鳥を愛した人 樹を愛した人

千年砂漠

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合歓の木

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 夏の時期、田舎住みの私の家の近くの山には、柔らかなピンク色の刷毛のような形の花をつけた木が見える。
 美智子皇后陛下が作詞された子守唄にも唄われた合歓の木だ。
 合歓の木は夜になるとゆっくりと葉を閉じることから「眠りの木」が転訛して、ネムノキになったと言う説がある。
 緑が濃くなった夏山に優しい彩りを添える花の木だ。

 その合歓の木をとても好きな方が、私が勤めるカフェレストランの常連客の中にいた。
 当店と取引のある食品会社の元社長さんで、仮のお名前は「宮城さん」とする。
 合歓の木学園を設立し障害者福祉に尽力された、宮城まり子さんの名字をお借りした。

 カフェレストランが開店10周年を迎えた時、オーナーシェフが従業員と出入り業者の代表者を招いて、ささやかなお祝いパーティーを開いた。
 そのパーティーの招待客の中に、当時はまだ社長を務めておられた宮城さんもいた。
 宮城さんも松井さんと同じように人と話をするのが大好きな方だった。
 にこやかに各テーブルを回って、楽しくお話をされておられた。
 そして私の席のテーブルにいらっしゃった時、自宅に植えてある合歓の木の、少し不思議な話を聞かせてくださった。
 
 宮城さんは昔で言う庄屋家のお生まれだ。持っている農地も広く、所謂豪農で、生活も豊かだった。
 そんな家の長男として生まれれば、ある程度人生の幸せを約束されたようなものだが、世の中はそう上手くは行かない。
 宮城さんが五歳の頃、両親が離婚してしまった。離婚、というより追い出されたと言って良い。
 宮城さんの母は身体が弱く、農家に嫁いだもののよく扁桃腺を腫らして寝込むため農業の仕事があまり出来ず、義両親から気に入られなかった。その上宮城さんを産んでから後、中々次の子供が出来ない。夫も事ある毎に両親から妻の悪口を聞かされるせいか冷たく、夫婦仲も悪くなっていった。
 気に入らない嫁が産んだ子供だから可愛くなかったのか、宮城さんはこの祖父母に優しい言葉をかけてもらった記憶がないそうだ。
 そしてある日突然、宮城さんの母は舅から子供を連れて実家に帰るよう言われた。
 ――お前は役立たずやから、飯を食わすだけ無駄でもったいない
 後で知ったが、その時にはもう父に別の女性が後添えで来ることが決まっていたらしい。
 犬でも追い払うように、宮城さんと母はその家を追われたという。

 母は実家に戻り、とある食堂の洗い場で働きながら宮城さんを育てた。
 実家は母の兄夫婦が同居していて、宮城さん親子は家の離れ、というか物置小屋を改造したところで肩身狭く暮らしていたが、宮城さんが十歳の時、母がその食堂に客で来ていた男性と再婚した。
 宮城さんは実の父があまり可愛がってくれなかったので、父となった男性もそんな冷たい人ではないかと警戒していたそうだが、その人は宮城さんの予想を裏切り、とても可愛がってくれた。
 キャッチボールをしたのも、肩車をしてくれたのも、この義理の父が初めてだった。いつも大きな口を開けて笑い、宮城さんが悪さをすればきちんと叱り、良いことをしたらこちらが恥ずかしくなるほど褒めてくれた。

 義父は小さいながら食品会社を営んでいて、宮城さんの母と結婚して半年ほど後に家を買い、そこで三人で暮らすことになった。
 その家の庭に、義父が合歓の木を一本植えた。合歓の木は母が好きな木だった。
 母は義父にとても大事にされ、母も義父を大事にして仲むつまじく、結婚後僅か三年で宮城さんに弟と妹ができた。
 賑やかで、温かい家庭だった。母はいつも穏やかに笑い、兄弟も仲良く育った。それは全部義父のおかげだと日々感謝していた。
 義父は合歓の木に似ている、と宮城さんはずっと思っていた。
 柔らかで明るい花の色や悲しみや苦しみから庇ってくれるような形の葉が、義父に似ている、と。
 宮城さんは成人したらその合歓の木のような義父の会社を手伝い、恩返しするつもりだった。

 ところが、宮城さんが十九歳の時、義父は会社で倒れ、病院に運ばれる間もなく急死した。
 母はショックで寝込み、弟妹はまだ幼い。
 宮城さんは周りを頼りながら何とか喪主を務め葬儀は出来たが、まだ会社をどうするかの問題が残っていた。
 大学に入ったばかりだった宮城さんは今後のことについて相当に悩んだ。悩んで、悩んで、悩み抜いて、そして決めた。
 宮城さんは当時の専務など会社の主だった人達に頭を下げて頼んだ。
 ――僕をこの会社が経営できる人間に育ててください。なんでもやります。父の会社を継ぎたいんです
 大学をスッパリ辞めて、宮城さんは会社の床掃除、お茶くみから始め、社員に仕事を教えてもらいながら経営についても学んでいった。
 義父が亡くなった時点で会社を誰かに売り渡すことも出来た。しかし、宮城さんは絶対それをしたくなかった。
 実は宮城さんは自分が会社を継ぐのではなく、弟が成長して会社を継げるまで守るつもりだったのだ。
 義父と自分は血のつながりはない。だから会社は実子の弟が継ぐべきだ。義父もきっとそっちの方が喜ぶ。
 その思いで、宮城さんは頑張り続けた。
 辛いことも多々あったが、家の庭にある合歓の木を見る度に心が慰められた。
 合歓の木が義父の代わりに自分を見守ってくれているような気がした。 
 宮城さんの地道な努力は周りに徐々に認められ、三十歳になる頃には名実ともに『社長』となった。
 そして弟が大学生になったある日、本当の気持ちを打ち明けた。
「お前が大きくなるまで会社は守った。大学を卒業したらお前が社長になれ。仕事に慣れるまでは僕が補佐するから」
 ようやく弟にそう言ってやれる時が来た嬉しさにニコニコ笑う宮城さんに、
「――何言ってるんだ!」
 弟は目を見開き、怒鳴り声を上げた。
「ふざけんな! あれは兄ちゃんの会社だ! 兄ちゃんが頑張って仕事してきた、兄ちゃんの会社だ! 俺がもらえるものじゃない!」
 宮城さんは驚き、慌てた。弟が喜んでくれるとしか考えておらず、断られるとは微塵も想像していなかった。
「いや、元は義父さんの会社じゃないか。僕は義父さんと血のつながりはない。会社を継ぐのは実子のお前の方が――」
 そう言いかけてた宮城さんは、弟に殴られた。
 優しい歳の離れた弟と喧嘩したことは今まで一度もない。それが今、弟は本気で怒っていた。
「何だよ、それ。兄ちゃんはそんなこと思ってたのか」
 弟はボロボロと涙を流した。
「俺は一度だって、兄ちゃんと血が片方だけしか繋がってないなんて考えたことない。兄ちゃんは兄ちゃんだ。会社は兄ちゃんが守ってきた会社だ。あれは兄ちゃんの会社だ。俺のじゃない」
 泣いて訴える弟を前に、宮城さんもまた泣いた。
 二人して一頻り泣いた後、弟が照れ隠しのように笑って言った。
「兄ちゃん、俺の心配より自分の心配しなよ。あんまり待たせると彼女も逃げるよ」
 当時宮城さんには付き合っている女性がいたのだが、「弟に会社を譲るまで結婚は待ってくれ」と言っていたのだ。
 弟と妹に後押しされて、宮城さんはその年に彼女と結婚した。
 結婚して彼女は義父の買った家に入ってくれて、弟や妹が独立した後も、母との同居を続けてくれた。
 身体の弱い母の面倒をこまめに見てくれた奥さんに、今も頭が上がらないそうだ。

 弟は大学を卒業後、宮城さんの会社に入り、新しい商品開発に力を尽くしてくれた。
 そして宮城さんが六十歳を区切りに社長を引退し、その時ようやく弟に会社を譲れたのだった。

 地方都市であっても、バブル期にはどこの会社も景気が良かった。
 宮城さんの会社も、その時期は笑いが止まらなかったそうだ。
 融資も簡単に受けられたため、古くなっていた食品加工の工場も建て替えて品を増産し、販売ルートも広げた。

 しかしバブルが弾けると、さっぱり品が売れなくなった。広げた販売ルートもほぼ打ち切られ、残ったのは義父の代からの付き合いが続くところだけだった。
 当然会社の経営は苦しくなる。が、工場で使っている冷蔵庫が壊れてどうしても新しい物を購入しなければならなくなり、取引銀行を拝み倒して資金を借りた。
 悪いときには悪いことが重なる。
 ひと月の間に母親が心臓発作で倒れ、妹がひき逃げに遭い入院した。
 そして、極めつけに詐欺に遭ったのだ。
 所謂、投資詐欺である。
 宮城さんが義父の会社を継ごうと奮闘している頃から何かと目をかけて手助けしてくれた同業の社長から持ってこられた投資話を断れず、一千万円ほど投資に回した。バブル期の、会社が資金に困ってない頃の事だったが、それが回収不可能になったのだ。
 全国規模での詐欺だったので、被害者の会には参加したが、返金については正直あまり助けにはならなかった。
 業務用冷蔵庫で借金の上に会社の運営資金一千万の損失の穴は大きかった。もうこれ以上悪いことは起きないと思っていたのに、追い打ちが来た。
 件の社長が自殺したのだ。
 兄のように慕っていた人の遺書には『宮城さんを詐欺被害に巻き込んで済まないことをした』と詫びが書いてあり、宮城さんは通夜の席で号泣した。

 自殺した社長の葬儀を終えて家に戻ると、宮城さんは庭に周り、合歓の木の下に座り込んだ。
 銀行の借金の担保に、この家の土地と建物を当てている。
 会社の業績は思わしくなく、借金も返せない。その内この家を銀行に取られて、家族はこの家を出て行かなければならなくなってしまうだろう。
 未だ入院中の母を思う。辛かった最初の結婚で傷ついた自分を大事にしてくれた人の思い出の家がなくなると知ったら、さぞ悲しむだろう。
 母が好きだからと合歓の木を植えてくれた義父を思う。一生懸命働いた会社をこんな風にしてしまって、申し訳なくて今死んでも合わせる顔がない。
 夕暮れの迫る庭で、宮城さんは幹をを撫でながら、合歓の木に語りかけた。
「すまん。すまんな。この家が差し押さえられたら、お前をこの家に置き去りにすることになる。お前は大きいから他のところへは一緒に連れて行ってやれんのだよ。本当にすまん。母さんも僕もお前がこんなに好きなのにな」
 宮城さんは何度も合歓の木に謝った。
 次にこの家に住む人がこの合歓の木を大事にしてくれることを祈るしかなかった。

 その約ひと月後のことだ。
 借金返済の算段にかけずり回り、疲れ切って家に帰って来た宮城さんを、奥さんが「お帰り」も言わずいきなり宮城さんの腕を引っ張って寝室に引きずり込んだ。
 そして、震える声でひと言。
「当った」
 何のことか分からず、呆然とする宮城さんに、奥さんはベッドのマットレスの下から新聞紙を取り出し、開いて見せた。
 新聞の間には宝くじが挟まれていた。
「あ、あ、あ、ったたの。二等」
 ここでようやく宮城さんは奥さんが言う事を理解した。
「本当か!」
 宮城さんが半ば叫ぶように問うと、奥さんは新聞の当選番号の記事を指差した。
 夫婦で何度も見比べ、確かめた。確かに今ここにある宝くじの番号は二等の当選番号だった。

 結果を言うと、その当選金で会社は持ち直した。
 不思議なのは奥さんは普段宝くじを買う人ではないのに、その時だけ連番で十枚だけ買っていたことだ。
 宝くじを買う前夜、奥さんは夢を見たのだそうだ。
 庭の合歓の木が季節でもないのに花を一杯咲かせて、風に吹かれて一方方向に揺れていた。
 その揺れている先に、どこかで見た店がある。どこの店だったか思い出せないまま目が覚めた。
 その店が何の店か分かったのは、宮城さんの母の様子を見に病院に行った帰りだった。病院を出て、電車に乗るため駅へ向かって歩いていて、気がついた。通り道の小さな交差点にある煙草屋の店だった。
 宮城さんの家は誰も煙草を吸わないので煙草屋には用がないため素通りする店だった。が、その店で宝くじを売っていたのだ。しかもその日が販売の最終日。
 奥さんは何かに背中を押されるように、十枚の宝くじを買った。それをタンスの引き出しにしまったまま忘れていたのだった。

「嘘だと思うでしょ。僕も嘘だと思った。でも本当に当ってて、奥さんと抱き合って泣いたよ」

 借金を返して以後、会社は順調だそうだ。
 お母様は合歓の花が満開の季節に、眠るように穏やかに逝かれた。
 宮城さんのお子さんは娘さん一人で、今は都会でフラワーアレンジメント教室の先生をされているという。
 その娘さんが教えてくれたことがある。

「合歓の花は中国では夫婦円満の象徴なんだそうだよ」

 社長さんと奥様は今俳句に凝っていて、インターネット上の俳句投稿サイトに、毎回夫婦揃って投稿しているそうだ。
 「俳号は秘密」と宮城さんは笑ったが、もしかして、と思う俳号を見つけた。

 それは多分この話をご覧くださった方にも予想がつく名前である。
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