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第二章(その1) 新茶

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 四月三十日、午前六時五十四分。
 戸田は、甲突派出所で勝手に新茶を淹れていた。
 茶は、鹿箭島市松元町の植松剛蔵園で四月十七日に製造した荒茶を、戸田自身が火入れ加工したものだ。
 茶畑で摘まれた新茶は、ほとんどの場合工場で加工され荒茶と言う形で出荷される。この荒茶が市場でセリにかけられ、茶商が買い取る。茶商は飲料メーカーに卸したり、荒茶にさらに加工を加えて製品に仕上げ、それが小売店に出回っていくことになる。
 最近では、茶農家自ら製品加工(火入れ加工)して自家販売する例も増えた。
 戸田と植松剛蔵とは三十年越しのつきあいになるが、いつからか植松園のその年の最初の自園製品加工は、戸田の休日を待って行うのが通例になっていた。
「章さん、刑事辞めて茶農家になれって。そのほうがずっと向いてる」
 以前は剛蔵の父修吉の口癖だったが、修吉が亡くなると今度は剛蔵の口癖になった。
「他に楽しみがないからなぁ」
 戸田は言われる都度曖昧に笑ったが、何度かの離島勤務の際にも休暇を取って、火入れどころか折々の様子まで見に来たくらいだから、本職の茶農家よりも好きな事は確かだった。
 甘い香りが派出所中に広まった頃、戸田が茶を持ってきた。
 濃い緑色の新茶が、湯飲みの中でわずかだが盛り上がっている。湯飲みを口元に近づけるだけで、新茶の香りが近づきすぐに鼻の奥に飛び込んだ。その時には新茶は口の中に溢れている。新茶の甘みが舌の先から奥へ、やがて喉を通り抜けて胃に落ちていくのがわかる。この甘さをどこかで止めておきたかったと想いながら、つい吐いたため息さえ甘く感じる。
――それが新茶というものだ。
 と戸田は云った。
 下吉巡査部長が、迷いながら二杯目を飲もう急須に手を掛けたとき、同報電話が鳴った。
[鹿箭島西署管内、武二丁目四十番柳田通り岡村医院前路上から携帯電話での入電。ゴミ置き場に不審なポリ袋発見。ポリ袋表面に「人の耳入り」と大書。各移動、各警戒員は現場に向かわれたい。繰り返す……]
「柳田通りか。所轄外で我々は出番なしですが。これからの時間帯だと、下手打つと数時間単位の渋滞になりかねんなぁ。武岡トンネルの中での渋滞待ちは、あれだけはたまらん」
 武岡トンネル出入り口から柳田通り、中洲通りと続くわずか数キロの路線は、通常でも渋滞がひどい。仮に捜査のために一車線でも規制線を張ったとすれば、あとの事態は想像に難くない。
 下吉が戸田を見た。戸田は茶を啜りながら時計を見ている。
 午前七時十三分。
「それも、中身次第。本当に人の耳なら、駆り出される」
 戸田は、時計から目を離さず、ぼんやりと考えていた。
 西署から現場までは、直線で千五百メートルほど。この時間帯なら渋滞はない。現場に出向いた担当警部が決断を下すまで、十五分もかからない。
 だが、仮に耳だけが発見されたとすれば、(殺害された)遺体から切り取られたものか、生きている人間から耳だけが切り取られたものかの判断は、鑑識の結果を待たずにその十五分の目視だけで決断するのは無理だ。
 初期捜査としては、殺人事件を視野に入れながら、傷害事件として捜査していく。
 それが無難な選択だろう、と戸田は考えていた。
 稲村事件での好首尾がある。下からの捜査規模の拡大要求は、従来より掣肘は少ないと見ていい。だが、西署長小松周造は、おそらく県警主導の合同本部ではなく、西署単独での捜査本部設置を強く主張するに違いなかった。小松にも西署署員にも、先の稲村事件で、運良く容疑者を確保できた中央署への対抗意識がある。
 どちらにせよ、先の稲村事件では蚊帳の外に置かれた県警捜査一係一班が、戸田の二班と同様に現在手が空いている。臨場するとしてもおそらく一班、戸田は暇なままだ。
 
  七時三十分。
[鹿箭島西署管内、武二丁目四十番柳田通り岡村医院前路上から入電。ゴミ置き場のポリ袋内から人の耳が確認された。各移動、各警戒員は速やかに現場に向かわれたい。繰り返す……]
 戸田は立ち上がって、小さく吐き捨てた。
「殺人事件としても捜査になったが、西署主導のままか。未だ傷害事件だと高をくくっているらしい」
 聞きとがめて戸田を見つめた川畑巡査の視線を、戸田は気づかぬ振りをして受け流した。
「さて。出勤時間まであと二時間。どう時間をつぶしたものだか」
 戸田はするりと派出所を出ると、県警へではなく中央署の方へゆっくりと歩いていった。
 ポリ袋の大きさにもよるが、表面に耳入りなどと書いていなければ、おそらく発見されることはなかっただろう。犯人には、ポリ袋を見つけさせる意図があったということだ。
 甲突川死体切断事件の模倣犯か、あるいは。
 戸田は湧いてくる疑惑を払いのけた。
 稲村は、美津濃美穂の殺害とその手段を自白したが、その詳細についての自供は、未だに拒み続けている。殺害場所、時間、動機。まだ固めることができないでいる。自白と状況証拠はあるが、それだけでは殺害事件としての公判の維持は難しかった。
 ふと、歪みきった【打っ殺し】の渋面を思い浮かべた戸田の表情が、一瞬緩んだ。が、すぐに引き締まり、ゆったりとしていた足取りも小走りに変わっていた。
『稲村と話したい』
 戸田は、走り出した。

 四月三十日午後二時過ぎ。鑑識からも報告があがってきた。
 午後二時現在、発見現場の柳田通り一キロ周辺からは不審な物は見つかっていない。収集済みの生ゴミについても、北部・南部清掃工場ともに不審な物は確認されていなかった。皮肉にも、甲突川死体切断事件での捜査経験が、手際の良さとなって生きたと言ってよかった。
 住民が最初に異変に気づいたのは、午前六時過ぎだった。
 薄暗くて文字がよく確認できなかったのと、形状が小さく(ポーチほどの大きさだったので)悪い冗談だと思ったのとで、見過ごした。と二、三の住人が証言した。
 六時半過ぎには、先の事件のこともあったので、通報するかどうかでゴミ捨てに来た住人数人で議論になったが、最終的には通報した。午前六時以前の状況については、現時点では、確認がとれていない。
 鑑識の報告に依れば、鹿箭島市武二丁目の柳田通りのゴミ置き場で発見された耳は右耳で、二ミリタイプの十八金のファーストピアスを付けていた。右耳はほぼ付け根から鋭い刃物で切断されており、生体反応はない。血液の凝固状態などからも、死後切断され、六時間以上が経過したものと断定された。
 耳は、十一号(横二百ミリ・縦三百ミリ)の透明ポリ袋四枚を使って四重に入れてあり、最表面の袋に、「人の耳入り。警察に通報のこと」と黒のマジックインクで書いてあった。
 袋から指紋は見つかっていない。 
 耳から検出された血液型はA型。形状から若い女性。ピアス穴の皮膚の状態から、最近二~三週間の間にピアス穴を空けたものと推測された。
 鑑識の報告を受けて、事件は殺人死体遺棄事件に変わり、捜査本部長である小松西署長は、県警本部長木綿源一郎に対して捜査員の増援を要請した。
 これに対して木綿は、改めて西署に殺人死体遺棄事件の捜査本部を設置することを正式に決め、
人員配置の見直しを命じた。
「甲突川死体切断事件並の人員配置を」
 と木綿は言った。
「既に初動捜査は、一日遅れてしまっている」
 木綿は、それ以上口に出さなかったが、
『仮に、先の事件と関連があるのだとすれば、鹿箭島県警は大失態を犯したことになりかねない』
 その想いは、誰もが共有していた、といっていい。
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