白き鎧 黒き鎧

つづれ しういち

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第五章 流転

14 老宮宰

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 あれからずっと、内藤は塞ぎこんでいる。
 ノエリオール、南方辺境。<黒き鎧>にほど近い山間やまあいの村である。
 今回の二国間交渉のため借り上げてある宿所は、以前サーティークが内藤を連れてきた村長宅の一室である。
 内藤は寝台の上で掛け布にくるまって、朝からずっとうずくまっていた。先日の交渉からこっち、ひたすらこんな調子で部屋に閉じこもっている。

 次の交渉は、もう二日後に迫っていた。
 だが今に至るまで、誰もどうにも彼の気持ちを和らげることができずにいる。国王サーティークも竜将ヴァイハルトも、そして宮宰マグナウトですらもである。
 とはいえ、それもやむを得ぬ話ではあった。
 なんと言っても、これから佐竹がかの<鎧の儀式>を二度も行ない、下手をすれば命を失うかもしれぬという局面なのだ。内藤が最も大切に思っている友人、佐竹がである。「塞ぎこむな」と言うほうが無理な相談というものだろう。
 と、粗末な木の扉を叩く音がした。
 向こうから声がする。優しい老人の声だった。

「……よろしいかな、ユウヤ殿」
「あ、はい……」

 声は宮宰マグナウトのものだった。内藤は、やむなくのろのろと体を起こした。
 いらえを受けて老人は音もなく入室してきたが、寝台上の内藤の姿をひと目見て、いかにも気の毒げな顔になった。

「ユウヤ殿。お気持ちは重々お察しいたしまするが。お食事だけはなさいませんと――」

 控えめな声で言いつつ見やる先には、手付かずの食事の盆が簡素な木造りのテーブルに置かれたままだ。
 内藤は老人の視線を辿たどってはじめて「ああ、そんなものもあったな」と思った。が、特に反応もせず、ぼんやりとした表情で老人に視線を戻す。
 マグナウトは小柄な体でいつものようにとことことやってくると、寝台脇の小さな丸椅子に腰掛けた。

 目の前に座られて、内藤がふと視線を落とす。それでも掛け布にくるまって座り込んだままだ。
 このマグナウトも、そしてサーティークもヴァイハルトも彼を心配してくれている。それはもう、内藤の本来の立場からすれば考えられないほどにだ。内藤だってそのことは本当に有難いと思っている。いつまでもこんな風でいてはいけないこともわかっているのだ。

(だけど……)

 考え出すとまた鼻や喉の奥が痛み出して、思わずぎゅっと目をつぶった。

「おお、おお。申し訳ござりませぬ。思い出させてしまい申したな」

 老人は立ち上がり、今度は寝台の縁に座りなおした。骨と皮だけのように見える細い腕でとんとんと内藤の背中を叩いてくれる。
 内藤は顔を覆い、自分の膝につっぷしている。
 何故なのだろう。あの<黒き鎧>の中でもそうだった。サーティークにしろこの老人にしろ、自分に対してはまるで子供を扱うようにしてくる。これでも体の年齢だけなら、サーティークとさして変わらぬはずなのに。

「しかし、ユウヤ殿。若も申されておりましたとおり、この件、何も悪いことばかりでもないのでござりましょう……?」
「…………」

 内藤は顔を上げずに黙っている。
 そうだ。あの時、サーティークはそう言った。
 こんな年齢になってしまった自分が、佐竹と一緒に帰ることなどできないと言った時。
『もしも<白き鎧>を完全にすることができれば、その問題も解決できるかもしれない』と。

(だけど……そんなの)

 もし、その<儀式>の途中で佐竹の身に何かあったら。
 考えるだけで、もう胸の辺りが苦しくなる。呼吸の仕方が分からなくなる。

 あの<儀式>は、そんな甘いものではないのだ。
 事実、<儀式>の最中に命を落とした王も何人もいる。歴代の王たちがいずれも短命なのは、きっとそれと関係があるのに違いない。
 そんなことをあの佐竹がいきなり、しかも二回も続けてしなくてはならないという。何も起こらぬと考えるほうがずっと不自然な話だろう。

 そうして。
 もし本当に、「なにか」が起こってしまったら――。

(それこそ、俺が帰れるわけ……!)

 掛け布をぎゅっと握り締めて、そこに顔をこすり付ける。
 マグナウトは黙したままじっと隣から見つめていたが、やがて穏やかな声で「ともかくですな、ユウヤ殿」と言った。

「若もヴァイハルト卿も、貴方様のことをひどくご心配なさっておられまする」

 無論、自身もそうなのだろう。だがこの老人はこういう場合、わざわざそれに言及するような人ではない。内藤は耳朶に届く老人の優しい声を黙って聞いている。

「我々は別段、今のまま貴方様が我らの王宮にいてくださること、なんの不満もござりませぬ。いや、それどころではない。できることならば是非ともずっと、ご滞在なさって頂きたいほど――」
「…………」
「貴方様のお陰をもって算術の講義も、いまや素晴らしい成果を上げつつありまする。いまユウヤ殿にいなくなられては、わが国としましても大変な損失と申して過言ではございますまい……」

 内藤はそっと目を上げた。
 隣にいる皺だらけの老人の目は、優しい光に溢れていた。

「若も、面と向かってはおっしゃりませぬでしょうが。恐らくは相当にユウヤ殿を手許に置きたいお気持ちがおありではなかろうかと」

(え?)

「まことに僭越ながらこの爺い、そのように推察いたしておりまする」
「ま、まさか……」

 思わず言葉をこぼすと、老人はにっこり微笑んだ。

「この爺いが、なんの嘘を申しましょうや。貴方様が王宮に来られてこの方、どれほどあの王宮が明るくなりましたものやら……。若のお顔にあのように自然な笑顔が戻ったのは、貴方様がこちらへいらしてからのことなのでござりまするぞ……?」

(そう、なのか……)

 信じられないという顔で、内藤はじっと老人を見返した。
 八年前のあの恐ろしい事件。その後サーティークは「狂王」となった。
 その時、王太后ヴィルヘルミーネと王妃レオノーラが共に殺され、王妃の腹の中にいた王太子までが<鎧>の中で亡くなってしまったのだ。
 その後あの王宮は、サーティークの怒りと、悲嘆と、罪に問われた「鎧信仰者」の怨嗟えんさに包まれ、さぞかし酷い状態になったのに違いない。
 もしかすると、以来あのサーティークはにこりともしないどころか、殺気の籠もった歪んだ笑みしか浮かべなくなっていたのかもしれない。
 つまりあの王宮には、本当の「笑顔」など絶えて久しかったということなのか。
 逆に言えば、サーティークの心の傷はそれほど酷く深かったのだ。

「王宮の中には貴方様に、言葉に尽くせぬ感謝を覚える者も少なくはありますまい。無論、この老骨もその一人――」
「そんな……。俺なんて」
「いやいや。ユウヤ殿」
 途端に俯いた内藤に、老人はゆったりと顔の前で手を振って見せた。
「何度も申しまするがの。その言葉はもう、おやめなされ。誰と比べておられるのかは存じませぬがの。……貴方様は、貴方様。素晴らしきユウヤ殿にござりまするわ――」

 内藤は黙り込んで老人の瞳を見つめた。先ほどとはまた意味の違う涙が、ついまた溢れそうになってしまった。

「貴方様は、ほかの誰でもないのでござりまするよ。貴方様がおられなければできなかったはずのこと、成し遂げられなかった筈のこと。この国には、すでに沢山あり申す。もう少しご自分を評価して差し上げなされ。ほかの誰が許さずとも、若と、この爺いと、王宮の皆は許しましょうぞ――」
「マ……グナウト、閣下……!」

 もう堪えきれなかった。内藤はぽろぽろ涙を零した。
 顔を覆ってしまった彼の頭を、老人はそっと抱き寄せた。ちょうど先日、サーティークがしたように。

「そのような貴方様なればこそ、かのアキユキ殿もわが身を賭してもお救いしたいとお望みなのでござりましょう。そうであるに違いありませぬ――」
「…………」
「ご友人が、そこまで思ってしてくださること……まこと、無になさるべきなのでござりましょうや……?」

 唇を噛み締めてしゃくりあげそうになるのを堪えている内藤の頭を、老人はやっぱりサーティークのようにぽすぽすと優しく叩いた。

「かの<鎧>の<言霊の壁>にてお見かけした限りではござりまするが。かのアキユキ殿、若と瓜二つにござりましたな……。それもどうやら、見た目だけのこととは申せぬようにお見受け致しました」
「…………」
「無論この、腐りかけた老骨のまなこが節穴でなければの話ではござりまするがの――」

 老人はかろかろと、乾いた自嘲の笑声を上げた。それはまったく不快なものではなかった。内藤はマグナウトの長衣の胸に顔を埋めたままだ。

「若は……ユウヤ殿はもう、とうにご存知ではござりましょうが、一度こうと言われたらまあ、なまじっかなことではご意志を曲げられぬお方──」
 老人の声には多少、困ったような響きが混ざりこんでいる。そのとおりだ、と内藤も思った。
「もちろん、ユウヤ殿のお気持ちはわかっておりまする。かのご友人の身が心より案ぜられるというのも、よう分かりまする。……なれども」
 老人は少し言葉を切った。
「はや話がここまで来てしもうた以上、若と瓜二つにあらせられるかのアキユキ殿をお止めすることなど、もはや誰にも叶わぬ話ではござりませぬか……?」

 内藤は老人の胸に取りついたまま項垂うなだれた。

「厳しいことを申すようでござりまするが。そこまでかのご朋輩ほうばいどのがお覚悟なされている以上、貴方様がさように心揺れなさるのも、かの方に対する非礼となりまするぞ?」

 内藤はもう一言いちごんもなかった。
 ただ黙って頭を上げ、皺の隙間からやっと覗けるような老人の瞳を見返した。そこにはやっぱり、最前と同じようになんの責める色もなく、ただ優しい光が宿っていた。

「貴方様にもやはり、それなりのお覚悟をなさる必要があるのかと、爺いは愚考いたしまする。……事、ここへ至った以上は」

 内藤は黙って老人の体から離れた。ごしごしと目元をこすり、いったん目を閉じる。それから深呼吸をした。
 再び目を開け、老人をじっと見つめる。 
 そして深々と頭を下げた。

「……わかりました」
「おお、それなれば――」
 老人は心から嬉しげに言いかけた。内藤は頭を下げたまま言った。
「ありがとう、ございます……マグナウト閣下」
「ああ! よしなされ、それはもう」

 急にマグナウトが慌てたように立ち上がって手を上げた。きょとんと見返すと、小柄な老人は困ったように苦笑している。

「いかにもかとうござりましょう? その呼び名、どうにもあまり好きませんでのう……」
「は? あの、では――」
 戸惑って聞き返すと、老人はにっこり笑って見せた。
「なあに、若と同じでようござりまするよ。『じい』とお呼び捨てくださりませ」
「え? そそ、そんな――」

 いくらなんでも一国の宮宰を、王族でもなんでもないただの居候がそんな風に呼べるわけがない。しかも、元をただせば虜囚の身なのだ。
 だが老人は「もう話は終わった」とばかりに軽い足取りで、さっさと扉の方へ向かう様子だった。

「それでは、ユウヤ殿。明後日の交渉、またどうぞよろしゅうお願い申し上げまするぞ……?」

 老マグナウトはそう言い残し、来たとき同様、粗末な扉から音もなく出て行った。





 老人が素朴な木造りの廊下をとことこ行くと、階段の降り口のところに黒髪の国王が立っていた。壁に背をもたれさせ、いかにも誰かを待つ風だ。
 老人がそこまで歩いてゆくと、サーティークは壁から離れて老宮宰の顔をちらりと見やった。
 老人が軽く頷き返す。青年王はにやりと笑った。

「……済まぬな、じい

 老人もにこりと微笑んだ。

「なんの。こういうことは、爺いの仕事でござりまするよ……」

 二人は微笑みつつまた頷きあうと、互いに申し合わせたかのように、廊下の奥の粗末な扉を窺うように眺めやった。
 そうして無言で踵を返すと、足音をひそませながら、静かに階段を下りていった。
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