埋(うずみふ)腐 ――警部補戸田章三の日常(仮題)

三章企画

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第四章(その5) 今村みさお

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 あまりにも屈託のなさすぎる木塚の笑顔に、どこか引っかかるものを感じながら、
「あの節はご迷惑をおかけしました」
 戸田は当たり障りのないことばをかけた。木塚の膝の上の本の書名は、薄闇に溶けて確認できない。木塚は、戸田が視線を注いでいる膝の上の本を、さりげなく背中に回した。
「仕事が早く終わったので、日暮れまでに読むつもりできたのですが」と木塚が笑った。「青嵐に当たりに来ただけかもしれません。あの事件の頃芽吹いた若葉は、もう次の世代の準備をしています。地面の底の微生物も同じで、地温が上がると、上がる温度に応じて違う微生物や虫たちが活動を始める。地上の風の音に、地下に埋もれた腐敗物を食い囓っていく微生物や虫の音が溶けて広がっていく。それを木々の若葉が聞きつけて、深く広く根を伸ばして養分の吸収にかかる。そんな音みんなが渾然と聞こえてくる気がして、外にいることが楽しいんです」
 戸田にも瀬ノ尾にも視線を合わせないまま、木塚は静かにひとりごちている。
  瀬ノ尾の眼の色が、知人を見る色から容疑者を見るそれへと、静かに変わっていき、
「微生物、分解菌とかにも詳しいんですか」
「ええ、堆肥屋ですから。でも自分の会社が使う分についてだけですけど」
 じゃあ今度、と戸田が割って入った。
「現物を見ながら、いろいろ教えて下さい」
「ええ。月水金の午前中なら生ゴミの搬入があるので、必ずいます。ぼく程度の知識でお役に立てば」
 木塚は照れくさそうに微笑んだ。
  
  その夜、しつこくアンデュミオンへ呑みに誘ったのは瀬ノ尾の方で、なぜ直ぐに、と戸田に絡みだした。
「木塚の聴取をしなかったんです」
「そうくな。実は犯人ではないか、あるいは完全な犯人か、そのどちらかが、一番怪しく見えるからだ」
「それは、答になってませんよ」
 そうか、と戸田は胡乱な受け答えに終始していたが、やがてそれも止めた。
  戸田が相手をしないからといって、店の女の子に話すわけにもいかない。瀬ノ尾はことばを押し込み、鬱憤を飲み込み、アルコールを流し込んだ。
 惨い酔いが直ぐに瀬ノ尾を捕らえた。
「怪しい奴はみんなしょっ引いて、叩きゃいいんだ。誰より早く犯人を挙げて、一線にでてなきゃ、本部にいる意味がない……。また下っ端から出直すのはごめんだ」
 そう言いたかったのだろうが、呂律は回らないまま止まって、崩れ落ちた。
「すまんな、二晩も続けて」
 戸田は動かなくなった瀬ノ尾を顎で差しながら、済まなさそうに笑った。
  内緒ですが、とみさおがはにかんだ。
「明日早いんで今日はこれで上がりです。送っていきますよ」
 あれ? と戸田は言った。
「この前、ファミレスに来てもらったときはタクシーで帰ったろう。今日が車? あの時がタクシー。ま、どっちでもいいが」
「あの日は、はずせない用事があったもので……」
 みさおは小さな声で言い訳がましく答えた。
 戸田は、ふーん、とだけ言った。
 泥酔してしまった瀬ノ尾を送って行くみさおの車中で、彼女が遠慮がちに聞いた。
「戸田さんは、瀬ノ尾さんの質問にどうしてはっきりと答えなかったのですか」
 戸田は笑った。
「答には、正解を聞くより自分で見つけることの方に意味があるものもある。正解が見つからないと知ることで、見出す答えもあるからな」  
 みさおは納得のいかない表情で、そんなものですかと、生返事をした。
「なあ、数学の二次方程式や三次方程式なんかだと、xイコールなんとかって、答があるものだと思いこんでる。で、必死になって答を出そうとする。でも、方程式の中には解なしという問題もある。答が出ないのが正解なんだが、なにか落ち着きが悪いんだろうよ。なかなか気付きたがらないし、認めたがらない。数学以外の問題には、もっと多いだろうにな」
 ええ、とみさおは相づちを打ったものの、理解している表情ではない。戸田は寂しげに笑った。
「お前さんが、稲村直彦からのメールを私に転送したこと。稲村直彦がメールを書かずにはいられなかったこと。それも、解答のない問題に無理に答を出したひとつの例だろう」
 あるはずのない解答を、と戸田は続けた。
「無理に出せば必ず綻びができる。塞ごうとしてさらに無理を重ねれば、綻びは取り繕うことができなくなる。綻びからぼろが出る。そこにあるはずのない物、あるはずのない答があれば、不自然だろ? そう言うことだな」
「嘘は、いずればれるということですか」
 ああ、と戸田は言った。
「そう言うことかな。もうすぐ、稲村直彦の公判も始まる。また改めて聞かれることもあるかもしれない。あることはある。ないことはない。正直にそれだけ答えることです。誰かにとっての有利不利、関係なくね」
 ワイパーを使うまでもない驟雨が、フロントガラスにこびりつき始めた。そこから沈黙が始まり、車のエンジン音だけがひどく長い時間響いた後、瀬ノ尾を下ろして部屋に放り込むと、戸田が、ここでいい、と言った。
――お前さんも気をつけて帰るんだな、とも。
 みさおが頷くと、戸田はつぶやくように付け加えた。
「答えられないと意思表示することが、答になることもある。いずれ役に立つ。覚えておくといいです」    

 五月二十五日、午前九時。
 傘を差すには躊躇する程度の雨が、夜半から断続的に降り続いている。
 捜査会議は始まっていたが、瀬ノ尾はぴくりとも動かない。戸田も同じだ。
 その日の捜査会議で大きく進展した事項はふたつ。
 ひとつは、廃工場で発見された白バンの件。
 白バンに偽装されていたナンバープレートは、所有者が廃車を申請した鹿箭島市東開町のS整備工場で廃車届けと一緒に紛失したものだと判明した。白バンの車体は、鹿箭島市松山町のR解体センターの解体車両仮置場から紛失したものと判明したが、どちらも盗難届は出ていなかった。
 ナンバープレートは廃車届けとともに紛失していたため、従業員の誰かが手続きを済ませたものと勘違いしていたこと、自動車税についても所有者が未確認のまま払い込んでいたために、発覚が遅れたものだった。
 車体の方は、三ヶ月ほど前に敷地内で使用する車両として貰い受けたいという業者からの申し出があり、引き取りに来るまで仮置きしてあったものが見えなくなったが、相手方が引き取りに来たと思いこんでいたらしい。どちらも管理不十分のそしりは免れないが、もともと処分予定の物の紛失・盗難であり、気にしていなかったと言える。
 現在、出入り業者を始め関係者からの事情聴取に当たっている。
 もうひとつは、白バンと遺体から発見された毛髪片の件。
 採取された十三名分の毛髪片については、イソザキ理容院から採取された毛髪片並びに顧客の協力を得て採取された毛髪片を照合し、さらに行ったDNA鑑定の結果、六名に付いては、イソザキ理容院で付着もしくは採取されたものだと断定された。DNAが適合した六名のうち三名については、既に事件への関与がないことが確認されていた。残る三名についても、関与は薄いと報告された。
 残る不明者七名分と付着経路については現在捜査中。
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