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第五章 秘密
1 オーロラの唄
しおりを挟む毎晩、<あいつ>が眠ると、俺の時間がやってくる。
<そいつ>の寝ているベッドを抜けだし、俺は裸足のまま、冷たい石の廊下を息を殺して歩いてゆく。なんだか女が着るみたいな、妙に長くて足にまとわりつく寝巻きを持ち上げるようにして。
ひたひたと、静かな足音と衣擦れの音だけがする。
窓の外では、大きくて気持ちの悪い惑星が夜空を照らして、不気味な目で俺の姿を見下ろしている。いつもこの夢の中ではそうなのだ。
時々、ここで働いている男や女が暗い廊下を燭台を手に歩いてゆくのを、うまく物陰に隠れてはやり過ごす。
あいつらに見つかると、いつものように「陛下、いかがなされましたか!」とか「またご病気が出ましたか!」とか、とにかく金切り声を上げられる。そしてすぐ、呼ばれた兵士たちに抱えられてあの寝室に逆戻りだ。
そう、ほとんど力づくで。
そうしてまたあの老人が、忌々しい薬を持ってくる。
俺は、いつも必死で大暴れする。
大声を上げて、両手と両足をばたつかせる。
でも、一度も逃げられたことはない。
体じゅうをごつい体の兵士達に抑え込まれて、それをほとんど無理やりに口に流し込まれる。
そして。
俺はまた、あの<玉>の中に逆戻りする。
ずっと、そうだ。
ずっと……そうだった。
……あいつがやってくる、その日まで。
◇
その夜、佐竹はいつになく書庫の作業が長引いて、王宮を辞する時間が遅くなった。
他の文官たちは先に戻らせ、一人で最後まで書庫に残って目録カードの細かな記述のチェックをしていたのだ。しかし、気がつくともう深夜になってしまっていた。
手元に置いた燭台の蝋燭が、随分と短くなっていた。
(……まずいな。衛兵が通してくれんかも知れん)
そうなのだ。
あまり遅い時間になると、それぞれの扉や門についている夜番の警備兵も警戒心を強くする。つまり、たとえ相手が見慣れた人物であったとしても「どこへ行っていた」、「どこへ行く」、「何をしてきた」などと言ってなかなか通してくれなくなってくるわけだ。こんな深夜ともなれば、なおさらである。
しかも佐竹は、このあと剣の鍛錬をし、入浴等々を済ませてねばならないため、実際の就寝時間はさらにずっと遅くなる。これ以上続けるのは難しそうだった。
佐竹はやむなく作業を切り上げ、少し後片付けをして、本日の業務を終了させた。誰もいない書庫を一応最終確認してから、自分のための燭台を手にして書庫を出る。
書庫は王宮の最奥部にある。そのため、実はあのナイト王やヨシュア殿下が住まう後宮にも程近い。
彼らの父母、つまり先王と妃は身罷ってもう何年にもなるらしく、祖父や祖母といった人々もすでにこの世の人ではない。つまり家族はかれら兄弟ふたりだけということだ。
父王が崩御してすぐ、ナイトは十四の若さで王位を継いだという。
内藤がここへ連れてこられたのが十七の年でいいのだとすれば、恐らく王位継承から丸三年は、本来の「ナイト」がここで王としての公務に就いていたということになるのだろうか。
そのあたりの具体的な年数は、佐竹にもはっきりしたことは言えない。誰に確かめるわけにもゆかないためだ。
ただ文官たちの話によれば、七年ほど前からナイトに謎の体調不良が頻発しているらしい。恐らくは、それがナイトと内藤が入れ替わったタイミングなのであろう。まあそれだけの情報からでは、誰がどんな「魔道」を使ったものかまでは分からないが。
あのゾディアスにしてもそうだったが、ここの文官たち、侍従や兵士、たまに見かける女官たちなどもすべて、あのナイトをナイト王本人だと信じて疑ってはいないようだった。
(それほどに内藤と、本物の『ナイト王』は似ているということか──)
あの王弟殿下であるヨシュアを見て以来、佐竹にはずっと、ある種の嫌な予感が纏わりつくようになっている。
あの殿下は、あまりにもあの洋介に似すぎていた。それは単に姿かたちだけのことでなく、その性格、人格的なところまで、そっくりなのではないかと思われた。
一度書庫を訪ねてきて以来、ヨシュアは自分の勉強や剣術の稽古などの合い間をみては、しょっちゅう書庫に出入りするようになっていた。そして、その間はずっと佐竹の隣にいて、書庫内の文物の整理法や目録法、書誌の記録の取り方などを興味深げに眺めては、時々メモまで取るなどして熱心に勉強している。
書庫の勉強に興味があるのは勿論のようだったが、彼は何より、佐竹の傍に居るのがことのほか好きなようだった。
ヨシュアは、素直で優しい少年だった。
まさに性格までが、あの洋介と瓜二つだったのだ。
彼の姿を見た当初、佐竹はある種の懸念を抱いた。
彼もまた、兄と同様、あちらの世界から無理やりにこちらへ連れてこられたのではないのかと。
だが、それは幸い、杞憂に終わった。
王弟殿下の茶色の髪の隙間から、佐竹は確かに見たからだ。ヨシュアの耳は、この世界の人々特有の少し尖った形をしていた。向こうの世界の洋介の耳に、そんな特徴はなかったはずだ。
そのことを確認して、佐竹は一応、安堵した。少なくとも洋介は、向こうの世界で無事でいてくれているようだった。
が、ナイト王に関しては、まだそうした細かい確認まではできていない。どういうわけかあの王は、この王宮に帰還したあの日以来、自分の前に姿を現さなくなったからである。
ヨシュアも何度か兄王とここへ来ようと何度もお誘いしたらしい。だが兄は「政務が忙しいから」等と、何やかやと理由をつけて、結局今に至るまで一度も同行してくれないのだという。
どうやら自分は、彼に避けられているようだった。
(……ともあれ)
ここに、佐竹のひとつの仮説がある。
この世界は、あの世界の鏡のようなものではないのかと。
ナイトが内藤であるように、ヨシュアは洋介の鏡なのではないのだろうか。
そうだとすれば自分にも、この世界のどこかには、<鏡の相手>がいるということなのだろうか――?
……そして。
自分はその相手がすでに、誰だか知っているような気がしている。
自覚したくもないし、分かりたくもないとは思うが。
そして出来うることならもうこのまま、<彼>に会わずに済ませたいとも思う。
恐らく自分は、<彼>には勝てない。
彼我の七年の年の差だけの問題ではない。
生まれてこのかた実戦の中、血に塗れて戦い続けてきたその男と、平和な日本の道場で竹刀だけを振ってきた自分とで、勝負になるはずがないからだ。
<彼>に勝てる道理がない。
「…………」
そこでつと佐竹は足を止め、窓の外の「兄星」を見上げた。
城の外ではすでに冷たい秋風が、冬の訪れを予告している。
冬になれば、ここには雪も降るのだという。
そして人々は、<オーロラの唄>を聞くのだと。
地球上にも、<オーロラの唄>を聞く人々はいるという。
グリーンランドのイヌイットや、ノルウェーのサーミという先住民族の人々だ。
ここに住む人々にも、その<唄>は聞こえるのだという。
だが自分には、その<唄>は聞こえない。
生まれながらにここに育った者以外、その<唄>を聞くことはできないのだ。
佐竹は、静かに目を閉じた。
「…………」
と、小さな声が聞こえた気がして、すぐに佐竹は目を開けた。
「……た、け?」
周囲を見回す。
暗くて、手元の燭台の灯りの届く範囲以外はよく見えなかった。廊下の壁には五メートルおきぐらいに灯火が灯されてはいるのだが、それだけではいかにも暗かった。
(……?)
空耳だろうかと、初めは思った。
しかし、次の言葉ははっきりと聞こえた。
「さた、け……?」
「…………」
佐竹は、耳を疑った。
そして、声のする方に目を凝らした。
相手は、とりわけ光の届きにくい所にいるらしい。静かにそちらに近づくと、廊下の脇の柱の陰から、ガウンを羽織った夜着の姿で、ナイト王がひどく怯えたような目でこちらを窺っているのが見えた。
「…………」
佐竹は黙って、そちらに近づいた。
燭台の灯りが、次第に相手の姿をはっきりと照らし出す。その代わり、彼の後ろに出来た濃い影は、深い陰影をともなってゆらゆらと不安定に揺れていた。
「陛下……?」
こんな所でこんな姿で、一体なにをしているのだろう。
よく見れば、その足は裸足だった。朝晩は気温もかなり低くなっているこんな時期に、なぜこの国の国王が、そんな姿でここにいるのか。
と、その途端。
くしゃっと彼の顔が歪んだ。
「佐竹っ……!」
次の瞬間、いきなり彼が突進してきて、どんっ、と佐竹の胸の辺りに取り付いた。
危うく、燭台を取り落としそうになる。
(……?)
戸惑っている佐竹に構わず、彼は佐竹の胸元を力いっぱい握り締めて、顔を埋めるようにして頭を擦りつけてきた。
「……たかった、佐竹――」
その声は嗚咽に紛れて、しばらくは何を言っているのかも分からなかった。
しかし。
(……!)
そこで漸く、佐竹は気付いた。
彼が、日本語で話しているということに。
「内藤……なのか」
愕然としながらも、佐竹は彼の顔を覗き込み、その耳元にそう尋ねた。
これももちろん、日本語である。
胸元で、彼の頭が激しく縦に振られた。
「会いたかった、よ……。佐竹……っ!」
あとはもう、涙にまぎれて何も言えなくなっている。
今度こそ、間違いなく佐竹にも、「ナイト」ではなく「内藤」が自分に話しているのだと分かった。
佐竹も思わず、彼の頭を抱き寄せた。
何故なのかは分からない。
しかし今、この「ナイト」は「内藤」に戻っているのだ。
「内藤……!」
思わず、指先に力が籠もった。
その拍子に、はらりと彼の茶色い髪が落ちて、その耳が露わになった。
その耳は、丸かった。
(……!)
佐竹は知らず、彼の頭を抱きしめた。
きりきりと奥歯を噛み締める。
やっと、見つけた。
自分が本当に、ここから救い出すべき相手を。
夜空には静かに翡翠色のカーテンが掛かり、
華やかなその裳裾を揺らして、
この地を包むように輝いていた。
だが、城の窓辺に立つ二人にだけは、
その<唄>はけっして聞こえなかった。
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