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第三章 武術会
7 迷い
しおりを挟むそして。
闘技場は、また水を打ったような静けさに包まれた。
少しの沈黙の後、慌てたように審判の判定の声が響いた。
「勝負あった! 勝者、ミード村、サタケ!」
佐竹はまた、静かに場に向かって一礼し、何事もなかったように闘技場から出た。
その中ではまた、意識を失った対戦相手が巨体の手足を長々と伸ばしてぶっ倒れていた。
佐竹は次の試合を待つ選手たちが座っている場所へと再び戻った。
気のせいか、その場にいた他の選手が次々とその大きな体を端へ寄せ、佐竹のためにわざわざ場所を空けてくれたようだった。佐竹は彼らに軽く会釈して、空いた場所に素直に座った。再び先ほどと同じ姿勢になって目を伏せる。
今の対戦が三回戦。つまり少なくともあと三回は勝たなければ、この大会で優勝することは出来ない。
それまで、一体どれほどの時間が掛かるのか。
(……いや。考えるな)
佐竹は自分自身の心を戒めた。
焦ったところで、何ひとついい結果など生まれない。
大切なのは、それがどんな場面であっても、いかに冷静に、客観的になれるかだ。
そして常に、多角的に物事を見る。
剣の道とはすなわち、詰まるところ、いかに己を見つめきるかだからだ。
「…………」
(どの口が言うかな、……俺も)
自分でも、やや自嘲の念は禁じえない。
自分にそんな大口が叩ける筈もないことは、佐竹自身が一番よく分かっている。
なんと言っても、自分は一度、この剣を捨てた身だ。
人の心は、脆くて、弱い。
もちろんこの自分も、その弱い人間の一人に過ぎない。
あの日まで、「自分はそうではない」などという根拠のない、そして鼻持ちならない自信を持っていたことが、今では心底恨めしく思えるほどに。
(……だが)
あの時は、それが耐えがたかった。
剣のため、その場に於いては他の全てを忘れよという、
山本師範のあの言葉が。
たかだか十四だったとか、そんなことは関係ない。
自分が剣を捨てたことに、変わりはないのだ。
自分は、この剣を裏切った――。
(……それでも)
そんな自分に今、再びこの剣が応えてくれていることに、佐竹は驚きとともに、ある種の震えるような喜びをも感じている。
結局のところ、この異界の地へと内藤を追ってきて彼を本気で救おうとするならば、自分はこの剣に頼る以外、何ができたはずもない。だから自分がこうして再び剣を取ったことは、むしろ必然だったのだろうと思う。
ただ、そこに迷いがないかと問われれば。
自分はまだ「否」、と答えることしかできない。
まだまだ自分は、深い「迷い」の中にある。
そんな未熟な自分でも、剣は「許す」と言ってくれているのだろうか――?
(だが――)
そんな風に考えること自体、ただの甘えに過ぎないのかも知れぬ。
それはある意味、剣士の「業」とでも呼ぶべきものか。
それは、佐竹にも分からない。
……ともあれ。
(……今はただ、無心になる)
目の前の目的を果たすため、今、できることはそれだけなのだ。
しばらく目を伏せていた佐竹の耳に、再び審判の声が聞こえた。
「四回戦、用意! ミード村、サタケ!」
その途端、闘技場にはわっと大きな歓声が上がった。
初め、佐竹はそれが自分に対して上がったものだとは気付いていなかった。
また、そんなことはどうでも良かった。
見つめるのはただ、目の前の試合だけだ。
試合に勝つ。
内藤に会う。
そして、彼を救い出す。
そのために今は、無心になるのだ。
◇
が、試合は意外な結果となった。
呼ばれて闘技場の真ん中に出ていった佐竹は、対戦相手である小山のような体躯をした短い金髪の大男から、いきなり握手を求められた。
相手はやはり、筋骨隆々とした偉丈夫だった。盛り上がった二の腕など、もはや普通の丸太の太さと変わりない。衣服はごく粗末なものだったが、腰に締めた分厚い皮ベルトだけが少しばかり、他の選手よりは凝っているようにも見えた。
「……?」
佐竹が怪訝な目でそのグローブのような巨大な手をちらりと見返すと、男は「あっ」と小さく声を上げた。
「すまねえ、すまねえ。先に審判に言っとかねえとだよな?」
そう言って、男はぐいっと向き直ると、隣にいる審判の男を見下ろした。
「俺は試合を辞退するぜ。この兄ちゃんには、どうやったって勝てねえからな」
にこにこ笑って豪快な笑声を上げている。そしてそのいかつい顔から、なぜかウインクが飛んできた。
佐竹は少し、気持ちの悪いものを受け取ったような微妙な顔になる。
「さっきから、あんたの試合をずーっと見てた。だが俺にはどんなに見てても、その木剣を避ける方法がわかんねえ。だから、あんたと試合はしねえ。不戦敗よ」
男はむしろさばさばしたような顔で、明るく佐竹の肩を叩いた。
「俺の楽しみはよ。どっちかっつーと、この武術会が終わってからの酒盛りの方なんでな。兄ちゃんに、さっきの奴等みてえに昏倒させられたんじゃあ、せっかく呑める酒が減っちまわあ。……だろ?」
けたけた笑いながら、男は改めて佐竹に握手を求めた。
「いいだろ? 村の奴等に自慢してえんだ。あんた、すぐに有名になるだろうからよ」
佐竹は漸く得心がいき、彼のその巨大な手を握り返した。
その太い指ががっしりと、佐竹の手を握り締めた。
が、そうして距離が近くなった瞬間、男はちょっと腰を曲げ、そっと佐竹の耳に囁いた。
「だが、兄ちゃん。『武術会』と戦場とじゃ、わけが違うぜ?」
見返すと、男の鈍色の目は一転して、ぎらりとしたなんとも言えない光を湛えていた。
「…………」
男の目は明らかに、「戦場ではこうは行かない」と語っていた。
佐竹の背中に本能的に、ぞわりと冷たいものが走った。
(……なるほどな)
佐竹は、ある種の確信を持ってそう思った。
この男には、恐らく兵士の経験がある。
どういうわけでそんな男がこんな田舎の村人たちのやる武術会などに参加しているのかは分からない。分からないが、彼には間違いなく、戦場で人の命を奪った経験があるはずだ。
この男の目の底にはそういう人間だけが放つ、どこか寒々とした冷徹な何かが宿っていた。
「…………」
佐竹は沈黙したまま、その目を真っ直ぐに見返した。
至近距離で目と目を見交わす。
と、男は低く、喉奥で笑ったようだった。
「あんたの目は、綺麗すぎる――」
「……!」
佐竹は目を見開いた。
「ま、その目がこの先、濁らねえことを祈ってるぜ?」
男はそれだけ言うと、何事もなかったかのように姿勢を戻した。その後はもう、ただ明るく、豪快な笑みを頬に乗せているだけだった。
やがて審判の男がそんな二人の顔をちょっと見比べるようにしてから、ようやく片手を上げて宣言した。
「ダール村、ゾディアスの不戦敗宣言により、勝者、サタケ!」
どおっ、とまた、周囲が明るい歓声に沸いた。
「ありがとよ、兄ちゃん。頑張れよ!」
金髪の男はにこにこ笑ってそう言うと、くるりと広い背中を佐竹に向け、もう軽い足取りで闘技場を後にしていた。もはやこちらを一顧だにせず、大股にどんどん行ってしまう。佐竹はその姿をちょっと見送るようにしていたが、やがてその背中に向かって静かに一礼をした。
と、背後から「ゾディアスが不戦敗かよ……」という声とともに、他の選手たちの「やれやれ」と言わんばかりの溜め息が漏れ聞こえた。
「こりゃ、俺らもやるだけ無駄みてえだなあ、おい――」
「まあ、そうねえ……」
苦笑混じりの声も聞こえる。
そして、次々に闘技場に向かって、選手である男たちが口々に言い始めた。
「おう、審判。悪いが、俺らもここで降りるわ!」
「ゾディアスが『勝てねえ』っつってるお人に、俺らごときが勝てるかよ」
「右におなじ!」
「おお、俺も~。やっぱ、酒のほうが千倍、大事だしな!」
「…………」
佐竹は闘技場の上で沈黙していた。
彼らが何故、そうまで嬉しそうにしているのかがよく分からなかった。そんな佐竹に男たちは軽快に笑いかけ、手を振ってみせた。
「兄ちゃん、あんたの優勝だよ」
「とっとと宣言してやれよ~? 審判」
そう言って、もう皆ぞろぞろとゾディアスを追うようにしてその場を後にしかかっている。どうやら彼らの頭の中はもう、この後の「酒盛り」一色に塗りこめられているらしかった。
「…………」
隣でいまだに呆気に取られている審判を、佐竹はちらりと眺めやった。が、いつまで待ってもそんな風なので、仕方なくひと言、声を掛けた。
「……審判。ご裁定を」
「あっ? あ、ああ……」
審判の男はそれでやっと我に返ったようだった。
そして改めて佐竹の腕を取ると、それを空へと高く差し上げた。
「他の選手の棄権により、優勝者、ミード村、サタケ―― !!」
どおおおっ、とまた、広場全体に人々の歓声が沸きあがった。
次の瞬間、人々は、我先にと闘技場の中になだれこんでくると、次々に佐竹に対して握手を求めてきた。もはや、誰も彼の髪色など気にしてはいなかった。
「いや、自分は先を急ぐので」と何度も遠慮するのにも構わず、次々に人々の手が伸びてきて、佐竹は歩くこともままならなかった。
人々にもみくちゃにされるながら何とか歩いてゆくうちに、佐竹はふと目の端に、あの刀鍛冶の老人の姿を認めた。
(………!)
老人は人々の陰に隠れるようにしながら、黙ってじっと佐竹を見ていた。
その様子からして、どうやら試合の間もずっと佐竹を見ていたようだった。
そして意味ありげに一度頷くと、またどこへともなく姿を消した。
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