埋(うずみふ)腐 ――警部補戸田章三の日常(仮題)

三章企画

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第二章(その9) 参考人河瀬奈保子

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 出水署の三畳ほどの取調室は、真ん中に置かれた机のせいで、ひどく窮屈に見えた。
 さらに地方の警察署に行けば、畳二畳分あるとも思えないほどの、小さな取調室もある。
 ここは、まだましな方だった。
 わずか人一人分空いた、机と鉄格子の入った窓側の壁とのすき間を、成熟の終わりかけた腰を擦るようにして通り抜けた河瀬奈保子が、奥の壁際の椅子に座った。
 瀬ノ尾と小藤はまだ到着してない。
 無理を言って同席してもらった婦警を先に座らせると、戸田は、鼻先を掠めていった奈保子の匂いのことを考えていた。厳密な臭い、香りのことではない。醸し出す雰囲気とでも言った方が正しいだろう。
 奈保子は、髪を染めているわけでも、化粧をしているわけでもない。ごく普通のシャンプー・リンスとボディソープが微かに香っている。
 それでも、と戸田は思う。
『俺が知っている少女の匂いではない。あれは、何人もの男を知った女の匂いだ』
 戸田の表情が曇った。
 何種類もの供述調書の束と筆記具が置かれた机の向こうには、緊張で顔をこわばらせた河瀬奈保子が座っている。短く切ったアクセサリーひとつない髪。日に焼けた細面の小さい顔。半袖と短めのスカートの制服から剥き出した手足も日に焼けている。平凡な女子高生に見える。だが、一見しただけで、女子高生河瀬奈保子の生活全てを見透かせる者などいるはずもない。
 婦警が、昨日聴取した供述をゆっくりと読み上げ、奈保子がひとつひとつ頷いている。その表情は硬いままだ。
「そう緊張しなさんな。なにもお前さんを」
 と戸田は笑った。
「取って食うかも知れんが、そのときはどこからにするかね」 
 婦警が眉を顰めて戸田の爪先を踏んだ。戸田は、大げさに、
「痛い」
 と声を上げた。戸田の顔は奈保子ではなく窓を向いていたが、視界の端では奈保子を凝視している。奈保子の表情がとけ、飽きれたような溜息がこぼれるのを見逃さなかった。
「奈保子さんは、モテルほうかい? 男友ともだちが多いとか」
 奈保子は、一瞬戸田を見返した。戸田の視線は調書に落ちている。首を振った。
「いえ。そんなことはないです」
「津田純子さんもかい」
 奈保子は曖昧に頷いた。戸田は、今度は奈保子を正面から見据える。
「そうか。ありがとう。さてと。純子さんの荷物の中身のことですが、トートバッグから出したときに見たのかな? それとも、入れたときに見たということかな? どっちか聞かせてくれますか」
「えっ? どっちって……」
 奈保子は答えず下を向いた。彼女は戸田の質問の意図に気づいている。戸田は、静かに畳み掛けた。
「質問を変えましょう。あの日、純子さんがトートバッグを持って出たのかな? それとも、彼女は手ぶらで出たのかな」
 奈保子は俯いたまま答えない。
「今日これからでも、関連捜査として奈保子さん、あなたの家を調べさせてもらう予定でね。御両親には了解を取ってある。礼状が取れ次第、担当の者が向かうよ」
 奈保子は目を見張った。
「それは、純子さんが君の部屋に何を残していったか、徹底的に探し出すと言うことです。わかるね。駅のコインロッカーにあったトートバッグも警察で調べがすんでいる」
 戸田は、津田純子の似顔絵を拡げ、机の上に置いた。ゆっくりと奈保子の前に押しやる。
「警察は不器用でね。事件が起きたからと言って、すぐに犯人を捕まえられるわけじゃない。被害者の歩いた後全部を尋ねて回り、髪の毛一本、塵ひとつずつでも拾い集めながら、犯人に繋がる物を篩にかけ、地道に犯人を追いかけてゆくことしかできない。ほとんどの場合には、被害者本人だけでなく、家族や友だち、周囲の人全部の知られたくないことまで、調べ尽くしてしまうことになる」
 奈保子の表情が急速にこわばっていく。戸田は、ゆっくりと立ち上がった。
「悲しいことにね、被害者の一番知られたくないことが、犯人に一番近づく証拠となることが多いんだよ。もうすぐ、県警本部の心理捜査の専門家も来る。しばらく席を外すけれど、言い忘れていたことがなかったか、よく思い出して置きなさい。お願いしますね」
 戸田は、言い置いて取調室を出た。
 
 ほどなく合流した瀬ノ尾、小藤と共に、戸田は再び取調室に入った。奈保子の目が瀬ノ尾と小藤とをおどおどと行き交い、最後に戸田にすがるようにして止まった。
 ああ、と戸田は柔らかな笑みをつくりながら言った。
「私服がわたしの相棒の瀬ノ尾刑事。制服の美人が、鑑識の小藤技官だ」
 出水署の婦警と入れ替わるように席に着いた小藤は、自分が小藤だと一言だけ言ってスケッチブックを拡げると、奈保子を描き始めた。
 たちまち、不安が奈保子の顔となって紙の上に定着していった。
 ややもすると、硬い表情のまま俯こうとする奈保子に、小藤は無機質なことばを繰り返した。
「顔は下げないでください」
 戸田は構わず質問を始める。
「明日からの連休は、予定があったのかね」
 聞いた戸田に、奈保子が力無く頷いた。
「福岡に、買い物に…」
「津田さんも一緒の予定だった?」
「はい」
「それには、ずいぶん、お小遣いがいるね。春休みにでも、体を張って貯めたのかな」
 いえ、と小さくつぶやいて奈保子は俯き、そのまま黙り込んだ。
 取調室には、小藤の走らせる鉛筆の音だけが、響いている。
 鉛筆の音が止まると、戸田は、小藤が描き上げた奈保子の似顔絵を、瀬ノ尾に渡した。
「駅レンに行って確認して来てくれ。何時でも構わない。例の格好をしたこの子を見なかったかとね」
 戸田は、振り返ると奈保子を見つめて、苦しげな笑みを浮かべた。
「河瀬奈保子さん。あなたや津田純子さんがどんな方法でお金を手に入れようとしていたか、我々に話してください。津田純子さんに起きたことは、あなたに起きていてもおかしくなかった。それは、あなたが一番よく知っているのでしょう?」
 奈保子はやっとのことで頭を上げ、口を開きかけて、また俯いた。
 戸田は静かに見やっている。
 顔を上げて思い切って口を開こうとして、小さく息を吸い込む。言えないまま小さなため息を漏らす。奈保子は幾度も繰り返した。その間戸田は、苦しげな笑みを張り付けたまま辛抱強く見つめている。
 何度目かに、奈保子が顔を上げて、小さく息を吸い込んだ時、見計らったように戸田がことばを差し出した。
「出会い系の、援助交際ですか」
「はい……」
 やっとの事で声に出し、奈保子はそのまま机の上に泣き崩れた。
 戸田は、奈保子の肩に手を置くと、きゅっと握りしめた。
「つらかったね」
 泣き声は大きくなった。奈保子が落ち着くまで、聴取はできそうもない。戸田は、小藤の肩を軽く叩くと取調室を出た。先ほどの婦警が戸田と入れ替わりに入っていった。
 戸田は、取調室近くの休憩室の畳の上に腰掛けると、そのままひっくり返って目を瞑ると、大きく息を吐いた。たぶん正午前には閉め忘れていたチャックが、半分開いたままになっていた。
 ほどなく、瀬ノ尾からの連絡が入った。
 河瀬奈保子が、午前八時過ぎと、午後四時の二度にわたって、駅周辺で目撃されたとの複数の証言がとれた、とのことだった。
 出水駅のロッカーにバッグを持ち込んだのは、河瀬奈保子で間違いなさそうだった。とすれば、オオセで目撃された少女が津田純子と言うことになる。彼女たちは、何を考えて行動していたのか。
『気の重い取り調べになるな』
 戸田は、河瀬奈保子を思い浮かべると、大きなため息をついて俯いた。あ、と一声。そして、慣れた手つきでチャックをあげた。
『ちょ、誰も何も言わないのか。世も末だな』
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