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第二章 性格は薄くないのに

1 ミユちゃん大ピンチ!

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 次の日の学校も、授業中はとくに何も起こらなかった。
 迫ってくる夏休み。終わるとちょっとだるくなる水泳の授業。プールの水の独特なにおい。そろそろ配られはじめる、夏休みの宿題ワーク。

 このごろは熱中症対策のために、教室のエアコンはちょっと暑いぐらいの日でもつけられるようになった。ぼくらが入学したころには、「少しぐらい暑いのは我慢しなさい」「勝手に水を飲んじゃダメ」ってよく言われていたんだけどね。

 やっと放課後がやってきて、ぼくはランドセルを背負い、いつものように帰る用意をしていた。なんとなく目線を動かしてみたら、ミユちゃんがさりげなくこっちを見ている。友達の目がないときには、家の方向も同じだからなるべく一緒に帰ることが多いんだ。
 実を言うと、これはぼくのママとミユちゃんのママが前から話し合いをしてて、「なるべくそうしましょうね」っていうことになっているんだ。最近は小さな女の子を狙った犯罪も多くなっている。それでミユちゃんのママがとても心配しているからだ。でも、ミユちゃんのママも働いていて、彼女を毎日学校へ送り迎えすることはできない。
 「もちろん、男の子だからって安全なわけじゃないのよ」と、うちのママは言っている。単純に、表に出にくいだけなんだって。そう言われると、怖いよなあ。

 教室のすみには、まだハラダとその取り巻きの男子が二人のこっている。三人が意味ありげな目でミユちゃんとぼくを見ているのに気づいて、ぼくは慌てて視線をそらした。最近はもう変なことを言ってこられることもなくなっているけれど、それでも用心にこしたことはないもんね。
 ミユちゃんもそれに気づいたらしい。少し困ったような顔になったけれど、軽そうなスカートをひらりとゆらして、素早くこちらに背を向けた。ピンク色のランドセルを背負った後ろ姿が、あっというまに扉のむこうに消えてしまう。

(……まあ、いいか)

 学校から出て少し歩けば、小学生の目につかない場所はいくらでもある。前だったらそんなところまででもハラダたちが追いかけてくる可能性があったわけだけど、今はそんな心配もいらない。少し早めに歩いて、ミユちゃんに追いつけばいいことだ。
 そんなことを思いながら、ぼくは教室を出て校門に向かった。

 校門のすぐ前は、両側に歩道のある二車線の道路になっている。
 思った通り、少し歩くとあのピンク色のランドセルを背負った姿を前に見つけた。ぼくは足を速め、ミユちゃんの名前を呼ぼうとして、ふと気づいた。

「えっ……」

 後ろから、なぜかハラダが歩いてきている。手下の二人も一緒にだ。もう、ぼくにへんなちょっかいを掛けるのはやめたんじゃないんだろうか。これ以上エリコさんに怖い目に遭わされたいってことはないだろうと思うんだけど。
 困ったなあ。
 これじゃ、ミユちゃんのそばまで行けない。「女といっしょに帰るのかよ」なんて、またからわかれたんじゃたまらないし。
 なんとなくだけど、もしかしてハラダって、ミユちゃんのことが好きなんだろうか。バレンタインデーにぼくがミユちゃんからチョコをもらったこと、ちゃんと見ていたみたいだったし。まあミユちゃんは可愛いし、性格だって優しくてとてもいい子だから、そんな風に思うのは不思議じゃないけど。

 そんなことをぼんやり考えながら少しゆっくりめに歩いていたら、脇を黒いワンボックスカーがすうっと追い越していった。なんとなく、普通の車よりもゆっくり走っているような感じがするなと思ったけれど、ぼくはあまり気に留めないでそのまま歩いた。車はその先の曲がり角で左に曲がって見えなくなった。
 そこは、いつもミユちゃんとぼくが使っている曲がり角だ。そっちの道はこっち側よりもだいぶ狭くて、車二台がやっとすれ違えるぐらいの道幅だ。ミユちゃんもいつもどおり、そっちに曲がっていった。

 と、とつぜん頭の中で声がした。

『だめ! オサム君、走って!』
「えっ……」
 エリコさんの声だった。
『いいから走って! ミユちゃんが危ない! 早くッ!』
「な、なに……?」

 わけもわからないままに、ぼくはつまずきながら走り出した。もともとそんなに運動神経のいいわけじゃないぼくのことだ。必死に走ってるつもりでも、スピードなんて大したことはなかった。
 やっと曲がり角まできてそっちを見たら、ミユちゃんの姿はそこになかった。でも、道にはミユちゃんが持っていたピンクの補助かばんが落ちている。すぐそばにさっきのワンボックスカーがとまっていて、中で何かがごそごそしているのが分かった。
 エリコさんの声が頭の中で響きわたった。

『ミユちゃんはあの中よ。たった今引きずり込まれたの。急いで、オサム君!』

 ぼくは一瞬、そこで棒立ちになった。心臓が止まったようになる。目の前で起こっていることが信じられず、どうしたらいいのか分からない。

『オサム君! 早く!』

 エリコさんの絶叫が耳につき刺さってきて、ぼくは急いでかけだした。
 でも、もう遅かった。車はぎぎゃっと変な音をたてて急発進し、すごい速さで走り出していた。ぼくなんかの足じゃ、あっという間に距離をあけられてしまう。ぼくなりに必死に足を回転させているつもりだったけど、車は見る間に遠ざかっていく。こんな大事なときに役に立たない自分の足が、悔しくて悔しくてたまらなかった。
 ぼくは、ぜいぜいいいながらやっと叫んだ。

「ミユ、ちゃん……!」
『大丈夫! あたしが止める。走って!』

 言ったかと思ったら、エリコさんの気配はぼくのそばからすっと離れた。次の瞬間、黒い車がふらふらっと変な動きをして、激しいブレーキの音がした。

(あっ。あぶない……!)

 ぼくは思わず目をつぶった。
 ごん、とにぶい音がして目を開くと、車はそばの電柱に頭から突っ込むようにして止まっていた。

「ミユちゃんっ……!」

 ぼくはもう無我夢中で車のそばまで走った。すぐにそのドアに取り付いて開けようとするけれど、がちゃがちゃいうばかりでちっとも開かない。ロックが掛かっているのだろう。

「ミユちゃん! ミユちゃんっ……! 聞こえる? ここ、開けて!」

 黒いシートが貼ってあって窓の中はよく見えなかったけれど、ぼくはそれでも窓を叩いて中に向かって叫んだ。が、ドアはなかなか開かない。中から小さな声が聞こえるようだったけど、何を言っているのかは分からなかった。

「どうしたんだ、水上っ!」
 ハラダだった。見れば、例の子分ふたりをつれて後ろから走ってきている。ぼくはあえぎながら叫んだ。
「ミユちゃんが! ここにミユちゃんがいるんだ。かないっ……!」
 ドアの取っ手に手をかけて力任せに引っ張りながら叫んだら、ハラダはすぐに状況を分かってくれたようだった。
「あっちはどうだ? 運転席のほうなら開いてるかもしれないぜ!」

 言ってすぐ、ハラダは車の後ろを回って運転席のほうへ走った。前からも後ろからも車が来ていないのが幸いだった。ガチャリとドアの開く音がして、ハラダが中から車のロックを解除してくれたようだった。
 後部座席の方のドアを開くと、口に大きなテープを貼られたミユちゃんが座席の上に転がされていた。真っ青な顔で大きな目を見開いて、がたがたと震えている。ぼくを見て何か言ったようだったけど、口が閉ざされているのでうめき声にしかならなかった。後ろ手にされ、手首と足首はどっちも結束バンドで縛られてしまっている。ピンクのランドセルは足もとに放り出されていた。

「ミユちゃんっ……!」

 ぼくはもう夢中でミユちゃんを抱き起こして、どうにかこうにか車の外へ引きずり出した。ハラダの子分たちも手伝ってくれて、手足のバンドをとりはずし、顔のテープをはがす。
 とたん、ミユちゃんがわああーっと大声で泣きだして、すごい力でぼくにしがみついてきた。細い身体がぶるぶると震えっぱなしだ。
 そりゃ、怖かったよね。めちゃくちゃ怖かったよね。ぼくは思わずその背中を軽くたたいてあげた。

「ごめんね、ミユちゃん……」

 いつもみたいに、一緒に帰ってあげればよかったんだ。後ろからハラダたちが来ているからって、そんなこと気にしてる場合じゃなかった。この車、たぶん最初からミユちゃんを狙ってた。そうでなければ先にあの角を曲がって彼女を待ち伏せするわけがない。
 きっと、ずっと前からミユちゃんのことを狙っていて、彼女が何時ごろ、どのあたりを歩いているかも調べていたのに違いない。このところぼくと一緒に帰っていなかったから、どうやら相手はぼくの顔を知らなかったようだ。
 ミユちゃんが少し落ち着いてきたところで車の中をのぞいてみたら、どこにでもいそうな普通のおじさん風の男が、ハンドルによりかかって白目をむき、口から泡をふいていた。
 エリコさん、一体どんな脅かし方をしたんだろう。
 と、頭の中でまたエリコさんの声がした。

『オサム君、ぼうっとしてちゃだめ。こいつ、いつ目がさめるか分からないから。すぐ通報よ』

 そうしててきぱきと、周りの子供たちに出す指示を教えてくれた。
 ぼくはエリコさんの言うとおりにみんなに伝えた。

「ハラダ君、悪いけど、しばらくこいつのこと見張ってて。この結束バンドで手とか縛っておくといい。きみ、携帯もってるよね? すぐに110番してくれる?」
「お、……おう」
「オカ君、近くの交番に知らせにいって。ほら、コンビニの隣にあるでしょう」
「あ、うん。わかった」
「モリモト君、だれか、近くの大人を呼んできて。できたらその人に、スマホでこいつと車の写真、撮ってもらって。ナンバープレートは絶対撮ってもらってね」
「りょ、了解」

 ハラダとその手下の二人──じつはオカ君、モリモト君という──は、ちょっとの間あっけにとられたようにぼくを見ていた。けど、すぐに我にかえって自分の仕事を始めてくれた。
 やっと少し泣き止んできたミユちゃんが、涙でいっぱいの目をきらきらさせてぼくを見ている。それがちょっぴり、恥ずかしかった。

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