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序 約束
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文治五年(一一八九)、初春。平泉金鶏山裾野。
「……高衡様。風邪を召されてしまいますよ?」
一通りの鍛錬を終え、雪原にごろりと寝転んで白い息を荒げながら冬の高い空を眺めていた高衡が、頭上から呼びかける声に慌てて起き上がった。
「失礼仕った!」
悪戯を見つけられた童児のようにぱっぱっと身体に着いた雪を払い除ける様子に、彼の剣の師匠であり好敵手――皆鶴が、ふっ、と微笑を漏らした。
暦の上では春とはいえ、この北の地では冬の寒さはこれからが山場である。
時折吹きすさぶ風が刺すように冷たい。
「昼餉の席に御姿が見えなかったので、屯食を拵えてまいりました」
気が付けば、既に昼下がりである。途端に腹の虫が疼き出す。
皆鶴が懐中から取り出した竹の皮で包んだ握り飯を礼を言って受け取る。
丁度二人座るのに都合の良い松の木陰の岩の上に腰を下ろし、包みを開くと、菜を添えた塩むすびが二つ。手に取ると、ほんのりと温みが感じられた。作り立てを冷めぬように懐に入れて温めていてくれたのだろう。知らず皆鶴の胸の辺りに視線を彷徨わせていたことに気づいた高衡が慌てて目を逸らし握り飯に齧り付いた。塩梅の良い仄かな塩加減が嬉しい。
「もしや皆鶴殿がこさえてくれたのか?」
「急ぎ拵えましたのであまり凝ったものは用意できませんでしたが、お口に合いませぬか?」
高衡は真っ赤になって首を振り、二つ目を口にする。道理で格別なはずだ。
この時代の常識で見ると、皆鶴程の身分を持つ女性が直接食事の支度に関わることはあまり行儀の良い所作とは見做されないが、高衡には彼女の心遣いが只純粋に嬉しかった。
「あれからずっと一人で鍛錬を?」
食事を終え、人心地ついた高衡に皆鶴が感心したように問いかける。
真っ白な雪原の上は、夥しいほどの高衡の裸足の足跡で埋め尽くされている。昨年、高衡が皆鶴から一本を奪った一件以来、ずっと人知れず修行を続けていたらしい。
「無論、其許からたった一本勝を得たからといって慢心するわけにはいかぬ。いずれ遠からず鎌倉との真剣勝負が控えておる。一寸の暇も疎かにすることはできぬ。常に心身を研ぎ澄まし、其許に並んで恥じぬ武士にならねばならぬ」
フン、と胸を張って言い終えた高衡がじろりと恨めし気に皆鶴を見やる。
「本当は秘密裏に鍛錬を積んで、しっかりとした手応えを得た上で改めて其許に手合わせを願うつもりだったのじゃ」
「あら、高衡様は今でも十分に立派なお武家様でおられますよ?」
くすり、と微笑む皆鶴に高衡は不服そうに首を振る。
「否。まだじゃ。まだ手応えが見えぬ。剣に纏わりついた何かしらぬ澱みのようなものが拭い去れぬ。その得体が掴めぬまで精進を怠ることはできぬ」
「――澱み?」
すう、と皆鶴の双眸が細くなる。
ぞわり、と剣気を感じた高衡が反射的に皆鶴の元から飛び退る。
思わず柄に手を掛け見据えた先、皆鶴の輪郭から、ぞわぞわとしたものが陽炎のように揺らいでいる。
「そこまで見えているのであれば、もう充分――」
「……何じゃ、其許から漂う、それは?」
何時でも抜き放てるよう警戒の構えを執る高衡に正対し、皆鶴もまた刀に手を掛ける。
「高衡様。貴方は鎌倉を、頼朝を恐れておいでか?」
「まさか。――いや」
皆鶴の問いかけを即座に否定しようとした高衡だが、
「――成程、澱みとは即ちそういうことか。そなたの言おうとしていることの意味、何となく察したぞ」
合点がいったとばかりに頷いた。
問答じみた皆鶴の問いの中には、言葉の上辺だけを只聞いているだけでは伺い知れぬ深い含みがあることは、短い付き合いのうちにも高衡も理解できるようになった。
「左様。以前にもお話したように、剣は扱う者の鏡。剣気は容易に恐れを映し、憎しみを帯びます。恐れは命を憐れみ、己を生かし、陽の気へと通じるもの。されど、憎しみは向かう相手のみならず剣を振るう者をも惑い殺めしむる陰の妖気として剣を損ないます。如何に修行を積もうとも、もし御覧のような妖気を纏い剣を抜こうとすれば、いずれ己自身を乱し、真っ当な剣筋を得ることが出来なくなります。今の高衡様が纏っているものは、未だ陰とも陽ともつかぬもの。それをどちらに導き纏うか、或いは打ち払うかは高衡様ご自身の今後の鍛錬によるでしょう」
皆鶴の周囲から陽炎が掻き消えた。
「高衡様。約束してくださいませ。もしも鎌倉と剣を交えることになろうとも、決して憎しみで剣を振ってはなりませぬ。憎しみに囚われ戦に挑めば、護るべきものはおろか、いずれ高衡様ご自身すらも損ないましょう。放浪の道中、そうして修羅と成り果てた武士達を幾人も目の当たりにしてまいりました故」
「相分かった。約束しよう」
神妙な面持ちの高衡に皆鶴がにっこりと笑いかける。
その表情が、ク、と不敵なものに変わった。
高衡は内心喜んだ。その普段見られぬ勝気な微笑、これから一撃を繰り出してやろうという表情が、実は高衡が一番好きな皆鶴の仕草だった。
「……今の貴方であれば、来たる鎌倉との備えの為、我が一党の秘剣を託すに相応しいお方」
皆鶴が鞘を鳴らし正眼の構えを執る。
高衡も意気込んで太刀を抜き放つ。
その高衡の切っ先には、既に澱みは欠片も見当たらない。
「高衡様。これから披露するのは正真正銘鞍馬一党の秘伝の奥義。以前お見せした唐渡りを模した技とは数段も格が違います。用意は宜しいか」
「ヨイ来た。何時でもこられよ――!」
「……高衡様。風邪を召されてしまいますよ?」
一通りの鍛錬を終え、雪原にごろりと寝転んで白い息を荒げながら冬の高い空を眺めていた高衡が、頭上から呼びかける声に慌てて起き上がった。
「失礼仕った!」
悪戯を見つけられた童児のようにぱっぱっと身体に着いた雪を払い除ける様子に、彼の剣の師匠であり好敵手――皆鶴が、ふっ、と微笑を漏らした。
暦の上では春とはいえ、この北の地では冬の寒さはこれからが山場である。
時折吹きすさぶ風が刺すように冷たい。
「昼餉の席に御姿が見えなかったので、屯食を拵えてまいりました」
気が付けば、既に昼下がりである。途端に腹の虫が疼き出す。
皆鶴が懐中から取り出した竹の皮で包んだ握り飯を礼を言って受け取る。
丁度二人座るのに都合の良い松の木陰の岩の上に腰を下ろし、包みを開くと、菜を添えた塩むすびが二つ。手に取ると、ほんのりと温みが感じられた。作り立てを冷めぬように懐に入れて温めていてくれたのだろう。知らず皆鶴の胸の辺りに視線を彷徨わせていたことに気づいた高衡が慌てて目を逸らし握り飯に齧り付いた。塩梅の良い仄かな塩加減が嬉しい。
「もしや皆鶴殿がこさえてくれたのか?」
「急ぎ拵えましたのであまり凝ったものは用意できませんでしたが、お口に合いませぬか?」
高衡は真っ赤になって首を振り、二つ目を口にする。道理で格別なはずだ。
この時代の常識で見ると、皆鶴程の身分を持つ女性が直接食事の支度に関わることはあまり行儀の良い所作とは見做されないが、高衡には彼女の心遣いが只純粋に嬉しかった。
「あれからずっと一人で鍛錬を?」
食事を終え、人心地ついた高衡に皆鶴が感心したように問いかける。
真っ白な雪原の上は、夥しいほどの高衡の裸足の足跡で埋め尽くされている。昨年、高衡が皆鶴から一本を奪った一件以来、ずっと人知れず修行を続けていたらしい。
「無論、其許からたった一本勝を得たからといって慢心するわけにはいかぬ。いずれ遠からず鎌倉との真剣勝負が控えておる。一寸の暇も疎かにすることはできぬ。常に心身を研ぎ澄まし、其許に並んで恥じぬ武士にならねばならぬ」
フン、と胸を張って言い終えた高衡がじろりと恨めし気に皆鶴を見やる。
「本当は秘密裏に鍛錬を積んで、しっかりとした手応えを得た上で改めて其許に手合わせを願うつもりだったのじゃ」
「あら、高衡様は今でも十分に立派なお武家様でおられますよ?」
くすり、と微笑む皆鶴に高衡は不服そうに首を振る。
「否。まだじゃ。まだ手応えが見えぬ。剣に纏わりついた何かしらぬ澱みのようなものが拭い去れぬ。その得体が掴めぬまで精進を怠ることはできぬ」
「――澱み?」
すう、と皆鶴の双眸が細くなる。
ぞわり、と剣気を感じた高衡が反射的に皆鶴の元から飛び退る。
思わず柄に手を掛け見据えた先、皆鶴の輪郭から、ぞわぞわとしたものが陽炎のように揺らいでいる。
「そこまで見えているのであれば、もう充分――」
「……何じゃ、其許から漂う、それは?」
何時でも抜き放てるよう警戒の構えを執る高衡に正対し、皆鶴もまた刀に手を掛ける。
「高衡様。貴方は鎌倉を、頼朝を恐れておいでか?」
「まさか。――いや」
皆鶴の問いかけを即座に否定しようとした高衡だが、
「――成程、澱みとは即ちそういうことか。そなたの言おうとしていることの意味、何となく察したぞ」
合点がいったとばかりに頷いた。
問答じみた皆鶴の問いの中には、言葉の上辺だけを只聞いているだけでは伺い知れぬ深い含みがあることは、短い付き合いのうちにも高衡も理解できるようになった。
「左様。以前にもお話したように、剣は扱う者の鏡。剣気は容易に恐れを映し、憎しみを帯びます。恐れは命を憐れみ、己を生かし、陽の気へと通じるもの。されど、憎しみは向かう相手のみならず剣を振るう者をも惑い殺めしむる陰の妖気として剣を損ないます。如何に修行を積もうとも、もし御覧のような妖気を纏い剣を抜こうとすれば、いずれ己自身を乱し、真っ当な剣筋を得ることが出来なくなります。今の高衡様が纏っているものは、未だ陰とも陽ともつかぬもの。それをどちらに導き纏うか、或いは打ち払うかは高衡様ご自身の今後の鍛錬によるでしょう」
皆鶴の周囲から陽炎が掻き消えた。
「高衡様。約束してくださいませ。もしも鎌倉と剣を交えることになろうとも、決して憎しみで剣を振ってはなりませぬ。憎しみに囚われ戦に挑めば、護るべきものはおろか、いずれ高衡様ご自身すらも損ないましょう。放浪の道中、そうして修羅と成り果てた武士達を幾人も目の当たりにしてまいりました故」
「相分かった。約束しよう」
神妙な面持ちの高衡に皆鶴がにっこりと笑いかける。
その表情が、ク、と不敵なものに変わった。
高衡は内心喜んだ。その普段見られぬ勝気な微笑、これから一撃を繰り出してやろうという表情が、実は高衡が一番好きな皆鶴の仕草だった。
「……今の貴方であれば、来たる鎌倉との備えの為、我が一党の秘剣を託すに相応しいお方」
皆鶴が鞘を鳴らし正眼の構えを執る。
高衡も意気込んで太刀を抜き放つ。
その高衡の切っ先には、既に澱みは欠片も見当たらない。
「高衡様。これから披露するのは正真正銘鞍馬一党の秘伝の奥義。以前お見せした唐渡りを模した技とは数段も格が違います。用意は宜しいか」
「ヨイ来た。何時でもこられよ――!」
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