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【第三章】君と色づく世界
苦い思い出
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そのあと僕たちは近くの居酒屋で晩ごはんを食べることにした。
入り口の暖簾をくぐると、店内には焼き鳥の香ばしい匂いと、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
テーブル席に案内されると、可琳がメニューを手に取りながら笑顔で言った。
「ハチの好きなもの頼んでいいよ」
可琳のその言葉に甘えて、僕はビールと、軽く何品かを注文した。
お通しの小鉢がテーブルに置かれると、僕の頭に浮かんでいた疑問が再び顔を覗かせる。
「ねえ、可琳のお母さん、僕のこと知ってたみたいだけど……小さい頃に会ってたりするのかな。僕は全然覚えてないんだけど」
その時、一瞬だけ可琳の表情が曇ったように見えた。彼女は目線を少し横にそらしながら、うーん、と小さく唸る。
「直接話したことはないけど、ハチのことは知ってるんだと思うよ。ハチのお父さんは、昔ママと同じ部署で働いていたし。ハチのことは、お父さんからよく聞いてたんじゃないかな」
「父さんが僕のことを誰かに話すなんて、あんまり想像できないな」
そう言いながら、僕は、記憶の底に沈んでいたものを掘り起こす。
「仕事ばっかりで、遊んでもらった記憶もあんまりないし、僕に興味なんてなかったんだと思う」
苦い思い出が胸をよぎる。
父さんはほとんど家にいなかった。覚えているのは、離婚をする少し前のことだ。毎日のように激しく言い争う父さんと母さんの姿。
母さんを怒鳴りつける父さん――その荒々しい声が、今も耳にこびりついている。
僕は言葉を切りながら、なんとなく、箸の先で小鉢の中身をつついてしまう。酢の効いたキュウリの香りがふわりと鼻をかすめたが、それを口に運ぶ気にはなれなかった。
僕の表情が険しくなったからか、可琳が、少し慌てたように口を開いた。
「ごめん、私はハチのお父さんと話したことがあって、そんなに悪い人に見えなかったから……」
思わぬ言葉に、僕は顔を上げる。
「可琳も、僕の父さんに会ったことがあるんだ」
「うん。子どもの頃にね。でも――」
可琳は少し言葉を濁した。僕が黙って続きを待っていると、彼女は控えめに続けた。
「ハチの中に、あんまり良い記憶が残ってないなら、お父さんの話はしないほうがいい?」
彼女の気遣いが伝わり、つい笑みがこぼれた。
「特に話す内容もないしね。あんまり家にいなかったし」
「そうなんだ……」
可琳は僕の顔をじっと見つめていたが、やがて話題を切り替えるように尋ねた。
「今はお母さんと暮らしてるんだよね。お母さんは元気にしてる?」
「うん。趣味のフラダンスを楽しんでるみたいだし、今は悠々自適に暮らしてるよ」
母さんが幸せそうに過ごしている姿を思い浮かべると、胸の奥が少しだけ暖かくなる。
「小さかった頃は親の離婚なんて嫌だったけど、今こうして幸せそうにしている母さんを見ると、これでよかったんだなって思えるよ」
言葉にした瞬間、過去の苦い記憶がほんの少し和らぐ気がした。
ふと、可琳の手元が動いているのに気づく。よく見てみると、箸袋で何かを作っているようだった。器用な指先が小さな紙を折りたたむ様子に、自然と目を奪われる。
「ならよかった。ハチもお母さんも幸せなら、それで」
可琳は小さな犬の形をした箸置きを完成させると、箸をそっとその上に乗せた。
「凄い。器用なんだね」
「小さい頃から折り紙が大好きで、ママとよく折って遊んだの。……これ、ダックスフンド。ママに作り方教えてもらったんだ。ついクセで箸袋があると折っちゃうんだよね」
可琳の言葉にはどこか懐かしさが滲んでいて、その声を聞いているだけで、彼女と母親の穏やかな時間が目に浮かぶようだった。
入り口の暖簾をくぐると、店内には焼き鳥の香ばしい匂いと、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
テーブル席に案内されると、可琳がメニューを手に取りながら笑顔で言った。
「ハチの好きなもの頼んでいいよ」
可琳のその言葉に甘えて、僕はビールと、軽く何品かを注文した。
お通しの小鉢がテーブルに置かれると、僕の頭に浮かんでいた疑問が再び顔を覗かせる。
「ねえ、可琳のお母さん、僕のこと知ってたみたいだけど……小さい頃に会ってたりするのかな。僕は全然覚えてないんだけど」
その時、一瞬だけ可琳の表情が曇ったように見えた。彼女は目線を少し横にそらしながら、うーん、と小さく唸る。
「直接話したことはないけど、ハチのことは知ってるんだと思うよ。ハチのお父さんは、昔ママと同じ部署で働いていたし。ハチのことは、お父さんからよく聞いてたんじゃないかな」
「父さんが僕のことを誰かに話すなんて、あんまり想像できないな」
そう言いながら、僕は、記憶の底に沈んでいたものを掘り起こす。
「仕事ばっかりで、遊んでもらった記憶もあんまりないし、僕に興味なんてなかったんだと思う」
苦い思い出が胸をよぎる。
父さんはほとんど家にいなかった。覚えているのは、離婚をする少し前のことだ。毎日のように激しく言い争う父さんと母さんの姿。
母さんを怒鳴りつける父さん――その荒々しい声が、今も耳にこびりついている。
僕は言葉を切りながら、なんとなく、箸の先で小鉢の中身をつついてしまう。酢の効いたキュウリの香りがふわりと鼻をかすめたが、それを口に運ぶ気にはなれなかった。
僕の表情が険しくなったからか、可琳が、少し慌てたように口を開いた。
「ごめん、私はハチのお父さんと話したことがあって、そんなに悪い人に見えなかったから……」
思わぬ言葉に、僕は顔を上げる。
「可琳も、僕の父さんに会ったことがあるんだ」
「うん。子どもの頃にね。でも――」
可琳は少し言葉を濁した。僕が黙って続きを待っていると、彼女は控えめに続けた。
「ハチの中に、あんまり良い記憶が残ってないなら、お父さんの話はしないほうがいい?」
彼女の気遣いが伝わり、つい笑みがこぼれた。
「特に話す内容もないしね。あんまり家にいなかったし」
「そうなんだ……」
可琳は僕の顔をじっと見つめていたが、やがて話題を切り替えるように尋ねた。
「今はお母さんと暮らしてるんだよね。お母さんは元気にしてる?」
「うん。趣味のフラダンスを楽しんでるみたいだし、今は悠々自適に暮らしてるよ」
母さんが幸せそうに過ごしている姿を思い浮かべると、胸の奥が少しだけ暖かくなる。
「小さかった頃は親の離婚なんて嫌だったけど、今こうして幸せそうにしている母さんを見ると、これでよかったんだなって思えるよ」
言葉にした瞬間、過去の苦い記憶がほんの少し和らぐ気がした。
ふと、可琳の手元が動いているのに気づく。よく見てみると、箸袋で何かを作っているようだった。器用な指先が小さな紙を折りたたむ様子に、自然と目を奪われる。
「ならよかった。ハチもお母さんも幸せなら、それで」
可琳は小さな犬の形をした箸置きを完成させると、箸をそっとその上に乗せた。
「凄い。器用なんだね」
「小さい頃から折り紙が大好きで、ママとよく折って遊んだの。……これ、ダックスフンド。ママに作り方教えてもらったんだ。ついクセで箸袋があると折っちゃうんだよね」
可琳の言葉にはどこか懐かしさが滲んでいて、その声を聞いているだけで、彼女と母親の穏やかな時間が目に浮かぶようだった。
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