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18 遊び仲間
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橋本がいなくなった後、遊び仲間を仕切り始めたのは山下だった。
仲間内で一番顔の広い山下は、男だけで遊びたがった橋本と違ってどこかに遊びに行くたびに知り合いの女の子たちを呼んだ。
二、三歳年上から十五歳の女子高生までその時々で顔ぶれは色々だったが、一様に隆志はもてた。隆志を独占しようと女の子同士が争うほどで、人生初の『もて期』が来たのかと内心喜んでいたが、
「ねえ、隆志の家ってすごく大きいんだって?」
「それに、この辺一帯の大地主なんでしょう」
何のことはない、隆志が世久家の当主で金持ちだからだった。
それでも女の子と遊ぶのはやはり楽しい。その内、気が合ってよく一緒に遊ぶようになった女の子の一人に誘われ、彼女が働いているという町内にあるパブにも遊びに行くようになった。
ビリヤードパブ『クラップ』は、ビリヤードは勿論ダーツも楽しめる二十代から三十代の若い客が主な店だった。
三十代前半のマスターは、隆志が世久家の当主であると知って、未成年の隆志たちの飲酒や喫煙を見て見ぬふりしていた。これから先の自分の店の利益を考えたのだろう。
高校生の頃とは違う、酒もタバコも黙認の遊び場は隆志に十分な刺激をくれた。女の子に取り巻かれ、みんながちやほやしてくれる状況が、世久家の金の力とはいえ心地悪いわけがない。
隆志はほぼ毎晩山下たちとその店に入り浸って遊んだ。
「隆志の家へ遊びに行きたい」と言い出したのは、地元商店街にあるブティックで働いている隆志より三歳上の綾香という子だった。
きれいな子で、隆志に一番積極的にアプローチしてきている子だったが、自分の容姿に自信があるような態度が鼻につき、性格的に伯母の真紀子に似たところがあってあまり好きになれないタイプだった。
本当は自分ひとりを招待して欲しかったらしいが、話を聞きつけた店の他の女の子たちも行きたいと騒ぎ出したので、山下たちとまとめて十五人を招待することになった。
月曜日なら店も休みということで、月曜の昼にみんなを招いた。
世久邸に初めて来た女の子たちの反応は、山下たちの時と全く同じだった。家に上がって廊下を歩きながら、みんなまた同じように屋敷の広さに感動する。
そんな中、綾香がするりと隆志に近寄ってきて、媚を含んだ笑みで囁いた。
「こんな広い家に一人で、寂しくない? あたしが一緒に住んであげようか?」
その裏に潜む思惑にうんざりして、
「え、そう? ちょうどいいな。家政婦の募集をしようかと思っていたところなんだ」
わざと嫌味な返事を返した。
「今いてくれてる人はもうすぐ定年なんだよ。僕が結婚するまでは、やっぱり家政婦さんはせめて一人はいてほしいから。今度、履歴書持って来てよ」
隆志は涼しい顔をして、綾香から離れる。自分の容姿の良さだけで世の全ての男を手玉に取れると思い込んでいるらしい彼女に、男はそれほど馬鹿じゃないと思い知らせてやり、痛快だった。
「うるさいわね! ほっといてよ!」
綾香の怒鳴り声に振り返ると、山下が笑って彼女の傍から逃げるところだった。傍で話を聞いていたらしい山下が、彼女に何かからかうようなことを言ったようだ。綾香は隆志の方を見ようともせず、隆志も彼女に構わず、みんなを自分の住む棟へ案内した。
明子に接客の負担をかけないよう、昼食に頼んでおいた寿司の出前がみんなが来た後に届いた。携帯に出前の者から「今、門の外にいる」と連絡が入り、門を開けるついでに玄関まで品を取りに出た。
「一人じゃ無理だろ。おい、みんなも手伝えよ」
山下に言われて、みんなが隆志の後について今来た廊下を逆戻りする。
門の開閉はリモコンだけでなく、玄関につけてあるスイッチでもでき、スイッチを押して程なく、配達の車が玄関先に着いた。
寿司を車から降ろす片端から、山下たちが奥へ運んでいってくれた。隆志は寿司を山下たちに任せ、女の子たちに声をかけて台所からお茶やジュースを運んだ。
綾香がいないのに気が付いたのは食事を始めて暫く経ってからだった。
トイレにでも行っているのかと女の子の一人が見に行ってくれたが、いなかった。勝手に屋敷内を見て歩いているのだろうとみんなさほど気にしなかったが、いつまで経っても帰ってこないのでさすがに不審に思い始めた。
隆志は嫌な予感がした。橋本も突然いなくなって――。
同じことを考えたのか、細川が「玄関へ行って見てくる」と部屋を走り出て、携帯で連絡してきた。
「綾香さんのサンダルがなくなってる」
「ない……てことは、帰ったのか」
とにかく連絡を取ってみようと山下が綾香に電話した。
電話はすぐにつながった。
「どうしたんだよ、綾香。急に何もいわないで帰――はあっ?」
一気にまくし立てていた山下の言葉が不自然に止まった。
「はい……その携帯は浜口綾香という子のもので……俺は友達ですけど。――ええっ」
病院は、と山下が問うのを聞いて、みんなが顔色を変えた。
「綾香が――今、事故に遭ったって」
綾香の携帯に出たのは、現場で携帯を拾った警察官だったそうだ。今さっき、救急車で町立病院へ運ばれたという。
隆志はすぐにタクシーを呼び、みんなで町立病院へ向かった。
が、病院着くと、綾香の死亡を知らされた。
また、雨の通夜だった。
橋本の通夜と葬儀が行われたのと同じセレモニー会館で、綾香の通夜が行われた。
綾香がどうして誰にも何も言わず、世久家を出たのかは分からない。
警察によると、門の近くで携帯電話がかかってきたため停まって長話していた寿司屋の出前の車に乗せてもらって国道まで出た後、何故かそこで車を降り、道路の向こうに渡ろうとして事故に遭ったらしかった。
大型トラックに轢かれた綾香の遺体の損傷は激しく、綾香は全身を包帯で巻かれて棺に納められ、顔も見せてもらえなかった。遺族は悲しみでまともに会話が成り立たないほど壊れてしまっていて、綾香の友人の女の子たちはあちこちで号泣していた。
隆志たちはいたたまれなくて早々に席を立った。
ロビーまで出た時、山下が首をかしげながら服のポケットを探り出した。
「おかしいな……携帯がない」
「通夜の席で椅子に置いてあったのを見たよ」
一緒に通夜に来た中野に言われ、山下は引き返した。隆志たちはロビーの自動販売機で缶コーヒーを買って飲みながら、彼を待った。
「あれ、中野は?」
いつの間にか、中野がいなくなっていた。
「今さっきまでそこにいたけど」
隆志は嫌な既視観を覚えた。
悲鳴と怒鳴り声が聞こえてきたのはその時だった。
騒ぎが起こっているのは綾香の通夜が行われている部屋だった。
コーヒーを放り出して隆志たちは悲鳴の方へ走る。
部屋に飛び込んだ隆志たちの目に入ってきたのは。
誰かに馬乗りになられてナイフで刺されている山下だった。
「何やってんだっ! やめろっ!」
隆志の怒鳴り声に振り向いたそいつは、中野だった。
山下の返り血を浴びた顔を、ゆっくり歪めて――笑った。
「……綾香さんの敵討ちなんだよ」
中野はもう一度ナイフを山下に振り下ろす。
ナイフを刺されても山下はピクリともしなかった。手足はだらしなく投げ出され、目にはもう光がない。
「綾香さんが死んだのはこいつのせいだよ。こいつが綾香さんを何か怒らせるようなことを言ったから、綾香さんは途中で帰って事故に遭ったんだ。――こいつが殺したのも同じだっ! こいつがっ! こいつがっ!」
普段仲間内でも影が薄く大人しい中野の、異常な情動の激しさにみんな息を呑んで立ち尽くす。誰もが彼の豹変ぶりとその理由を納得しかねていた。
中野が綾香に思いを寄せていたとは知らなかった。ましてここまで思い詰めるほど執心しているようには見えなかった。
――人の心はどうやっても見えないものなんです
明子の言う通りだ。何故か笑い出したくなる。
「中野……もう、やめろ」
隆志は中野を刺激しないように、そっと前に出る。後ろで誰かが救急車を呼んでいるのが聞こえ、もう無駄だと思ってしまった自分に嫌気がさした。
「中野、落ち着け。ナイフを捨てろよ。な、捨てろ」
中野はゆるりと首を振り、血で汚れた手の中にあるナイフを握りなおす。
にいっと笑って。
中野は自分の首を一気に掻き切った。
今日も雨だ。
今日も通夜だ。
今日も葬儀だ。
山下の葬儀に続いて中野の葬儀に参列した隆志は、家に戻ると湿っぽい自分の部屋の畳に寝転がり目を閉じた。
心身ともに限界を超えた疲れで、着替えるのもおっくうだった。
クリーニングに出す暇もなく立て続けに着た喪服は、線香の臭いが染み付いている。
春先から何度も嗅いだその臭いは不幸の証。
なかなか来ない救急車。警察の事情聴取。どこかで傘を失くした。悲鳴。悲鳴。悲鳴。雨に湿気った喪服。返り血に染まった綾香の棺。放り出した缶コーヒー。太田が迎えに来てくれたのは、病院だったのか、葬儀場だったのか。
記憶が――狂っている。時間の経過通りに思い出せない。
いっそのこと、きれいさっぱり抜け落ちてくれればいいのに、断片がやけにリアルに頭に焼き付いて離れなかった。
そのまま少し眠ってしまったらしい。
夢を見た。
綾香が世久の屋敷にいた。長い廊下を歩いて、与姫の部屋へ辿りつく。退屈そうに部屋を見回した彼女は、床の間のままごと道具に目をやった。
いけない。それに触ってはいけない。
しかし綾香はぞんざいな手つきでそれらを品定めすると、気が済んだのか荒らしたまま部屋を出た。
部屋を出る綾香を、与姫が見つめている。
その、冷え冷えとする目。
場所は変わって、病院の薄暗い廊下。
綾香の死を知らされた隆志達の後ろで、中野が力なく崩れるように床に座り込んだ。
彼の背中に赤い着物の少女が現われた。
与姫だ。
与姫が何かを囁くように中野の耳元に口を寄せる。
何を……何を言おうとしている?
中野に何を吹き込もうとしているんだ!
思わず声を上げそうになった時。
明子に起こされた。友達が来ているという。
玄関に行くと、喪服のままの細川が立っていた。
「……隆志、これを」
何の用かと問う前に、細川が白い封筒を隆志に押し付けた。
「僕の分だけじゃない。中山と藤原と三浦と菊池の分も入ってる」
「何なんだよ、これは」
「今まで、僕らが隆志にたかってた分の金だよ」
隆志は顔をしかめて封筒を突き返そうとしたが、一瞬早く細川が身を引いた。
「もちろん全額じゃない。でも、僕らはまだ学生で、それが今すぐ返せる精一杯の金額なんだ。だから――それで勘弁してくださいっ!」
彼は機械仕掛けの人形のように腰を折る。
分からない。何故急にこんなことを。
「じゃ、確かに返したから」
細川は俯いたまま、後ずさりした。
「待てよ。訳分かんないよ。何でこんな」
玄関に下りようとした隆志から逃げるように、
「もう、僕らに声をかけないでくれ」
細川は叫んで玄関を飛び出していった。
封筒には二十万円入っていた。
中山たちに電話してみたが、誰一人連絡が取れなかった。
全員、着信拒否されていた。
仲間内で一番顔の広い山下は、男だけで遊びたがった橋本と違ってどこかに遊びに行くたびに知り合いの女の子たちを呼んだ。
二、三歳年上から十五歳の女子高生までその時々で顔ぶれは色々だったが、一様に隆志はもてた。隆志を独占しようと女の子同士が争うほどで、人生初の『もて期』が来たのかと内心喜んでいたが、
「ねえ、隆志の家ってすごく大きいんだって?」
「それに、この辺一帯の大地主なんでしょう」
何のことはない、隆志が世久家の当主で金持ちだからだった。
それでも女の子と遊ぶのはやはり楽しい。その内、気が合ってよく一緒に遊ぶようになった女の子の一人に誘われ、彼女が働いているという町内にあるパブにも遊びに行くようになった。
ビリヤードパブ『クラップ』は、ビリヤードは勿論ダーツも楽しめる二十代から三十代の若い客が主な店だった。
三十代前半のマスターは、隆志が世久家の当主であると知って、未成年の隆志たちの飲酒や喫煙を見て見ぬふりしていた。これから先の自分の店の利益を考えたのだろう。
高校生の頃とは違う、酒もタバコも黙認の遊び場は隆志に十分な刺激をくれた。女の子に取り巻かれ、みんながちやほやしてくれる状況が、世久家の金の力とはいえ心地悪いわけがない。
隆志はほぼ毎晩山下たちとその店に入り浸って遊んだ。
「隆志の家へ遊びに行きたい」と言い出したのは、地元商店街にあるブティックで働いている隆志より三歳上の綾香という子だった。
きれいな子で、隆志に一番積極的にアプローチしてきている子だったが、自分の容姿に自信があるような態度が鼻につき、性格的に伯母の真紀子に似たところがあってあまり好きになれないタイプだった。
本当は自分ひとりを招待して欲しかったらしいが、話を聞きつけた店の他の女の子たちも行きたいと騒ぎ出したので、山下たちとまとめて十五人を招待することになった。
月曜日なら店も休みということで、月曜の昼にみんなを招いた。
世久邸に初めて来た女の子たちの反応は、山下たちの時と全く同じだった。家に上がって廊下を歩きながら、みんなまた同じように屋敷の広さに感動する。
そんな中、綾香がするりと隆志に近寄ってきて、媚を含んだ笑みで囁いた。
「こんな広い家に一人で、寂しくない? あたしが一緒に住んであげようか?」
その裏に潜む思惑にうんざりして、
「え、そう? ちょうどいいな。家政婦の募集をしようかと思っていたところなんだ」
わざと嫌味な返事を返した。
「今いてくれてる人はもうすぐ定年なんだよ。僕が結婚するまでは、やっぱり家政婦さんはせめて一人はいてほしいから。今度、履歴書持って来てよ」
隆志は涼しい顔をして、綾香から離れる。自分の容姿の良さだけで世の全ての男を手玉に取れると思い込んでいるらしい彼女に、男はそれほど馬鹿じゃないと思い知らせてやり、痛快だった。
「うるさいわね! ほっといてよ!」
綾香の怒鳴り声に振り返ると、山下が笑って彼女の傍から逃げるところだった。傍で話を聞いていたらしい山下が、彼女に何かからかうようなことを言ったようだ。綾香は隆志の方を見ようともせず、隆志も彼女に構わず、みんなを自分の住む棟へ案内した。
明子に接客の負担をかけないよう、昼食に頼んでおいた寿司の出前がみんなが来た後に届いた。携帯に出前の者から「今、門の外にいる」と連絡が入り、門を開けるついでに玄関まで品を取りに出た。
「一人じゃ無理だろ。おい、みんなも手伝えよ」
山下に言われて、みんなが隆志の後について今来た廊下を逆戻りする。
門の開閉はリモコンだけでなく、玄関につけてあるスイッチでもでき、スイッチを押して程なく、配達の車が玄関先に着いた。
寿司を車から降ろす片端から、山下たちが奥へ運んでいってくれた。隆志は寿司を山下たちに任せ、女の子たちに声をかけて台所からお茶やジュースを運んだ。
綾香がいないのに気が付いたのは食事を始めて暫く経ってからだった。
トイレにでも行っているのかと女の子の一人が見に行ってくれたが、いなかった。勝手に屋敷内を見て歩いているのだろうとみんなさほど気にしなかったが、いつまで経っても帰ってこないのでさすがに不審に思い始めた。
隆志は嫌な予感がした。橋本も突然いなくなって――。
同じことを考えたのか、細川が「玄関へ行って見てくる」と部屋を走り出て、携帯で連絡してきた。
「綾香さんのサンダルがなくなってる」
「ない……てことは、帰ったのか」
とにかく連絡を取ってみようと山下が綾香に電話した。
電話はすぐにつながった。
「どうしたんだよ、綾香。急に何もいわないで帰――はあっ?」
一気にまくし立てていた山下の言葉が不自然に止まった。
「はい……その携帯は浜口綾香という子のもので……俺は友達ですけど。――ええっ」
病院は、と山下が問うのを聞いて、みんなが顔色を変えた。
「綾香が――今、事故に遭ったって」
綾香の携帯に出たのは、現場で携帯を拾った警察官だったそうだ。今さっき、救急車で町立病院へ運ばれたという。
隆志はすぐにタクシーを呼び、みんなで町立病院へ向かった。
が、病院着くと、綾香の死亡を知らされた。
また、雨の通夜だった。
橋本の通夜と葬儀が行われたのと同じセレモニー会館で、綾香の通夜が行われた。
綾香がどうして誰にも何も言わず、世久家を出たのかは分からない。
警察によると、門の近くで携帯電話がかかってきたため停まって長話していた寿司屋の出前の車に乗せてもらって国道まで出た後、何故かそこで車を降り、道路の向こうに渡ろうとして事故に遭ったらしかった。
大型トラックに轢かれた綾香の遺体の損傷は激しく、綾香は全身を包帯で巻かれて棺に納められ、顔も見せてもらえなかった。遺族は悲しみでまともに会話が成り立たないほど壊れてしまっていて、綾香の友人の女の子たちはあちこちで号泣していた。
隆志たちはいたたまれなくて早々に席を立った。
ロビーまで出た時、山下が首をかしげながら服のポケットを探り出した。
「おかしいな……携帯がない」
「通夜の席で椅子に置いてあったのを見たよ」
一緒に通夜に来た中野に言われ、山下は引き返した。隆志たちはロビーの自動販売機で缶コーヒーを買って飲みながら、彼を待った。
「あれ、中野は?」
いつの間にか、中野がいなくなっていた。
「今さっきまでそこにいたけど」
隆志は嫌な既視観を覚えた。
悲鳴と怒鳴り声が聞こえてきたのはその時だった。
騒ぎが起こっているのは綾香の通夜が行われている部屋だった。
コーヒーを放り出して隆志たちは悲鳴の方へ走る。
部屋に飛び込んだ隆志たちの目に入ってきたのは。
誰かに馬乗りになられてナイフで刺されている山下だった。
「何やってんだっ! やめろっ!」
隆志の怒鳴り声に振り向いたそいつは、中野だった。
山下の返り血を浴びた顔を、ゆっくり歪めて――笑った。
「……綾香さんの敵討ちなんだよ」
中野はもう一度ナイフを山下に振り下ろす。
ナイフを刺されても山下はピクリともしなかった。手足はだらしなく投げ出され、目にはもう光がない。
「綾香さんが死んだのはこいつのせいだよ。こいつが綾香さんを何か怒らせるようなことを言ったから、綾香さんは途中で帰って事故に遭ったんだ。――こいつが殺したのも同じだっ! こいつがっ! こいつがっ!」
普段仲間内でも影が薄く大人しい中野の、異常な情動の激しさにみんな息を呑んで立ち尽くす。誰もが彼の豹変ぶりとその理由を納得しかねていた。
中野が綾香に思いを寄せていたとは知らなかった。ましてここまで思い詰めるほど執心しているようには見えなかった。
――人の心はどうやっても見えないものなんです
明子の言う通りだ。何故か笑い出したくなる。
「中野……もう、やめろ」
隆志は中野を刺激しないように、そっと前に出る。後ろで誰かが救急車を呼んでいるのが聞こえ、もう無駄だと思ってしまった自分に嫌気がさした。
「中野、落ち着け。ナイフを捨てろよ。な、捨てろ」
中野はゆるりと首を振り、血で汚れた手の中にあるナイフを握りなおす。
にいっと笑って。
中野は自分の首を一気に掻き切った。
今日も雨だ。
今日も通夜だ。
今日も葬儀だ。
山下の葬儀に続いて中野の葬儀に参列した隆志は、家に戻ると湿っぽい自分の部屋の畳に寝転がり目を閉じた。
心身ともに限界を超えた疲れで、着替えるのもおっくうだった。
クリーニングに出す暇もなく立て続けに着た喪服は、線香の臭いが染み付いている。
春先から何度も嗅いだその臭いは不幸の証。
なかなか来ない救急車。警察の事情聴取。どこかで傘を失くした。悲鳴。悲鳴。悲鳴。雨に湿気った喪服。返り血に染まった綾香の棺。放り出した缶コーヒー。太田が迎えに来てくれたのは、病院だったのか、葬儀場だったのか。
記憶が――狂っている。時間の経過通りに思い出せない。
いっそのこと、きれいさっぱり抜け落ちてくれればいいのに、断片がやけにリアルに頭に焼き付いて離れなかった。
そのまま少し眠ってしまったらしい。
夢を見た。
綾香が世久の屋敷にいた。長い廊下を歩いて、与姫の部屋へ辿りつく。退屈そうに部屋を見回した彼女は、床の間のままごと道具に目をやった。
いけない。それに触ってはいけない。
しかし綾香はぞんざいな手つきでそれらを品定めすると、気が済んだのか荒らしたまま部屋を出た。
部屋を出る綾香を、与姫が見つめている。
その、冷え冷えとする目。
場所は変わって、病院の薄暗い廊下。
綾香の死を知らされた隆志達の後ろで、中野が力なく崩れるように床に座り込んだ。
彼の背中に赤い着物の少女が現われた。
与姫だ。
与姫が何かを囁くように中野の耳元に口を寄せる。
何を……何を言おうとしている?
中野に何を吹き込もうとしているんだ!
思わず声を上げそうになった時。
明子に起こされた。友達が来ているという。
玄関に行くと、喪服のままの細川が立っていた。
「……隆志、これを」
何の用かと問う前に、細川が白い封筒を隆志に押し付けた。
「僕の分だけじゃない。中山と藤原と三浦と菊池の分も入ってる」
「何なんだよ、これは」
「今まで、僕らが隆志にたかってた分の金だよ」
隆志は顔をしかめて封筒を突き返そうとしたが、一瞬早く細川が身を引いた。
「もちろん全額じゃない。でも、僕らはまだ学生で、それが今すぐ返せる精一杯の金額なんだ。だから――それで勘弁してくださいっ!」
彼は機械仕掛けの人形のように腰を折る。
分からない。何故急にこんなことを。
「じゃ、確かに返したから」
細川は俯いたまま、後ずさりした。
「待てよ。訳分かんないよ。何でこんな」
玄関に下りようとした隆志から逃げるように、
「もう、僕らに声をかけないでくれ」
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