片道切符

柊 真詩

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成長痛の降車駅

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 何かの物音が聞こえて、俺は目を開ける。小一時間は眠っていた気がする。

 テーブルを越えた向かい側の席に、ブレザーを着た制服姿の少女が座っていた。チェックのスカートから伸びた、ほどよく筋肉の付いた足が綺麗に揃えられている。鼻が高く、まつ毛も長いが、顔の形は可愛らしく丸っこい。呼吸に合わせて小ぶりな胸が動き、赤く薄いリボンが揺れていた。

「あの、あんまりじろじろ見ないでください」

 少女が眉間に皺を寄せ、不快そうにこちらを見ていた。

「ああ、すまない」

 俺は小さく頭を下げて、視線を逸らす。だが、欲望に駆られるように、俺の視線は少女の瑞々しい唇や儚げな指先に向いていく。

「君、歳は?」

 少女は迷惑そうに視線を泳がせる。

「十代前半に見えるけど、中学生くらいかな?」
「十五です。中三。それが何ですか?」
「いや、別に」

 俺は自分の胸に問いただす。
 どうして、こんなにも少女に惹かれるのだろう。

 彼女の些細な表情の変化や身じろぎが、全て魅力的に見える。だが、そんな女性を目の前にしても、不思議と肉欲は刺激されなかった。むしろ、小学校で飼っていたウサギを見ているような、心の落ち着きを抱く。

 俺がこれまで交際してきた女性は、年上だった。学生時代も、先輩と付き合っていたし、妻の年齢も私より三つ上だ。と言っても、若い女性に男心が反応しないわけではない。

 しかし本来なら、未成熟な女に欲情しない自分を正常であると安堵するところだ。それなのに、胸の内を虫が這うような不思議な感覚が襲ってくる。

「何、考え込んでるんですか?」

 少女は身体を強張らせ、不安を瞳に浮かべていた。
 喉奥に魚の小骨が刺さったような痛みが、胸の奥で広がった。

「何でもないんだ、気にしないでくれ」
 俺はできる限り優しく、少女をなだめるように声を発した。二歳の娘である、乃愛のあを泣き止ませる時と同じ声だった。

「そうですか……」

 少女はそう言いかけて、膝小僧を手でさすり始めた。その表情には苦悶の色が浮かんでいる。

「大丈夫か?」
「はい、ただの成長痛ですから」
「成長痛……何かスポーツをやってるの?」
「中学校でバスケを」
「そうか。俺も学生の時にやっていたよ」

 懐かしさが心底からこみ上げてくる。不思議と涙が浮かびそうになり、慌てて顔に力を入れて堪えた。歳を重ねると、涙腺が弱くなってくる。

「黒電話、君に鳴るといいな」
「帰れるんですよね」
「ああ。きっと」

 少女は長いまつ毛を重ね、目を伏せた。

「きっと鳴りません。私、友達いないので」
「バスケをしているのに? チームメイトは?」
「私はずっと、ベンチにも入れていませんから」

 気を沈ませる少女を見ていると、こちらも胸が苦しくなってくる。

「大丈夫だよ。両親が君の事を心配しているから」
「両親、いません。物心付いた時には、どっちも死んでます」

 丁寧な口調から出た死んだという言葉は、あまりにも刺々しかった。

「小さい頃からの夢が叶うかもしれません。この先で、父に会えるなら」

 俺は返す言葉が思いつかず、黙りこんでしまう。

 沈黙の中で、自分の手を見つめたり、ポケットの中に手を入れてみたりする。じっとしているには、居心地が悪かった。
 財布やスマホはなく、なぜか結婚指輪だけが入っていた。
 俺はそれを取り出して、手の中で眺める。
 ダイヤモンドが散りばめられた、マタニティーリングだ。

 急に、慌ただしい音を立てて、隣の席に座る男性が立ち上がった。血色が良く、背の高い青年だった。
 彼は転びそうになりながら、黒電話の元へと駆け込んでいく。

 俺の座る向きでは、青年がどうなったかは分からなかった。
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