6 / 7
6
しおりを挟む
目を覚ましたとき、見慣れぬ天蓋が視界に広がっていた。
薄いシルクのカーテンが揺れ、淡い陽光が部屋を照らしている。柔らかな寝具に沈み込んだ身体が、まだ夢の中にあるようで現実感がない。
……でも、これは夢じゃない。
昨日まで、私は祖国の王都で婚約者に裏切られ、家から追い出されるようにして逃げてきた。辿り着いた先で――隣国の公爵、エドガー様に拾われたのだ。
「お目覚めですか?」
低く、落ち着いた声が響いた。
カーテンの向こうから現れたのは、背の高い男性――エドガー様。黒髪に冷たい灰色の瞳、整った顔立ちをしているのに、表情は硬い。初めて会ったときもそうだったが、その視線は氷のように冷ややかで、簡単に人を寄せ付けない。
なのに――あのとき、私が路地裏で倒れた瞬間、迷わず抱き上げてくれた。
「……お加減は?」
「だ、大丈夫です。ご迷惑を……」
「迷惑ではありません。あなたをここに連れてきたのは、私の意思ですから」
そう言って、ベッド脇の椅子に腰かける。
距離が近い。思わず心臓が跳ねるのを感じて、布団の端をぎゅっと握った。
「なぜ……私なんかを?」
「“私なんか”、ですか」
エドガー様の目がわずかに細められた。その灰色の瞳に射抜かれると、息が詰まる。
「あなたは……“誰かの捨てられた女”ではない。私が見つけた、大切な人です」
その言葉に、思わず顔が熱くなる。
昨日まで、“不要”だと突きつけられていた私が――大切な人? 信じられない。でも、その真剣な声音は冗談とは思えなかった。
「それに……あの王太子には借りがあります。あなたを奪ったと知れば、きっと面白くないでしょうね」
その口元に、ほんのわずか笑みが浮かぶ。冷酷と呼ばれる所以なのだろう。
けれど、私に向けられる視線は、不思議と冷たくない。
数日後。私は公爵邸で簡単な礼儀作法を学びながら過ごしていた。
元々貴族令嬢だったので礼儀は心得ているが、ここは隣国。細かいマナーや言葉遣いが違う部分も多い。
そんなある日、廊下でメイドの一人から耳打ちされた。
「奥様――あっ、まだそうじゃありませんけど――公爵様、夜会への招待を受けられたそうです。あなたも同行なさるとか」
「えっ、私も?」
「はい。ですが……お気をつけください。この国の貴婦人方は、皆さま公爵様を狙っておりますから」
……まあ、そうでしょうね。
エドガー様は地位も容姿も完璧。冷たく人を寄せつけない性格さえ、女性たちにとっては”攻略したい難攻不落の城”なのだろう。
案の定、その夜会での視線は刺さるようだった。
エドガー様の隣に立つ私を、周囲の女性たちが好奇と嫉妬の入り混じった目で見てくる。
「まあ、どちらの方?」
「最近拾われた令嬢ですってよ」
「拾われた? まあ……物好きね」
――耳に入ってしまう。
下を向きそうになった瞬間、エドガー様が私の腰に手を回し、ぐっと引き寄せた。
「紹介しよう。彼女は――私の伴侶だ」
会場がざわめいた。
伴侶、って……まだ正式な婚約もしていないのに? 驚く私をよそに、エドガー様は涼しい顔をして杯を傾けている。
その後も、私に話しかけてくる男性は一人もいなかった。いや、近寄れなかったというべきだろう。公爵様の視線が、あまりにも牽制の意味を帯びていたから。
「……あの、伴侶って」
「事実になる予定です。問題がありますか?」
「い、いえ……」
「ならばよし」
さらりと告げるその声音に、心臓がまた跳ねた。
――私はこの冷酷公爵に、確実に心を奪われ始めている。
しかし平穏は長くは続かなかった。
ある日、公爵邸に一人の使者が訪れる。祖国から――王太子の密使だった。
「公爵閣下。この度は……我が国の姫、いや、元婚約者をお預かりいただき感謝いたします。ですが、彼女をお返しいただきたい」
返す、ですって?
思わず口を開きかけたが、その前にエドガー様の低い声が響く。
「断る。彼女はすでに私の保護下にある」
「しかし――」
「――返す気はない。もし力ずくで奪おうとするなら、この国を敵に回すことになるが?」
使者の顔色が変わった。
そうだ、この人はただの公爵ではない。隣国の軍を統べる最高司令官。彼を敵に回すのは、国そのものを敵に回すことと同じ。
使者は何も言えず、足早に去っていった。
「……私のために、そこまで」
「当然だ。あなたを再びあの男のもとに返すくらいなら、この国と戦争になっても構わない」
――その言葉に、胸の奥が熱くなる。
でも同時に、私の中でひとつの不安が芽生えた。祖国は、きっと諦めない。あの王太子も……。
そして、その不安は的中することになる。
数日後、王都からの正式な文書が届いたのだ――“花嫁交換の申し出”という名の、宣戦布告に近い内容だった。
薄いシルクのカーテンが揺れ、淡い陽光が部屋を照らしている。柔らかな寝具に沈み込んだ身体が、まだ夢の中にあるようで現実感がない。
……でも、これは夢じゃない。
昨日まで、私は祖国の王都で婚約者に裏切られ、家から追い出されるようにして逃げてきた。辿り着いた先で――隣国の公爵、エドガー様に拾われたのだ。
「お目覚めですか?」
低く、落ち着いた声が響いた。
カーテンの向こうから現れたのは、背の高い男性――エドガー様。黒髪に冷たい灰色の瞳、整った顔立ちをしているのに、表情は硬い。初めて会ったときもそうだったが、その視線は氷のように冷ややかで、簡単に人を寄せ付けない。
なのに――あのとき、私が路地裏で倒れた瞬間、迷わず抱き上げてくれた。
「……お加減は?」
「だ、大丈夫です。ご迷惑を……」
「迷惑ではありません。あなたをここに連れてきたのは、私の意思ですから」
そう言って、ベッド脇の椅子に腰かける。
距離が近い。思わず心臓が跳ねるのを感じて、布団の端をぎゅっと握った。
「なぜ……私なんかを?」
「“私なんか”、ですか」
エドガー様の目がわずかに細められた。その灰色の瞳に射抜かれると、息が詰まる。
「あなたは……“誰かの捨てられた女”ではない。私が見つけた、大切な人です」
その言葉に、思わず顔が熱くなる。
昨日まで、“不要”だと突きつけられていた私が――大切な人? 信じられない。でも、その真剣な声音は冗談とは思えなかった。
「それに……あの王太子には借りがあります。あなたを奪ったと知れば、きっと面白くないでしょうね」
その口元に、ほんのわずか笑みが浮かぶ。冷酷と呼ばれる所以なのだろう。
けれど、私に向けられる視線は、不思議と冷たくない。
数日後。私は公爵邸で簡単な礼儀作法を学びながら過ごしていた。
元々貴族令嬢だったので礼儀は心得ているが、ここは隣国。細かいマナーや言葉遣いが違う部分も多い。
そんなある日、廊下でメイドの一人から耳打ちされた。
「奥様――あっ、まだそうじゃありませんけど――公爵様、夜会への招待を受けられたそうです。あなたも同行なさるとか」
「えっ、私も?」
「はい。ですが……お気をつけください。この国の貴婦人方は、皆さま公爵様を狙っておりますから」
……まあ、そうでしょうね。
エドガー様は地位も容姿も完璧。冷たく人を寄せつけない性格さえ、女性たちにとっては”攻略したい難攻不落の城”なのだろう。
案の定、その夜会での視線は刺さるようだった。
エドガー様の隣に立つ私を、周囲の女性たちが好奇と嫉妬の入り混じった目で見てくる。
「まあ、どちらの方?」
「最近拾われた令嬢ですってよ」
「拾われた? まあ……物好きね」
――耳に入ってしまう。
下を向きそうになった瞬間、エドガー様が私の腰に手を回し、ぐっと引き寄せた。
「紹介しよう。彼女は――私の伴侶だ」
会場がざわめいた。
伴侶、って……まだ正式な婚約もしていないのに? 驚く私をよそに、エドガー様は涼しい顔をして杯を傾けている。
その後も、私に話しかけてくる男性は一人もいなかった。いや、近寄れなかったというべきだろう。公爵様の視線が、あまりにも牽制の意味を帯びていたから。
「……あの、伴侶って」
「事実になる予定です。問題がありますか?」
「い、いえ……」
「ならばよし」
さらりと告げるその声音に、心臓がまた跳ねた。
――私はこの冷酷公爵に、確実に心を奪われ始めている。
しかし平穏は長くは続かなかった。
ある日、公爵邸に一人の使者が訪れる。祖国から――王太子の密使だった。
「公爵閣下。この度は……我が国の姫、いや、元婚約者をお預かりいただき感謝いたします。ですが、彼女をお返しいただきたい」
返す、ですって?
思わず口を開きかけたが、その前にエドガー様の低い声が響く。
「断る。彼女はすでに私の保護下にある」
「しかし――」
「――返す気はない。もし力ずくで奪おうとするなら、この国を敵に回すことになるが?」
使者の顔色が変わった。
そうだ、この人はただの公爵ではない。隣国の軍を統べる最高司令官。彼を敵に回すのは、国そのものを敵に回すことと同じ。
使者は何も言えず、足早に去っていった。
「……私のために、そこまで」
「当然だ。あなたを再びあの男のもとに返すくらいなら、この国と戦争になっても構わない」
――その言葉に、胸の奥が熱くなる。
でも同時に、私の中でひとつの不安が芽生えた。祖国は、きっと諦めない。あの王太子も……。
そして、その不安は的中することになる。
数日後、王都からの正式な文書が届いたのだ――“花嫁交換の申し出”という名の、宣戦布告に近い内容だった。
35
あなたにおすすめの小説
「無能な妻」と蔑まれた令嬢は、離婚後に隣国の王子に溺愛されました。
腐ったバナナ
恋愛
公爵令嬢アリアンナは、魔力を持たないという理由で、夫である侯爵エドガーから無能な妻と蔑まれる日々を送っていた。
魔力至上主義の貴族社会で価値を見いだされないことに絶望したアリアンナは、ついに離婚を決断。
多額の慰謝料と引き換えに、無能な妻という足枷を捨て、自由な平民として辺境へと旅立つ。
「お前とは釣り合わない」と振られた令嬢、国一番の英雄に溺愛される
ほーみ
恋愛
社交界の中心ともいえる、王宮の大広間。そこに、令嬢アリシア・フェルナーは立っていた。
彼女の金色の髪は絹のように輝き、薄紫のドレスがその華奢な体を包む。だが今、その瞳には静かな怒りと哀しみが宿っていた。
「……アリシア・フェルナー嬢。婚約の破棄を申し渡す。君と私とでは、釣り合わない」
そう告げたのは、王国貴族の筆頭ともいわれるユリウス・グランハルト侯爵令息だった。
『役立たず』と追放された私、今では英雄様に守られています
ほーみ
恋愛
辺境伯の三女として生まれた私は、リリィ=エルフォード。
魔力もなく、剣も振れず、社交界の花にもなれない私は、いつしか「家の恥」と呼ばれるようになっていた。
「リリィ、今日からお前は我が家の娘ではない」
父の冷たい声が耳にこびりつく。
その日、私は何の前触れもなく、家から追放された。
理由は、簡単だ。「婚約者にふさわしくない」と判断されたから。
公爵家の三男との縁談が進んでいたが、私の“無能さ”が噂となり、先方が断ってきたのだ。
悪役令嬢の身代わりで追放された侍女、北の地で才能を開花させ「氷の公爵」を溶かす
黒崎隼人
ファンタジー
「お前の罪は、万死に値する!」
公爵令嬢アリアンヌの罪をすべて被せられ、侍女リリアは婚約破棄の茶番劇のスケープゴートにされた。
忠誠を尽くした主人に裏切られ、誰にも信じてもらえず王都を追放される彼女に手を差し伸べたのは、彼女を最も蔑んでいたはずの「氷の公爵」クロードだった。
「君が犯人でないことは、最初から分かっていた」
冷徹な仮面の裏に隠された真実と、予想外の庇護。
彼の領地で、リリアは内に秘めた驚くべき才能を開花させていく。
一方、有能な「影」を失った王太子と悪役令嬢は、自滅の道を転がり落ちていく。
これは、地味な侍女が全てを覆し、世界一の愛を手に入れる、痛快な逆転シンデレラストーリー。
貧乏人とでも結婚すれば?と言われたので、隣国の英雄と結婚しました
ゆっこ
恋愛
――あの日、私は確かに笑われた。
「貧乏人とでも結婚すれば? 君にはそれくらいがお似合いだ」
王太子であるエドワード殿下の冷たい言葉が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さった。
その場には取り巻きの貴族令嬢たちがいて、皆そろって私を見下ろし、くすくすと笑っていた。
――婚約破棄。
婚約破棄された令嬢、隣国の暴君王に“即”溺愛されていますが?
ゆっこ
恋愛
王都の中心から少し離れた城の塔は、風がよく通る。
その夜わたし――エリスは、豪奢すぎるほどの寝室のバルコニーに出て、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……本当に、ここはわたしの部屋でいいのかしら」
つい昨日まで、わたしは婚約者であったアルノルト殿下からの侮蔑に耐え、社交界で嘲笑され、家族にさえ冷たくされていたのに。
まさか隣国ファルゼンの“暴君王”と呼ばれるレオンハルト陛下に見初められ、護衛兼客人として迎えられるとは、夢にも思っていなかった。
……いや、正確には“客人”などという生易しい扱いではない。
冷徹王子に捨てられた令嬢、今ではその兄王に溺愛されています
ゆっこ
恋愛
――「お前のような女に、俺の隣は似合わない」
その言葉を最後に、婚約者であった第二王子レオンハルト殿下は私を冷たく突き放した。
私、クラリス・エルデンは侯爵家の令嬢として、幼い頃から王子の婚約者として育てられた。
しかし、ある日突然彼は平民出の侍女に恋をしたと言い出し、私を「冷酷で打算的な女」だと罵ったのだ。
涙も出なかった。
あまりに理不尽で、あまりに一方的で、怒りも悲しみも通り越して、ただ虚しさだけが残った。
捨てられた悪役令嬢ですが、隣国の王子に溺愛されています
ほーみ
恋愛
「これ以上、君と婚約を続けるのは無理だ。僕は、リリアと結婚する」
侯爵家の令嬢である私、エリシア・グレイ=ファルディアは、王太子アルベルトのその一言で、すべてを失った。
――婚約破棄。
豪奢な舞踏会の場で、公然と私の頬を引き裂くように突きつけられた言葉。周囲は一瞬でざわつき、リリアと呼ばれた少女――平民から上がってきた新興貴族の娘――が、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる