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12 不愉快な親戚
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隆志が部屋に戻ると、明子が来客だと呼びに来た。
もしかしたら拓司が遊びに来てくれたのかと思ったが、
「龍彦さんです。ご一緒に直樹さんも」
真紀子の夫と息子の名を聞いて、隆志は顔をしかめる。あまり会いたくない二人だったが、仕方なく応接間に向かった。
「どうしたんだ、隆志君。その頭の包帯は」
応接間にいたのは龍彦一人だった。挨拶より先に聞かれ、例の言い訳をした。
向かいに座った隆志に、龍彦は姿勢を正して頭を下げた。
「まずは遅ればせながら、新当主様にお祝い申し上げます。……すぐに挨拶に来られなくて申し訳なかったね」
彼は『社長の見た目の第一印象がよくなければ、社の発展もない』という持論の持ち主で、今日もその主義を実践して身につけている物全てが一流品だった。
その高級スーツを着こなすために身体を鍛えてスタイルを保っているのだから、大した人ではある。
「今度私の会社で取り扱う予定の海外のブランド物の件で、海外出張してたのでね。最近は日本にいるより海外にいるほうが多いくらいだよ。まだ日本では注目されてないブランドだが、私が売り出せば一大ブームが起こるよ、きっと。向こうの社長が私を気に入ってくれて、将来は共同で会社を一つ立ち上げたいと言ってくれてるんだか、私としては――」
聞きもしない仕事の話を延々と一人でしゃべる。
この人は昔からそうだった。子供の頃は世間を知らないから会社の社長という立場の彼の自慢話や大風呂敷な話をまともに信じて、すごい人だと尊敬すらしていたが、成長して社会をある程度理解する歳になった今は、どこまでが本当なのか分からない誇大妄想的な話ばかりする胡散臭い人間に思えてしまう。
ほっとけばいつまでも終わりそうもない話にうんざりして、
「あの、それで今日はどんな御用で」
と割って入った。
「あ、ああ、そうなんだ、今日は隆志君に頼みがあってね。さっき言った新ブランドの輸入品なんだが、これを専門で取り扱う会社を設立する予定なんだ。それで、君にその筆頭株主になってもらいたいんだよ」
「……ようするに、会社の設立資金を出して欲しい、と?」
「とりあえず一千万ほどでいいんだ」
来客が龍彦と聞いて、予想出来ていた話だった。
世久の当主にはこの手の出資依頼が頻繁に持ち込まれると、太田と畑田から聞かされていた。隆志が法律上成人であるにしても当面は社会経験が未熟であることを理由に誰にも直接交渉はさせないと彼らが防波堤になってくれることを約束してくれ、電話での伺いもすべて明子がシャットアウトしてくれていたが、身内にいきなり話を持ってこられては、隆志自身が応対するしかない。
「僕は成人して間もないので」
太田たちとの打ち合わせ通りの言い訳をする。
「弁護士と会計士に相談してからお返事します」
「君は世久家の当主じゃないか。誰にもお伺い立てる必要なんてないよ。君が一言、畑田に言ってくれれば」
「金額的にも、そんな簡単にはいきませんよ」
「当主の言うことは絶対なんだ。君の意思なら、畑田が口を挟むことはできないから」
遠回しの拒否を無視して言い募る龍彦と不毛な押し問答をしていると、
「何だよ。ケチくせえ奴だな」
荒い足音がして、大柄な男が姿を見せた。
「よう、当主サマ」
伯母の一人息子の直樹だった。
隆志は三つ年上のこの従兄弟が嫌いだった。伯母が甘やかして育てたせいで自己中心的で粗暴。昔この家にいる頃には、会うたびに苛められ、泣かされた。
「直樹、お婆様にご挨拶に行ったんじゃなかったのか」
直樹はシャツのポケットから一万円札を出してヒラヒラさせた。
「ご機嫌伺いに行ったら『年寄りの相手をするより、これでお友達と遊びにでもお行きなさい』って、追い返されたよ。今どきこの程度の金でどこに遊びに行けってんだよな」
彼がどこにも遊びにいけないと不満を言う一万円は、つい最近まで隆志たち親子の一週間分の食費にあたる金額だった。それを小遣いとしてポンと出す祖母にも、金に感謝の欠片もないこの男にも腹が立った。
そんな隆志も胸中も知らず、直樹は無遠慮に隆志の横にどかりと座った。
「隆志、親父の言う通り、筆頭株主になれって。そしたら俺が社長になって、お前を儲けさせてやるからよ」
彼が社長になるというなら、尚更信用できない。隆志は、二十歳になるまでは大きな金額を動かすには弁護士の太田の許可がいると繰り返して、断った。
「じゃ、太田をクビにしろよ。そしたら自由に金を使えるようになるだろ」
「そんなことできません」
そもそも何故伯母夫婦に融資するためにそこまでしなければならないのだ。
「じゃあ、当主の座をおふくろに譲れよ」
冗談のような軽い口ぶりに、
「自分に譲れと言わないとは、謙虚な大人になったんですね」
笑って返した皮肉は、見事に直樹の感情を逆撫でしたようだった。
「っざけんなっ!」
直樹は畳を叩いて叫んだ。
「大体お前が出てこなきゃ、おふくろが世久家を継ぐはずだったんだ。それもほぼ決まってたんだぜ。その予定で俺たち色々と計画してたのに、お前のせいですべてパーだよ」
「そんなの知らないよ! それはそっちの勝手で、言いがかりだ!」
あまりに勝手な言い分に腹が立ち、隆志は言い返した。
「何だとっ!」
昔やり込めていた相手に反抗され、直樹は顔色を変えて立ち上がった。が、隆志も負けてはいなかった。
「文句があるなら、伯母さんに家を譲るって遺言を残さなかった父さんに言えよ!」
昔は歳の差と体格の差で彼にやられてばかりだったが、今は母子家庭の生活と男子校の高校生活で随分鍛えられ、引けない時には引かないでいられる胆力ができていた。
「伯母さんだってそのつもりだったんなら、父さんが生きてるうちにちゃんと文書に残してもらえばよかったんだ」
「つまんねえこと言ってねえで、黙っておふくろに譲りゃいいんだよっ!」
「それは無理な話です」
廊下で凛とした声がした。
音もなく、明子が押す車椅子に乗った祖母が現れた。
「新しい当主のお披露目は済みました。現当主が跡継ぎなしに亡くならない限り、真紀子が世久家を継ぐことはありえません」
龍彦さん、と祖母は妙に優しい声で話しかけた。
「人望のあるあなたなら、本当は世久家に話を持ってこなくても新しい会社を作れるのですよね。けれど、当主になったばかりの若い隆志に身内として気を遣って、株主にならないか声をかけてくれた――そうでしょう?」
「はあ……まあ、そうです」
祖母の奇妙な迫力に押され、龍彦は曖昧に頷いた。
「けれど、世久の当主にそのお心遣いは無用です。お忙しいのでしょうから、今後はお気遣いなく、ご自分の力量でお仕事をなさってくださって結構ですよ」
完全に祖母の貫禄勝ちだった。
敗北を悟った龍彦は一言二言愛想を言って、腰を上げた。直樹も白けた表情で玄関に向かう。
一連のやり取りを半ば呆けて見ていた隆志は、
「ご当主のお話に差し出がましい事を申し上げ、大変失礼いたしました」
深々と頭を下げた祖母の言葉で我に返った。
「あ、いえ、助かりました。どう断わっていいのか分からなくて困ってたので」
「あのような小者、世久のご当主がお相手するには及びません。明子に今後面会も電話も取り次がぬよう申しつけましたので、二度とお気を煩わす事もございませんでしょう」
祖母が龍彦を毛嫌いしているのはこの家にいた頃から何となく知っていた。だからこれも隆志を助けに来たのではなく、世久の敷居を跨がせるのも嫌な相手を撃退に来ただけなのだろう。
祖母は丁重に一礼すると明子を促して離れに帰って行った。
一人になった客間で隆志は大きくため息をつき、一度も祖母と視線が合わなかった事に再度ため息をついた。
太田が屋敷に来たのは、その夜だった。
「龍彦さんと直樹さんが来たそうですね」
相変わらずの情報通だった。
「何を言われたか想像がつきますが、もし相続権について裁判になっても、向こうに勝ち目はありませんから安心してください」
「いや、龍彦おじさんが今度もう一つ会社を作るって話を聞かされただけです。でも、よく分からなくて。いったい何のブランドの会社なんですか」
「――新しい会社? そんなことできるはずはないですよ。彼が今経営している輸入雑貨の会社が傾きかけてるというのに」
「でも、今日一千万出して新しい会社の筆頭株主になってくれって」
隆志さん、と太田は声をひそめた。
「今後あの人から出資を頼まれても、絶対乗ってはいけませんよ。あの人には経営者としての才能も心構えもない。あるのは見栄だけです。今の会社にしても世久家の名前を利用するだけ利用して、それでも現在は左前なんです。今まで何度も和也様に融資を申し込んでは断られていましたが、おそらく、若い隆志さんなら言い包められると思ったんでしょう」
伯母の真紀子が世久の家を継ぎたかったのは、その財産で会社を立て直したかったからだろうと言う。夫婦揃って見栄っ張りな性格と散財癖もあって、私生活の家計の方も苦しいらしかった。
それなら伯母は尚のこと引き下がらないのではないか。
「とにかく、こんど何か言ってきたらすぐ私に連絡してください。隆志さんがまともに取り合う必要はありませんよ」
太田はふと思いついたように提案してきた。
「隆志さん、車の免許でも取りに行ったらどうですか。ずっと家にいるより気分転換にもなりますよ」
隆志も免許が欲しいと思っていたところだった。町内に教習所があるというので、場所とそこまでのバス路線を尋ねると、
「自転車でも行けますよ」
車庫に父が使っていた自転車が残っていたはずだという。
「車もそのまま残っていますから、免許が取れたら乗れますよ」
母と二人で暮らしていた頃、雨の日にカッパを着込んで自転車で会社に向かう母を見るたび、いつか車の免許を取って、車で母を送り迎えしてやりたいと思ったものだった。
もう永久に叶わない夢を思い出し、隆志の視界はふいに滲んだ。
そしてふと、心に少し引っかかっていたことを思い出した。
元々母は車の運転免許を持っていた。
ペーパードライバーではなく、車の運転もしていた。一家でこの家に引っ越してくる前は、軽四乗用車で仕事に行っていたし、この家に来てからも父が買った車を運転していた覚えがある。
しかし母の死後、母の免許証はどこを探しても見つからなかった。
世久家から逃げ出してからは経済的事情で車が買えなかったので気付かなかったが、もしかしたら、運転免許自体免許の更新で居所がバレることを恐れて故意に失効していたのではないだろうか。
それほどまでに母は父を恐れていたのか。
あるいは、他に恐れるものがこの家にあった、か。
恐れたもの――畏れるもの。
それは、与姫……だったのだろうか。
もしかしたら拓司が遊びに来てくれたのかと思ったが、
「龍彦さんです。ご一緒に直樹さんも」
真紀子の夫と息子の名を聞いて、隆志は顔をしかめる。あまり会いたくない二人だったが、仕方なく応接間に向かった。
「どうしたんだ、隆志君。その頭の包帯は」
応接間にいたのは龍彦一人だった。挨拶より先に聞かれ、例の言い訳をした。
向かいに座った隆志に、龍彦は姿勢を正して頭を下げた。
「まずは遅ればせながら、新当主様にお祝い申し上げます。……すぐに挨拶に来られなくて申し訳なかったね」
彼は『社長の見た目の第一印象がよくなければ、社の発展もない』という持論の持ち主で、今日もその主義を実践して身につけている物全てが一流品だった。
その高級スーツを着こなすために身体を鍛えてスタイルを保っているのだから、大した人ではある。
「今度私の会社で取り扱う予定の海外のブランド物の件で、海外出張してたのでね。最近は日本にいるより海外にいるほうが多いくらいだよ。まだ日本では注目されてないブランドだが、私が売り出せば一大ブームが起こるよ、きっと。向こうの社長が私を気に入ってくれて、将来は共同で会社を一つ立ち上げたいと言ってくれてるんだか、私としては――」
聞きもしない仕事の話を延々と一人でしゃべる。
この人は昔からそうだった。子供の頃は世間を知らないから会社の社長という立場の彼の自慢話や大風呂敷な話をまともに信じて、すごい人だと尊敬すらしていたが、成長して社会をある程度理解する歳になった今は、どこまでが本当なのか分からない誇大妄想的な話ばかりする胡散臭い人間に思えてしまう。
ほっとけばいつまでも終わりそうもない話にうんざりして、
「あの、それで今日はどんな御用で」
と割って入った。
「あ、ああ、そうなんだ、今日は隆志君に頼みがあってね。さっき言った新ブランドの輸入品なんだが、これを専門で取り扱う会社を設立する予定なんだ。それで、君にその筆頭株主になってもらいたいんだよ」
「……ようするに、会社の設立資金を出して欲しい、と?」
「とりあえず一千万ほどでいいんだ」
来客が龍彦と聞いて、予想出来ていた話だった。
世久の当主にはこの手の出資依頼が頻繁に持ち込まれると、太田と畑田から聞かされていた。隆志が法律上成人であるにしても当面は社会経験が未熟であることを理由に誰にも直接交渉はさせないと彼らが防波堤になってくれることを約束してくれ、電話での伺いもすべて明子がシャットアウトしてくれていたが、身内にいきなり話を持ってこられては、隆志自身が応対するしかない。
「僕は成人して間もないので」
太田たちとの打ち合わせ通りの言い訳をする。
「弁護士と会計士に相談してからお返事します」
「君は世久家の当主じゃないか。誰にもお伺い立てる必要なんてないよ。君が一言、畑田に言ってくれれば」
「金額的にも、そんな簡単にはいきませんよ」
「当主の言うことは絶対なんだ。君の意思なら、畑田が口を挟むことはできないから」
遠回しの拒否を無視して言い募る龍彦と不毛な押し問答をしていると、
「何だよ。ケチくせえ奴だな」
荒い足音がして、大柄な男が姿を見せた。
「よう、当主サマ」
伯母の一人息子の直樹だった。
隆志は三つ年上のこの従兄弟が嫌いだった。伯母が甘やかして育てたせいで自己中心的で粗暴。昔この家にいる頃には、会うたびに苛められ、泣かされた。
「直樹、お婆様にご挨拶に行ったんじゃなかったのか」
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「ご機嫌伺いに行ったら『年寄りの相手をするより、これでお友達と遊びにでもお行きなさい』って、追い返されたよ。今どきこの程度の金でどこに遊びに行けってんだよな」
彼がどこにも遊びにいけないと不満を言う一万円は、つい最近まで隆志たち親子の一週間分の食費にあたる金額だった。それを小遣いとしてポンと出す祖母にも、金に感謝の欠片もないこの男にも腹が立った。
そんな隆志も胸中も知らず、直樹は無遠慮に隆志の横にどかりと座った。
「隆志、親父の言う通り、筆頭株主になれって。そしたら俺が社長になって、お前を儲けさせてやるからよ」
彼が社長になるというなら、尚更信用できない。隆志は、二十歳になるまでは大きな金額を動かすには弁護士の太田の許可がいると繰り返して、断った。
「じゃ、太田をクビにしろよ。そしたら自由に金を使えるようになるだろ」
「そんなことできません」
そもそも何故伯母夫婦に融資するためにそこまでしなければならないのだ。
「じゃあ、当主の座をおふくろに譲れよ」
冗談のような軽い口ぶりに、
「自分に譲れと言わないとは、謙虚な大人になったんですね」
笑って返した皮肉は、見事に直樹の感情を逆撫でしたようだった。
「っざけんなっ!」
直樹は畳を叩いて叫んだ。
「大体お前が出てこなきゃ、おふくろが世久家を継ぐはずだったんだ。それもほぼ決まってたんだぜ。その予定で俺たち色々と計画してたのに、お前のせいですべてパーだよ」
「そんなの知らないよ! それはそっちの勝手で、言いがかりだ!」
あまりに勝手な言い分に腹が立ち、隆志は言い返した。
「何だとっ!」
昔やり込めていた相手に反抗され、直樹は顔色を変えて立ち上がった。が、隆志も負けてはいなかった。
「文句があるなら、伯母さんに家を譲るって遺言を残さなかった父さんに言えよ!」
昔は歳の差と体格の差で彼にやられてばかりだったが、今は母子家庭の生活と男子校の高校生活で随分鍛えられ、引けない時には引かないでいられる胆力ができていた。
「伯母さんだってそのつもりだったんなら、父さんが生きてるうちにちゃんと文書に残してもらえばよかったんだ」
「つまんねえこと言ってねえで、黙っておふくろに譲りゃいいんだよっ!」
「それは無理な話です」
廊下で凛とした声がした。
音もなく、明子が押す車椅子に乗った祖母が現れた。
「新しい当主のお披露目は済みました。現当主が跡継ぎなしに亡くならない限り、真紀子が世久家を継ぐことはありえません」
龍彦さん、と祖母は妙に優しい声で話しかけた。
「人望のあるあなたなら、本当は世久家に話を持ってこなくても新しい会社を作れるのですよね。けれど、当主になったばかりの若い隆志に身内として気を遣って、株主にならないか声をかけてくれた――そうでしょう?」
「はあ……まあ、そうです」
祖母の奇妙な迫力に押され、龍彦は曖昧に頷いた。
「けれど、世久の当主にそのお心遣いは無用です。お忙しいのでしょうから、今後はお気遣いなく、ご自分の力量でお仕事をなさってくださって結構ですよ」
完全に祖母の貫禄勝ちだった。
敗北を悟った龍彦は一言二言愛想を言って、腰を上げた。直樹も白けた表情で玄関に向かう。
一連のやり取りを半ば呆けて見ていた隆志は、
「ご当主のお話に差し出がましい事を申し上げ、大変失礼いたしました」
深々と頭を下げた祖母の言葉で我に返った。
「あ、いえ、助かりました。どう断わっていいのか分からなくて困ってたので」
「あのような小者、世久のご当主がお相手するには及びません。明子に今後面会も電話も取り次がぬよう申しつけましたので、二度とお気を煩わす事もございませんでしょう」
祖母が龍彦を毛嫌いしているのはこの家にいた頃から何となく知っていた。だからこれも隆志を助けに来たのではなく、世久の敷居を跨がせるのも嫌な相手を撃退に来ただけなのだろう。
祖母は丁重に一礼すると明子を促して離れに帰って行った。
一人になった客間で隆志は大きくため息をつき、一度も祖母と視線が合わなかった事に再度ため息をついた。
太田が屋敷に来たのは、その夜だった。
「龍彦さんと直樹さんが来たそうですね」
相変わらずの情報通だった。
「何を言われたか想像がつきますが、もし相続権について裁判になっても、向こうに勝ち目はありませんから安心してください」
「いや、龍彦おじさんが今度もう一つ会社を作るって話を聞かされただけです。でも、よく分からなくて。いったい何のブランドの会社なんですか」
「――新しい会社? そんなことできるはずはないですよ。彼が今経営している輸入雑貨の会社が傾きかけてるというのに」
「でも、今日一千万出して新しい会社の筆頭株主になってくれって」
隆志さん、と太田は声をひそめた。
「今後あの人から出資を頼まれても、絶対乗ってはいけませんよ。あの人には経営者としての才能も心構えもない。あるのは見栄だけです。今の会社にしても世久家の名前を利用するだけ利用して、それでも現在は左前なんです。今まで何度も和也様に融資を申し込んでは断られていましたが、おそらく、若い隆志さんなら言い包められると思ったんでしょう」
伯母の真紀子が世久の家を継ぎたかったのは、その財産で会社を立て直したかったからだろうと言う。夫婦揃って見栄っ張りな性格と散財癖もあって、私生活の家計の方も苦しいらしかった。
それなら伯母は尚のこと引き下がらないのではないか。
「とにかく、こんど何か言ってきたらすぐ私に連絡してください。隆志さんがまともに取り合う必要はありませんよ」
太田はふと思いついたように提案してきた。
「隆志さん、車の免許でも取りに行ったらどうですか。ずっと家にいるより気分転換にもなりますよ」
隆志も免許が欲しいと思っていたところだった。町内に教習所があるというので、場所とそこまでのバス路線を尋ねると、
「自転車でも行けますよ」
車庫に父が使っていた自転車が残っていたはずだという。
「車もそのまま残っていますから、免許が取れたら乗れますよ」
母と二人で暮らしていた頃、雨の日にカッパを着込んで自転車で会社に向かう母を見るたび、いつか車の免許を取って、車で母を送り迎えしてやりたいと思ったものだった。
もう永久に叶わない夢を思い出し、隆志の視界はふいに滲んだ。
そしてふと、心に少し引っかかっていたことを思い出した。
元々母は車の運転免許を持っていた。
ペーパードライバーではなく、車の運転もしていた。一家でこの家に引っ越してくる前は、軽四乗用車で仕事に行っていたし、この家に来てからも父が買った車を運転していた覚えがある。
しかし母の死後、母の免許証はどこを探しても見つからなかった。
世久家から逃げ出してからは経済的事情で車が買えなかったので気付かなかったが、もしかしたら、運転免許自体免許の更新で居所がバレることを恐れて故意に失効していたのではないだろうか。
それほどまでに母は父を恐れていたのか。
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