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逃亡者
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「冷たい」
ぼんやり過去を振り返っていた私は、手のひらに冷たい湿ったものが触れる感覚に手元を見た。
キジトラ猫は、私の手のひらにしつこく自分の鼻を押しつけている。
「汚い。私で鼻水を拭かないでよ」
さっき触れた冷たいものが、猫の鼻水だとわかって抗議すると、猫はピョンッと後ろに飛びのいた。
そのままジッとこちらを見つめる眼差しは、なんだか文句言いたげである。
「なによ。そっちが悪いんでしょ」
私が軽く睨み返すと、キジトラ猫はプイと横を向いてかけ出す。
どこかに行くのかと思ったら、東屋の方に駆け出し、地面を蹴ってベンチに飛び乗る。
「え、ちょっとっ!」
置きっぱなしにしていたコンビニの袋に顔を突っ込む猫に驚いて立ち上がると、キジトラ猫も顔を上げる。
その口には、未開封のパンの包みがくわえられている。
生クリームをたっぷり挟んだコッペパンの表面をチョコレートコーティングしたものだ。
「こら、そんなの食べちゃ駄目よ」
私が叱りながら駆け寄ると、猫はパンの袋をくわえたままベンチを飛び下り、そのまま地面を蹴ってかけ出していく。
その動きは滑らかで、さすが獣といった感じだけど、その動きに見とれている場合ではない。
あんなもの、猫が食べていいはずがない。
私はベンチに置いてあった他の荷物を持って、猫を追いかける。
「ちょっと、キャットフード買ってあげるから、それは返しなさい」
そう声をかけても、猫の動きは止まらない。
つかず離れずの距離でパンをくわえて走っていく。
それを追いかける私は、東屋のある公園を離れて、池の横をすり抜ける頃にはなにか変だと思い始めていた。
だって相手は猫なのだ。
もし本当にパンを奪いたいのなら、どこかの藪に飛びこむか、細い隙間に逃げ込めばいい。
平日の昼間とはいえ、時折人とすれ違うこともある。その都度、猫は驚いて体を跳ねさせているのに、それでも藪に逃げ込むようなことはせず、人が通れる道だけを選んで逃げていく。
しかもなぜだが、私が追いかけてくるか、何度も振り返って確かめている。
「もしかして、私をどこかに誘導している?」
しばしの追いかけっこの末に、やっとパンを下に置いたキジトラ猫に問い掛けてみた。
その頃にはもう公園を抜けて、ずっと昔に廃線になった鉄道路線を利用して造られた遊歩道まできていた。
レンガ造りのアーチ型の短いトンネルの入り口でパンを下ろした猫は、 〝ニャ~〟 と、トンネルに向かって鳴くと、またパンをくわえてトンネルの中へと駆けていく。
私も散歩中に通ったことのある道で、抜けるのに二分とかからない短いトンネルの向こうには、春の陽気に照らされた緑豊かな遊歩道が見えている。
そんなトンネルを一気に駆け抜けた猫は、またパンを下ろしてこちらを見ている。
「なによ、もしかして私と散歩がしたいの?」
それなら満足したら、パンを返してくれるのかな?
それならしかたないと、私はトンネルに足を踏み入れた。
短いとはいえトンネルに足を踏み入れると、わずかだが気温が下がり、湿った空気が肌に触れる。
ただそれだけのことなのに、なんとなく別世界に迷いこんだような錯覚を覚えるのはなぜなのだろう……。
ザリッと歩道の砂利を踏む音がやけに響くのを感じながら、私はトンネルの中を見渡してみた。
廃線を利用したレンガ造りのトンネルは、幅が狭くて、自転車がすれ違うのもやっとといった感じで、昔、本当にここを列車が通っていたのかと疑いたくなる。
だけどトンネルの壁に、当時の写真が飾られているので間違いないのだろう。
白黒の写真に気を取られていると、背後で 〝ニャ~〟 と猫の声がした。
「冷たい」
ぼんやり過去を振り返っていた私は、手のひらに冷たい湿ったものが触れる感覚に手元を見た。
キジトラ猫は、私の手のひらにしつこく自分の鼻を押しつけている。
「汚い。私で鼻水を拭かないでよ」
さっき触れた冷たいものが、猫の鼻水だとわかって抗議すると、猫はピョンッと後ろに飛びのいた。
そのままジッとこちらを見つめる眼差しは、なんだか文句言いたげである。
「なによ。そっちが悪いんでしょ」
私が軽く睨み返すと、キジトラ猫はプイと横を向いてかけ出す。
どこかに行くのかと思ったら、東屋の方に駆け出し、地面を蹴ってベンチに飛び乗る。
「え、ちょっとっ!」
置きっぱなしにしていたコンビニの袋に顔を突っ込む猫に驚いて立ち上がると、キジトラ猫も顔を上げる。
その口には、未開封のパンの包みがくわえられている。
生クリームをたっぷり挟んだコッペパンの表面をチョコレートコーティングしたものだ。
「こら、そんなの食べちゃ駄目よ」
私が叱りながら駆け寄ると、猫はパンの袋をくわえたままベンチを飛び下り、そのまま地面を蹴ってかけ出していく。
その動きは滑らかで、さすが獣といった感じだけど、その動きに見とれている場合ではない。
あんなもの、猫が食べていいはずがない。
私はベンチに置いてあった他の荷物を持って、猫を追いかける。
「ちょっと、キャットフード買ってあげるから、それは返しなさい」
そう声をかけても、猫の動きは止まらない。
つかず離れずの距離でパンをくわえて走っていく。
それを追いかける私は、東屋のある公園を離れて、池の横をすり抜ける頃にはなにか変だと思い始めていた。
だって相手は猫なのだ。
もし本当にパンを奪いたいのなら、どこかの藪に飛びこむか、細い隙間に逃げ込めばいい。
平日の昼間とはいえ、時折人とすれ違うこともある。その都度、猫は驚いて体を跳ねさせているのに、それでも藪に逃げ込むようなことはせず、人が通れる道だけを選んで逃げていく。
しかもなぜだが、私が追いかけてくるか、何度も振り返って確かめている。
「もしかして、私をどこかに誘導している?」
しばしの追いかけっこの末に、やっとパンを下に置いたキジトラ猫に問い掛けてみた。
その頃にはもう公園を抜けて、ずっと昔に廃線になった鉄道路線を利用して造られた遊歩道まできていた。
レンガ造りのアーチ型の短いトンネルの入り口でパンを下ろした猫は、 〝ニャ~〟 と、トンネルに向かって鳴くと、またパンをくわえてトンネルの中へと駆けていく。
私も散歩中に通ったことのある道で、抜けるのに二分とかからない短いトンネルの向こうには、春の陽気に照らされた緑豊かな遊歩道が見えている。
そんなトンネルを一気に駆け抜けた猫は、またパンを下ろしてこちらを見ている。
「なによ、もしかして私と散歩がしたいの?」
それなら満足したら、パンを返してくれるのかな?
それならしかたないと、私はトンネルに足を踏み入れた。
短いとはいえトンネルに足を踏み入れると、わずかだが気温が下がり、湿った空気が肌に触れる。
ただそれだけのことなのに、なんとなく別世界に迷いこんだような錯覚を覚えるのはなぜなのだろう……。
ザリッと歩道の砂利を踏む音がやけに響くのを感じながら、私はトンネルの中を見渡してみた。
廃線を利用したレンガ造りのトンネルは、幅が狭くて、自転車がすれ違うのもやっとといった感じで、昔、本当にここを列車が通っていたのかと疑いたくなる。
だけどトンネルの壁に、当時の写真が飾られているので間違いないのだろう。
白黒の写真に気を取られていると、背後で 〝ニャ~〟 と猫の声がした。
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