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つづれ しういち

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第一章 転落

5 暗黒門※

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  周囲の空気を巻き込んで、道の上の落ち葉や小さなゴミなんかが、ころころと背後の真っ黒な円い穴に向かって吸い込まれている。
 何もない空間に、いきなり暗闇の門が開いたかのようだった。

(なんだよ、これ……!?)

 ばちばちと、その円の周囲にプラズマが走って、薄紫色に跳ね散っている。
 「それ」はいかにも、この世のものではないものが、周囲の空間を無理やりに押し広げて割り込んできた感じがした。そこから溢れ出るきな臭い毒を含んだような空気に、なにかの腐臭も混ざって、俺はまた胸がむかつきはじめた。
 まだ明るかった筈の夏の空が、今は真っ黒なフィルターがかかったようになって、周囲のすべては、滲んだような紺色の世界に変貌していた。

「内藤!」

 佐竹が叫んで、こっちに腕を伸ばしている。佐竹は、持っていた鞄も荷物も、すでに道の上に放り出していた。
 その腕の意図がやっとわかって、俺はつないでいた洋介の手を放し、ランドセルごと後ろからぐいっと佐竹の方へ押しやった。ほとんど、突き飛ばすぐらいの勢いだった。

「行け……、洋介!」
「わ!」

 強く押されて前のめりになり、危うくこけそうになった洋介を、佐竹が前から受け止めた。即座に自分の体を盾にして、洋介を後ろに隠す。そのまま素早く抱き上げて、なるべく離れた所まで一旦さがり、洋介を傍の電柱の陰に隠してくれた。
 佐竹は洋介に「そこにいろ」とだけ言ってすぐに戻ってくると、今度は俺に手を伸ばした。

「早くしろ、内藤!」
 佐竹が叫ぶ。

 と、また頭の中であの声がした。

こたえよ、我があるじ憑子よりましよ》――

「し、……らないよ、そんな、ことっ……!」
 また激しい頭痛が始まって、俺は頭を抱えた。
「くぁっ……!」
 頭が割れる。
 まるで、このまま四散するのではないかと思えるほどだ。

 やめろ。
 やめろ……!

(知らない、知らない……知るもんか――!!)

 ほっといてくれよ。なんだっていうんだよ……!
 俺の世界は、ここなんだ。
 お前らの都合なんか知らないよ……!

《偽りを申すなよ、小僧》

 はっきりとした老人の声が、耳元で聞こえた。

(な……?)

 俺は目を開いた。周囲には誰も見えない。
 だが、その声は明瞭に、耳元でまた聞こえた。

《儂はさきほど、はっきりと聞いたぞよ――?》
「な……、なにを、だよ……」

 心臓が、張り裂けそうに高鳴っている。
 もう、爆発するんじゃないかというほどに。

(……いやだ)

 ほとんど本能的に、そう思った。
 その先は、聞きたくない。

 嫌だ。
 言わないでくれ。
 聞きたくない。
 わかりたくない!

 それだけは――。

 ……だが。
 その声は、どこまでも非情だった。

《おぬしは言うたぞ。『ここから逃げ出したい』、とのう……?》

 俺は、目を見開いた。

(………!)

 途端、ぷつりと何かがはじけ飛んで、
 視界が暗転し、目の前の景色が急速に遠のいていった。





 内藤の背後に現れた謎の空間は、びしびしと周囲の空間を軋らせて、いまだ膨張し続けていた。

「早くしろ、内藤!」

 佐竹は手を伸ばしてもう一度叫んだが、内藤の耳には届いていないようだった。
 内藤は両手で顔を覆って前かがみになり、体を丸めている。そのまま背中から、背後の空間に次第に吸い込まれかけているようだ。

「ちっ……!」

 佐竹は奥歯を噛み締めると、彼の腕を掴むため、その近くに駆け寄った。
 が、ほとんどそれと同時に、空間の中から真っ黒な何かが溢れ出はじめた。

(………!?)

 佐竹は、我が目を疑った。
 それは、ひどく不恰好な、真っ黒い腕だった。
 全部で十本はあるのだろうか。関節から関節までが異様に長く、また大きく太い腕だった。普通の人間の、太腿の太さぐらいはあるだろうか。そこに生えた爪も異常に長く、五センチは優にあった。
 それらの腕が内藤の背後から、まるで蜘蛛の脚のように生え出てその体を囲い込もうとしていた。

「内藤!」

 佐竹は構わず、内藤の腕を掴んだ。
 が、彼の顔を覗き込んで、一瞬、息を呑む。

 内藤は、自分の顔に血が滲むほどに爪を立てていた。耳をすましてみれば、なにか、小さな声で呟いているようだ。指の間から垣間見えるその瞳は空ろで、まったくこちらが見えてはいないようだった。

「……だ、いや、だ……」

 そんな声が、僅かに聞き取れた。
 内藤の体を抱きこもうとする黒い腕どもを腕と拳で払いのけ、足で蹴りつけながら、佐竹は内藤の肩を掴みこんで、その耳元に怒鳴りつけた。

「しっかりしろ、内藤! 俺の声だけ聞け!」

 とにかくここから、一刻も早く離れることが先決だ。
 何が起こっているかの判断など、後でいい。
 佐竹はそのまま、内藤の首にも反対の腕を回し、その体をじりじりと「暗黒門」から引き離しにかかった。
 しかし。

「がああああああッ――!」

 突然、内藤が絶叫して、両腕で佐竹の体を突き飛ばした。凄まじい力だった。
 そして再び顔を覆い、今度は背中を反り返らせて、まるでのた打ち回るかのように体をしならせている。

「やめ……、いやだ……、いやだああああッ!!」
 その苦しみようは、さすがの佐竹ですら、目を覆いたくなるほどだった。
「……くる、な……」
 喘ぎながら、内藤が喉を振り絞るようにして叫んだ。
「入って、……くるなああああ――ッ!!」
「………!」

 佐竹は、ほとんど本能的に理解した。内藤の「内部」に、何かが浸食してきているのだ。内藤はいま、それと闘っているのだろう。だが。

(それは、何だ……?)

 が、考えるいとまなどなかった。
 内藤は苦しみ、喘ぎ、目の前でのた打ち回っている。その体を、またしてもそのどもが、もぞもぞと囲い込み、締め上げて、その「暗黒の門」のなかへと引きずりこもうとしていた。

(こいつら……!)

 やつらは、内藤を掠め取ろうとしているのだ。どこへかは分からない。ただ、ここではないどこかへだ。それだけは確かだった。
 理由などわからない。
 わかるはずがない。

 ――だが。

 佐竹の目が、激怒のために燃え上がった。
「貴様ら……ッ!」
 
 むざむざと目の前でそんな真似をされて、俺が黙っていると思うのか――!

 と。

「うあああああ――っ!」

 背後で、悲鳴のような泣き声が上がった。
 咄嗟に振り向けば、洋介が電柱の陰で棒立ちのまま、火のついたように大泣きを始めていた。

「にいちゃ……、にいちゃあああん……!」

 真っ青な顔で、目をこれ以上ないほどに見開いて、洋介がぼろぼろと泣いていた。
 その足ががくがく震えて、いまにもへたり込みそうに見えた。

 無理もない。実の兄が、目の前でわけのわからない「罠」にかかって、ここまで苦しみ、のた打ち回っているのだ。しかし。
「動くな、洋介! こっちに来るな!」
 佐竹も、今はそう言ってやるしか、出来ることもなかった。

 と、洋介の声を聞いた途端、内藤の動きが止まったようだった。
「…………」
 なにかが聞こえる。
「…………」
 それは、掠れた内藤の声だった。
「……た、け……」
 その声に振り向いて、佐竹は絶句する。

 顔を覆った指の間から見える内藤の目は、全体が白濁したようになって、もうどこに瞳があるのかも分からなかった。
 その目からだくだくと溢れている涙は、血の色だった。
「…………」
 佐竹は唇を引き結び、眉間に皺を刻んで、内藤を見返した。
 押し殺した声で答える。

「……なんだ」
「……すけ、の、こと……」

 よく聞こえない。
 佐竹は、黒い腕どもを跳ねのけつつ内藤に近づくと、その口元に耳を寄せた。

「…………」

 最後の声が、微かに聞こえた。

(………!)
 
 次の瞬間、怒りに理性が吹き飛んだ。

「おまえら……!」

 佐竹は、いまや内藤の体に十重二十重とえはたえに巻きついている黒い腕どもを掴み上げると、次々と力任せに捻り上げはじめた。
 元剣士の握力を馬鹿にしてはいけない。黒い腕どもは、べきばきと音を立てては力を失ってゆく。それは確かに、佐竹の手の中で、やつらの骨の砕ける音だった。

《ギエアアアアアア――!》

 暗闇の中から、途端にくぐもった悲鳴が聞こえた。いくつかの腕は闘志を失ったかのようにだらりと垂れると、ずるずると暗闇のなかに戻ってゆこうとし始めた。
 佐竹は間髪いれず、残りの腕も脇に囲い込んであらぬ方向へと体重をかけ、力を込める。
「ふっ……!」
 再び、べきべきと骨の砕ける音がした。また、闇の門の中から醜い野獣のような悲鳴が湧き起こった。

《誰じゃ……!》
 鉄の錆びたような、老人の声が轟いた。
《邪魔をする者は、誰じゃ……?》

 佐竹は我知らず、口のに笑みがのぼってくるのを覚えた。
 普段、ほとんど笑うことなどない自分が。
 なにか、不思議な気持ちがした。

 そして、ひと言、こう答えた。

「……俺だ」

 不思議なことに、そこからしばしの沈黙があった。
 やがて。

《その、声は……》
 鉄錆の声は、愕然としたような色を含んでいた。どういうわけか、ひどく狼狽しているようにも思われた。

《……まさか》

 と、暗闇の円盤の中に、次々と巨大な「まなこ」が、ねっとりとした泥の中から浮き上がるようにして、ぬぷりぬぷりと浮き出てきた。真っ黄色で充血した、ぎょろぎょろとしたその眼は、直径が優に三十センチはあった。全部で十はあるようだった。
 その眼が、一斉に、ぎょろりと佐竹の姿を捉えた。
 佐竹も、黒い腕を抱え込み、不敵に笑ったままの顔で睨み返した。

 「まなこ」どもは、佐竹の姿を認めると、明らかにその目を剝いた。

《ぬうう……!》

 老いたその声には、凄まじいまでの驚愕が現れていた。
 まるで、「信じられぬ」と言わんばかりだった。

《まさか、そなた――》

(なんだ……?)

 まるで、もともとこちらを知っていたかのようなその声の物言いに、佐竹はふと、奇妙な感じを抱いた。それでつい、笑った顔のまま、鎌をかけた。
「どうした? あんたの知り合いにでも、似ているか?」 

 声は、それには構わず、先を続けた。

《サーティーク……!!》

 そこには、確かに恐怖が混ざりこんでいた。
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