがて実在の身体を得たかのように、怪物は己の足でひたひたと歩き、遂に僕の前に姿を現すに至り、変貌の限りを遂げた忌まわしいものは怪物の手によって開放され、腐水のように容赦なく僕の上に降り注いだ。
そして、毎夜のように怪物は僕の前に現れ、それは悪夢となり、淫夢となり、姿を変えながら僕を責苛んだ。
その蛇のように深い妄執は、僕を、僕自身を猥らな欲望の虜にし、僕は狂ったように自涜に興じ、毒のように濁った快楽に溺れた。
存在しないものに、たかが妄想の産物に何度冒涜の泥を塗ろうとも、一体何に対して呵責を覚えるというのか。――そんな開き直りが、かつてあれほど僕を苦しめた自身への呵責、罪の露顕に対する恐れ、そういった平穏を保つために敢えて傍に残した負の感情までも怪物の餌食として貪られつつあった。それは不思議と、別の種類の平穏をもたらすこともあった。しかし、それも結局は新たな不逞を上塗りしたまやかしの平穏に過ぎなかったのだが。
そういった負と負の拮抗の煩悶のあまり、僕は部屋の前の全ての雨戸を閉め切り、昼間でも明かりを灯して過ごそうかと試みたほどだった。一人きりになりたかった。しかし、一人きりになると水面下から白波を擡げる離岸流のようなものが僕を連れ去りに来るようで恐ろしかった。夢魔の捕縛の手は、ともすると夜のみならず白昼にいても僕を禁断の彼の地へいざなおうと隙を伺い、これみよがしに牝狩人の吐息を僕の首筋に吹きかけるのだった。
誘惑から理性を防御するため、僕は姉の持ち物だった詩集を耽読した。隅から隅まで一言一句暗記できるほど熟読した。
この詩人の書く孤独、寂寥の感はひどく僕の心を打った。
姉が僕の前から消えて以来、僕の日常は姉のいない日常として、外面的には今までと然したる変化のないまま淡々と流れていき、気がつけば新しい環境の中に一人放り込まれ、新しい生活と新しい友人に囲まれながら、その一方で名家の後継息子として首からぶら下げられた重たい看板に内心辟易しながらも、結局はただ淡々と流れていくばかりの日常を皆の前で取り繕っていた。
しかし、その水面下では、喫水線上の平衡を保つため船が腐ったバラスト水を排出するように意識の外に捨て去ったもの――かつて自分を浅ましい醜貌に貶めていた汚らわしい劣情とそれに対する嫌悪、当時の思い出に纏わるものを一切合切禁忌として水底深く沈め、永久に封印しようとしていた負の記憶を密かに食みながら、着実に成長と変貌を遂げる怪物が息を潜めていた。
まるで共食いのように負の感情を喰らい続けた負からなる怪物は、貪欲にも更なる餌食となる犠牲を求め、船乗りを脅かす大海蛇のように時折水面に顔を覗かせては、平穏な航海に動揺をもたらした。
そして、時の流れとともにいずれ拙い思い出の一つとして希釈されるべきはずの姉への恐怖はむしろ日を追う毎に膨張と変貌を続け、それを意識し忌避しようとすればするほど、姉の影はその色を増しながら僕の精神を徐々に暗く侵食し、やがて実在の身体を得たかのように、怪物は己の足でひたひたと歩き、遂に僕の前に姿を現すに至り、変貌の限りを遂げた忌まわしいものは怪物の手によって開放され、腐水のように容赦なく僕の上に降り注いだ。
そして、毎夜のように怪物は僕の前に現れ、それは悪夢となり、淫夢となり、姿を変えながら僕を責苛んだ。
その蛇のように深い妄執は、僕を、僕自身を猥らな欲望の虜にし、僕は狂ったように自涜に興じ、毒のように濁った快楽に溺れた。
存在しないものに、たかが妄想の産物に何度冒涜の泥を塗ろうとも、一体何に対して呵責を覚えるというのか。――そんな開き直りが、かつてあれほど僕を苦しめた自身への呵責、罪の露顕に対する恐れ、そういった平穏を保つために敢えて傍に残した負の感情までも怪物の餌食として貪られつつあった。それは不思議と、別の種類の平穏をもたらすこともあった。しかし、それも結局は新たな不逞を上塗りしたまやかしの平穏に過ぎなかったのだが。
そういった負と負の拮抗の煩悶のあまり、僕は部屋の前の全ての雨戸を閉め切り、昼間でも明かりを灯して過ごそうかと試みたほどだった。一人きりになりたかった。しかし、一人きりになると水面下から白波を擡げる離岸流のようなものが僕を連れ去りに来るようで恐ろしかった。夢魔の捕縛の手は、ともすると夜のみならず白昼にいても僕を禁断の彼の地へいざなおうと隙を伺い、これみよがしに牝狩人の吐息を僕の首筋に吹きかけるのだった。
誘惑から理性を防御するため、僕は姉の持ち物だった詩集を耽読した。隅から隅まで一言一句暗記できるほど熟読した。
この詩人の書く孤独、寂寥の感はひどく僕の心を打った。
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