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第5章 4
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(……やっと辿り着いたよ、お姉さま)
積雪に足を滑らさないようクヌギの裸木に掴まりながら、僕は麓を見下ろした。
(ありがとう、神様を見せてくれて)
ここにはいない夏衣の少女に向かってお礼を言った。
……これが、この村が出来るずっと以前から、遥か昔からこの里を氾濫や渇水から守り続けてきたという「鎮守の森の蛇姫」の正体だった。
橙色に染まる川面の上で、今もゆらゆらと揺蕩いながら、美しい真っ白な肢体を伸ばし遊んでいる蛇姫の姿に、僕ははっきりと悟った。
僕たちが悪夢に惑わされ、淫蕩と凌辱の責め苦を負わされているのは、かつて祖父が祠を壊し、蛇姫の怒りを買ったがためではなかった。
この地に潜んでいた、もっとおぞましく悪意に満ちた何物かが、古の素朴な人々の心の拠り所であった神域を侵されたことで真っ黒な口を開け、村の人間たちの目を惑わせ心を狂わせ、未だ生まれてもいない僕たち姉弟を底知れぬ深淵の闇へと飲み込んでしまったのだ、と。
不意に冷たい風が吹き、足元の雪を舞い上がらせた。
遥か麓を流れる水面も大きく揺れ、こちらに気づいた蛇姫が首を擡げ、どうしたの?と首を傾げているように見えた。
僕は不思議そうな顔をしてこちらを見つめる蛇姫に手を合わせ、祈った。
(……どうか、僕たち姉弟をお救いください。お姉さまを護る力を僕にください)
目を開けると、既に橙色から紫色に変わろうとしている川面から、真っ白な蛇の姿は跡形もなく消え失せていた。
菫色の雪道を下りながら、姉と僕に纏わる様々なことに思いを馳せていた。
僕は今まで自分を恐怖と悔恨の記憶の中に束縛し、そして抗えぬ、逃れられぬ淫らで忌まわしい悪夢の中へ虜にしていたのは、白蛇の魔物に取り憑かれ正気を失った姉の妄執によるものだとずっと惑わされてきた。
それ故に僕は姉を恐れ、自身の中でひっそりと産声を上げとぐろを巻く暗い負の怪物を恐れるあまり祖父たちの言いなりに姉の存在を自身の中から抹消し、ただ彼らの望むままに一高、帝大へと進み、慌ただしくも淡々と流れていくばかりの日常の中に逃れようと試み、そして結局は悪夢から逃れることはできなかった。
しかし、それらは全て、姉を騙った化け物の企みだった。
僕が今までずっと恐怖し、忌避していた魔性は、僕の姉ではなかったのだ。
……では、本当のお姉さまは?
先日、律が訪れた時の顛末を思い出す。
律の最後の謝罪の間、僕は何度も「違います、誤解です」と割って入ろうかと思った。写真はうっかり持って帰って来てしまったものだし、当時僕は、姉に……いや、ずっと姉の姿形を騙っていた淫らな魔物に対し別の感情――恐怖とそれらに纏わる煩悶で苦しんでいたのだ。
しかし、……ああ! 何が恐怖と煩悶だ。そんな七面倒相手にずっと馬鹿みたいに一人で踊っていて、恥ずかしながら律に指摘されるまで、こんな単純なことに気づかなかったなんて。
生まれて初めて、僕は胸の底から吹き出しそうになった。
(……ああ、そうか。あははっ! これが「笑いがこみ上げる」って気持ちなんだ!)
慣れない顔筋の伸縮で顔中が痛い。自分の頓馬振りが馬鹿馬鹿しくて涙が出そうになる。そうだ、本当に何のことはない。
初めて姉と言葉を交わした日。きっと姉も、初めて弟の方から声をかけられて舞い上がっていたのだろう。突拍子のない話を唐突にしてしまい、弟を吃驚させてしまったことをずっと気にしていて、やっと再び弟と二人きりになれる機会が訪れると、神妙な顔で辺りに邪魔者がいないのを確認し、にっこりと笑ってこう言った。
――遊びに行きましょう
そして、真夏の照りつける日差しの中、姉は初めて好きな人と連れ立って出かけるのが嬉しくて仕方なくて、上機嫌に鼻歌を歌いながら、自分のとっておきの場所へと向かう。
ここを見せてあげたら、次はどこに連れて行ってみようか。明日のこと、その先のことに思いを馳せると、それだけで楽しくて、どうしようもなく幸せだった。
村中の嫉妬と欲気を幼い一身に浴びながら、祖父から残酷な仕打ちを受けながら、それでも無邪気に微笑んでいた、この世で一番可憐な少女。
――こんなに綺麗な人だったんだ……
思わず息を呑んで立ち止まり、ひとり静かに水面と戯れる年上の少女にただ見惚れていた十一年前の夏。――それは長い悪夢の始まりでもあり、そして、僕の初恋でもあった。
きっと、初めて姉を間近に見つけた、あの一瞬に抱いた激しい胸の高鳴りこそが、僕自身の――ずっと悪い夢の中に埋もれ、忘れていた真実の気持ちだったのだ。
……僕は、お姉さまが大好きなんだ。
姉を――刀子を、ずっと前から愛していたのだ。
積雪に足を滑らさないようクヌギの裸木に掴まりながら、僕は麓を見下ろした。
(ありがとう、神様を見せてくれて)
ここにはいない夏衣の少女に向かってお礼を言った。
……これが、この村が出来るずっと以前から、遥か昔からこの里を氾濫や渇水から守り続けてきたという「鎮守の森の蛇姫」の正体だった。
橙色に染まる川面の上で、今もゆらゆらと揺蕩いながら、美しい真っ白な肢体を伸ばし遊んでいる蛇姫の姿に、僕ははっきりと悟った。
僕たちが悪夢に惑わされ、淫蕩と凌辱の責め苦を負わされているのは、かつて祖父が祠を壊し、蛇姫の怒りを買ったがためではなかった。
この地に潜んでいた、もっとおぞましく悪意に満ちた何物かが、古の素朴な人々の心の拠り所であった神域を侵されたことで真っ黒な口を開け、村の人間たちの目を惑わせ心を狂わせ、未だ生まれてもいない僕たち姉弟を底知れぬ深淵の闇へと飲み込んでしまったのだ、と。
不意に冷たい風が吹き、足元の雪を舞い上がらせた。
遥か麓を流れる水面も大きく揺れ、こちらに気づいた蛇姫が首を擡げ、どうしたの?と首を傾げているように見えた。
僕は不思議そうな顔をしてこちらを見つめる蛇姫に手を合わせ、祈った。
(……どうか、僕たち姉弟をお救いください。お姉さまを護る力を僕にください)
目を開けると、既に橙色から紫色に変わろうとしている川面から、真っ白な蛇の姿は跡形もなく消え失せていた。
菫色の雪道を下りながら、姉と僕に纏わる様々なことに思いを馳せていた。
僕は今まで自分を恐怖と悔恨の記憶の中に束縛し、そして抗えぬ、逃れられぬ淫らで忌まわしい悪夢の中へ虜にしていたのは、白蛇の魔物に取り憑かれ正気を失った姉の妄執によるものだとずっと惑わされてきた。
それ故に僕は姉を恐れ、自身の中でひっそりと産声を上げとぐろを巻く暗い負の怪物を恐れるあまり祖父たちの言いなりに姉の存在を自身の中から抹消し、ただ彼らの望むままに一高、帝大へと進み、慌ただしくも淡々と流れていくばかりの日常の中に逃れようと試み、そして結局は悪夢から逃れることはできなかった。
しかし、それらは全て、姉を騙った化け物の企みだった。
僕が今までずっと恐怖し、忌避していた魔性は、僕の姉ではなかったのだ。
……では、本当のお姉さまは?
先日、律が訪れた時の顛末を思い出す。
律の最後の謝罪の間、僕は何度も「違います、誤解です」と割って入ろうかと思った。写真はうっかり持って帰って来てしまったものだし、当時僕は、姉に……いや、ずっと姉の姿形を騙っていた淫らな魔物に対し別の感情――恐怖とそれらに纏わる煩悶で苦しんでいたのだ。
しかし、……ああ! 何が恐怖と煩悶だ。そんな七面倒相手にずっと馬鹿みたいに一人で踊っていて、恥ずかしながら律に指摘されるまで、こんな単純なことに気づかなかったなんて。
生まれて初めて、僕は胸の底から吹き出しそうになった。
(……ああ、そうか。あははっ! これが「笑いがこみ上げる」って気持ちなんだ!)
慣れない顔筋の伸縮で顔中が痛い。自分の頓馬振りが馬鹿馬鹿しくて涙が出そうになる。そうだ、本当に何のことはない。
初めて姉と言葉を交わした日。きっと姉も、初めて弟の方から声をかけられて舞い上がっていたのだろう。突拍子のない話を唐突にしてしまい、弟を吃驚させてしまったことをずっと気にしていて、やっと再び弟と二人きりになれる機会が訪れると、神妙な顔で辺りに邪魔者がいないのを確認し、にっこりと笑ってこう言った。
――遊びに行きましょう
そして、真夏の照りつける日差しの中、姉は初めて好きな人と連れ立って出かけるのが嬉しくて仕方なくて、上機嫌に鼻歌を歌いながら、自分のとっておきの場所へと向かう。
ここを見せてあげたら、次はどこに連れて行ってみようか。明日のこと、その先のことに思いを馳せると、それだけで楽しくて、どうしようもなく幸せだった。
村中の嫉妬と欲気を幼い一身に浴びながら、祖父から残酷な仕打ちを受けながら、それでも無邪気に微笑んでいた、この世で一番可憐な少女。
――こんなに綺麗な人だったんだ……
思わず息を呑んで立ち止まり、ひとり静かに水面と戯れる年上の少女にただ見惚れていた十一年前の夏。――それは長い悪夢の始まりでもあり、そして、僕の初恋でもあった。
きっと、初めて姉を間近に見つけた、あの一瞬に抱いた激しい胸の高鳴りこそが、僕自身の――ずっと悪い夢の中に埋もれ、忘れていた真実の気持ちだったのだ。
……僕は、お姉さまが大好きなんだ。
姉を――刀子を、ずっと前から愛していたのだ。
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