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第五章 流転
12 礼
しおりを挟むマールとオルクはルツ宅の離れの外で手持ち無沙汰に待っていた。ふたりが呼ばれたのは、「対ノエリオール交渉班」の面々による話し合いが終わってすぐのことだった。
部屋から現れた宰相ドメニコスはいつになく悄然とした様子で、二人の少年少女には目もくれず、とぼとぼと歩いていった。それを不思議そうに見送っていたら、目の前にいきなり黒山が立ちはだかった。
「わ……!」
思わず声を上げたのはオルク。
もちろん、ゾディアスだった。
行く手に立ち塞がった巨躯の男は、恐ろしいほど殺気立っていた。ちょっと言葉も掛けられないほどだ。少しでもそんなことをしようものなら、次の瞬間巨大な拳で全身の骨をばらばらにされかねない。そう思えるぐらいの顔だった。
彼もまた、オルクとマールの方など見向きもせずにぐいぐいと大股に出て行ってしまった。というより、そもそも身長差がありすぎて、目にも入らなかったというのが正しかったのかも知れないが。
マールとオルクは顔を見合わせ、恐るおそるヨシュアの部屋を窺うようにした。
中にはまだ少年王とディフリード、それに佐竹がいるはずである。それなのに、そこは不思議なほどに静かだった。
二人はそうっと入り口に近づいて、部屋の仕切りになっている暖簾のような長い厚手の織物を、静かに開けてみた。
思ったとおり、そこにはヨシュアとディフリード、それに佐竹がいた。
ちらりと見ただけで、その場の凍りついた空気は二人にもすぐに知れた。
ヨシュアは頭を下げた佐竹の前に膝をつき、項垂れて目を真っ赤にしているし、ディフリードはいつもの微笑を顔から完全に排除して、胡坐をかいた姿勢のまま少し虚ろな目線を窓の外に泳がせている。
やがてその視線がふらりとこちらへ流れてきた。それでやっと美貌の将軍は少し微笑んだようだった。
「……やあ、来たね」
言ってディフリードはすぐに二人に手招きをした。
マールとオルクは遠慮しながら、足音を忍ばせるようにして中に入った。
ヨシュアが目元を隠すように慌ててあちらを向き、自分の元いたらしい上座の席へ戻る。佐竹も頭を上げてこちらを見やった。その表情は厳しかった。
(どうしたの、一体……)
いつになく重い空気に、マールの胸はどきりとはねた。隣のオルクもそれは同じのようだった。
「あの、どしたの……? みんな」
オルクの問いに、その場の誰も答えない。
二人はおずおずと佐竹の近くまで行って、そっとその傍に座りこんだ。
「あのう、えっと……。俺たちに、話って……?」
オルクがやっと訊ねると、ディフリードが苦笑してこちらを見た。
「済まないね。ちょっと二人にも、つらい話になってしまうと思うが――」
ぴくりとマールの体が震えた。
(どういう、こと……?)
部屋の中の様子からは、もはや嫌な予感しか覚えない。マールは耳の奥がきいんとするような微かな頭痛を感じながら、じっと佐竹を見つめた。
(……!)
その目をみた瞬間、マールにはいっぺんにわかってしまった。これから聞かされる大体のことが。
佐竹の目は静かだった。しかしそれは、今まで見たどんな場面よりも厳しくて、決意を秘めたものだった。
「サタケ……」
「聞きたくない」という思いが勝って、マールはそれ以上彼に何かを訊くことができなくなった。沈黙したまま、ただ佐竹の瞳を見つめ返す。
オルクはそれとは対照的だった。彼はきょろきょろと皆を見回し、焦った声で矢継ぎ早に質問していた。
「なあ! 何だよ、みんな……? どうしちゃったんだよっ……!」
ヨシュアは目をそらして俯いている。ディフリードが仕方なくと言った様子で、再び口を開いた。
「私たちは、思ったよりも随分と早く、サタケ殿とお別れせねばならないことになるようなのだよ。君たち二人には、先に話しておこうと思ってね」
「え……?」
オルクはぎょっとして目を見開いた。佐竹の方へ振り向く。
「サタケが? ど、どうして――」
マールはもう、瞬きもしないでじっと佐竹の顔を凝視しているばかりだ。オルクは堪らず大きな声を出した。
「なあっ! ちゃんと教えてくれよっ、サタケ――!」
佐竹はマールからオルクへと体を向けなおして、静かに言った。
「サーティーク王の要請で、ノエリオールの<黒き鎧>へ行くことになった。場合によってはそのまま、もう二人には会えなくなるかと思う」
淡々と紡がれるその言葉を、マールもオルクも、ただ呆然と聞いていた。佐竹は二人の表情をじっと窺いながら、それでも言葉を途切れさせることはしなかった。
「村の皆には、また改めて挨拶させて貰う。……が、マール、オルク」
居住まいを正した佐竹から、マールは無意識のうちに視線を外していた。オルクはじっと彼を見つめ続けている。
「これまで、二人には本当に世話になった。礼を言う」
二人に向かって、佐竹はまた深く頭を下げた。
「…………」
少年と少女はしばらく何も言えなかった。重苦しい沈黙が場を支配した。見かねたようにディフリードがまた口を挟んだ。
「子供たちには、まことに急な上、つらい話で申し訳ない。しかし次の会談まで、あと五日だ。二人ともよくよく考えて、きちんと彼とお別れをしておくようにね?」
優しげな言い回しはいつも通りだったけれども、普段は外連の多い美麗な将軍の声は、今日ばかりはいつもの表面的なだけの物柔らかさではないようでもあった。
マールはぎゅっと唇を噛み締めた。
「どういう、こと……?」
やっと口から出た声は、自分のものではないほど掠れていた。佐竹は眉間に皺を寄せ、無言で背後の将軍を見やった。どうやらどこまでこの少年少女に話すべきかを、目だけで確認したようだった。
ディフリードがひとつ頷き、また言った。
「<白き鎧>の力を元に戻すため、そしてナイトウ殿を元の世界へお戻しするためにも、どうやら彼の協力が必要らしいのだよ。それには両<鎧>に、彼が入ることが必須でもあるらしくてね」
マールはハッとして目を上げた。
「それが……? もしかしてそれが、危ないっていうこと?」
「え?」
オルクが驚いてマールを見つめた。
「そうなんでしょ? そうじゃなかったら、こんな……。いきなり『お別れかも』なんて、言い出さないでしょっ……!」
声が次第に甲高くなって、しまいには叫び声になる。
佐竹とディフリードが沈黙した。ヨシュアは先ほどからもう、片手で顔を覆って俯いているばかりだ。
その事がもはや、すべてを物語ってしまっていた。
マールの言葉が、全部真実であることを。
「そんな……の、そんなのっ……!」
マールはもう、どうやって空気を吸ったらいいのかもわからなかった。言いかけていた言葉はひきつれるようにして一旦途切れた。ほとんど喘ぐようにして、一度ごくりと喉を鳴らす。
「どっ……どうしてサタケが、そんな事までしなくちゃなんないのっ……!」
オルクも必死の瞳をして、じっと佐竹を見つめている。ほとんど睨むに近かった。マールの言葉にぶんぶんと首を振り、まったく同じ意見だと訴えている。
「誰か、他の人がすればいいじゃないっ……! だって、サタケは――」
佐竹はもう十分、あの<鎧>に苦しめられてきたはずなのだ。
元の世界から、いきなり友達を奪われて。
追いかけてきたこの世界は、彼にとっては言葉も分からない見知らぬ世界で。
やっと友達を取り戻せると思ったら、今度は南の国に攫われて――。
それなのに。
(次は、命まで取ろうっていうの……!?)
どうして彼がこれ以上、あの<鎧>から大事なものを奪われなくてはならないのか。
(どうしていっつも、サタケばっかり……!)
怒りの奔流が、体じゅうで暴れ狂った。
マールはもうその場に仁王立ちになって、ぼろぼろ涙をこぼしている。それはもう、怒りだか悔しさだか、悲しいんだか情けないんだか、マールにだってよく分からなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、何を言ったらいいのかも分からない。
オルクは佐竹の隣に座り込んだまま、じっとマールを見上げていた。オルクももう、半分泣き顔になってしまっている。彼は片手で佐竹の黒い長衣の端を掴んで、もう力いっぱい握り締めていた。
「……マール」
やがて、佐竹が静かにマールを呼んだ。
マールは、返事もしなかった。両の拳を握り締めて、それでもその場の誰を睨むこともできないで、壁の一点をじっと睨みつけている。今の自分が鬼の形相をしていることなど、誰に指摘されなくてもわかっていた。
「マール。座ってくれ」
佐竹がもう一度言った。
ごく静かな声だったが、そこには有無を言わさぬ響きがあった。
マールはゆっくりと目線を下げて、佐竹の顔を見た。その目はやっぱり静かだった。
「……!」
その目を見た途端、急に体の力が抜けたようになって、マールはすとんとその場にへたり込んだ。
黙って床の一点を見つめてしまったマールに、佐竹は言った。
「残念ながら、いま現在この世界で、これができる人間は他にはいない」
「…………」
「内藤を確実に連れて戻るためには、これに懸けるしか、もう方法は残されていない」
「…………」
佐竹の低い落ち着いた声がずっと語り掛けている。まるで噛んで含めるようにして。
マールはちょっとぼうっとしたような瞳で、黄泉の世界から聞こえて来るようなその声をどこか遠くで聞いていた。
「すぐに理解してもらおうとは思っていない。……いや、たとえマールやオルクに……他の誰にも理解されないのだとしても――」
佐竹は少し、言葉を切った。
「今の俺に、ほかの選択肢はないんだ」
「…………」
まっすぐにマールの瞳を見つめている佐竹の瞳は、黒曜石のような色を湛えて、むしろ森閑としてさえいるようだった。
「だから、『分かってくれ』とは……言わない」
マールはのろのろと目を上げて、黒髪の青年の静かな双眸をじっと見返した。
ほんのしばし、二人はじっと見つめあった。
「だが……済まない」
最後にひとことそう言って、佐竹はマールとオルクに向かって頭を下げた。
それは、最初に彼がこの世界にやってきたとき、マールが驚いて目を離すことができなくなってしまった、あの美しい礼だった。
きりりと背筋の伸びた、佐竹のその美しい姿。それがマールの目にまた溢れてきてしまったもので、熱くぼやけて見えなくなった。
オルクも、ヨシュアも、ディフリードも、ただ黙ってそんな二人を見つめていた。
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