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第一章 はじめまして

6 ハラダとアリと

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 ぼくはハラダに誘われるまま、学校から少し歩いたところを流れている大きな川の土手にやってきた。
 もう初夏とは言えないような強い日差しが、じりじりと下草を焼いている。
 ハラダは川沿いの道にそって植えられている木の陰にいき、そこにあるベンチの一つに座ると、いかにも「すわれ」と言うようにして隣をたたいた。ぼくは仕方なく、そのはしっこにそうっと座った。ベンチの表面もむっとしたまわりの空気を吸い込んで、じわっとお尻のあたりを熱くしてきた。
 目の前を、何も知らない近所のおばさんがむくむくした茶色いトイプードルをつれて通り過ぎていく。ぼくの胃はひっくりかえりそうになっているのに、そんな内側の緊張感なんて人にはちっとも伝わらないらしい。きっとぼくらは「ああ学校のお友達なのね」「仲良しね」っていうぐらいにしか、人には見えてないんだろう。

(エリコさん、どこにいるんだろう)

 さっきから頭の中で何度も呼んでみているんだけど、ちっとも返事がない。
 そうやってもじもじしていたら、ハラダが機嫌の悪そうな低い声で言った。

「あのよ。……お前、『エリコさん』って知ってるか」
「えっ……?」

 ぼくは自分の耳を疑った。まさかこのハラダの口からエリコさんの名前が出るなんて。
 でも、どうしたらいいんだ。これは正直に「うん」って言っていいんだろうか。いやいや、まずいかもしれない。もしもこのところ彼に悪さをしているエリコさんのことをぼくが知っているなんてばれてしまったら。それこそ、どんな報復があるかわかったものじゃないじゃないか。
 ぼくがかちんこちんになり、困り果てて沈黙していたら、ハラダもちょっと変な顔になってじいっとこちらを見つめて来た。
 背中のところに、じわりと冷たいいやな汗を感じる。ぼくはさらに体を固くした。

「……ま、いいんだけどさ」
「…………」
「もし知ってんなら、えっと……礼を言っといてほしくてよ」
「ええっ?」

 思わず大きな声を出して、ぼくはまじまじとハラダを見返してしまった。
 お礼? エリコさんにお礼が言いたいのか? 
 でも、どうして。
 エリコさんはこのところ、こいつにひどく怖い夢なんかを見せていやがらせをしていたはずだ。そうやって心の底に「水上君をいじめたらひどい目に遭うわよ」とかなんとかいう警告を書き込んで、恐怖を植え付けていたはずなんだけど。
 それのどこをどうやったら「お礼が言いたい」なんて反応が出てくるんだろう。
 ぼくにはさっぱり分からなかった。

 ぼくらはしばらく黙りこんだ。
 見るからに保育園からの帰り道らしい親子連れが、目の前を歩いて通り過ぎる。保育園児の男の子がめちゃくちゃに前を走っていくものだから、だっこひもで赤ちゃんを抱いたお母さんが「シンちゃん、あぶないから走らないで」とかなんとかと注意していた。
 ハラダはちょっとその親子連れのほうを見ていたけど、またひょいとこっちを見た。
 ぼくはその瞬間、いきなり気づいた。その目の中に、前はあったはずのあの気持ち悪い意地悪な光がなくなっていることに。
 それでやっと、ぼくは普通に近い声が出せるようになった。

「あの……。何があったの? ハラダ君」
「うーん。実はオレも、あんまりよくわかんねえ」

 ハラダは困ったようにばりばりと頭をかいた。ハラダの髪は短めで、ちょっと茶色がかっている。

「でも、なんつーか……。オレ、すっげえしょうもないことばっかしてたなって。したのはお前にだけじゃなかったけど、なんかめっちゃイヤな奴だったと思う。自分で言うのもアレだけど」
「…………」

 「うん、その通りだったね」なんて言うわけにもいかなくて、ぼくはだまって足元の地面を見た。
 「夏の間にやっておかなきゃ」とばかりに一生けんめい働いている小さなアリたちが、なにかの小さなかけらをくわえてさかさかと懸命に走っていた。
 じぐざぐ、じぐざぐ。ちゃんと知っているのだろうに、まっすぐ巣に帰らないように見えるのがいつも不思議だ。
 目線を落としたままのぼくをしばらく黙って見ていたハラダが、ちょいと自分の鼻の脇をかくようにした。

「あのときは、なんかとにかく……ああいうことしたくてしょうがなかった。でないと胸の中がぐしゃぐしゃして、ぐちゃぐちゃになって……それで、腹のここんとこが」
 と言って、ハラダは自分のおなかと胸の間ぐらいを指さした。
「ぐらぐら、ぐらぐら沸くんだ。燃えるみたいに。お湯がわくみたいに。火山の溶岩がふきだすとこみたいにな。……わかるか」
「あ、……うん」
「別にお前じゃなくてもよかったんだ。本当に、だれでもよかった。目の前に居て、ちょっとでもイラつく奴だったらだれでも。そうしなきゃもう、学校じゅうのガラスだって割っちまいそうで」
「……そう」
「でも」
 と言って、ハラダは一度、大きく息を吸った。
「そういうつまんねえこと、もうしねえから。だから、ええっと──」

 ハラダはなんとなく赤い顔をしてじろりとこっちをにらんだ。だけど、それは多分、腹を立てているからじゃないんだとぼくにも分かった。

「エリコさんに、礼、言っといてくれ。それと、その──」

 そこで一番、ハラダの顔は赤くなった。耳まで赤くなったその顔は、どことなく可愛いようにも見えた。
 と、小さな声が聞こえた。

「……ゴメンな」
「え……」

 ぼくがぽかんとしているうちに、ハラダはもうすごい勢いで立ち上がっていた。そうしてそのまま、百メートルダッシュするみたいなスピードで走っていってしまった。
 ぼくはベンチに座ったまま、バカみたいにぼうっとしていた。
 いったい何が起こったのかわからなかった。





「ねえ。ねえったら、エリコさん! 出てきてよ」

 塾が終わって家に帰り、お風呂も終わって自分の部屋に入ってから、やっとぼくはそう言った。いや、もちろん小さな声でだ。いくら自分の部屋があるといっても、リビングにいるママにはすぐに聞こえてしまう。

「どんな魔法を使ったの? ねえったら、出てきてよ。教えてったら、エリコさん……!」

 天井のほうを見上げて何度かそう言ったらやっと、そこからするりとあの黒い髪がすべり出てきた。

「あーあ。もう。こっずかしい……」
「はあ? 何を言ってるんだよ。わけわかんない」

 勉強机の椅子にぽんと座って、ぼくはわざと腕組みをした。エリコさんをちょっとにらむようにする。
 エリコさんは何となく顔を片手でかくすようにしながらふわりとおりてきた。そのままぼくのベッドにひょいと座る。

「ちゃんと教えてよ。ハラダのあれ、いったいなんなの? わけがわかんなかったんだけど。エリコさん、あいつに何をやったの」
「うーん。説明すると長くなるのよ」

 エリコさんはひどくめんどうくさそうだ。

「長くなってもいいよ。ちゃんと教えてよ。ハラダ、なんであんなに急に変わったの? なにか変なものでも食べさせたんじゃないよね、エリコさん」
「そんな便利な物があったら、あたしが教えて欲しいわよ。まあ、考えてみれば王道なのよ。そんなのでもいいなら教えてあげるけど」
「うん、教えて」

 ぼくが椅子に座り直して姿勢をただすと、エリコさんは「やれやれ」とでも言うみたいに肩をすくめて、その話を始めてくれた。

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