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正直言って、出来のいい後輩は可愛くない。
営業というハッキリ成績が出る部門のせいだろうか。大々的な公表はされないものの、月末にはみんな何となく各自の成績を把握している。優劣ができるのだ。それを表に出すほど子供ではないが、意識しないのは難しい。
ましてや年下の、経験の浅いものに抜かされたら、誰だって冷静ではいられないだろう。
林藤はそう自身の弱さを許している。
「先輩。これ。いつものお礼」
「ん? お。おう」
缶コーヒーが差し出されたのは午後の四時過ぎ、退勤時刻が近づいてきて集中の切れる頃合いだった。林藤はありがたくも気軽に受け取る。
男の営業マンは裏表の塊だ。外回りの最中は感じよく身奇麗にしていても、終われば早々にジャケットを脱ぐ。
林藤だってそうだ。地味な紺鼠のスーツは椅子の背もたれに引っ掛けて、社員証もワイシャツの胸ポケットに半分押し込んでいる。
きれいな襟足。シワのないシャツ。普段は営業の鏡と褒められるほど清潔感には気をつけているが、一日働いた夕方には売り切れだ。
営業は出歩くのが仕事だから、この時間も空席が目立つ。男は林藤の隣のデスクから椅子を引っ張ってきて座った。
「それですみません。今ちょっと用事があって……お礼のお礼のつもりで時間もらえませんか」
「おいおい、何だそれ。借金返すなり借金申し込むみたいだな」
改まった風に頼んでくる男は十和田といった。去年入った新人だが、第二新卒のせいかスーツがすっかり馴染んでいる。
大柄だが威圧感はない。何となしに末っ子のような気配があるのだ。頼ることに抵抗がなく、人の助けも素直に受け取る。それでいて頼みごとにコーヒーを携える義理堅さがあるので、営業部の中でも可愛がられていた。……先月の成績が出るまでは。
林藤は椅子を回して振り返った。
「お前入って一年経つ……いや、まだか。でもそれくらいだろう。いまさら教育係に聞くことがあるのか?」
「そ、そりゃありますよ。まだわからないことが多いです。先輩は業界にも詳しいし……」
「褒めるのはいいって。コーヒー分は助けるよ」
教育係という会社の作ったパートナーとはいえ、密に付き合った半年間で心を許してくれたのか、あるいは彼の持つ義理堅さか、今も何かと頼ってくれる。
悪い気はしない。別の感情が交じるだけだ。
よく見れば十和田はそわそわとした様子だった。周りに人のいない時間を狙ってきたようだし、ミスでもして困っているのだろうか。林藤は声を潜める。
「それで? なんだよ。なんかまずいことやっちゃったのか?」
「まずい……というか、その……見てほしいものがあって」
「何かの書類か? いや……持ってないか」
缶コーヒーを渡した今、彼は手ぶらだ。
よほど言い難いことなのだろうか。覗き込むように首を傾げた林藤に、十和田は唾液を飲む仕草を見せた。空の手をスラックスで数度拭い、スラックスのポケットから何かを取り出す。大したものではない。スマホだ。
もともと目的の画面を開いていたのかタップする様子もなく、彼はそれを十和田の眼前に突き付けた。
「…………」
画面いっぱいに表示したQRコード。なんだ、と問う声がなぜか出ない。
ドットが細かすぎる。細かいそれが、そう、配線を接続しそこねたモニターのようにチカチカ明滅する。一瞬ごとに数多のドットが点灯するたび、脳が何かに塗りつぶされていく。わからないという実感がないまま何かがわからなくなっていく。
「……り、林藤さんは、俺の言うことがおかしいと思わなくなる」
ただ、木材に刻まれるように、動きを止めた脳に十和田の言葉が刻まれていった。
営業というハッキリ成績が出る部門のせいだろうか。大々的な公表はされないものの、月末にはみんな何となく各自の成績を把握している。優劣ができるのだ。それを表に出すほど子供ではないが、意識しないのは難しい。
ましてや年下の、経験の浅いものに抜かされたら、誰だって冷静ではいられないだろう。
林藤はそう自身の弱さを許している。
「先輩。これ。いつものお礼」
「ん? お。おう」
缶コーヒーが差し出されたのは午後の四時過ぎ、退勤時刻が近づいてきて集中の切れる頃合いだった。林藤はありがたくも気軽に受け取る。
男の営業マンは裏表の塊だ。外回りの最中は感じよく身奇麗にしていても、終われば早々にジャケットを脱ぐ。
林藤だってそうだ。地味な紺鼠のスーツは椅子の背もたれに引っ掛けて、社員証もワイシャツの胸ポケットに半分押し込んでいる。
きれいな襟足。シワのないシャツ。普段は営業の鏡と褒められるほど清潔感には気をつけているが、一日働いた夕方には売り切れだ。
営業は出歩くのが仕事だから、この時間も空席が目立つ。男は林藤の隣のデスクから椅子を引っ張ってきて座った。
「それですみません。今ちょっと用事があって……お礼のお礼のつもりで時間もらえませんか」
「おいおい、何だそれ。借金返すなり借金申し込むみたいだな」
改まった風に頼んでくる男は十和田といった。去年入った新人だが、第二新卒のせいかスーツがすっかり馴染んでいる。
大柄だが威圧感はない。何となしに末っ子のような気配があるのだ。頼ることに抵抗がなく、人の助けも素直に受け取る。それでいて頼みごとにコーヒーを携える義理堅さがあるので、営業部の中でも可愛がられていた。……先月の成績が出るまでは。
林藤は椅子を回して振り返った。
「お前入って一年経つ……いや、まだか。でもそれくらいだろう。いまさら教育係に聞くことがあるのか?」
「そ、そりゃありますよ。まだわからないことが多いです。先輩は業界にも詳しいし……」
「褒めるのはいいって。コーヒー分は助けるよ」
教育係という会社の作ったパートナーとはいえ、密に付き合った半年間で心を許してくれたのか、あるいは彼の持つ義理堅さか、今も何かと頼ってくれる。
悪い気はしない。別の感情が交じるだけだ。
よく見れば十和田はそわそわとした様子だった。周りに人のいない時間を狙ってきたようだし、ミスでもして困っているのだろうか。林藤は声を潜める。
「それで? なんだよ。なんかまずいことやっちゃったのか?」
「まずい……というか、その……見てほしいものがあって」
「何かの書類か? いや……持ってないか」
缶コーヒーを渡した今、彼は手ぶらだ。
よほど言い難いことなのだろうか。覗き込むように首を傾げた林藤に、十和田は唾液を飲む仕草を見せた。空の手をスラックスで数度拭い、スラックスのポケットから何かを取り出す。大したものではない。スマホだ。
もともと目的の画面を開いていたのかタップする様子もなく、彼はそれを十和田の眼前に突き付けた。
「…………」
画面いっぱいに表示したQRコード。なんだ、と問う声がなぜか出ない。
ドットが細かすぎる。細かいそれが、そう、配線を接続しそこねたモニターのようにチカチカ明滅する。一瞬ごとに数多のドットが点灯するたび、脳が何かに塗りつぶされていく。わからないという実感がないまま何かがわからなくなっていく。
「……り、林藤さんは、俺の言うことがおかしいと思わなくなる」
ただ、木材に刻まれるように、動きを止めた脳に十和田の言葉が刻まれていった。
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