さよならイミテーション

坂元語

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第一話 平穏と不穏

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「なあ……俺たち、なんのために生まれてきたんだろうな」

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 夜の八時半。僕は稽古場の畳の上に仰向けになって倒れていた。まるで床に縫い付けられているかのように、身体がピクリとも動かない。滝のように流れる汗が道着を湿らせ、むわりとした不快感が全身を覆う。
「銘人様、もうギブアップですか? こんな年寄りに負けているようじゃあ、まだまだですぞ」
 使い古された道着を着た初老の男が、僕の顔を覗き込んだ。多数のシワが刻まれたその顔には、穏やかな微笑が浮かんでいる。
「こんな年寄り」とはよく言ったものだよ、安斎さん。激しい手合わせの後だというのに、安斎さんは額に僅かに汗を滲ませるだけで、呼吸の一つも乱れていない。

「では、今日の稽古はこれで終わりにしましょう。次回までにしっかり鍛錬を積んでおくこと」
 安斎さんはすっと立ち上がると、稽古場の出口の方へと歩いていった。
「今日はしっかり眠りなさい。技のキレはよくなっていますよ」
 そう言い残すと、彼は稽古場に向かって一礼し、その場を後にした。
 僕の身体がまともに動くようになったのは、それから五分後の事だった。僕はタオルで全身の汗を一通り拭くと、水筒の水を一気に飲み干した。汗でびしょ濡れの道着が鬱陶しかったので、その場で普段着に着替えた。

 安斎さんは、この七渡(ななわたり)家の屋敷に長年仕える執事だ。二年前のとある事件を機に「強くなりたい」と願った僕の為に、週に三度の稽古をしてくれている。
 二年間体術をバッチリ叩き込まれ、今では相当強くなったと自負している。しかし、それでも安斎さんには未だ手も足も出ない。自分より体格の勝っている僕を、彼は片手で軽々と投げ飛ばすのだ。しかもこちらの攻撃をかわしながら。
 彼の強さは、明らかに常軌を逸している。
 安斎さんはそれでもかなり手加減をしているはずだが、彼と手合わせをして打ちのめされた後は、毎回疲労で動けなくなる。彼は今年でもう六十三で、激しい運動が困難でもおかしくない年頃だというのに。
 僕が稽古場の天井をぼんやりと眺めていた時だった。

「失礼しまーす」
 稽古場に響き渡る明るい声。振り返ると、そこには長い髪を真っ直ぐに垂らした華奢な少女が立っていた。
「……世音(せね)、どうしてここに」
 七渡世音。母親の再婚相手の連れ子にして、この屋敷の長女。僕の血の繋がらない双子の妹だ。僕の父親は僕が六歳の頃に病で亡くなっている。父親が亡くなってから数日もたたないうちに世音の父親と結婚した母親の神経には呆れさせられたが、そんな彼女も二年前に亡くなってしまったので、故人の悪口を言うのは控えよう。

「大っきなスイカが届いたよ。一緒に食べよ」
「お、おう……ちょ、引っ張るなって」
 僕の腕を掴み、疲れきった僕の身体を強引に引っ張る世音。まったく、少しは休ませて欲しいものだ。

「えへへ、今日もお疲れ様だね」
 つい三日前に十六になった世音は、歳の割に純朴で、言動にもあどけなさを残す。童顔のせいもあり、僕より年下に見間違われることはしょっちゅうだ。同い年なのに彼女に比べて老けていると、僕はよく親族にからかわれる。放っておいてくれ。

 世音はこちらの容態に構わずに早足で屋敷の廊下を歩く。スキップでもしかねない勢いだ。
「おいおい世音、もうちょっとゆっくり歩いてくれ」
「あ、はいはーいごめんね。そういえば明日から学校だね。楽しみだねえ」
 るんるん、という音が実際に聞こえてきそうなほど、彼女は心を弾ませている様子だった。
「僕は別に」
 素っ気なく答える。学校なんて、寧ろ憂鬱以外の何物でもない。家族と医師以外の誰とも話さないで済む今までの生活の方が、僕にとってはよっぽど楽だ。
 しかし、世音は僕とは真逆の性格。誰に対しても分け隔てなく明るく接する社交的な彼女にとっては、明日からの学校生活が楽しみで仕方無いのだろう。
「なんでよー。きっと銘君にも友達できると思うよ? 本当は優しい人だもん」
「……本当は、ってなんだよ」
「えへへ」

 四月からの三ヶ月間、僕らは精神科医からのドクターストップによって高校を休学していた。入学式にも参加していない為、明日は僕らにとって初めての学校となる。不安な事は山ほど沢山あったが、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせる。目立たないように大人しくしていれば、何事もなく三年間をやり過ごせるはずだ。
 しかし、できる事ならこのままの生活を続けたかった。俗世間のあらゆる面倒事から解放され、鍛錬や読書に専念する事ができる自由な生活を。
 もっとも、世音にとってこの三ヶ月間は相当な苦痛だったはずだ。僕にとっての「自由」は、彼女にとっての「退屈」だ。いや寧ろ「監禁」という表現の方が的を射ているかもしれない。
 
 ふと、僕は屋敷の廊下を歩く世音の横顔を見る。目が合って、彼女ははにかんだように微笑んだ。僕もそれにつられて頰を緩める。
 僕が強くなろうと決意した理由は、世音の存在にある。
 彼女の無邪気な笑顔を見ると、辛いはずの次の稽古が待ち遠しく感じる。
 自分の力不足が、どんどんもどかしくなるからだ。
 今日も安斎さんに手も足も出なかった。そんな自分が不甲斐なくて仕方ない。次こそは、と小さく呟き、僕は拳を固く握りしめた。

 あの時の様に、世音を危険な目に遭わせてはいけない。世音を守る事。それが僕の使命だ。何もできないのはもうごめんだ。

「どうしたの銘君? なんだか怖い顔してる」
「そ……そうかな? なんでもないよ」
 僕は無理やり笑顔を作ってみせた。

――このままではダメだ。もっと強くならなくては。

 とは言うものの、こんなにも早く僕らに危険が降りかかることになるなんて、この時の僕は考えもしなかった。

     2

 ある蒸し暑い夏の夜のことだった。
 俺は駐車場にバイクを停めると、例のごとく急ぎ足でその場から立ち去った。

 本来ならばとある友人を江の島まで連れて行って、冷たいサイダーでも飲みながら一緒に天体観測をする予定だったのだが、その予定は上の人間によって潰されてしまった。
 黒で統一された厚手の上下。頭部を覆うのは、フルフェイスのヘルメット。「仕事」をする際の決められた服装なのだが、これが暑くて仕方ない。

 幸い、深夜の住宅街に通行人の姿は見当たらなかった。慣れてるとはいえ、不審な目で見られるというのは気持ちのいいものではない。
 パトロール中の警察にこの姿を見られようものなら、真っ先に職務質問の対象となるだろう。ポケットの中身を調べられたりでもしたら一巻の終わりだ。もしそうなれば、その場で警察をねじ伏せるしかない。手荒な真似は極力避けたかった。

 ポケットからスマホを取り出し、画面に表示されたマップを見る。どうやら目的地には順調に近づいているようだ。
 人気のない路地を進み、目的地と思われる小学校の廃校舎に到着すると、地面に横たわる何かが視界に映る。
 近づいてみると、それは警察官の服を着た人間の死体だった。頸動脈を噛み切られている。恐らくパトロールの最中に偶然「アイツ」と遭遇してしまい、襲われたのだろう。
「来るのが遅かったか……すまない」
 損傷がこの程度で済んだという事は、今回の奴は比較的大人しい奴だということだろうか。凶器も使わないタイプらしい。
 遺体が人間の原型を留めていない時だってあった。あの光景は今思い出しても身震いする。
この警察官が俺を見つけなくて良かった、とそんな不謹慎な事をつい考えてしまう。
 早めに死体処理係の人間に連絡を入れておこう。今回処理してもらう死体は、この警察官と「アイツ」の二体だ。
 俺は血が垂れないよう死体の首にタオルを巻きつけ、それを抱えて廃校舎に足を踏み入れた。彼を昇降口の床に寝かせ、一度合掌をする。ここなら人に見つかる心配もないだろう。

 研究所の報告によると、「アイツ」は毎晩この場所に侵入しているらしい。その目的は、恐らく睡眠を取るためだ。ならば眠っているところを起こさないように近づき、一撃で殺せばいい。こちらの精神的負担も比較的軽くて済む。

 俺は再びスマホを取り出し、同僚のケンジに電話をかける。
『はいもしもしー』
 ケンジの心底けだるげな声。
「俺だ。目的地に着いたよ」
『わざわざ報告することかよ。さっさと終わらせて戻って来な。ゲームの相手がいないんじゃ、退屈だ』
 一応命が懸かっているというのに、相変わらずケンジには微塵もこちらを案ずる様子がない。しかし、俺はそれには言及しない。ケンジは言動こそサイコ野郎だが、根は良い奴なのだ。
「分かってるよ。こんな胸糞任務、すぐに終わらせる。一つ聞きたい事があるんだが……シズミは怒ってないか?」
 電話越しでも、ケンジがニヤリと笑うのが分かった。
『……めちゃくちゃ怒ってる』
 笑い声混じりにケンジは答えた。俺はため息を吐く。やはりシズミは約束を反故にしたことを怒っているらしい。果たして謝れば許してくれるだろうか。
「そうか……じゃあ、また後で」
 俺はスマホをしまうと、もう一度深い溜息を吐いた。
「また後で」だなんて、改めて考えてみれば随分と楽観的な発言だ。こんなクソみたいな任務に慣れてしまっている自分に嫌気がさす。
「まあ……これで三十八体目だもんな」

 階段で二階に上がると、俺の強化された聴覚が、遠くの方から微かに聞こえる「アイツ」の寝息を感じ取った。俺の中で一気に緊張感が高まる。
 俺は右手に銃を、左手にナイフを構え、音を立てないよう慎重に歩き出した。

「ごめんな、兄弟」
 俺は小さく呟いた。
「アイツ」を殺してやれるのは、その仲間である俺だけだ。他の人間に「アイツ」を殺させるわけにはいかない。

 俺は小学校の薄暗いリノリウムの廊下を、息を潜めてゆっくりと進んだ。

 さっさと「仕事」を済ませて施設に帰ろう。そしてシズミに謝らなくては。
  
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