猫と珈琲〜喫茶いっこく・25gの後悔〜

相葉すずか

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臨書の人

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「え?」

 突然のことに驚いている私の目の前で、一度空気に溶けてなくなった輪郭が、再び形を結んでいくと、それは肩紐に鈴をぶら下げた黒いエプロン姿のスズさんの形をしていた。

「後悔は、ちゃんと過去に届いたみたいですね」

 そう話すスズさんの目線は、私が手紙を置いたあたりに向けられていた。
 でもそこには、私の書いた手紙はなく、写真だけが残されていた。

「手紙は?」

「届けるべき過去に」

 カップを持ったまま周囲を見渡す私に、スズさんはこともなげに言う。
 夢と現実の狭間にあるようなこの店の主にそう言われてしまえば、そうなのだと納得するしかない。
 そしてなにより、私の心の奥底に、以前はなかった強いなにかが芽生えていた。

「そうね」

 納得した私は、カップを口に運ぶ。
 届けるべき後悔はきちんと過去に届いたのだから、残りのコーヒーを飲んで、もう店を出た方がいい。

「あ、待って」

 一気にコーヒーを飲もうとする私を、スズさんが止める。
 何事かと驚いて動きを止めると、スズさんがカウンターにスティックシュガーとミルクを置いた。

「え?」

「お客さんは、コーヒーに砂糖とミルクを入れるのが好きなんでしょ?」

「コーヒーに入れてよかったの?」

 なんとなく、この店のコーヒーはブラックで飲まなきゃいけないんだって思い込んでいた。

「お客様のコーヒーは、お客様のものです。好きにしていいんですよ」

 軽やかな声でスズさんが言う。
 こういう声を、鈴が転がるような声っていうんだろうな。

「そうか。このコーヒー、私の好きにしてよかったんだ」

 そう呟くと、自然と笑みがこぼれた。
 彼女が言っているのは、私の手の中にある一杯のコーヒーの話だってわかっている。
 だけどその言葉は、私の中でそれ以上の意味を持って響く。

「そうだよね。これは、私のための一杯なんだから」

 私はミルクと砂糖を投入して、勢いよくそれをかき混ぜると、まだ温もりが残るコーヒーを勢いよく飲み干した。
 大人な味のブラックコーヒーも悪くないけど、私には、苦味の奥に、かすかな甘さが残るこの飲み方の方が合っている。

 ――これが、私が選んだ味。

 私は財布を取り出して、スズさんに尋ねた。

「お代は?」

 スズさんは、テーブルに残された写真を指先で持ち上げて微笑む。

「お代はこれで」

 その言葉に、私は背後の壁を見やった。
 壁に貼られている統一性のない何枚もの写真。その写真の数だけ、この店を訪れた誰かが、過去に二十五グラム以下の強い後悔を託したのだ。

「ねえ、どうして過去に届けることができる後悔は、二五グラム以下なの?」

 それだけでも十分にすごい奇跡なのだけど、その奇跡に、重量制限があるのは奇妙な話に思う。
 だいたい、二五グラム以下の後悔ってなに?
 見ることも触れることもできない後悔という感情の重さを、どうやって決めているのだろう?

「それは、この店の最初のマスターが、それでいいって決めたからです。――人殺しの自分には、それ以上を求める権利がないから……よく言ってました」

 人殺し……そのかなり物騒な言葉さえ、この店の中で聞くと不思議と恐怖を感じない。
 それともそれは、スズさんの声に、切ないほどの慈しみを感じるからだろうか……

「その人は、今どこにいるの?」

 私の問いに、スズさんは片方の頬に人さし指を添えて小首をかしげる。
 知らないらしい。

 ――なんだか、玉ねぎの皮を剥いているみたい。

 夢と現実の狭間のこの店では、次から次へと疑問が出てくる。
 突き詰めてもキリがない。

「ありがとう。もう行くね」

 私はそう言って立ち上がると、そのまま店を出た。
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