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逃亡者
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しおりを挟む「だいたい、後悔って……突然なによ。あなた、私のなにを知っているの?」
心を見透かされているような居心地の悪さを感じて、紙フィルターの接着面を折るスズさんを睨んだ。
「さあ?」
スズさんは涼しい顔で折った紙フィルターをドリッパーにセットする。
こちらを揶揄っているような彼女の姿に、ハッと閃くものがあった。
「さてはあなた、ネットで私の顔を知っていたんでしょ」
時代から取り残されたみたいなレトロな店構えに、なんとなく現実を忘れかけていたけど、別にネットが使えないような僻地にいるわけじゃない。
少し歩けば、コンビニも学校もある普通の市街地なのだ。
スズさんの正確な年齢は不明だけど、それなりに若いのは確か。きっとSNSで私の情報を目にしていたんだ。
「まず先に言っておくけど、私は財産目当てに夫で漫画家のありしま・としやを殺したりしてないから。その件に関しては、彼の元担当にも、デタラメな書き込みをした人たちへの訴訟を勧められているくらいなのよ」
まったく油断も隙もない。
ここで弱気な態度を見せれば、後でネットにどんなことを書かれるかわかったものじゃない。
私はスズさんをきつく見た。
こちらとしては目一杯気迫を込めて睨んでいるつもりなのに、彼女はのんびりした口調で「はいはい」と返して、沸いたお湯でドリッパーにセットした紙を濡らす。
私の威嚇になど興味がないといった様子で、フィルターを通して下に落ちたお湯を捨て、ドリッパーに挽き豆を入れて、平らにならしていく。
そこに円を描くようにお湯を注ぎ、少し時間を置いてからまたお湯を注ぐ。
そうしていると、水分を含んだ豆がふっくらと膨らみ、香ばしい湯気が立ちのぼった。
その香りには、ほんの少しフルーツのような甘さが混じっている。焦げた苦味の奥に、春先の果実の酸味が隠れていて、店内の空気が静かにその香りをまとっていく。
そこまで完全無視でコーヒーを淹れることに専念されると、一方的に警戒しているのがバカらしくなる。
「まあ、知らなければいいのよ」
謝るのも違う気がして、私は頬杖をつく。
そのままふてくされて背後の壁に目をやると、いやでもそこに貼られた無数の写真が目に入る。
入学式に、お見舞いに、夏祭りの夜、誰かの人生の一瞬を切り取った写真たち。
私の知らない、これからも知ることのない誰かたちの暮らしの片鱗を感じて、胸にひたひたとこみ上げてくるものがある。
私には写真に写る人たちが、どんな暮らしをしているのか、どんな悩みを抱えているのか知りようがないし、積極的に強く知りたいとも思わない。
冷静に考えれば、ネットで炎上しているといっても、所詮狭いコミュニティでの話なんだから、よほどそういった噂話を面白がる人でなければ、私の顔まで記憶しているなんてことはないよね。
昨夜のことは、その〝よほどそういった噂話を面白がる人〟に遭遇して、勝手なことを書き込まれただけで、運が悪かったのだ。
壁に貼られた写真を見ていると、心が静まり、ネット書き込みの件で必要以上に気が立っていたことに気付く。
「ごめんなさい。ある人に逆恨みされて、ネットでデタラメな書き込みされてて気が立っていたの」
私の謝罪にも、スズさんは興味なさげだ。
唇の端に微かな微笑みのようなものを浮かべて、コーヒーを淹れることに集中している。
彼女の俯きがちな横顔を眺めながら、私は俊哉を殺したと風評した元アシスタントのことを思い出す。
元アシスタントの流した噂によれば、私と俊哉の関係はすでに破綻していて、離婚を切り出された私が、彼の財産ほしさに彼を殺したということらしい。
ことの発端としては、その元アシスタントを私が解雇したことにあるのだけれど、それは彼に、そうされるだけの理由があった。
元アシスタントは、俊哉の作品のファンだと話し、彼のアシスタントになれたことを当初は心から喜んでいた。
だけどどこでどう感情をこじらせたのか、俊哉を敵視するようになり、指示を無視して不要な描き込みをしたり、逆に俊哉が描いた線を消したりした。
他のアシスタントから聞いた話から推測するに、自分のアイデアを俊哉が採用してくれないとか、古参のアシスタントのような仕事を自分に任せてもらえないといった不満が、少しずつ膨らんでいったのだろう。
それで仕方なく解雇したのに、彼は私や俊哉を憎むようになっていった。
要は、自分が相手に向けた以上の愛情を返してもらえなかったからと、逆恨みしているだけなのだ。
それなのに感情をこじらせて、事実無根の噂を拡散させた上に、自分が解雇されたのも私のせいだということになっている。
そんな嘘を流布したところで、変えられる事実などなにもないのに。
彼の話はでたらめばかりで、俊哉の死因は、漫画の取材を兼ねた登山で、崖下にある高山植物の写真を撮ろうとしてバランスを崩した滑落事故だ。
そこに何の事件性もないことは、警察や検死した医師も認めている。
そもそも私は、その登山に同行していない。
だというのに、陰謀論が好きな人たちがそれを面白がって拡散し、いつの間にか、私は財産目当てに夫を毒殺した悪女ということにされてしまった。
なぜ毒殺かといえば、事件現場にいなかった私を犯人に仕立て上げるために、彼の水筒に睡眠薬を混ぜて、眠気を誘発し、事故に見せかけて殺害したのだという。
炎上をエンターテインメントとして扱う人たちにとって、真相なんてどうでもいいのだ。話の収まりがよくなるよう、事実をねじ曲げていく。
要は、人の人生を肴に騒ぎたいだけなのだ。
そういった騒動を収めるためにも、私の名誉挽回のためにも、裁判を起こした方がいいというのはわかっている。
けれど私には、俊哉の死に後ろめたいところがあるから、その踏ん切りがつかない。
元アシスタントの彼が、そのことを知っていたとは思わないけど、私と俊哉の間には本当に離婚話が持ち上がっていた。
ただ離婚を切り出したのは私の方で、俊哉はそれを拒否していたのだけど。
そして離婚が成立する前に彼は事故に遭い、還らぬ人となり、私は妻として彼を見送った。
だからどうしても考えてしまう。
もし俊哉がすんなり離婚に応じていたら、私は彼の遺産を受け取ることはなかったのだと。
時間はいつも不可逆で、様々な感情を置き去りにしていく。
それでも彼の葬儀の最中、私は彼との離婚が成立していたらどうなっていたのだろうかと考えていた。
そして例の噂がネットを騒がせると、離婚が成立していれば、遺産目当てに夫を殺した毒婦なんて噂されることもなかったのだと思った。
もっと言えば、元アシスタントの彼を解雇する時、言葉をもう少し選ぶことができていれば、こんなことにはならなかっただろうし、
それ以前に、彼を雇わなければよかったのだ。
時間を巻き戻すことができるなら――やり直したいことが山ほどある。
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