埋(うずみふ)腐 ――警部補戸田章三の日常(仮題)

三章企画

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第一章(その10) 重要参考人稲村直彦

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 午後七時過ぎ戸田が捜査本部に戻ると、打越が憮然とした表情で睨みつけた。
 戸田は素知らぬ顔で聞いた。
「で、稲村は? ここにはいないんですか」
「午後六時四十五分。重要参考人手配」
 打越が吐き捨てた。
『逃げられたのか。なら同じ土俵だ』
 つい瀬ノ尾はにやつき、気が付いて表情を締めた。だが、打越は聞き逃さなかった。
「おかげさんで。県警さんなら、何の卒もないでしょうからな」
「打越警部、県警には卒がないと……。ふむ」
 戸田はにやりと笑いながら声をかけ、同時に打越の書きかけの捜査報告書をめくり始めている。
「おい、戸田、そいつは……」 
「じゃっち。じゃっち。おはんさの言うとおいじゃらいさ。勤務中に、焼酎そつはなかろもんそ。芋焼酎いもそつじゃれば仕事もしやならんじ、即病院行きやっでやなあ」
 戸田のことばが耳から抜けると同時に、打越の全身の力が抜けていった。
 打越には、とだ、かってにみるな、ということばを吐き出す気力すら残っていないようだった。
「戸田さん。意味が……」
 ささやいた瀬ノ尾に、打越が舌打ちした。
「焼酎、そつ、卒中……。わかるか、瀬ノ尾。勤務中に卒中、脳梗塞になれば……、どうなるかっておやじギャグだ。ぼけが……」


 打越らの調べに依れば、稲村直彦は、四月九日は通常通り出勤している。
 九日午後四時過ぎに、勤務中にケガをしたとのことで早退して病院へ行き、翌十日には休暇の連絡があり出社していない。鹿箭島市内の花野団地《けのだんち》の自宅にも姿は見えなかった。刑事二人がそのまま張り付いている。メタリックブルーのアリストは、見あたらない。
 十日早朝、アリストで自宅を出たことは確認されていた。
 稲村の所在確認に手間取ったのは、どうやら、稲村の勤務先の小野工務店と連絡が付かなかったためらしかった。
「派手な車だから、目撃情報も入りやすいはずなんだが」
 打越のことばには力がない。戸田がつぶやいた。
「待つしかないでしょう」
 既に捜査班の一部が、小山田町の○○建設の資材倉庫での、場合によっては夜を徹しての捜査を始めているはずだった。
 被害者の住居である草牟田から、小山田町の倉庫まで国道三号線沿いに北へほぼ七キロ。稲村の自宅がある花野団地は、その途中、草牟田から三号線を北に五キロほどの場所から、東に一キロほど入ったところにある。
 花野団地入り口から小山田町までの二キロほどの間は、甲突川沿いの閑散とした風景が続き、廃屋・廃工場も多い。
 その、どこかで、遺留品なにかが、見つかってくれればいいが。
 今では捜査員全員の共通した思いだったろう。
 夜が明けて、十一日になれば、捜査の主力はそちらに向かうことになる。
 それまでは、ただ待つしかない。
 午後十時過ぎ、Nシステムでは該当車両を確認できなかったこともわかった。
 それは、稲村が幹線道路を使って移動していないこと。また、甲突川左岸へは移動していない可能性が高いことを意味していた。
 ついで、資材倉庫の捜査が空振りに終わったと報告してきた。

 戸田は、瀬ノ尾が書き上げた捜査報告書を確認すると、瀬ノ尾を促して中央署を後にした。
「少し、つきあえ」
 午後十一時を回っていたが、アンデュミオンに、客はなかった。
 入り口に近いボックス席には、ホステスふたりと厳つい男がふたり座っていたが、男らは客ではない。戸田を認めると、深く頭を下げた。
 戸田は店の市場の奥のボックス席に陣取った。
 店長の柴田が、直ぐにグラスセットを持ってやってきた。戸田が、
「きれいなお姉さんとそこそこの酒。ふたり一万円で飲みきり。できるかい」
 口を締めたときには、すでにテーブルの上には、一万円札が載てある。
「四十分となりますが、よろしいでしょうか」
「悪いな。客も来ないとわかってるのに、えらい迷惑掛けます」
 柴田が口の中で何か答えたが、はっきりとは聞こえなかった。
 今村みさおと、あきのというホステスが来た。つい瀬ノ尾が店内を見渡した。
「お休みです。ふたりとも。多分もう来ないかも」
 みさおが寂しそうに笑った。
 置いてきぼりにされた子どもの顔だ、と瀬ノ尾は思った。
「あきのさんが、常田さんの担当と言うことになってるのかな」
 戸田のことばに、あきのが笑った。
「担当って。たまにしか来ない人だから、わたしが付きますけど。なんで」
「焼酎は、水割りでよろしかったですか」
 割って入ったみさおに、ああ、と頷いた戸田が瀬ノ尾に向かって言った。
「おまえさんも、同じにしとけ」
 戸田は、左手をポケットに突っ込んだまま、グラスを空けていくが、瀬ノ尾は置かれたグラスに手を付ける様子もない。瀬ノ尾に構わず、戸田は空けたグラスをテーブルの上に置き、
「好みのお手前であった。褒美を取らせよう」
 内ポケットから栗饅頭を三個取り出して、二個は女たちの手に乗せ、残りは自分の前に置いた。
『南署で出た栗饅頭。いつの間に。しかし、二個しかなかったはずだが』
「泣きそうな顔しなさんなって。ちゃんと、おまえさんの分もあるから」
 ポケットからさらに一個取り出して、瀬ノ尾の掌にも乗せた。
 無理矢理握らされながら、瀬ノ尾は首を振って俯いた。
『頼むから、もう帰らせくれ』
「稲村直彦さんというのは」
 戸田が誰にともなくつぶやく。
「真面目で責任感があるという評判ですね。真面目で思い詰めるタイプかな。それとも、腹を決めたら動かない方かな」
 みさおがあきのの顔を見つめた。あきのは、何かに遠慮して明らかに言い出せないでいる。みさおが答えの代わりに、空のグラスを満たし、軽く滴を拭いて戸田の前に置いた。
「思い詰めるタイプなら、自殺する可能性がある。それはどうしても止めないといけない」
 戸田は一気に飲み干し、顔の前で空のグラスを揺すって氷の音を立てた。
「わかるね」
 違う気がする、とあきのが言った。
「真面目だけど、思い詰める方じゃないみたいだった」
 みさおは、黙ったままグラスに焼酎を注ぐ。マドラーがかき混ぜる氷の音だけが響いた。
「じゃあ、自殺の心配はないと」
 戸田の主たる視線はあきのではなく、ずっとみさおから離れない。みさおは気づくと顔を伏せた。
 あきのさん、と戸田が左手をポケットから出した。手には、ちぎり取られたメモ紙が握られている。戸田はあきのに渡した。
「頼まれてください。ここに書いてあるとおりに電話するだけでいいんですが」
 その間も戸田の眼はみさおから離れない。再び眼があったとき、戸田は静かに言った。
「みさおさん。あなたには別な頼みがあります」
「あきのだけど。あのね、心配になってかけてみたんだけど」
 あきのがかけた電話の相手が出たらしい。あきのが縋るように戸田を見つめ、戸田は大きく頷いた。
「うん。えーとね、直さんが自殺するんじゃないかと思って。うん。なにか連絡はできた? あー、ちょっと、ちょっと、待って。うん。あきのも心配してるって。それだけ入れて。うん。じゃあ」
 通話を終えたあきのが、大きく息をはいた。瀬ノ尾は、あきのが握りしめていたメモを奪い取った。メモには、携帯番号とあきのが話したことしか書いてない。瀬ノ尾があきのに詰め寄った。
「相手は? なんて言ったんです」
 瀬尾の語気に、あきのが固まった。
「常田さんにかけてもらった。稲村から無言電話。向こうは留守電になっていて、稲村は出ない」
 戸田が代わりにぼそぼそと答えた。あきのは何度も大きく頷いた。
「あきのさんも、みさおさんも、連絡するんなら、できればメールじゃなくて、留守電にかけてやってください」
 戸田はそう言いながら、あきのに見えないようにテーブルの下でみさおにメモを渡した。みさおはメモを手の中に握り込んだ。一連の戸田の動作を見ない振りをしていた瀬ノ尾が、
「戸田さん、なぜメールじゃなくて留守電なんです?」
「なぜだと思う」
 問いかけたが、戸田は答をはぐらかした。瀬ノ尾が考え込んでいる間に、戸田はグラスを空にしている。
「じゃ、帰りますか、瀬ノ尾君。ごちそうさまでした。じゃ、みさおさん。例の件、お願いしますね」
 言い置いてさっさと店を出ていった。
 瀬ノ尾が追いついた時、戸田は路地の隅で携帯電話をかけていた。
「県警の戸田です。逃げてもいいから死ぬんじゃない。必ず生きていてください。頼むから……」
「稲村への電話ですか」
 瀬ノ尾に聞かれたと知った戸田が、ほろ苦い笑みを浮かべている。
「戸田さん、メールじゃなくて留守電。その理由がわかりましたよ」
「そうか」
『ええ、あの声音は犯人を追う刑事のものじゃない。稲村の身を心配する身内の声そのもの。それが答え、ですか』
 だが、瀬ノ尾は口にせぬまま、先に立って歩き出した。
 それでも犯人を捕まえるのが、我々の仕事だ。
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