埋(うずみふ)腐 ――警部補戸田章三の日常(仮題)

三章企画

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第四章(その4) 逡巡

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 そう言いながら戸田は動かない。
 先ほど生活安全課から届いた資料に見入ったまま、何か想いあぐねている。
 戸田さん、と声をかけながら瀬ノ尾は無遠慮に覗き込んだ。
「それ、ホテルの監視カメラの静止画像ですか」
 戸田は頷きながら、机の上の別な資料をまさぐり始めた。探り当てた資料の中の少女の写真とホテルの画像とを付き合わせてる。
「瀬ノ尾。似てると思わんか」
「似てますが……」
「そう。だが同一人物ではあり得ない。ホテルの写真はこの五月のもの。こっちの資料は二年前に死亡している参考人のものだからな」
「日高奈津子、ですか。住所は、小川町**マンション。……って、これは」
「そうだ。日高奈津子は、日高秀子の姉だろう」
 頷く間に、瀬ノ尾の怪訝な顔が一瞬で意思あるものに変わって、叫んでいた。
「戸田さん、すぐに行きましょう」
「日高秀子の方は、以前から生活安全課が捜査している。欠席の件で単独で行ったことをこっぴどく責められた。話を通してからでないと、やつら出すべきものも出し渋るようになる。それじゃ困るだろ」
 納得のいかない表情の瀬ノ尾に、
「明日、岩元日出子の話を聞く約束はできた。今日のところは」
 と、午後七時を回った時計を見せながら、
「もう、こんな時間だ。晩飯でも食いに出よう。奢るよ」
 戸田は、瀬ノ尾が頷くまで視線を離さなかった。

「すまんな。仕事をする気にも、まっすぐ帰る気も、ひとりでいる気にもなれなかったんでな」
 戸田は、安予やすよと言う安価な小料理屋のカウンター席で、ようやく出回り始めたトビウオの刺身と付け揚げを頬張りながら呟いた。瀬ノ尾の前には、戸田が河豚より旨いと称する角子つのこ(カワハギ)の刺身がある。そもそも旨い河豚というものを知らない瀬ノ尾には比べようもないのだが、白身の透き通るような切り身は、確かに一見淡泊だが深みのある後味が強引なほど尾を引いた。
  戸田はそれきり一言も喋らず、後はお好みで出される料理を黙々と食べ、ひたすら焼酎のお湯割りを注いだコップを空にし続けている。瀬ノ尾は、素知らぬ顔をして同じく口も気かぬまま適度に呑み適度に食い続けている。
 女将も心得ているのだろう。目で品の減りを確認する程度で、戸田が勘定を済ませるまで何も喋らなかった。
「瀬ノ尾、もう一軒つきあえ」
 かなり酔いの回った口調で戸田が叫び、瀬ノ尾は従った。
『この店はまずくないですか』  
  戸田がアンデュミオンの扉を押した時、瀬ノ尾は口を開きかけた。が止めた。見るところ、戸田もまだそこまでは酔っていない。幾千軒も林立する飲み屋のうち、敢えて選択した理由は酔い以外にもあるはずだ。瀬ノ尾は自分を納得させた。
『おれが酔わねばいい』
 ふたりが案内を待つまでもなく、ひとつだけ空いたボックス席に座ると、すぐに店長の柴田が挨拶に来て笑った。おかげさまで、なんとか【繁】くらいでやっています、と。
 なによりだ、と戸田は言った。
「安物でいいんだが、カティサークあるかい」
「なくても都合しますよ。少々お待ちを」
 柴田は席を外し、今村みさおとミキカと言う子が席に着いた。
「カティサークって?」
「安物のスコッチウィスキー。中国茶を運ぶティー・クリッパー・レース最速の帆船の名前から取ったんだ」
 柴田から受け取ったボトルを、みさおがテーブルの上に置いた。
「これ、ECかモルトでよかったのに、十八年じゃないか」
「ええ、モルトのお値段で結構だそうです。戸田さんが開けます?」
「いや、好きにしろ」
 戸田は何も喋らず、注がれるだけの水割りをひたすら空にし続け、三十分ほどの間にボトル一本が空いた。戸田は、ソファーの背もたれに仰け反って、店の天井を見上げたまま大きな息を吐いた。
「最速帆船カティサーク号か。何の因果か、紅茶様々だよ。なあ瀬ノ尾、二十五日の研究会、俺が出るから、お前は俺の代わりに用事を引き受けてくれ」
 はあ、と瀬ノ尾は曖昧に頷いた。
「自分で役に立つなら構いませんが、本当は戸田さんの用事なんじゃ」
「は、男って生き物は馬鹿だからな。昔取った杵柄も惚れた弱みも忘れられないもんだ。夢を冷や水に、ほれ空だ、注げ。しないためには近づかない方がいいんだ」
 あら、とミキカが、空のグラスにウィスキーを注ぎながら言った。
「冷や水だらけの焼け木杭じゃ、火なんて付かないから大丈夫じゃないかな」
 わかってるさ、と戸田は力無く答えるとそのまま眠り込んでしまった。
  瀬ノ尾とみさおは顔を見合わせると、力無く笑った。

  翌五月二十四日午前八時。
  戸田は、鹿箭島PJ女子校までのいつもの行程を歩き終えると、渡辺係長に事情聴取のため捜査会議に欠席する旨を改めて電話連絡し、鹿箭島市内新屋敷町の岩元日出子の自宅へ直行した。バイクを停めたコンビニからは、五分もかからない。四月に美津濃美穂の遺体が発見された場所のすぐ側である。
『田舎は狭い』
 戸田は痛感している。
 自分以外の捜査員が、美津濃美穂の件で彼女の家を訪ねている。
 岩元日出子の家族はどんな思いで対応したのか。
 今回訪問し聞かねばならない内容は、その時の比ではない。
 すでにこの世にはいない少女の、家族が知らなかった恥部を突きつけ、さらにえぐり出す仕事になる。
 隠していても噂はすぐに広まるだろう。
 戸田は、暗澹たる思いで瀬ノ尾を待っていた。

 午前九時前。
 応対したのは、岩元日出子の母親だった。戸田は丁寧に事情を説明し、協力を求めた。
「要は、日出子さんの身の回りの物を見せてほしい。そういうことです」
 柔らかだが、ひどく事務的に響かそうとする戸田の要請に母親は静かに頷いた。
「必要なだけ、ご覧ください。あの子の部屋はそのままにしてあります」
 戸田は、感謝しますと短く答え、
「できれば、部屋に入る前に日出子さんの仏壇に参らせてください」
 そう頼み込んだ。
  四畳半のフローリングの部屋は、女子高生らしい調度品で満ち溢れていた。真新しいものもある。彼女の死後、折に触れて両親が買い足していった物も多いのだろうと推測された。
「スリッパを、貸していただけますか?」 
 戸田は、部屋に入る前にスリッパを要求し、母親が準備する間、手袋を装着し、部屋の全容をデジカメに納めていた。
 日出子の部屋の捜査は恐ろしく入念に行われ、昼食と三度の短い休憩を挟んで午後五時過ぎまでかかったが、めぼしい物は発見できなかった。
 礼を述べ、岩元日出子の自宅を辞した戸田が、少し歩くか、と言った。
「このまま甲突川縁に出て、稲村事件の跡を歩いてみないか」
 瀬ノ尾に異存はない。
 路地ふたつ曲がると、すぐに最初の遺体発見現場に出た。
 戸田は、回収残しのあるゴミステーションをじっと見やっている。
 五月下旬の涼やかな夕刻の風が、石垣の上の公園から垂れ下がっている枝を揺すって吹き抜けていく。
 風につられて、ふと見上げた公園のベンチに一人の青年が長身を折り曲げて座っていた。青年は、洗濯の行き届いた薄緑色の上下揃いの作業服の膝に閉じた本を載せ、ぼんやりと周囲を見渡している。青年の移りゆく視線が戸田と瀬ノ尾を捕らえ、軽く頭を下げた。
「ああ、木塚さんでしたか」
 戸田は声をかけ、公園への石段を駆け上がっていった。
「おかげさまで静かになりました」
 と木塚悟は戸田に向かって笑いかけた。
「犯人が捕まるまでのマスコミ関係者の騒々しさは、凄まじいものでしたよ。一種の災害でした。桜島の地鳴りですら、かわいく感じましたからね」
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