首筋に咬痕

あお

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「あれ、課長お帰りですか。今日は早いんですね」

「ああ。ちょっと用があって」



デスクを整理しスーツを羽織る俺を見て、近くに居た部下の男性社員が声をかけてきた。

いつも残業している俺が、珍しく定時で上がっているのが気になったらしい。



「すまない、後を頼む」

「わかりました」



わかりましたと言った部下の表情は、どこか珍しいものを見ているみたいにきょとんとしていて。気になった俺が首を傾げると、すみませんと苦笑気味の声が耳に届いた。



「本人にこんな事言うのもなんですが……課長って、ちょっと丸くなりましたね」

「丸くなった?」

「ええ。前は少し取っ付きにくかったと言いますか」



でも最近は、近寄るなオーラが消えて話しかけやすくなったと部下は言う。



「なんて言うか、纏う空気みたいなものが柔らかい気がします。もしかしてですけど……恋人でも出来ましたか」



今日だって急いで帰ろうとしてますし、と興味津々な声で聞いてきた。

恋人が出来たわけでないが、部下の言う通り纏う空気が柔らかくなったのだとしたら、俺を変えてくれたのは間違いなく彼だろう。



そして今日、俺が浮き足立っている理由も彼が関係していた。



「否定も肯定もしないよ」

「うわ、上手くかわしましたね。ますます気になるなあ」

「君こそ独身だろう」

「俺はまだ遊びたいんでいいんですっ」



そんな会話をしていると、不意に胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。

振動の短さから、恐らくメールだろう。俺は鞄を手に持ち、入り口へ向かった。



「今日はそんなに忙しくないし、君も早めに切り上げるといい。じゃあ、お先に」



会社を後にする足取りは、驚く程軽かった。















「誕生日おめでとう」

「ありがとうございます」



仕事帰りの人で賑わう居酒屋。奥の座敷の壁には何着もの背広が肩を並べている。俺と、今日誕生日である音梨君は個室で静かにジャッキを傾けた。



二十歳になったら居酒屋に行ってみたいという音梨君の願いを叶える形でここを予約していた。



運ばれてきた唐揚げを美味しそうに頬張る姿に、不思議と笑みが溢れる。

音梨君はビールを飲み干すと、次にレモンサワーを頼んだ。味が気に入ったのかそれからはずっとレモンサワー一択だった。

他愛のない話をしていく中で、ふとした瞬間に視線が交わった。視線の先で、瞼がゆっくりと閉じられる。



「なんか、いいですね。こういうの。雑談しながらゆったり過ごすの。凄く楽しいです」

「それはよかった」



本当に楽しんでくれているのが、声音だけで伝わってくる。それがむず痒くもあり、嬉しくもあり、とても心地が良かった。

俺も楽しいよと言葉を返すと、音梨君は嬉しいですと言って満面の笑みを見せた。



「また来よう。それか普通にご飯を食べに行こう」

「はいっ」



早速次はどこがいいですかなんて前のめりになって携帯電話を弄り出す姿に、友人としての距離感を感じた。



しかしこの数日後に音梨君が新たな作品に取り掛かる事となり、暫くの間約束が果たされる事はなかった。


















「また、ご飯食べてなかったのか」

「すみません。忘れてました」



いつも通り音梨君の家を訪れると、顔色の優れない表情で出迎えてくれた。最近また大作に取り掛かり始めたみたいで、その影響がもろに顔に出ている。出会った時と同じくらい目の下に隈を作って、見るからに痩せて。



それでも音梨君は、俺の姿を確認した瞬間これでもかというくらい嬉しそうに笑った。



「今日は梅干しと鮭おにぎりにした」

「わあ、いつもありがとうございます」



そんな事だろうと、家からおにぎりを作ってきた。おにぎりを作るのは、これで三度目。

早くアトリエに行きたいとうずうずしてる音梨君に、これを食べてからだとリビングの椅子に座らせる。

大人しく食べ始めたのを見て、そっと息を吐いた。



「どうにかならないのか。君のそれは」



音梨君は、作品に集中すると周りが見えなくなる。ご飯も、風呂も、寝るのも後回しで。周りに幾ら話し掛けられても気付かないみたいだ。

仕舞いには、チャイムを鳴らしても出ない可能性があるからと合鍵まで渡された。今の所まだ出番はないが、そろそろ活躍の時が来そうだ。



「うーん、最近本当に描くのが楽しいんですよね。ご飯食べてる暇があるなら、筆を握っていたいっていうか……気付いたらっていうか」

「家政婦さんからもご飯の知らせはあっただろう」

「あー、どうでしょう。ここに籠りっきりだったんでよく憶えてないです」

「周りが見えなくなるのも、困りものだな」

「好きなんで、仕方ないです。それを邪魔するものは身体が自然とシャットアウトしちゃうみたいで」



音梨は絵の事になると少し、狂気的な面が垣間見える。

絵が、彼の生活の主軸となり、それを奪えば音梨君という人間はたちまち機能しなくなる。

しかしこう毎回となると、心配だ。今は若いからいいが、このままこの生活を続けていると、いつかガタが来る。



「筆を握っていられるのも健康あってこそだ。せめて、一口でいいから何か食べ物を摂取してくれ」

「はい……善処します」

「約束だよ」



善処すると言いつつ、多分食べないんだろうな。アトリエに冷蔵庫設置する事を考えた方がいいかも知れない。



「今度は昆布にするかな」

「昆布も好きです。榊さん優しいですね。お母さんみたい」



そこはせめてお父さんの方がよかったな
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