婚約破棄?はい、どうぞお好きに!悪役令嬢は忙しいんです

ほーみ

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 わたくしの言葉が夜気に吸い込まれるより早く、ステラ嬢の悲痛な声が響いた。

「殿下……どうして、そんな……!」

 殿下はぎょっとして振り返る。ステラ嬢は震える手で胸元を押さえ、涙を零していた。
 あの天使のように可憐な少女が、いまは痛みそのものを背負った顔をしている。

「ステラ……違うんだ、これは――」
「違いませんわ!!」

 ふだん控えめな彼女からは想像できないほどの力強い叫びだった。
 殿下が言葉を失う。

「レティシア様を“まだ自分のもの”だなんて……そんなこと、言っていいはずがありません!」
「だ、だが……俺は……!」
「婚約破棄されたのです! 殿下が断罪の場で宣言したのです! それを……いまになって、未練がましく縛りつけるつもりなんですか!?」

 ステラ嬢の目から涙がぽろぽろとこぼれる。
 殿下はその姿に一歩近づこうとするが、彼女は後ずさった。

「来ないでください……もう、殿下が誰を見ているのか……わたくしには分かりません」

 その言葉は、殿下の心臓に突き刺さったようだった。
 殿下は何か言い返そうと口を開くが、声にならない。

 夜の静寂が降りる。

 わたくしは深く息を吸い、殿下に向き直った。

「殿下。わたくしが言いたかったのは……ただひとつですわ」

 殿下が顔を上げる。

「――わたくしは、すでにあなたの“まだ”の中には含まれておりませんのよ」

 殿下の肩が震えた。

「で、ですが……レティシア、君は……君だけは……」
「殿下。恋人のふりでも構いませんから、わたくしに寄り添うと言ってくれた方がいますの」

 わたくしは隣に立つイサークを見た。
 その視線を受けて、イサークは静かに頷く。

「わたくしは……もう、あなたの影に怯えて過ごすつもりはございません」

 殿下の表情が崩れた。

「……レティシア……っ」

 哀願のような声が落ちたが、足元の石畳に吸われて薄まり、消えた。



 そのまま殿下はステラ嬢のほうへ手を伸ばした。

「ステラ……帰ろう。話を――」
「……今日の殿下には、何を言われても心に届きませんわ」

 ステラ嬢は涙を拭い、くるりと背を向けた。
 殿下が慌てて追いかけようとした瞬間、今度はイサークが殿下の前にすっと立ちはだかった。

「殿下。今夜はもう、お帰りください」
「貴様……下級の身分で俺に命令する気か?」
「殿下。これは忠告です。これ以上、彼女達を困らせるのはやめたほうがいい」

 殿下の拳が震え、怒りに満ちた目がイサークに向けられたが……
 イサークは一歩も引かず、静かに殿下を見返すだけだった。

 この沈黙に耐えられなくなったのは、殿下の方だった。

「……レティシア、俺は……いつか、必ず話を――」
「必要ございません」

 そう言い切ると、殿下は苦しげに顔を歪め、そのまま背を向けて歩き出した。
 夜の闇が殿下の姿を飲み込み、やがて完全に見えなくなる。

 残されたのは、わたくし、イサーク、そして遠くで肩を震わせているステラ嬢。

「ステラ嬢、大丈夫かしら……」
「レティシア嬢。君は優しすぎる」

 イサークが静かに言う。
 でも――。

「わたくし、あの子が嫌いではありませんの。ただ……利用されたのが気の毒ですわ」
「そうだな。殿下の依存の対象として引き込まれただけだからな」

 イサークのまなざしが、優しく夜空をすくい取るようだった。

「行こうか、レティシア嬢。今夜は疲れただろう」
「……はい」

 イサークの手がそっと差し出される。

 わたくしは一瞬迷ったものの、その手を取った。



 寮の前まで送ってもらい、イサークが軽く頭を下げる。

「今日の答えは……急ぎではないが」
「ええ、分かっておりますわ」

 返そうとしたその時、イサークがわずかに視線を逸らした。

「……ただひとつ。誤解しないでくれ」
「え?」
「俺は、偽装がしたいんじゃない。きっかけが欲しいだけだ」

 その言葉が胸の奥に落ちて、ゆっくりと影をつくる。
 影は暗くはなく、温かくて、とても心地よかった。

「おやすみ、レティシア嬢」
「……おやすみなさいませ、イサーク様」

 そのままイサークは去り、わたくしは寮の中へ戻った。

 扉を閉めると、心臓の音が静かな部屋に響く。

「……本物になってもいい、なんて。あの方、本気なのかしら……」

 思い出すだけで頬が熱くなる。
 自分の心がどう動いているのか、まだよく分からない。

 ただ――
 殿下の声にはまったく動かなかった心が、イサークの言葉には揺れた。

「わたくし……恋をしているの?」

 自分に問いかけても、答えは出ない。

 けれど、眠れない夜になりそうな予感だけは、はっきりとしていた。



 翌朝。
 学院の掲示板に、とんでもない知らせが貼られ、学生達は騒然としていた。

「な、なにこれ……?」
「殿下が……謹慎処分……?」
「ステラ嬢は……保護観察……? どういうことだ?」

 わたくしは驚きながらも掲示板へ近づいた。

《エドワード・ヴァレンディア殿下
学院内での度重なる規律違反のため、自室にて一定期間の謹慎を命ずる》

《ステラ・ローゼン嬢
殿下との関係性における混乱回避のため、学院側の保護のもと生活を行うこととする》

 思わず声を飲んだ。

「これは……」

「君のせいじゃない」

 背後から声がして振り返ると、イサークがいた。

「殿下の行動は学院でも以前から問題視されていた。昨日の夜の件で、ようやく動いたんだろう」
「でも……ステラ嬢まで……」

「保護だ。罰ではない」

 イサークが真剣な目でわたくしを見た。

「君が気に病む必要はないよ」

 その優しい声に、胸の奥がほどける。

「……ありがとうございます、イサーク様」

 だが――。

 この騒動は、まだ序章に過ぎなかった。

 わたくしは知らなかったのだ。
 学院中がいま、わたくしとイサークの噂で持ちきりになっていることを。

 そして、殿下が謹慎中でありながらも、レティシア宛に大量の手紙を書いていることを。

 さらに、ステラ嬢が“ある重大な秘密”を抱えていることにも、まだ誰も気づいていない。
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