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11 登和子
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棟の電気工事は一日で終わったが、引っ越しは結局その二日後になった。
隆志は別に気にしなかったのだが、明子が「世久家の当主の新居が古畳なんて」と太田と畑田に掛け合って、部屋の畳を全て新しくしたからだ。おまけに襖と障子もみんな張り替えてあった。たった二、三日でこの棟全ての畳と襖や障子の張替えが用意できるなど、無理を通せる『世久家』の名と財が恐ろしくさえある。
引越し業者が帰った後しばらくは荷物の整理をしていたが、急いで片づける必要もないので気分転換に庭に出た。
歩きながら、畑田にもらった世久家の資産についての資料の中にあったこの屋敷の簡単な見取り図を思い出す。
家の中を行けば複雑な作りに思ったが、図面で見る限り母屋を取り囲むように十三の棟が建ち並んでいるだけだった。ただ日当たりを考慮してか棟の向きがそれぞれ違い、そこを無理に棟同士と母屋をつなげるように建てているので、形が歪なのだ。
棟は必ず庭があり、隣との境には目隠し代わりに木が植えてある。そこには仕切りのように竹製の簡易的な柵が立ててあったが扉も付いていて行き来できるようになっていた。
屋敷の庭を外壁に沿うように反時計回りに歩くと、母屋の北側、屋敷の一番奥にある裏庭に出た。
ここまでは以前住んでいた頃何度か来た事があった。父が何故かここにいる事が多かったからだ。いつも父は庭石に座り、紫陽花に縁取られた池の方をぼんやり眺めていた。
自分は頻繁に来るくせに、父は隆志が裏庭に来るのを嫌がった。池に落ちたら危ないので、絶対ここで遊んではいけないと厳命までした。特に、池の向こうの林には蝮がいるので何があっても入るなと強く言われた。昔うっかり入って蝮に咬まれ死んだ者もいるのだと脅された。
そんな話をされたせいもあり、真昼でも暗い陰湿な林は不気味さが漂って見えた。
それは今でも変わらない。
裏庭には手入れされている痕があるが林は全くの手付かずで放置されていて、あの頃よりもっと荒れ果てている気がした。
父と違い、あまり長居したくない場所だったので、隆志は池の畔を足早に進んで裏庭から西側へ出た。そこから先は前に住んでいた頃から一度も足を踏み入れたことのない所だった。
祖母のいる離れへ続いていると父に教えられ、近寄らないようにしていたからだ。
人見知りしない性格でこちらに転校した後友達がすぐにできた隆志でも、祖母だけは苦手だった。
身内の親しさを全く感じさせない他人行儀な態度は初対面の時からで、母もどう接していいか悩んでいるふうであったし、父に至っては実母というのに話をしようという素振りさえ見せなかった。祖母の方にも全く交流しようと意思がないようで、同じ敷地内に住んでいながらほとんど姿を見せず、食事を共にした事もなかった。
今も同じだ。少なくとも祖母の方には隆志と距離を縮めるつもりは全くないらしい。
隆志としては祖母はこの世に残った数少ない身内なのでできれば親しくしたいと思う。同じ家に暮らすのだからせめて週に何度か夕食だけでも共にしないかと明子を通して打診したが、年寄りと食事をしても気を使うだけだろうから遠慮すると断られた。
祖母は寂しくないのだろうか。
夫も跡取り息子も先に逝き、広い屋敷に一人取り残されて。
戻って来た孫も遠ざけて、何を思って生きているのだろう。
ため息をつきかけた時、木々の間の向こうに祖母の姿が見えた。
どうやらそこは離れの庭らしい。祖母は杖をついてゆっくり歩いている。
転んで脚を悪くしたのに、一人で歩いていてまた転びでもしたら。
隆志は心配で堪らず声をかけようとした。
が、それより早く祖母の方が隆志に気付いたのか、こちらを向いた。
祖母と視線が合った。
咄嗟に会釈した隆志を祖母は身動ぎもせず見つめていた。
無表情な上に無機質な視線が隆志の身体を硬直させる。
数秒の後、祖母は他人行儀に隆志に向かって深々と頭を下げると、会話するのを避けるように背を向けて歩き出した。
ゆっくりと去る祖母の姿が見えなくなるまで隆志はその場から動けなかった。
祖母が去った後大きく息を吸い吐き出したことで、今まで自分が呼吸するのさえ止めていたほど緊張していたのだと知る。
そうだ。自分は祖母が苦手、ではなく、怖いのだ。
何故怖いのか、考えるのも嫌なくらい怖い。
先程の祖母の底冷えのする目を思い出し、鳥肌の立った腕を無意識に擦りながら隆志はその場を引き返した。
歩きながら、祖母との心の距離はこの先一歩も埋まらないだろうと想像し、この屋敷に戻った事を後悔した。
登和子は離れの自分の部屋へ戻ると明子が淹れてくれた茶を飲み、深くため息をついた。
木々の間に立っていた隆志を見た時、一瞬和也が立っているのかと思った。
ずっと願っていた望みを叶えられないまま死んだため、未練のあまり化けて出たのか、と。
そんなふうに見間違えるほど、今の隆志は和也に姿形が似ている。
それに、どことなく総一郎にも似ているように思えた。
以前、この家にいた子供の頃の顔は母親の佐恵子に似ていたのに。
この呪わしい家の血が強いのだ。
当代で三十二代続く古いこの家は屋敷の奥に神を据えて富を蓄え、この近辺では金で出来ぬ事など無いほどの力を持っている。
登和子も人生を世久の金で買われた。
ある日突然、嫁ぎ先の義両親から「離婚して世久に嫁げ」と言われた。
何かの理由で義両親に嫌われ追い出されるのならまだ抵抗の仕様もあった。が、義両親は泣いて登和子に土下座した。登和子が嫁がねばこの家は世久に潰されてしまうのだ、と。
婚家は小さいながらも百年近く続く造り酒屋だったが、登和子が承知しなければ世久の財力と人脈で店を閉店に追い込むと世久の使いが言ったそうだ。
結婚を望んでいる総一郎という男性を登和子は顔すら知らない。全身全霊で拒否したが、夫を除いて誰も味方してくれず、その夫も最後には親に説得されて身を引いた。
実家はとっくの昔に買収されていて戻ることも出来ず、登和子は世久家へ行くしかなかった。自死を考えたが、それは先に読まれていて「死ねば婚家と実家が不幸になる」と世久の使いに脅されたからだ。
登和子にとって世久の屋敷は牢獄だった。
嫁いで以来、一度も実家に帰らせてはもらえなかった。
それどころか、一人での外出も許されなかった。逃亡防止のため、常に監視の誰かが傍にいた。
両親が亡くなった後、実家は人手に渡ったため、総一郎が亡くなって自由を得ても登和子にはもう帰る家はなかった。
死ぬまで自分はこの牢獄から出られないのだと諦め、一人静かに朽ち果てようと思っていたが――和也が死に際に語った望みを聞いて、それを自分が引き継ぐことにした。
和也のためではない。
自分のために。
隆志は別に気にしなかったのだが、明子が「世久家の当主の新居が古畳なんて」と太田と畑田に掛け合って、部屋の畳を全て新しくしたからだ。おまけに襖と障子もみんな張り替えてあった。たった二、三日でこの棟全ての畳と襖や障子の張替えが用意できるなど、無理を通せる『世久家』の名と財が恐ろしくさえある。
引越し業者が帰った後しばらくは荷物の整理をしていたが、急いで片づける必要もないので気分転換に庭に出た。
歩きながら、畑田にもらった世久家の資産についての資料の中にあったこの屋敷の簡単な見取り図を思い出す。
家の中を行けば複雑な作りに思ったが、図面で見る限り母屋を取り囲むように十三の棟が建ち並んでいるだけだった。ただ日当たりを考慮してか棟の向きがそれぞれ違い、そこを無理に棟同士と母屋をつなげるように建てているので、形が歪なのだ。
棟は必ず庭があり、隣との境には目隠し代わりに木が植えてある。そこには仕切りのように竹製の簡易的な柵が立ててあったが扉も付いていて行き来できるようになっていた。
屋敷の庭を外壁に沿うように反時計回りに歩くと、母屋の北側、屋敷の一番奥にある裏庭に出た。
ここまでは以前住んでいた頃何度か来た事があった。父が何故かここにいる事が多かったからだ。いつも父は庭石に座り、紫陽花に縁取られた池の方をぼんやり眺めていた。
自分は頻繁に来るくせに、父は隆志が裏庭に来るのを嫌がった。池に落ちたら危ないので、絶対ここで遊んではいけないと厳命までした。特に、池の向こうの林には蝮がいるので何があっても入るなと強く言われた。昔うっかり入って蝮に咬まれ死んだ者もいるのだと脅された。
そんな話をされたせいもあり、真昼でも暗い陰湿な林は不気味さが漂って見えた。
それは今でも変わらない。
裏庭には手入れされている痕があるが林は全くの手付かずで放置されていて、あの頃よりもっと荒れ果てている気がした。
父と違い、あまり長居したくない場所だったので、隆志は池の畔を足早に進んで裏庭から西側へ出た。そこから先は前に住んでいた頃から一度も足を踏み入れたことのない所だった。
祖母のいる離れへ続いていると父に教えられ、近寄らないようにしていたからだ。
人見知りしない性格でこちらに転校した後友達がすぐにできた隆志でも、祖母だけは苦手だった。
身内の親しさを全く感じさせない他人行儀な態度は初対面の時からで、母もどう接していいか悩んでいるふうであったし、父に至っては実母というのに話をしようという素振りさえ見せなかった。祖母の方にも全く交流しようと意思がないようで、同じ敷地内に住んでいながらほとんど姿を見せず、食事を共にした事もなかった。
今も同じだ。少なくとも祖母の方には隆志と距離を縮めるつもりは全くないらしい。
隆志としては祖母はこの世に残った数少ない身内なのでできれば親しくしたいと思う。同じ家に暮らすのだからせめて週に何度か夕食だけでも共にしないかと明子を通して打診したが、年寄りと食事をしても気を使うだけだろうから遠慮すると断られた。
祖母は寂しくないのだろうか。
夫も跡取り息子も先に逝き、広い屋敷に一人取り残されて。
戻って来た孫も遠ざけて、何を思って生きているのだろう。
ため息をつきかけた時、木々の間の向こうに祖母の姿が見えた。
どうやらそこは離れの庭らしい。祖母は杖をついてゆっくり歩いている。
転んで脚を悪くしたのに、一人で歩いていてまた転びでもしたら。
隆志は心配で堪らず声をかけようとした。
が、それより早く祖母の方が隆志に気付いたのか、こちらを向いた。
祖母と視線が合った。
咄嗟に会釈した隆志を祖母は身動ぎもせず見つめていた。
無表情な上に無機質な視線が隆志の身体を硬直させる。
数秒の後、祖母は他人行儀に隆志に向かって深々と頭を下げると、会話するのを避けるように背を向けて歩き出した。
ゆっくりと去る祖母の姿が見えなくなるまで隆志はその場から動けなかった。
祖母が去った後大きく息を吸い吐き出したことで、今まで自分が呼吸するのさえ止めていたほど緊張していたのだと知る。
そうだ。自分は祖母が苦手、ではなく、怖いのだ。
何故怖いのか、考えるのも嫌なくらい怖い。
先程の祖母の底冷えのする目を思い出し、鳥肌の立った腕を無意識に擦りながら隆志はその場を引き返した。
歩きながら、祖母との心の距離はこの先一歩も埋まらないだろうと想像し、この屋敷に戻った事を後悔した。
登和子は離れの自分の部屋へ戻ると明子が淹れてくれた茶を飲み、深くため息をついた。
木々の間に立っていた隆志を見た時、一瞬和也が立っているのかと思った。
ずっと願っていた望みを叶えられないまま死んだため、未練のあまり化けて出たのか、と。
そんなふうに見間違えるほど、今の隆志は和也に姿形が似ている。
それに、どことなく総一郎にも似ているように思えた。
以前、この家にいた子供の頃の顔は母親の佐恵子に似ていたのに。
この呪わしい家の血が強いのだ。
当代で三十二代続く古いこの家は屋敷の奥に神を据えて富を蓄え、この近辺では金で出来ぬ事など無いほどの力を持っている。
登和子も人生を世久の金で買われた。
ある日突然、嫁ぎ先の義両親から「離婚して世久に嫁げ」と言われた。
何かの理由で義両親に嫌われ追い出されるのならまだ抵抗の仕様もあった。が、義両親は泣いて登和子に土下座した。登和子が嫁がねばこの家は世久に潰されてしまうのだ、と。
婚家は小さいながらも百年近く続く造り酒屋だったが、登和子が承知しなければ世久の財力と人脈で店を閉店に追い込むと世久の使いが言ったそうだ。
結婚を望んでいる総一郎という男性を登和子は顔すら知らない。全身全霊で拒否したが、夫を除いて誰も味方してくれず、その夫も最後には親に説得されて身を引いた。
実家はとっくの昔に買収されていて戻ることも出来ず、登和子は世久家へ行くしかなかった。自死を考えたが、それは先に読まれていて「死ねば婚家と実家が不幸になる」と世久の使いに脅されたからだ。
登和子にとって世久の屋敷は牢獄だった。
嫁いで以来、一度も実家に帰らせてはもらえなかった。
それどころか、一人での外出も許されなかった。逃亡防止のため、常に監視の誰かが傍にいた。
両親が亡くなった後、実家は人手に渡ったため、総一郎が亡くなって自由を得ても登和子にはもう帰る家はなかった。
死ぬまで自分はこの牢獄から出られないのだと諦め、一人静かに朽ち果てようと思っていたが――和也が死に際に語った望みを聞いて、それを自分が引き継ぐことにした。
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