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第一章(その6) 巡査部長瀬ノ尾政一

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 四月十日午前四時前。
 戸田は仮眠していた瀬ノ尾政一巡査部長を起こした。
 瀬ノ尾は戸田と組んで二年目。色白で全体に小さく丸まっている割に、のっぺりした風貌のせいか、二十八才だが五才は若く見える。
 ふたりは、これから現場近くのコンビニエンスストアに向かうのである。
「こんな時間でなくても」
 瀬ノ尾は、昨夜と同じことばを繰り返した。
「昨日この時間に微罪事件が起きている。同じ時間に聞くと、思い出すことも多いからな」
 戸田も同じことばを繰り返した。
 そのコンビニは、左足が発見された現場から北へ百メートルほど、甲突派出所に寄った場所にあった。
 コンビニの無機質な灯りに照らされた駐車場に、自転車が一台だけ止まっており、でっぷりとして背の低い青年が所在なげに立っていた。青年は、手を挙げた戸田に気づくと頭を下げ、店内に向かって声を掛けた。すぐに若い店員が出てきた。客は誰もいないらしい。
 戸田は、ジャンパーの内ポケットに手を入れて千円札を取り出し、瀬ノ尾に渡した。千円札には買うもののメモもくっついている。瀬ノ尾と店員が店にはいると、戸田は左手をジャンパーのポケットに突っ込んだまま、青年に尋ねた。
 青年の左頬は腫れていて、左唇には肌色の傷テープが張ってあった。
「和田さんでしたね。昨日のこと、聞かしてくれますか」

 和田によると、昨日午前四時過ぎ、和田が買い物を済ませて駐車場で自転車の鍵を外していたところに、乗用車が入ってきた。避けようとしてよろめき、バランスを取ろうとしてついフェンダーミラーに手を掛けたところ、ミラーがもげて転倒してしまった。運転していた男が飛び出してきて和田の胸ぐらを掴んで怒鳴りだし、険悪な雰囲気になったので、店員の柴田が派出所に連絡した。男は和田の顔を殴り、「弁償しろと」何度か怒鳴った。
 二分ほどして派出所から下吉巡査部長らが来ると、男は、「器物破損だ」と主張したが暴行の事実もある。
 和田が、「暴行については処罰を求めない(代わりに物損は取り下げる)」と提案したので、男も「保険で直す」とのことで一応の和解を見ている。
 和田は、下吉巡査部長が書いていた微罪処分手続書通りの証言をした。
 車を運転していた男については、身元は判明している。
 常田実二十三才、有限会社石和田清掃社に勤務して五年。ゴミ収集車の運転手である。犯罪歴・補導歴ともになかった。
 和田の供述の間に会計も終えて、瀬ノ尾と店員の柴田が出て来た。
 ところで、と戸田が言った。
「柴田さんにも聞きたいんだが、常田さんの車はどっちから来たか覚えていますか」
 あっちから、とふたりが指差したのは河岸緑地公園の方角だった。
「ほかに、人とか車とすれ違ったり見たりした記憶はありませんか?」
 今度の問いには、ふたりとも顔を見合わせ、首を振った。
 戸田さん、と瀬ノ尾が勢い込んで呼びかけた。戸田が制した。
「焦るな。捨てたか、見たか、通りすがりか。本人に聞かないとわからんさ。それより、朝飯前の仕事は済んだ。飯でも食うか」
 戸田は城南通りまで戻ると、ファミリーレストランに入り込んだ。広い店内には客が二組しかいない。適当に座れ、と瀬ノ尾に言うとどこかに電話をかけた。かけ終わると、メニューを見ていた瀬ノ尾の向かいではなく隣に座る。
「なんで隣りに……」
 訝しげに、にじり逃げながら席を空け、戸田を見やった瀬ノ尾に、
「これから、合コンだからな」
 楽しげに笑った。

 ほどなく、水商売風の若い三人連れの女性客が入ってきた。戸田が手を振った。
「すまんな、美人衆。上客をふいにさせちゃって。そのかわりおごるよ。いや、うちの若いのがな。遠慮しないで頼んでくれ」
 向かいに座った三人連れは、メニューを前にあれこれ相談している。戸田が耳打ちした。
「アンデュミオンのホステスだ。あそこは深夜の時間外営業してるから、まともにはしゃべらん。一時に店を閉めた時にはいましたが、閉めた後のことはわからない。そう店長は言ったそうだが、実際に閉めたは早朝五時だ。言えないことが山ほどあるんだよ」
 戸田はジャンパーの外ポケットに左手を突っ込み、右手は内懐に入れながら、お前も何か頼め。それと同じやつも一緒にな、そう付け加えた。
「そうそう、美人衆に見せたいものがある」
 戸田はマジックショーよろしく掌を大袈裟にひらひらさせながら言った。ホステスたちの目が集まる。戸田は内ポケットから、あんパンとパック牛乳を次々出した。五組出てきた。
『四次元ポケット。何度見ても構造がわからない。どうすれば押し込めるんだ』
 瀬ノ尾は頭を振りながら小さく呟いた。
「さて、さて……。捜査本部名物。刑事の朝食。定番すぎて困るんだが、食堂からかっぱらってきた。食うか」
 やっぱりぃ。黄色い声があがった。戸田は構わずあんパンに食いついた。
『嘘付け』
  瀬ノ尾は密かに愚痴っている。
『それは、さっきコンビニでオレが買いに行かされたやつだ……』
 ホステスたちは、珍しそうに手にとって眺めている。
 なあ、お前さん……
 瀬ノ尾の肩に手を置いて、戸田は呟くように、しかし芝居がかって声をかけた。
「そいつを食っちゃまったら、胸の底につかえてるもん全部吐き出して、楽になっちまいな。田舎《くに》じゃ……」
 瀬ノ尾が咳払いするのと、ホステスたちが笑い出すのと一緒だった。
『いったい何を考えているんです……』
 瀬ノ尾が口を開きかけた時、戸田はテーブルの上に一枚の顔写真のコピーを出した。ホステスたちの目が一斉に写真に向く。戸田はやわらかい笑顔をつくっていたが、眼はホステスたちの表情を凝視している。
「常田実さんだ。お宅の常連だな。行方不明の美津濃美穂さんの客と一緒に来てたな」
 今村みさお、下払由紀子、鹿島しのぶ……。彼女たちの顔は強張っている。図星だ。
「誰だい?」と戸田は畳み込んだ。
「例えば、大泊さん、とか。ねえ、今村さん」
「いえ、大泊さんとは顔なじみですが、別です」
 答えたみさおの表情にほんの一瞬だけ翳りのようなものが通り過ぎていった。

 その後、時間はかかったが、美穂目当ての常連客として名前が上がった者が、六名ほどいた。
 鹿箭島県では中堅の建材店営業の大泊敬吾(三十二才)、清掃会社勤務の常田実(二十五才)、常田の先輩で工務店勤務の稲村直彦(二十六才)、商店主上園隆平(四十七才)、教員田畑亮介(二十八才)、オダ(四十歳前後)……。
 彼女らには他の交友関係は思いつかないようだった。
「特に親しくしているような、女ともだちも知らない」
 と三人は声を揃えた。何か思い出したら、何でもいいから、わたしか、こいつに連絡してください、と戸田は念を押した。
「これから、違う人間に何度も同じことを聞かれます。特にこいつが、事件のことを聞く振りをして、何度も訪ねていくかも知れない。そんな時も、わたしに連絡して下さい。厳しく、口説き方を指導しますから。お願いしますね」
 瀬ノ尾が紅くなるのと彼女たちの笑いが弾けるのは、ほぼ同じだった。
 彼女たちが引き上げるまでの間、三人の飲み物のお代わりを戸田自ら注ぎに行くサービスぶりを発揮していた。
 戸田は、自分は一人暮らしで急な病が一番困るとか。
 君らはどうしているかとか。
 飯は作るのかとか。
 自分は作るが、たまには作ってもらいたいもんだとか。
 この前保険証を忘れて、全額払ってそのまま払い戻しに行くのを忘れてしまっただとか。
 (注いできたお代わりの飲み物を)旦那がいる? 
 じゃあ、こいつはやれないとか。
 独りだともっとやれないとか。
 店に社会保険はあるのかとか。
 ないなら国民保険だなとか。
 保険証を持っているのはみさおさんだけか、とか。
 やっぱり持っておいた方がいいとか。
 とりとめもないことをしゃべり続け、尋ね続けていた。
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