埋(うずみふ)腐 ――警部補戸田章三の日常(仮題)

三章企画

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第四章(その6) りん・新納涼子

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  おおむね、そのような内容だった。
 およそ一時間ほどで会議は終了し、戸田が県警本部に戻ったのは、十一時前だった。
  机の上には、何通かの伝言メモが載っている。
 坂村、小藤、新納、坂村……。戸田は目を通し、
「憂鬱の種は、捨てるに限る」
 そう呟いて、ゴミ箱に放り投げた。が、
「戸田、お前に電話だ」
 渡辺係長の冷ややかな声が響き、切り替えて受話器を取った戸田に、
「私用電話は短めにな」
 追い打ちをかけてきた。
 戸田は目を瞑った。
  受けた受話器の向こうの、新納涼子の声が戸田の耳をすり抜けて、直接胸に落ちてきた。
「今、医師会病院にいるんです」
 新納涼子は、わずかに弾んだ声で言った。
 あ、と言ったきり戸田は声が出ない。
 医師会病院は県警本部の西側の窓から見える。
 正確には道路を隔てた斜め前の建物で、性能のいいレンズなら、彼女の表情を捉えることも可能だろう。同じように戸田の表情も。
「正確には、道路を渡ろうとしているんです。県庁にも用事がありますし」
 戸田はふいにある小説の一文を思い出した。
【……を捉える包囲網は確実に狭《せば》まっていた……】
 何という小説だったか、と戸田はぼんやりと考えている。
 その間にも、ゆっくりと涼子のことばが戸田を絡め取っていく。抗しきれず、「十二時半に……」と戸田は口走った。
「県庁の食堂で……」
 ええ、とだけ答えたことばは、戸田の耳を通ると脳内で涼子の微笑みに変わり、戸田の胸の奥に満ちた。
 戸田は大きく頭を振った。
 体に付いたゴミならば落ちたかもしれない。が、心に染みついたものは……。
「戸田……、は使い物にならんな。瀬ノ尾、ちょっと来い」
 渡辺係長が瀬ノ尾を呼んだ。
「今から西署に行って、下川畑鑑識課長から捜査資料を受け取って来い。遺体の切断刃物の正体がわかったそうだ。おい、戸田」
 と係長は冷ややかに言った。
「話が終わったんなら、受話器だけでも元に戻せ。いつまでも通話中にされたんじゃ、お前以外も仕事にならん」

 鹿箭島県庁舎の食堂は、最上階の十八階の展望レストランになっていて、東側の桜島が眺望できる。
 絶景と言っていい。
 昨夜来からの小雨は、正午前から本降りに変わっていたが、既に県庁舎の中に入っているのなら涼子が濡れる心配もない。
  戸田は、レストラン前の展望ロビーでぼんやりと桜島を眺めていた。
 雨に数日来の降灰が混じっているのか、窓ガラスにはうっすらと汚れが浮いている。
 食事時で行き交う人が多くなる中、涼子の足音だけが特別高く聞こえるはずもなかったが、戸田は振り返った。
 案の定、なのだろう。
 そこには、白のトートバッグを肩に掛け、赤い傘をぶら下げた涼子が立っていて、はにかみながら微笑んでいた。
  看護科の生徒たちを研修に連れてきたんです、と涼子は言った。
 生徒たちを迎えに行く夕方まで暇です、とも。
 結局、涼子が生徒たちに作ってきた弁当があるからと言い張り、ふたりはレストランには入らず、展望ロビーの一角に腰を据えた。
「私が医師会病院にいた頃は、こんな場所はありませんでした」
 と涼子は笑った。
「時間が経って、変わらないものなどないでしょう」
 戸田は切り返し、
 それで用件は? と事務的に尋ねた。
  涼子の表情が一変し、険しくなる。
 純子さんの情報の入り方がおかしいんです。と涼子は言った。
「被害者の直接の遺族よりも先に、マスコミや他の方が知っているのは、おかしくはありませんか? 遺体のことも、捜査の状況のことも、警察関係ではない全くの第三者から聞かされ、あとで警察の方に伺って……。それも、こちらから聞いてやっと教えてもらえることもありました。それは、遺族にとっては苦痛以外のなにものでもないんです。捜査をしている警察の方からではなくて、テレビで見たと言う人から聞かされるんです。それも、地元の警察の方からよりも詳しく……」
 涼子は、戸田を見つめた。
 戸田の表情が翳《かげ》る。
「純子さんの遺体にされていたことは、全部事実なんですか」
 涼子は畳みかけてくる。
「あなたは相談がある、と言っていました。お話を伺う限りでは、相談ではなく詰問のような気もしますが……」
 戸田は呟くようにかわした。
「残念ながら、遺族の方には、早い時点で話せないこともあります」
「利害のない第三者には話せてもですか」
 涼子は身じろぎもせず、戸田を見つめている。
「公的な対処は決まっています。ただ、個人的にギブ・アンド・テイクで情報を渡すこともあります。それが、流されることもあるかもしれませんし、マスコミにも独自の情報源があります」
「大人の事情はいいのです」
 そう、と涼子は大きく深呼吸をして言い放った。
「遺族はどんなことでも受け止めます。どんな辛い事実でも……。でも、それは、すべてを託したあなた方警察から、まっすぐに直接聞かせて下さい。絶対、第三者から聞かせないでください」
 戸田はことばを失った。
「でも、事実の中には、辛すぎて耐えられないこともあるかもしれない。だから、私に支えてやって欲しい。章《しょう》ちゃんが、そう頼んだから私は覚悟を決めたんです。それは、間違いでしたか」
 いや、戸田は首を振った。
 『間違いでないよ、りん』と、戸田は心の中で呟く。
「間違いでなく、機構の緩みでしょう。その件については、対処させます。他には」
 涼子は静かに、だが大きく何度も首を振った。
 はずみで、横のトートバッグが落ち、傘が落ちた。赤い傘は、降灰で汚れている。
「向こうは黄砂がひどくて、雨が降るとこんなに汚れてしまうんです」
 涼子は恥ずかしそうに笑った。
「鹿箭島市内では灰も降っているって天気予報だったから、晴れてても傘は汚れましたけど」
『雨に濡れてしまえば一見変わらなく見えるが、拡大せずとも、確かに降灰と黄砂では違う。落ちる場所も、大きさも……。慣れているから、逆に見分けが付かなくなるのか』
「しょ、戸田さん。どうかしましたか」
 いや、と戸田は呟いた。
「雨もやがて上がりそうだ。そう思っただけで」
「ええ。晴れた空のように、涼《りん》らしく、凛と生きる。それだけはずっと変わらずに、そうしようとしてきました」 
 涼子はそう言って静かに笑った。
 戸田は、涼子の後ろ姿を見送りながら、ぼんやり考えていた。
『変わらないでいて欲しいと願ったものは、変わっていなかった。だが、それは、変わっていて欲しいと心底願ったものが、結局変わらなかったと思い知らされた。そういうことか。おれは、涼《りん》らしく、凛と生きてほしいと言った。本当は、涼《りん》と生きる、涼と生きていきたいと、どれだけ口にしたかったことか……』


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