婚約破棄された令嬢、元婚約者より有能な殿下に愛されて困ってます

ほーみ

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朝の王都は、ざわめきに包まれていた。

──「エインズワース令嬢が隣国の殿下に見初められた」──

貴族たちの間で、その話題は瞬く間に広がった。
噂の火種は一晩で燃え上がり、今や王太子の失態として囁かれている。

王宮の謁見室。
アーロン王太子は机を拳で叩きつけた。

「……何だその噂は! リリアーナがヴァレンツァの王子と?」

「は、はい……。昨夜の舞踏会のあと、カイン殿下が彼女を連れて出て行くのを多くの者が見ております」

侍従の報告に、アーロンの表情はみるみるうちに歪む。

「リリアーナのくせに……俺を利用して、今度は隣国の王子をたぶらかすつもりか!」

その隣で、彼の腕にしがみつくルーシーが不安げな声を出した。

「殿下、落ち着いてください。あの方は……きっと、殿下を怒らせるためにわざと……」

「黙れ!」

怒鳴り声が響く。ルーシーの肩がびくりと震えた。
だがアーロンはもう彼女を庇う気もない。
頭の中を満たしているのは、昨日あの会場で見せたリリアーナの冷たい微笑みだけ。

「……俺を馬鹿にして。許さない、絶対に許さない……!」





一方その頃。
リリアーナはカイン殿下の滞在邸で朝を迎えていた。

といっても、彼の寝室にいるわけではない。
彼が用意した客間は、上流令嬢の屋敷よりもよほど上等だった。

ベッドの上で目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
昨日の出来事が夢でなかったと気づくまでに、数秒の間があった。

──婚約破棄されて、殿下に見初められて……まるで物語みたい。

けれど現実は、そんなに甘くない。
リリアーナは上半身を起こし、深く息をつく。

「……もう、戻る場所もないのね」

エインズワース家は、王太子に楯突くことを恐れ、すでに彼女を「勘当同然」にしているだろう。
これからどう生きていくか考えなければ──そう思った矢先、扉がノックされた。

「お目覚めですか、リリアーナ嬢」

低く穏やかな声。
振り返ると、そこにはカイン殿下が立っていた。

黒い軍服に金のボタンが朝日を反射して輝く。
まるで絵画から抜け出したような完璧な姿。

「おはようございます、殿下」

「おはよう。……眠れましたか?」

「ええ。おかげさまで」

「それはよかった」

彼の声は、どこか柔らかかった。
昨日の大胆な言葉とは違う、まるで誰かを傷つけまいとするような優しさがあった。

「朝食をご一緒しませんか? 色々と話したいこともあります」

リリアーナは一瞬迷ったが、うなずいた。




ダイニングルームに通されると、白いクロスの上に豪華な料理が並んでいた。
焼きたてのパン、蜂蜜、オムレツ、そして果実酒。

「リリアーナ嬢。まずは一つ、確認しておきたい」

カインはナイフを置き、真剣な眼差しを向けた。

「あなたは、本当にアーロン殿下を愛していたのですか?」

思わぬ問いに、リリアーナは少しだけ言葉を失った。

「……ええ。昔は。けれど、それはもうずっと前のことですわ」

「もう彼への未練は?」

「ありません」

即答した。
自分でも驚くほど、迷いはなかった。

「なら、よかった」

カインの表情がわずかに緩む。
「なら、遠慮はいりませんね」

「遠慮?」

「俺はあなたを、本気で口説くと決めたんです」

「っ……!」

リリアーナの胸が一瞬高鳴った。

「昨日の言葉、本気だったのですね」

「俺は冗談を言う性質ではない」

その目は真っ直ぐで、逃げ場を与えない。

「あなたを見た瞬間、俺は確信しました。あの国には、あなたを理解できる男はいないと」

「……そんな言い方、敵を作りますよ」

「構いません。俺は欲しいものを手に入れる主義です」

彼の瞳がゆっくりとリリアーナを捕らえる。
見つめられるだけで、頬が熱くなるのを感じた。

「あなたを王太子妃にしたい」

「っ……!」

「ヴァレンツァの王は次の季節で退位されます。俺が正式に王位を継ぐ前に、伴侶を選ばなければならない。──あなたしか、いない」

リリアーナは息を呑んだ。

あまりにも現実離れした言葉。
けれど、彼の目は本気だった。

「私なんて、スキャンダルまみれの女ですわ」

「それを作ったのは、あの王太子だろう? なら俺が、その名誉をすべて塗り替えてやる」

その言葉に、リリアーナの胸が熱くなった。

「あなたがこの国を出るときは、俺が迎えに行きます。……そのとき、拒むなよ」

「カイン殿下……」

彼の声が低く落ち、リリアーナの名を呼ぶたびに心が震える。

──こんなにもまっすぐに求められたことが、今まであっただろうか。

けれど、彼女はまだ答えを出せなかった。
愛を失ったばかりの心は、まだ恐れていた。

「……考えさせてください。私、まだ整理が……」

「もちろん」

カインは穏やかに微笑んだ。

「あなたの時間を奪うつもりはありません。ただ──」

彼は椅子を立ち、リリアーナの前に膝をつく。
そのまま、彼女の指先に唇を落とした。

「あなたを奪う権利は、俺が必ず勝ち取る」

その声に、リリアーナは何も言えなくなった。





その日の午後。

王都中が新たな話題で持ちきりになった。

「ヴァレンツァのカイン殿下が、我が国の王太子に正式な抗議を出したそうよ」
「リリアーナ嬢への不当な婚約破棄を、外交問題にするって!」

その報せは、アーロンの耳にもすぐ届いた。

「な……なにを考えている、あの男は!」

アーロンは机を蹴り上げ、激しく怒鳴る。
しかし、ルーシーはもう怯えながらも何も言えない。

「リリアーナを利用して、俺の立場を脅かすつもりか……!」

彼の声には焦りと恐怖が混じっていた。
自分が捨てた女が、今や隣国の王子の寵愛を受けている。
しかも、その男は自分より地位も実力も高い。

「……絶対に許さない。リリアーナは俺のものだ。あいつには渡さない」

彼の指先が白くなるほど握りしめられていた。





夜。

カインの部屋の窓辺で、リリアーナは外の月を見上げていた。
静かで美しい光が、彼女の心を少しずつ溶かしていく。

「……不思議ね。昨日まで絶望していたのに、今は少し、未来が見える気がする」

その背後に気配を感じて振り返ると、カインが立っていた。

「眠れませんか?」

「ええ……考え事をしていて」

「なら、少しだけお付き合いを」

彼は近づき、そっと彼女の肩に上着を掛けた。
その距離が近すぎて、心臓の音が聞こえてしまいそうだった。

「寒くないように。あなたが凍えてしまったら、俺が困る」

「……殿下は、本当に優しいのですね」

「あなたにだけ、ですよ」

小さく微笑んだその顔は、月光に照らされて神秘的だった。

「アーロン殿下がどう動こうと関係ありません。俺はあなたを守る。必ず」

「……信じていいの?」

「信じろ」

短く、強い声。
その瞳に宿る熱は、もう疑いようがなかった。

リリアーナはふと、彼の胸元に顔を寄せた。
ほんの一瞬、触れるだけ。
彼の鼓動が、自分の胸の奥に重なって響いた。

「……少しだけ、このままで」

「いくらでも」

カインの腕が、優しく彼女を包み込む。
その温もりの中で、リリアーナは初めて安らぎを感じていた。

だがその穏やかな夜の裏で、
王太子アーロンは暗い笑みを浮かべながら密書をしたためていた。

──「リリアーナを国外に出すな」──

彼の命令が動き出したとき、運命の歯車はもう止まらなかった。
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