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逃亡者
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しおりを挟むその視線を追えば、扉の横の小窓に目がいき、そこには小さな影があった。
窓枠に窮屈そうにお尻をのせ、店の中を覗くのは――さっきのキジトラ猫だ。
「あのこ……」
キジトラなんて珍しくない柄だけど、〝他人の空似〟ならず〝他猫の空似〟なんてことはないだろう。
「お客さんのことが、よっぽど心配なんですね」
窓の外の猫に小さく手を振りながらスズさんが言う。
「心配って……そんな」
猫に人の心が読めるはずない。
それに、あの猫は私の手に鼻水を擦りつけたあと、私のパンを盗んで逃げたのだ。どう好意的に見積もっても、〝心配してくれている〟とは思えない。
「鼻水を擦りつけられただけよ」
この店に辿り着いた経緯を思い出して、私は苦く言う。
「鼻水?」
面白そうに目を丸くするスズさんに、私は今さらながらここへ来たいきさつに始まり、店先でしゃがんで舌を鳴らしていた理由までを話した。
話を聞き終えると、スズさんはプッと吹き出す。
「あら、かわいそうな子」
窓の外の猫に向けて、スズさんが優しい声で言う。
「なにが可哀想なの?」
可哀想なのは、パンを奪われ、ここまで走った私なんですけど。
憮然とする私に視線を戻したスズさんは、小さく首をかしげて言う。
「きっとあの子は、お客さんの手の匂いを確かめただけですよ。猫の鼻は、もとから濡れているから、その拍子に鼻が触れただけじゃないですか?」
「え、そうなの?」
猫を可愛いとは思っているけど、動画やSNSの写真を眺めたり、猫モチーフのマスコットを愛でるばかりで、実際には飼ったことがない。
昔、友だちの家で触らせてもらったことはあるけれど、鼻が濡れていたかどうかまでは覚えていない。
――そうなんだ。なんか怒ってごめん。
心の中で猫に謝る。
その瞬間目が合った猫は、一度ツンと顎を高くすると、ひらりと身を翻して窓枠から飛び降りて姿を消した。
あまりに見事なタイミングで、『わかればいいんです』と許された気がして、思わず笑いそうになる。
「でも、後悔の香りって……」
そんなもの、あるはずがない。
そう思いながらも、私は自分の手のひらに顔を寄せる。
「鼻が慣れてしまっているから、自分ではわからないでしょ。人間は、いつも自分のことに鈍感なんです。だから猫がそれを教えてあげなきゃいけない」
スズさんは自分の鼻を、ちょいちょいと指で突いた。
そして、少し得意げに付け足した。
「犬は鼻が利くとよく言うけど、猫もなかなかなんですよ。……特に猫は、後悔している人の香りに敏感なんです。だからあの子は、強い後悔を抱えて身動きが取れなくなっているお客さんが気になって、ここに案内したんですよ」
笑うスズさんのエプロンで鈴が鳴った。
その瞬間、スズの瞳が――また、黄金色にきらめいた。
鈴の色と共鳴するみたいに、ほんの刹那。呼吸の合間の、まばたきほどの短さで。
「あなた、何者なの?」
「私が何者か知れば、お客さんの後悔はなくなりますか?」
柔らかな話し方なのに、有無を言わせない気配がふっと差し込む。
もしここで私が「イエス」と答えれば――彼女の正体を知る代わりに、永遠に後悔を抱えたまま生きることを、どこかで約束させられてしまいそうな、そんな気がした。
ただ、それならそれで……と、心のどこかが、危うい選択肢の輪郭を指でなぞった。
カウンターの端で、湯気がもう一度ふんわり揺れた。
現実と不可思議の境目は、思っていたよりも薄い膜一枚ぶんしかないのかもしれない――そんな予感だけが、静かに残った。
「あなたには、人の後悔を取り除くことができるの?」
その質問に、スズさんは薄く笑うだけだ。唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がる。
でも、その笑い方――肩が揺れず、眼差しだけがかすかにやわらぐ、その調子で、どういうわけか私は確信してしまった。彼女には、それができるのだと。
時折、瞳の色が変わるスズさんには、それができる。しかも、きっと〝普通ではない方法〟で。
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