絵本で泣いたソムリエの死体

柊 真詩

文字の大きさ
6 / 7

6,傷心の血汐

しおりを挟む
----5----
 その日、テーブルの上にはナイフしかいませんでした。

 フォークとナイフは、けんかをしてしまったのです。

「ナイフ、やっぱり魔法使いのところへ戻ろう」
「でも、ここでもっと働きたいよ。拾ってくれた人間に、まだまだ恩返しがしたいんだ」
「そんなにここにいたいなら、君だけここに残ればいいさ!」
「なんてひどい事をいうの!」
「でも、君だけじゃ無理だろうね」

 フォークは何かを思い出したように、くすくすと笑いました。

「どうして?」
「だって、切ることしかできないじゃないか。僕がいないと、使ってもらえないのさ」

 これにはナイフも黙っていません。

「そんなことないよ。僕一人だって、仕事できる。そんなに言うなら、このテーブルから降りて見てればいいよ!」

 ナイフはそっぽを向いてしまいます。

「ふーん、なら奥で見ててあげるさ。でも、君しかいないこの席には、誰も座らないよ!」

 フォークはそう言って、調理場の奥へ入ってしまいました。
----------



「龍樹、ちょっと散歩しない?」

 九月の上旬。夕食の予定もないのに、心音が呟いた。

「何か、食べに行くか?」

 彼女は何も言わずに、薄い上着を羽織って外に向かった。
 後に付いていくと、近所の小さな公園にたどり着く。
 夕焼けに照らされる紅葉が、風に揺れていた。さらさらと、軽やかな音が駆け抜けていく。
 彼女の後ろ髪も、風になびいていた。

「明日の夜さ、出て行くね」

 言葉の意味が理解できなかった。

「大事な物だけ持っていくから、残ったもの捨てていいよ」
「何……言ってるんだよ」
「また、私からになっちゃったね」
「どうして、どこに行くんだよ」
「少し離れた場所。それ以上は……教えない」

 俺は、夏に和食を食べたいと言っていたことを思い出す。

「やっぱり、遠慮して……いいんだ、心音の好きな物を食べに行こう。今からでも!」

 彼女の腕を掴むと、心音は俺の手を振り払った。

「そうじゃないの!」

 心音は沈んでいく夕日を見つめる。

「そうじゃなくてね、龍樹と食べる料理が……最近美味しくなくて」
「……え?」
「だって、料理なんて関係無しに、難しい顔してワインとにらめっこしてるだけなんだもん」
「それは、テイスティングの試験が近いから!」
「うん、分かってるよ。あんなに興味なさそうだったのに、今は本気なんだもんね。嬉しいよ、私」

 振り返った心音は、ぎこちない笑顔を浮かべていた。

「でもさ、美味しくない食事をしてると、絵本が書けないの。だから、ごめんね」

 どうにかして彼女を引き止めよう。そう思っても、言葉が出てこなかった。

 その後の事はよく覚えていない。
 翌日、仕事には出かけたと思う。どんなお客様が来店して、自分がギャルソンとして何を説明したのか、一つも覚えていなかった。

 どこか夢のように思っていた。
 昨日の事はただの夢で、家に帰れば心音が夕食を用意して待ってくれている気がした。

 鍵を回して、家に入る。
 靴や、書斎にあった仕事道具、服、保険証や免許証、心音の物が家からなくなっていた。
 当然、テーブルの上には何もない。

 崩れるように椅子に座り、一時間ほど天井を見上げていた。

 何かに動かされるように、ふらふらとキッチンに向かう。
 ワインセラーから適当にワインを取り出す。ルビーポートだった。
 ソムリエナイフのスクリューを回し、コルクを開ける。そのまま、ボトルを咥えるようにして、呼吸もせずに四分の一ほどの量を一気に飲み干した。
 咽るようにボトルを口から離す。
 目頭と頭の奥が急に熱を帯びて、破裂しそうなほど鼓動が速くなった。

 足から力が抜け、自立しない人形のように、後ろに倒れこんだ。
 食器棚に後頭部をぶつけると、心音と使っていたお揃いの食器が滑り落ちてきて、足元で弾けた。

 衝動的に、食器棚を拳で殴りつける。手の骨が砕けたのではないかと思うほど鈍い音が鳴った。
 心と胸が、押しつぶされたように苦しい。

 揺れた棚から飛び出したワイングラスが、割れた食器の上に落ちる。鼓膜をつんざくような衝撃が部屋に響く。ガラスの破片がキッチンに散らばった。

 爪の間から血が出ていた。
 俺はもう一度ルビーポートをラッパ飲みする。
 酒を流し込みながら視線を上げると、流しにステーキナイフが出たままになっていることに気が付いた。

 俺は流しにしがみつくようにして立ち上がる。
 ステーキナイフの刃には、やつれた表情で顔を真っ赤にしている自分が映った。

 視界が歪んで、意識が飛びそうになる。排水溝に顔を近づけると、生ゴミの臭いが漂ってきた。俺は嘔吐する。喉が焼き切れるように痛い。

 ステーキナイフを両手で握る。楽になりたかった。
 俺はシャツの上から、左胸にナイフを刺しこむ。
 これまで感じたことのない痛みが襲い、慌ててナイフを引き抜いてしまった。

 崩れるようにキッチンに仰向けになる。
 温かい液体が、胸から溢れ出していた。
 消毒しなくてはいけないという考えがよぎって、傷口にワインをぶちまけた。
 直火で胸を焼いているかのような熱に喘ぎながら、俺は目を閉じた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)

久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。 しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。 「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」 ――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。 なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……? 溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。 王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ! *全28話完結 *辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。 *他誌にも掲載中です。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

身体の繋がりしかない関係

詩織
恋愛
会社の飲み会の帰り、たまたま同じ帰りが方向だった3つ年下の後輩。 その後勢いで身体の関係になった。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...