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第二章 白き鎧
4 講義
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内藤は、緊張している。
いや、正確にはもう三日ぐらい前から緊張している。
昨夜など、あまりの緊張でほとんど眠れなかったぐらいだ。それでも、少しも眠気など感じない。手にした試作品の算盤と、講義用に作った資料の束は、もうずっと前から汗でじっとりと濡れているようだった。
王都クロイツナフト、ノエリオール宮。その経理部門、扉まえの廊下である。
今日は、言うなれば「第一回・超初心者向け算盤の使い方講座」の日だった。
部屋の中には、すでに講義を聞こうと多くの文官たちが詰めかけている。内藤は今、その扉の前で、入るに入れなくなって固まってしまっていた。
「あ、あのう……ユウヤ様」
「は、はひっっ!!」
自分でも「どこから出てるんだ」と思うような声で返事をして、内藤は跳びあがった。多分、十センチぐらいだろう。
声を掛けてきたのは、いつもの召使いの青年である。
ちなみに、彼は名をアヒムという。年のころは二十歳そこそこ。優しく碧い目をした大人しい青年だ。薄いグリーンの髪を後ろでひとつに束ね、簡素な革紐で縛っている。いまは講義のために作ってもらった巨大な算盤を持ってくれていた。
「そんなに緊張なさらなくても……。皆様、本当に楽しみにはされていますが、決してユウヤさまをお責めになったりはなさいませんので」
優しい声で懸命に宥めてくれているのは分かっている。分かっているが、その「楽しみにしている」のひと言が、余計に心拍数を上げてくれる結果になっていた。まさに、彼の意図とは裏腹に。
(ど……どど、どうしよう……!)
軽い吐き気と、眩暈までしはじめる。本気で倒れそうになってきた。
(落ちつけ俺、落ちつけ俺、落ちつけ俺……!)
「……何をやってる」
「ひっ!」
呆れたような声がして、内藤は再び跳びあがった。今度は十五センチ。
サーティークだった。振り向くと、廊下で腕を組んで立ちどまり、完全な半眼になってこちらを見据えている。今日は来客でもあったのか、普段よりはやや正装に近い。見ればそのうしろには、あの小柄な老宮宰マグナウトもつき従っていた。老人はごく控えめな様子である。
(うあ……。会っちゃったよ……)
考えてみれば、あれ以来、王の顔を見るのは初めてだった。
先日、ほんの些細なきっかけで、内藤は彼の前でいきなり涙を見せてしまった。こちらは当然、顔を合わせづらくて会いにはいかなかったのだけれども、サーティークの方でもそれ以来、内藤を呼びたてることはしなかった。
(きっ、気まずい……)
心臓がまた、違う意味で変な拍動を始める。内藤は視線をうろうろと彷徨わせ、挙げ句、足もとを見つめてしまった。こんなとき、あの頼りがいのある友達なら、うまい挨拶のひとつも捻り出してくれるのだろうけれど。
が、サーティークはいつもと変わらぬ表情だった。
「もう開始時間は過ぎているぞ。さっさと入って始めんか」
ぶっきらぼうな声でそう言いながら、大股にすたすたと近づいてくる。と思った途端、有無を言わさぬ勢いでがっちりと首根っこを捕まえられ、部屋に放り込まれそうになった。
「わ、わわっ、ちょっと待って……!」
必死に抵抗した拍子に、またしても手にしていた資料や算盤がばさばさと床に散らばってしまう。隣にいたアヒムが、慌ててそれを拾い集めてくれた。
「な、なんていうか、まだ心の準備がっ……!」
「いちいちそんな準備が必要なのか? いつも思うがまったくお前は、相当暢気な所からやってきたと見えるな──」
そして今度こそ、本当に部屋に放り込まれた。
と、どおっと部屋の中から歓声が起こった。内藤はそこでまた立ちすくんだ。
部屋の事務机は一方の壁に向かって並べ替えられ、そこにはすでに何十人もの文官たちが所狭しと座っていた。年配の者から十代に見える青年まで、実に様々な顔ぶれである。
みなの瞳は期待に輝いている。内藤の姿を見て派手な音をたてて拍手する者まで何人かいた。だが、そのすぐ後ろから他ならぬ国王陛下が姿を現したのを目にするや、人々は一瞬でしんと静まり返った。全員が慌てて座りなおし、しわぶきなどして居住まいを正す風である。
サーティークは固まってしまった内藤の襟首を掴んだまま、ずかずかと皆の目の前、教卓として置かれている机の前に進んだ。そのまま、子供でも扱うようにして内藤をその真ん前に立たせる。
そこでやっと手を放して、ぐいと皆に向き直った。
「皆、待たせた。今からここなユウヤ殿により、『ソロバン』なる計算器具の使用法についての講義を行なっていただく。知っての通り、ユウヤ殿はここの文官であると同時に、俺の大切な客人でもある。質問そのほかは構わぬが、無礼の段は決して許さぬから心せよ」
「はっ!」
「はは!」
あちこちから緊張した返事が聞こえた。部屋の中はたちまち水を打ったような静けさに満たされる。
「俺もしばらく、脇で見学させてもらうことにする。では、始めてくれ、ユウヤ殿」
それだけ言って軽く内藤に会釈し、サーティークはさっさと部屋の隅に向かった。そこで若い文官が慌てて譲ってくれた席にどかりと座り込む。その態度のどこにも、「遠慮」の二文字などまったくなかった。
(なんか……。余計に緊張する空気、つくってくれちゃってもう……!)
例によってまた、サーティークは口角をあげてにやりと笑っている。さらには「さっさと始めろ」とばかりに、横柄な様子で手を振ってきた。内藤はげんなりする。それでもそんな王を目の端に捉えつつ、やっと前を向いた。
「え、ええっと……。陛下からご紹介に預かりました、ユウヤと申します。今日はみなさん、どうぞよろしく……」
召使いの青年アヒムは、そのまま隣で講義の助手を務めてくれている。彼は算盤の大きな模型を皆に見やすいように机の上に置き、説明にあわせて玉を動かしてくれる手はずになっていた。
内藤は、初めに皆に算盤各部の名前を簡単に説明した。それから簡単な計算を実際にやってみせた。指の使い方、玉の入れ方。繰り上がり、繰り下がりの仕方等々。それはごく初歩の珠算の講義だった。
慣れるまでは大変かも知れなかったが、これを繰り返していくことで、数字の世界がぐっと身近なものになるのは確かだ。特に、補数を理解すれば暗算の能力が格段に上がる。それは経理の文官たちにとって、大いに益になると思われた。
ちなみにこの世界には、日本の九九のようなものもないようだ。だから、そういった物もなんとか工夫して作れないかと内藤は考えている。もちろんこれは、まだまだ先の話だったけれども。
ひと通りの説明のあとは、試作品の算盤を使って実際に何名かに計算を体験してもらうことになった。あとは順ぐりに、全員に体験してもらう。
文官たちが玉をひとつひとつ弾いて数字を入れていく。内藤はその脇で介助しつつ、補足の説明を加えていった。他の文官たちはメモなど取りながら、興味深げにその手元を見つめている。
「おお、ほほほ! これはなかなか、面白きものにござりまするな!」
はじめは難しい顔をして玉をいじっていた年配の文官が顔をほころばせた。一連の計算の正解をはじき出したのだ。すると、周囲の者らからも歓声が上がった。
「おお、ご名算にござりまするな!」
「素晴らしい!」
「ああ、いい感じですね!」
内藤は、大汗をかきながらもにっこり笑った。ふと気づけば、彼らの傍らで一生懸命に説明をするうちに、いつのまにか先ほどまでの緊張を忘れている自分がいた。
内藤はほとんど本能的に、部屋の隅に目をやった。
目が勝手に彼の姿を探していた。
しかし。
(あれっ……?)
求める人は、もはやそこには居なかった。
次の公務のためだろう。黒髪の王は宮宰の老人ともども、その場の誰も知らないうちに、音もなく姿を消していた。
◇
「先生! ユウヤ先生!」
それ以来、王宮の廊下でそんな風に呼ばれることが増えてしまった。内藤は資料を胸に抱きしめたまま、変な顔をして振りむくことが多くなった。初めての講義から、すでに十日あまりが過ぎている。
「あ、あのう……。その呼び方、やめて頂けないかと……」
「えっ。なぜでございます? 皆、そのようにお呼びしておりますが」
困ったように返事をしたら、青年文官は目を丸くした。
「それに、あれほど有用なものを我らにご紹介くださった方を、先生とお呼びして何がいけないのでございましょう」
「まったく分からない」という顔で訊ねられ、内藤はもう真っ赤になった。心底、穴があったら入りたい気持ちになる。
(だってそれ、別に……俺が考えたことでもないしっ……!)
行き掛かり上、そういう流れになったから算盤を作り、使い方の講義をした。そうしたら「ぜひ自分にも」と希望する文官たち、いや今では商家の子弟や武官たちまでが現れてそれを聞きに来るようになった。それだけのことだ。内藤自身がなにかしら、偉くなったわけでもなんでもない。
「と、とにかくもう……、『先生』だけは勘弁してくださいい……!」
「え? あ、ええっと……」
半泣きでお願いされて、相手の文官はさらに困った顔になった。それでも最後には仕方なくうなずいてくれ、丁寧に一礼して去っていった。
あのあと、次々に新しい算盤が製作された。もちろん経理部門ではさっそく利用されている。最初は物慣れなかった文官たちも、算盤での計算に慣れるにつれて、随分と仕事の効率が上がったようだ。文官長ゾンデの喜びようは、ひとかたならぬものだった。
実は内藤は、それで今回の自分の仕事は終わりだと思っていた。しかし王宮内で「まだこの講義を続けて欲しい」との希望があまりに多かったため、そのままこの講義を行うことになったのである。結局、経理の仕事には戻っていない。
サーティークはその「算盤講師」としての専門性を認めてくれ、その後すぐに内藤の階級を上げた。
現在の内藤は、中級一等、つまり武官階級にして千騎長クラスになっている。地球の軍制でいえば少佐・中佐クラスと同等ということになるだろうか。
若き王に言わせれば、「最低でもそのぐらいでなければ文官・武官たちにものを教える立場として釣り合いがとれない」ということらしい。しかしいずれにしても、それは到底、内藤が拝命してよいような階級ではなかった。
ともかくも。
内藤は今やもう、ただただ申し訳ないやら恥ずかしいやらで、こうして廊下を歩くのもイヤという状態だった。何しろちょっと見かけられてしまうだけで、今のように「先生、先生」と呼び止められ、講義の礼だの質問攻めだのされてしまうからだ。
「ユウヤ殿? こちらにおいででしたか。丁度ようござりました」
「あっ? は、はい……」
落ち着いた老人の声に呼ばれて、内藤はまたぎくりと足を止めた。
あの高齢の宮宰、マグナウトである。相変わらず、顔じゅうを優しげな皺に覆われた、いかにも知恵者然とした老人だ。この老人も、いつ見てもごく簡素な袷の衣とマントの出で立ちである。
ノエリオール宮の基本的なありかたとして、どうやら底流に「質実剛健」という考え方があるらしいことは、さすがの内藤でも次第に理解してきている。かの王サーティークはもちろんのこと、この文官最高位の老人も、自ら皆の範となるべく日々それを実践しているらしかった。
「陛下が、今宵の夕餉をあなた様とご一緒にと御所望であられまする。いつもの時刻、どうぞ食事の間へお越しくださりませ」
老人は、いつもの落ち着いた柔らかな声でそう言うと一礼した。
「あっ、はい……。わざわざ、有難うございます……」
内藤も慌てて礼を返す。本来ならこんなのは、侍従にでも命じて伝えさせるようなことだ。こんな高位の家臣がわざわざ出てくるはずもないところである。ほかについでがあったとしても、非常に珍しいことだった。ましてやこの老人、このお年でまだまだ多忙な現役なのだ。
頭を上げてふと見ると、老人は何を思ったものか、じっと内藤の顔を見つめていた。なにやら思案に暮れているようである。慈愛と叡智に満ちたその双眸が、なにかもの問いたげな光を宿しているように見えた。
「あ、あの……?」
「……おお。これはこれは、とんだご無礼を──」
老人が、我にかえったように笑みを深くした。顔じゅうの皺が、なお一層翳りを帯びる。
(ん……?)
首を傾げた内藤に、老人は底意のない温かな声音でそっと言った。
「心より、御礼を申し上げまするぞ、ユウヤ殿」
「……え?」
意外な礼の言葉がやってきて、内藤は目を丸くする。
が、すぐに「ああ」と合点がいった。
「あの、算盤のことでしたら俺はもう、別に──」
言いかけるところを、老人はさりげなく片手でとどめた。
「そのこともござりまするがの。この爺いが申すのは、何もそのことのみではござりませんでな──」
「は? え、ええっと……」
それ以外の話で、何か礼を言われるようなことをしただろうか。心当たりがまったくない。
内藤は、どうやら不審げな顔になったらしい。老人がそれを見上げて、ほほ、と枯れた声で笑ったのだ。なんとなく、心から楽しげだった。
「貴方様の様々のお辛いご事情は、この爺い、密かに陛下よりお聞きしておりまする」
「そ……う、なんですか……」
「はい。にも関わらず、あなた様がそうして明るくいて下さることが、陛下にとっていかに心休まることであるか……。貴方様には、お分かりにはならぬでしょうがのう……」
「え、いや……その」
ちょっと返答に困った。
「明るく」だなどと、とんでもない。つい先日、彼の前でいきなり涙など見せてしまったのは、他ならぬこの自分だ。
彼がかの友人にそっくりなのは、何も彼のせいではない。それなのに、「あいつと同じ顔をして同じことをするな」だなんて、お門違いもいいところの難癖をつけた。それで泣かれるサーティークこそ、いい迷惑だったに違いない。
「俺、そんな……」
困った顔で俯く内藤を、マグナウトは優しげな瞳で見返した。愛しい孫でも見るような目だった。
「諸々、貴方様にはお辛い思いをおさせして、申し訳なく思うておりまする。なれども──」
老人は一歩近づいて、さらに一段、声を低めた。
「ご無理を承知で、お願い申し上げまする。できますことならば、なるべくずっと、こちらに……陛下のお傍にいてさしあげて下さいませ」
「…………」
内藤は、言葉をなくした。
(いや、でも……。そんなこと、言われても──)
自分は、そもそもこの世界の人間ではない。それに。
(佐竹だって、そのつもりで──)
彼はああして必死に、自分を取り戻そうとしてやってきてくれたのだ。彼がもし迎えに来てくれるなら、自分が戻らない選択肢などない。そんなことは、とてもできない。
沈黙し、戸惑った目で見返すしか出来なくなった内藤を、老人はしばらく深い瞳で見つめていた。が、やがて自嘲するように微笑んだ。
「……あいや、申し訳ござりませぬ。どうぞ、お忘れくださりませ」
そして、深々と礼をした。
「年を取りますとこう、なにかと我が侭になりましていけませぬな……」
物柔らかな笑みを浮かべてそう言うと、老人は来たときと同じように、また静かに廊下を去っていった。
内藤は、その小さな背中を見送った。
心のどこかで、なにか掻き傷でもできたように、ぴりぴりとした痛みが生まれていた。
いや、正確にはもう三日ぐらい前から緊張している。
昨夜など、あまりの緊張でほとんど眠れなかったぐらいだ。それでも、少しも眠気など感じない。手にした試作品の算盤と、講義用に作った資料の束は、もうずっと前から汗でじっとりと濡れているようだった。
王都クロイツナフト、ノエリオール宮。その経理部門、扉まえの廊下である。
今日は、言うなれば「第一回・超初心者向け算盤の使い方講座」の日だった。
部屋の中には、すでに講義を聞こうと多くの文官たちが詰めかけている。内藤は今、その扉の前で、入るに入れなくなって固まってしまっていた。
「あ、あのう……ユウヤ様」
「は、はひっっ!!」
自分でも「どこから出てるんだ」と思うような声で返事をして、内藤は跳びあがった。多分、十センチぐらいだろう。
声を掛けてきたのは、いつもの召使いの青年である。
ちなみに、彼は名をアヒムという。年のころは二十歳そこそこ。優しく碧い目をした大人しい青年だ。薄いグリーンの髪を後ろでひとつに束ね、簡素な革紐で縛っている。いまは講義のために作ってもらった巨大な算盤を持ってくれていた。
「そんなに緊張なさらなくても……。皆様、本当に楽しみにはされていますが、決してユウヤさまをお責めになったりはなさいませんので」
優しい声で懸命に宥めてくれているのは分かっている。分かっているが、その「楽しみにしている」のひと言が、余計に心拍数を上げてくれる結果になっていた。まさに、彼の意図とは裏腹に。
(ど……どど、どうしよう……!)
軽い吐き気と、眩暈までしはじめる。本気で倒れそうになってきた。
(落ちつけ俺、落ちつけ俺、落ちつけ俺……!)
「……何をやってる」
「ひっ!」
呆れたような声がして、内藤は再び跳びあがった。今度は十五センチ。
サーティークだった。振り向くと、廊下で腕を組んで立ちどまり、完全な半眼になってこちらを見据えている。今日は来客でもあったのか、普段よりはやや正装に近い。見ればそのうしろには、あの小柄な老宮宰マグナウトもつき従っていた。老人はごく控えめな様子である。
(うあ……。会っちゃったよ……)
考えてみれば、あれ以来、王の顔を見るのは初めてだった。
先日、ほんの些細なきっかけで、内藤は彼の前でいきなり涙を見せてしまった。こちらは当然、顔を合わせづらくて会いにはいかなかったのだけれども、サーティークの方でもそれ以来、内藤を呼びたてることはしなかった。
(きっ、気まずい……)
心臓がまた、違う意味で変な拍動を始める。内藤は視線をうろうろと彷徨わせ、挙げ句、足もとを見つめてしまった。こんなとき、あの頼りがいのある友達なら、うまい挨拶のひとつも捻り出してくれるのだろうけれど。
が、サーティークはいつもと変わらぬ表情だった。
「もう開始時間は過ぎているぞ。さっさと入って始めんか」
ぶっきらぼうな声でそう言いながら、大股にすたすたと近づいてくる。と思った途端、有無を言わさぬ勢いでがっちりと首根っこを捕まえられ、部屋に放り込まれそうになった。
「わ、わわっ、ちょっと待って……!」
必死に抵抗した拍子に、またしても手にしていた資料や算盤がばさばさと床に散らばってしまう。隣にいたアヒムが、慌ててそれを拾い集めてくれた。
「な、なんていうか、まだ心の準備がっ……!」
「いちいちそんな準備が必要なのか? いつも思うがまったくお前は、相当暢気な所からやってきたと見えるな──」
そして今度こそ、本当に部屋に放り込まれた。
と、どおっと部屋の中から歓声が起こった。内藤はそこでまた立ちすくんだ。
部屋の事務机は一方の壁に向かって並べ替えられ、そこにはすでに何十人もの文官たちが所狭しと座っていた。年配の者から十代に見える青年まで、実に様々な顔ぶれである。
みなの瞳は期待に輝いている。内藤の姿を見て派手な音をたてて拍手する者まで何人かいた。だが、そのすぐ後ろから他ならぬ国王陛下が姿を現したのを目にするや、人々は一瞬でしんと静まり返った。全員が慌てて座りなおし、しわぶきなどして居住まいを正す風である。
サーティークは固まってしまった内藤の襟首を掴んだまま、ずかずかと皆の目の前、教卓として置かれている机の前に進んだ。そのまま、子供でも扱うようにして内藤をその真ん前に立たせる。
そこでやっと手を放して、ぐいと皆に向き直った。
「皆、待たせた。今からここなユウヤ殿により、『ソロバン』なる計算器具の使用法についての講義を行なっていただく。知っての通り、ユウヤ殿はここの文官であると同時に、俺の大切な客人でもある。質問そのほかは構わぬが、無礼の段は決して許さぬから心せよ」
「はっ!」
「はは!」
あちこちから緊張した返事が聞こえた。部屋の中はたちまち水を打ったような静けさに満たされる。
「俺もしばらく、脇で見学させてもらうことにする。では、始めてくれ、ユウヤ殿」
それだけ言って軽く内藤に会釈し、サーティークはさっさと部屋の隅に向かった。そこで若い文官が慌てて譲ってくれた席にどかりと座り込む。その態度のどこにも、「遠慮」の二文字などまったくなかった。
(なんか……。余計に緊張する空気、つくってくれちゃってもう……!)
例によってまた、サーティークは口角をあげてにやりと笑っている。さらには「さっさと始めろ」とばかりに、横柄な様子で手を振ってきた。内藤はげんなりする。それでもそんな王を目の端に捉えつつ、やっと前を向いた。
「え、ええっと……。陛下からご紹介に預かりました、ユウヤと申します。今日はみなさん、どうぞよろしく……」
召使いの青年アヒムは、そのまま隣で講義の助手を務めてくれている。彼は算盤の大きな模型を皆に見やすいように机の上に置き、説明にあわせて玉を動かしてくれる手はずになっていた。
内藤は、初めに皆に算盤各部の名前を簡単に説明した。それから簡単な計算を実際にやってみせた。指の使い方、玉の入れ方。繰り上がり、繰り下がりの仕方等々。それはごく初歩の珠算の講義だった。
慣れるまでは大変かも知れなかったが、これを繰り返していくことで、数字の世界がぐっと身近なものになるのは確かだ。特に、補数を理解すれば暗算の能力が格段に上がる。それは経理の文官たちにとって、大いに益になると思われた。
ちなみにこの世界には、日本の九九のようなものもないようだ。だから、そういった物もなんとか工夫して作れないかと内藤は考えている。もちろんこれは、まだまだ先の話だったけれども。
ひと通りの説明のあとは、試作品の算盤を使って実際に何名かに計算を体験してもらうことになった。あとは順ぐりに、全員に体験してもらう。
文官たちが玉をひとつひとつ弾いて数字を入れていく。内藤はその脇で介助しつつ、補足の説明を加えていった。他の文官たちはメモなど取りながら、興味深げにその手元を見つめている。
「おお、ほほほ! これはなかなか、面白きものにござりまするな!」
はじめは難しい顔をして玉をいじっていた年配の文官が顔をほころばせた。一連の計算の正解をはじき出したのだ。すると、周囲の者らからも歓声が上がった。
「おお、ご名算にござりまするな!」
「素晴らしい!」
「ああ、いい感じですね!」
内藤は、大汗をかきながらもにっこり笑った。ふと気づけば、彼らの傍らで一生懸命に説明をするうちに、いつのまにか先ほどまでの緊張を忘れている自分がいた。
内藤はほとんど本能的に、部屋の隅に目をやった。
目が勝手に彼の姿を探していた。
しかし。
(あれっ……?)
求める人は、もはやそこには居なかった。
次の公務のためだろう。黒髪の王は宮宰の老人ともども、その場の誰も知らないうちに、音もなく姿を消していた。
◇
「先生! ユウヤ先生!」
それ以来、王宮の廊下でそんな風に呼ばれることが増えてしまった。内藤は資料を胸に抱きしめたまま、変な顔をして振りむくことが多くなった。初めての講義から、すでに十日あまりが過ぎている。
「あ、あのう……。その呼び方、やめて頂けないかと……」
「えっ。なぜでございます? 皆、そのようにお呼びしておりますが」
困ったように返事をしたら、青年文官は目を丸くした。
「それに、あれほど有用なものを我らにご紹介くださった方を、先生とお呼びして何がいけないのでございましょう」
「まったく分からない」という顔で訊ねられ、内藤はもう真っ赤になった。心底、穴があったら入りたい気持ちになる。
(だってそれ、別に……俺が考えたことでもないしっ……!)
行き掛かり上、そういう流れになったから算盤を作り、使い方の講義をした。そうしたら「ぜひ自分にも」と希望する文官たち、いや今では商家の子弟や武官たちまでが現れてそれを聞きに来るようになった。それだけのことだ。内藤自身がなにかしら、偉くなったわけでもなんでもない。
「と、とにかくもう……、『先生』だけは勘弁してくださいい……!」
「え? あ、ええっと……」
半泣きでお願いされて、相手の文官はさらに困った顔になった。それでも最後には仕方なくうなずいてくれ、丁寧に一礼して去っていった。
あのあと、次々に新しい算盤が製作された。もちろん経理部門ではさっそく利用されている。最初は物慣れなかった文官たちも、算盤での計算に慣れるにつれて、随分と仕事の効率が上がったようだ。文官長ゾンデの喜びようは、ひとかたならぬものだった。
実は内藤は、それで今回の自分の仕事は終わりだと思っていた。しかし王宮内で「まだこの講義を続けて欲しい」との希望があまりに多かったため、そのままこの講義を行うことになったのである。結局、経理の仕事には戻っていない。
サーティークはその「算盤講師」としての専門性を認めてくれ、その後すぐに内藤の階級を上げた。
現在の内藤は、中級一等、つまり武官階級にして千騎長クラスになっている。地球の軍制でいえば少佐・中佐クラスと同等ということになるだろうか。
若き王に言わせれば、「最低でもそのぐらいでなければ文官・武官たちにものを教える立場として釣り合いがとれない」ということらしい。しかしいずれにしても、それは到底、内藤が拝命してよいような階級ではなかった。
ともかくも。
内藤は今やもう、ただただ申し訳ないやら恥ずかしいやらで、こうして廊下を歩くのもイヤという状態だった。何しろちょっと見かけられてしまうだけで、今のように「先生、先生」と呼び止められ、講義の礼だの質問攻めだのされてしまうからだ。
「ユウヤ殿? こちらにおいででしたか。丁度ようござりました」
「あっ? は、はい……」
落ち着いた老人の声に呼ばれて、内藤はまたぎくりと足を止めた。
あの高齢の宮宰、マグナウトである。相変わらず、顔じゅうを優しげな皺に覆われた、いかにも知恵者然とした老人だ。この老人も、いつ見てもごく簡素な袷の衣とマントの出で立ちである。
ノエリオール宮の基本的なありかたとして、どうやら底流に「質実剛健」という考え方があるらしいことは、さすがの内藤でも次第に理解してきている。かの王サーティークはもちろんのこと、この文官最高位の老人も、自ら皆の範となるべく日々それを実践しているらしかった。
「陛下が、今宵の夕餉をあなた様とご一緒にと御所望であられまする。いつもの時刻、どうぞ食事の間へお越しくださりませ」
老人は、いつもの落ち着いた柔らかな声でそう言うと一礼した。
「あっ、はい……。わざわざ、有難うございます……」
内藤も慌てて礼を返す。本来ならこんなのは、侍従にでも命じて伝えさせるようなことだ。こんな高位の家臣がわざわざ出てくるはずもないところである。ほかについでがあったとしても、非常に珍しいことだった。ましてやこの老人、このお年でまだまだ多忙な現役なのだ。
頭を上げてふと見ると、老人は何を思ったものか、じっと内藤の顔を見つめていた。なにやら思案に暮れているようである。慈愛と叡智に満ちたその双眸が、なにかもの問いたげな光を宿しているように見えた。
「あ、あの……?」
「……おお。これはこれは、とんだご無礼を──」
老人が、我にかえったように笑みを深くした。顔じゅうの皺が、なお一層翳りを帯びる。
(ん……?)
首を傾げた内藤に、老人は底意のない温かな声音でそっと言った。
「心より、御礼を申し上げまするぞ、ユウヤ殿」
「……え?」
意外な礼の言葉がやってきて、内藤は目を丸くする。
が、すぐに「ああ」と合点がいった。
「あの、算盤のことでしたら俺はもう、別に──」
言いかけるところを、老人はさりげなく片手でとどめた。
「そのこともござりまするがの。この爺いが申すのは、何もそのことのみではござりませんでな──」
「は? え、ええっと……」
それ以外の話で、何か礼を言われるようなことをしただろうか。心当たりがまったくない。
内藤は、どうやら不審げな顔になったらしい。老人がそれを見上げて、ほほ、と枯れた声で笑ったのだ。なんとなく、心から楽しげだった。
「貴方様の様々のお辛いご事情は、この爺い、密かに陛下よりお聞きしておりまする」
「そ……う、なんですか……」
「はい。にも関わらず、あなた様がそうして明るくいて下さることが、陛下にとっていかに心休まることであるか……。貴方様には、お分かりにはならぬでしょうがのう……」
「え、いや……その」
ちょっと返答に困った。
「明るく」だなどと、とんでもない。つい先日、彼の前でいきなり涙など見せてしまったのは、他ならぬこの自分だ。
彼がかの友人にそっくりなのは、何も彼のせいではない。それなのに、「あいつと同じ顔をして同じことをするな」だなんて、お門違いもいいところの難癖をつけた。それで泣かれるサーティークこそ、いい迷惑だったに違いない。
「俺、そんな……」
困った顔で俯く内藤を、マグナウトは優しげな瞳で見返した。愛しい孫でも見るような目だった。
「諸々、貴方様にはお辛い思いをおさせして、申し訳なく思うておりまする。なれども──」
老人は一歩近づいて、さらに一段、声を低めた。
「ご無理を承知で、お願い申し上げまする。できますことならば、なるべくずっと、こちらに……陛下のお傍にいてさしあげて下さいませ」
「…………」
内藤は、言葉をなくした。
(いや、でも……。そんなこと、言われても──)
自分は、そもそもこの世界の人間ではない。それに。
(佐竹だって、そのつもりで──)
彼はああして必死に、自分を取り戻そうとしてやってきてくれたのだ。彼がもし迎えに来てくれるなら、自分が戻らない選択肢などない。そんなことは、とてもできない。
沈黙し、戸惑った目で見返すしか出来なくなった内藤を、老人はしばらく深い瞳で見つめていた。が、やがて自嘲するように微笑んだ。
「……あいや、申し訳ござりませぬ。どうぞ、お忘れくださりませ」
そして、深々と礼をした。
「年を取りますとこう、なにかと我が侭になりましていけませぬな……」
物柔らかな笑みを浮かべてそう言うと、老人は来たときと同じように、また静かに廊下を去っていった。
内藤は、その小さな背中を見送った。
心のどこかで、なにか掻き傷でもできたように、ぴりぴりとした痛みが生まれていた。
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