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23 光明
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知らないうちに梅雨は明け、田の稲が青々とそよぐ夏になっていた。
教習所の帰り、その青田の中の道を通って隆志は永麓寺へ向かう。そして詩織と小一時間話して帰るのが、最近の隆志の日課だった。
詩織と会うのを薦めたのは、真道だった。
「詩織とお会いになって、詩織が怖がるようなら、世久家の業がまた強く取り巻き始めたということ。そうなれば愚息に祓わせましょう。これも将来寺を継ぐ身ですから、修行のひとつとして」
それを聞いて、拓司はおもいきり嫌な顔をした。
「俺は寺は継がないって言ってるだろ!」
それでも『祓い』の方は承知してくれた。
「さっきも言ったように元凶を祓うのは無理だけど、あんたの周りの濁り程度ならな。その場しのぎみたいなものだけど、このままだったらあんたが『殺される』かもしれないって分かってて、何もしないわけにはいかないだろう」
ありがたい話だが、いつまでも彼の善意には甘えられなかった。
寺を継がないという拓司は大学を卒業すれば某かの職に就き、仕事のため他の土地へ行く可能性がある。いくら何でも自分の都合のために、彼を傍に縛り付けることはできないし、したくない。
だからといって世久の業で悲惨な死を迎えたくはなかった。
この運命から逃れる方法を、拓司が大学を卒業するまでにどうやっても見つけなくてはならなかった。
拓司は蓮池市にある大学に通っているのでほとんど留守だったが、詩織はいつ訪ねていっても必ずいた。
学校に行っている様子がないのを不思議に思い聞いてみると、詩織は隣町の中学二年生だが、去年の年末頃から登校拒否していると困ったように笑った。
彼女には人に見えないものが視え、聞こえる。ものごころついた時からあったその力が、中学生になって急に強くなってきて、ある日、担任の背中に彼が捨てた恋人の生霊が取り付いているのが視えたそうだ。
「嫌だからできるだけ視ないようにしてたんだけど……一度偶然、その女の人と目が合ったの。そしたら私に、自分がこの男にどんなことを言われてどんなことされたかって恨み言を言うようになって、その内『こんなに私が苦しんでるのにどうして助けてくれないのか』って恨みを向けるようになって、怖くて」
それ以来学校に行けなくなってしまった詩織を、真道の妹である母が真道の寺へ預けたのだそうだ。
「でも、寺なんてかえってまずくない? 余計、変なものが視えるんじゃ……」
「大丈夫。伯父さんと拓司兄さんがいるもの」
拓司は『祓う』だけだが、真道は『鎮める』力もあるのだそうだ。おかげでこの寺には悪しきものは一つもなく、詩織の母もそれが分かっていて、詩織を寺に行かせたらしい。
「今、私も修行中なの。視えるものを視えなくすることはできないけど、視えても動揺しないようになることと、害になりそうなものは祓えるようになることの二つを」
でも、と詩織は俯いた。
「もっとね、この力が強かったらよかったのにって、今は思う。そうしたら、どうして隆志兄さんのお母さんがあんなに一生懸命叫んでいるのか、分かるはずだから」
近頃、詩織は隆志を「隆志兄さん」と呼ぶ。一人っ子で兄弟のいなかった隆志には、かわいい妹ができたような気分だった。
「いや、今でも十分だよ。だって、詩織ちゃんのおかげで、危うくヤク中にされるところを拓司に助けてもらえたんだし」
「……あのね、隆志兄さん」
ふいに詩織が大きな目で見つめてきた。
「私、ずっと考えてたんだけど……世久家にいる神様って、元は本当に守り神様だったんでしょう。だったらいつから祟り神になったの?」
詩織は、与姫が拓司たちの言う通り祟り神であっても、世久家の伝説を考えれば元は守り神だったはずだという。なら、どこで歪んでしまったのか。その分岐点は、世久家の歴史の中にあるのではないか、と。
「理由が分かれば、神様に自ら帰ってもらえるようにする方法も分かるんじゃない?」
祟り神がいなくなれば、世久家の業からも逃れられるかもしれない。
詩織の言葉は隆志に一筋の光をもたらした。
家を継いで当主となったというのに、隆志は世久家の歴史を殆ど知らなかった。
まずはそれを勉強しようと隆志は朝から図書館に行き、郷土史を読み漁った。が、肝心の世久家の守り神の伝説については、隆志が昔父から聞いた話がおとぎ話として書かれているばかりだった。
しかし図書館の帰り、高校生の集団とすれ違って隆志はひらめいた。
お披露目会に来ていた、高校の校長。たしか彼は郷土史に興味があるという話をしていた。ならば、世久家の歴史を研究しているような人とも交流があるのではないか。
早速校長に電話して聞いてみると、当たりだった。知り合いに野田という世久家の歴史に詳しいアマチュアの郷土史家がいるという。
隆志はその人を紹介してもらえないか頼んだ。ただし、自分が世久家の当主であるのを伏せて。そうでないと、相手が気を遣って世久家に都合の悪いことは聞かせてくれないおそれがあったからだ。
校長は快く引き受けてくれ、明日の午後の面会の約束まで取り付けてくれた。
隆志のことは郷土史に興味のある大学生と紹介してくれた。
家に戻ると明子が困った顔でやってきた。
「隆志様……あの、今さっき、龍彦さんがいらっしゃいまして」
これまでも何度も訪問や電話があったと言う。そう言えば幾度か龍彦から電話があったと聞いた気がするが、興味もなく今まですっかり忘れていた。
「どうしても隆志さんにお会いして話したいことがあると。だから、明日の午後、なんとしても家にいてもらえないかと」
どうせ会社への出資の話だろう。聞きたくもないし、それどころじゃない。
「何か、いつもとは違うご様子で」
心配げな顔をする明子に、
「あの人はいつも大げさと言うか、芝居がかった感じじゃないか」
隆志は軽く笑い返す。
「心配いらないから、もしまた龍彦さんから電話があったり、家へ来たりしたら、太田さんの方へ電話して話を伝えておいてくださいって言っておいて」
明子は困惑顔で頷いた。
「あの、それから、太田さんが」
「悪いけど、これから急いでやることがあるんだ」
図書館から借りてきた郷土史をもう一度きちんと読み直して、しきたりの書と照らし合わせ、明日郷土史家を訪ねた際に聞きたい質問をまとめておきたかった。
「どうしても急ぐ用件じゃないなら、二、三日後にして欲しいって言っといて」
それでも更に明子が何か言いかけたが、明日のことで頭が一杯だった隆志はそれに気がつかず、自室に戻って行った。
次の日、隆志が明子と顔を合わせたのは午後、出かける時間近くになってからだった。
昨夜は遅くまで郷土史を読んでいて起きるのが遅くなり、明子に用意してもらっていた昼食もゆっくり食べる時間はなかった。
「隆志様、お急ぎの所申し訳ありませんが、太田さんから言付けがありまして」
時計を横目に見ながら急いで食事を取る隆志に、申し訳なさそうに明子が告げた。
「太田さんが私の雇用契約に関することで確認したいことがあるので、早めに御連絡くださいとのことです」
「明子さんの? 何だろう。明子さんは何か思い当たる事がある?」
「私は九月で六十歳になります。今の契約では定年で退職となりますので、そのことについてかと」
「あ、そうなんだ……」
明子が定年で辞めたいと言うなら仕方ないが、隆志としては子供のころからずっとこの家にいてくれた人がいなくなるのは寂しかった。
しかも自分より家のことに詳しく頼りになる人である。血のつながりはないが、肉親の縁が薄い隆志には明子は家族同然で、この家にいてくれるのは心強いことだった。
それに祖母のためにも、まだいて欲しかった。
隆志は就職によって独立しても自分一人で暮らせるくらいの家事はできるように、一通り亡き母に仕込まれていて、料理もできるし洗濯もできる。が、祖母の食事などの世話まではできそうにない。
今時住み込みという条件での家政婦捜しは難しいので、通いで良いと条件を変更したとしても、世久の家について嫌な噂が出回っている今、代わりの家政婦がすぐ見つかるとは思えなかった。
それに、神の居る世久の家には他の家とは違う独自のルール(例えば与姫の部屋の掃除の際は、部屋の入り口でその旨を奏してから行なう、とか)があるため、できれば明子の代わりとなれる人が見つかり、引き継ぎが全てできるまではいて欲しかった。
そんな隆志の気持ちを知ってか知らずか、
「もし隆志様が契約期間を延ばしてくださるなら、まだここで働かせて頂きたいと思っております」
正に隆志がそうして欲しいと思っていた答えを明子は言ってくれた。
隆志は単純に喜んで礼を言おうとしたが、
「……辞めても行くところはないですから」
明子が俯きがちに付け加えた言葉に遮られた。
明子は住み込みで働いているので、辞めるなら新たに住まいを探さなければならない。親族とは没交渉なので、家を借りる際の保証人にも困るのだという。
それは今であろうと契約を伸ばした数年後であろうと同じだろう。
隆志は自分の都合ばかりを考えたことを恥じ、反省した。
本当はもう働くのがしんどくて辞めたいなら、正直にそう言って欲しい。長年住み込みで勤めてもらった礼に、退職後安心して暮らせるくらいの退職金と住居を用意してあげることぐらい、今の自分にはできるのだから。
隆志がそう返事を返そうとしたとき、明子のエプロンのポケットに入れてあったスマホから着信音が流れた。
電話を取ろうか隆志との話を続けようか迷う表情の明子に、隆志は電話に出るよう促した。
自分ももう出かけなければならない時間になっていたので、
「ごめん。もう行かなきゃ。話は帰ってからにするよ」
カバンを掴んで玄関へ向かった。
隆志が自転車で家を出ると、タイミングが悪いことに門のところで龍彦に出会った。
彼は派手な外車から慌てて降りてきて、隆志の前に立ちはだかった。
「隆志君、何度も家に電話したんだよ。留守電にもメッセージを入れたんだが全く返事が来ないから、今さっき明子に君が家にいるか電話したんだ。出かけたって言われて出直そうと思ってたんだが、会えて良かった」
さっきの明子のスマホの着信はこの人だったのか。
隆志が金目当ての妙な人間に関わらないよう、家の固定電話は太田の助言で留守電にしている。隆志が電話を取るのも禁止されていた。留守電に録音されている内容は太田が聞き、彼の判断で隆志には不必要とされたものは消去されているらしかった。
多分、今まで龍彦が固定電話へかけてきた電話は全部無視されたのだろう。どこで電話番号を調べたのか隆志のスマホへも度々かけてきていたが、それも放っておいた。だから今度は明子個人の携帯へかけてきたのだ。
「君に大事な相談があるんだ」
「すみませんけど、僕はこれから人と会う約束があるんです。もう行かないと」
しかし龍彦は自転車のハンドルを掴んで邪魔した。
「なあ、頼むよ。少しだけでいいから話を」
「会社への出資のお話ならお断りします」
隆志はいい加減嫌になって、きっぱり告げた。が、
「隆志君、頼む。この通りだ」
驚いたことに彼はその場で土下座した。
「五百万。いや、三百万でいいんだ。何とか」
彼が切羽詰っているのはそれだけで分かった。そうでなければ、この格好つけの男が土下座なんてするわけがない。
「無理です」
隆志はわざと冷たく言い捨てた。
ここで安易に助ければ、この男は際限なく世久家の金を当てにする。そうなれば、いつか必ず与姫の罰が下るのだ。
頭を上げない龍彦を残して、隆志は自転車を走らせその場を去った。
あえて一度も振り返らなかった。
教習所の帰り、その青田の中の道を通って隆志は永麓寺へ向かう。そして詩織と小一時間話して帰るのが、最近の隆志の日課だった。
詩織と会うのを薦めたのは、真道だった。
「詩織とお会いになって、詩織が怖がるようなら、世久家の業がまた強く取り巻き始めたということ。そうなれば愚息に祓わせましょう。これも将来寺を継ぐ身ですから、修行のひとつとして」
それを聞いて、拓司はおもいきり嫌な顔をした。
「俺は寺は継がないって言ってるだろ!」
それでも『祓い』の方は承知してくれた。
「さっきも言ったように元凶を祓うのは無理だけど、あんたの周りの濁り程度ならな。その場しのぎみたいなものだけど、このままだったらあんたが『殺される』かもしれないって分かってて、何もしないわけにはいかないだろう」
ありがたい話だが、いつまでも彼の善意には甘えられなかった。
寺を継がないという拓司は大学を卒業すれば某かの職に就き、仕事のため他の土地へ行く可能性がある。いくら何でも自分の都合のために、彼を傍に縛り付けることはできないし、したくない。
だからといって世久の業で悲惨な死を迎えたくはなかった。
この運命から逃れる方法を、拓司が大学を卒業するまでにどうやっても見つけなくてはならなかった。
拓司は蓮池市にある大学に通っているのでほとんど留守だったが、詩織はいつ訪ねていっても必ずいた。
学校に行っている様子がないのを不思議に思い聞いてみると、詩織は隣町の中学二年生だが、去年の年末頃から登校拒否していると困ったように笑った。
彼女には人に見えないものが視え、聞こえる。ものごころついた時からあったその力が、中学生になって急に強くなってきて、ある日、担任の背中に彼が捨てた恋人の生霊が取り付いているのが視えたそうだ。
「嫌だからできるだけ視ないようにしてたんだけど……一度偶然、その女の人と目が合ったの。そしたら私に、自分がこの男にどんなことを言われてどんなことされたかって恨み言を言うようになって、その内『こんなに私が苦しんでるのにどうして助けてくれないのか』って恨みを向けるようになって、怖くて」
それ以来学校に行けなくなってしまった詩織を、真道の妹である母が真道の寺へ預けたのだそうだ。
「でも、寺なんてかえってまずくない? 余計、変なものが視えるんじゃ……」
「大丈夫。伯父さんと拓司兄さんがいるもの」
拓司は『祓う』だけだが、真道は『鎮める』力もあるのだそうだ。おかげでこの寺には悪しきものは一つもなく、詩織の母もそれが分かっていて、詩織を寺に行かせたらしい。
「今、私も修行中なの。視えるものを視えなくすることはできないけど、視えても動揺しないようになることと、害になりそうなものは祓えるようになることの二つを」
でも、と詩織は俯いた。
「もっとね、この力が強かったらよかったのにって、今は思う。そうしたら、どうして隆志兄さんのお母さんがあんなに一生懸命叫んでいるのか、分かるはずだから」
近頃、詩織は隆志を「隆志兄さん」と呼ぶ。一人っ子で兄弟のいなかった隆志には、かわいい妹ができたような気分だった。
「いや、今でも十分だよ。だって、詩織ちゃんのおかげで、危うくヤク中にされるところを拓司に助けてもらえたんだし」
「……あのね、隆志兄さん」
ふいに詩織が大きな目で見つめてきた。
「私、ずっと考えてたんだけど……世久家にいる神様って、元は本当に守り神様だったんでしょう。だったらいつから祟り神になったの?」
詩織は、与姫が拓司たちの言う通り祟り神であっても、世久家の伝説を考えれば元は守り神だったはずだという。なら、どこで歪んでしまったのか。その分岐点は、世久家の歴史の中にあるのではないか、と。
「理由が分かれば、神様に自ら帰ってもらえるようにする方法も分かるんじゃない?」
祟り神がいなくなれば、世久家の業からも逃れられるかもしれない。
詩織の言葉は隆志に一筋の光をもたらした。
家を継いで当主となったというのに、隆志は世久家の歴史を殆ど知らなかった。
まずはそれを勉強しようと隆志は朝から図書館に行き、郷土史を読み漁った。が、肝心の世久家の守り神の伝説については、隆志が昔父から聞いた話がおとぎ話として書かれているばかりだった。
しかし図書館の帰り、高校生の集団とすれ違って隆志はひらめいた。
お披露目会に来ていた、高校の校長。たしか彼は郷土史に興味があるという話をしていた。ならば、世久家の歴史を研究しているような人とも交流があるのではないか。
早速校長に電話して聞いてみると、当たりだった。知り合いに野田という世久家の歴史に詳しいアマチュアの郷土史家がいるという。
隆志はその人を紹介してもらえないか頼んだ。ただし、自分が世久家の当主であるのを伏せて。そうでないと、相手が気を遣って世久家に都合の悪いことは聞かせてくれないおそれがあったからだ。
校長は快く引き受けてくれ、明日の午後の面会の約束まで取り付けてくれた。
隆志のことは郷土史に興味のある大学生と紹介してくれた。
家に戻ると明子が困った顔でやってきた。
「隆志様……あの、今さっき、龍彦さんがいらっしゃいまして」
これまでも何度も訪問や電話があったと言う。そう言えば幾度か龍彦から電話があったと聞いた気がするが、興味もなく今まですっかり忘れていた。
「どうしても隆志さんにお会いして話したいことがあると。だから、明日の午後、なんとしても家にいてもらえないかと」
どうせ会社への出資の話だろう。聞きたくもないし、それどころじゃない。
「何か、いつもとは違うご様子で」
心配げな顔をする明子に、
「あの人はいつも大げさと言うか、芝居がかった感じじゃないか」
隆志は軽く笑い返す。
「心配いらないから、もしまた龍彦さんから電話があったり、家へ来たりしたら、太田さんの方へ電話して話を伝えておいてくださいって言っておいて」
明子は困惑顔で頷いた。
「あの、それから、太田さんが」
「悪いけど、これから急いでやることがあるんだ」
図書館から借りてきた郷土史をもう一度きちんと読み直して、しきたりの書と照らし合わせ、明日郷土史家を訪ねた際に聞きたい質問をまとめておきたかった。
「どうしても急ぐ用件じゃないなら、二、三日後にして欲しいって言っといて」
それでも更に明子が何か言いかけたが、明日のことで頭が一杯だった隆志はそれに気がつかず、自室に戻って行った。
次の日、隆志が明子と顔を合わせたのは午後、出かける時間近くになってからだった。
昨夜は遅くまで郷土史を読んでいて起きるのが遅くなり、明子に用意してもらっていた昼食もゆっくり食べる時間はなかった。
「隆志様、お急ぎの所申し訳ありませんが、太田さんから言付けがありまして」
時計を横目に見ながら急いで食事を取る隆志に、申し訳なさそうに明子が告げた。
「太田さんが私の雇用契約に関することで確認したいことがあるので、早めに御連絡くださいとのことです」
「明子さんの? 何だろう。明子さんは何か思い当たる事がある?」
「私は九月で六十歳になります。今の契約では定年で退職となりますので、そのことについてかと」
「あ、そうなんだ……」
明子が定年で辞めたいと言うなら仕方ないが、隆志としては子供のころからずっとこの家にいてくれた人がいなくなるのは寂しかった。
しかも自分より家のことに詳しく頼りになる人である。血のつながりはないが、肉親の縁が薄い隆志には明子は家族同然で、この家にいてくれるのは心強いことだった。
それに祖母のためにも、まだいて欲しかった。
隆志は就職によって独立しても自分一人で暮らせるくらいの家事はできるように、一通り亡き母に仕込まれていて、料理もできるし洗濯もできる。が、祖母の食事などの世話まではできそうにない。
今時住み込みという条件での家政婦捜しは難しいので、通いで良いと条件を変更したとしても、世久の家について嫌な噂が出回っている今、代わりの家政婦がすぐ見つかるとは思えなかった。
それに、神の居る世久の家には他の家とは違う独自のルール(例えば与姫の部屋の掃除の際は、部屋の入り口でその旨を奏してから行なう、とか)があるため、できれば明子の代わりとなれる人が見つかり、引き継ぎが全てできるまではいて欲しかった。
そんな隆志の気持ちを知ってか知らずか、
「もし隆志様が契約期間を延ばしてくださるなら、まだここで働かせて頂きたいと思っております」
正に隆志がそうして欲しいと思っていた答えを明子は言ってくれた。
隆志は単純に喜んで礼を言おうとしたが、
「……辞めても行くところはないですから」
明子が俯きがちに付け加えた言葉に遮られた。
明子は住み込みで働いているので、辞めるなら新たに住まいを探さなければならない。親族とは没交渉なので、家を借りる際の保証人にも困るのだという。
それは今であろうと契約を伸ばした数年後であろうと同じだろう。
隆志は自分の都合ばかりを考えたことを恥じ、反省した。
本当はもう働くのがしんどくて辞めたいなら、正直にそう言って欲しい。長年住み込みで勤めてもらった礼に、退職後安心して暮らせるくらいの退職金と住居を用意してあげることぐらい、今の自分にはできるのだから。
隆志がそう返事を返そうとしたとき、明子のエプロンのポケットに入れてあったスマホから着信音が流れた。
電話を取ろうか隆志との話を続けようか迷う表情の明子に、隆志は電話に出るよう促した。
自分ももう出かけなければならない時間になっていたので、
「ごめん。もう行かなきゃ。話は帰ってからにするよ」
カバンを掴んで玄関へ向かった。
隆志が自転車で家を出ると、タイミングが悪いことに門のところで龍彦に出会った。
彼は派手な外車から慌てて降りてきて、隆志の前に立ちはだかった。
「隆志君、何度も家に電話したんだよ。留守電にもメッセージを入れたんだが全く返事が来ないから、今さっき明子に君が家にいるか電話したんだ。出かけたって言われて出直そうと思ってたんだが、会えて良かった」
さっきの明子のスマホの着信はこの人だったのか。
隆志が金目当ての妙な人間に関わらないよう、家の固定電話は太田の助言で留守電にしている。隆志が電話を取るのも禁止されていた。留守電に録音されている内容は太田が聞き、彼の判断で隆志には不必要とされたものは消去されているらしかった。
多分、今まで龍彦が固定電話へかけてきた電話は全部無視されたのだろう。どこで電話番号を調べたのか隆志のスマホへも度々かけてきていたが、それも放っておいた。だから今度は明子個人の携帯へかけてきたのだ。
「君に大事な相談があるんだ」
「すみませんけど、僕はこれから人と会う約束があるんです。もう行かないと」
しかし龍彦は自転車のハンドルを掴んで邪魔した。
「なあ、頼むよ。少しだけでいいから話を」
「会社への出資のお話ならお断りします」
隆志はいい加減嫌になって、きっぱり告げた。が、
「隆志君、頼む。この通りだ」
驚いたことに彼はその場で土下座した。
「五百万。いや、三百万でいいんだ。何とか」
彼が切羽詰っているのはそれだけで分かった。そうでなければ、この格好つけの男が土下座なんてするわけがない。
「無理です」
隆志はわざと冷たく言い捨てた。
ここで安易に助ければ、この男は際限なく世久家の金を当てにする。そうなれば、いつか必ず与姫の罰が下るのだ。
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