埋(うずみふ)腐 ――警部補戸田章三の日常(仮題)

三章企画

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第五章(その1) 参考人日高秀子

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 五月二十九日の夜半からほのついていた雨は、三十日の明け方には止んでいたが、数日来上がり続けている噴煙の降灰を含んだ水滴は、至る所の窓や車のボンネットに薄ぼんやりとした斑な汚れとして残っていた。
 翌三十一日午前中、津田夫妻が鹿箭島大医学部で娘を受け入れ、鹿箭島市内から出水市に向けてことばなき帰路についた午後一時、静かに桜島の噴煙が上がった。
 そして桜島の噴煙はその二時間後の十四時半過ぎ、再び上がる。
「必ず……」
 県警四階けいじかからその日二度目の噴煙を見やっていた戸田は、残ることばを飲み込んだ。
  日高秀子は、相変わらず不登校と外泊を続けている。
 戸田への連絡はない。
 確かに、自分がしていることが警察にばれたら、確実に補導される。連絡などしてくるはずがなかった。
 しかし、生活安全課の方では日高秀子の犯行の事実を掴んでいない。彼女が自白して、しかも証拠が出ない限り彼女に司直の手は及ばない。
 要は、日高秀子以外の誰かが証拠を握り潰してしまえばいいのだ。
 戸田は、自分の携帯電話から日高秀子の携帯電話を呼び出した。
 出ない。
 留守電に変わった。
 戸田は、大きく深呼吸した。
「県警の戸田と言う者です。大至急話したいことがあります。用件は三つ。他言はしないで下さい。まず君のお姉さんは、女子高生殺人事件の犯人と合った可能があります。その件で話したい。二番目は、秀子さん。君もその犯人と会った可能性がある。その件で話したい。三番目は、話の見返りに、君が罪に問われないように協力する。私としても危険な橋を渡るつもりです。どうか……」
 留守録は途中で切れた。何度か繰り返さなくてはならんだろうな。
 何事も起こらないうちに。
 戸田は、心から願っていた。

 瀬ノ尾、行くぞ。
 刑事部屋に戻ってきた戸田が叫び、戸田、と渡辺係長が声を荒げたが、
「回収」
 の一言だけ残してふたりは消えた。
  戸田の捜査は、ソープランドばかりでなくラブホテルにも及んでいた。派遣型の風俗は大半がここで把握できる、と戸田は言った。
「通常のビジネスホテルの場合でも、派遣元が同じだ。ホテル側の機嫌を損ねれば商売は出来ない。ホテル側は警察に協力せざるを得ない。結果イモヅル式に情報が集まる。ありがたい話だ」
 だが、軒並み回っても大した情報は集まらなかった。気が付くと午後七時半を回っている。
「とりあえず飯食ったら、客引きの連中を捕まえてみよう。月末だ。今夜はやつらも数が出ているはずだ」
 と戸田は笑った。
「瀬ノ尾。職務中だが、酩酊しない程度に飲んでいいぞ。その方が仕事がし易い」
「じゃあ、戸田さん。仕事中の晩飯と言うより、単なる飲み会ということで……。上司のお墨付きだし、干され組はこういう自由くらいは……」
 瀬ノ尾は遠慮なく呑んでいる。ついでに気になっていたことを訊く。
「戸田さん。この捜査っていうか、アンケート集めってどんな意味があるんです」
「前にコロさんが、試し切りとか言ってたろう。それなんだ。もしかするとある種の性癖が昂じたものかもしれない。そう思ってやってる」
「つまり、変質者を拾い出すってことですか」
「そうとも言えるが、そうとも言えない。いや、ちょっと待て……」

 戸田は途中でかかってきた携帯電話の応対で店外に出た。
「戸田さん? 留守電聞いたよ」
 携帯電話の向こうでぽつり、と相手は言った。
「どこまで信じていいのかな」
 全部です。と戸田は答えた。
「いや。逆だな。全部信じたいのは私の方です。電話、かけてくれて、ありがとう」
 返事はない。戸田の呼吸で七つほどの沈黙の後、戸田はゆっくりと切り出した。
「秀子さん。危ない目には遭ってませんよね」
 うん、と電話機の向こう側から遠くのこだまのような返事がぽつりと返ってきた。
「何も聞かないんだ。どこにいるのか。何をしているのか」
 聞いたさ、と戸田は笑った。
「危ない目にあってないかって。大丈夫だって答えてくれた」
「だね」
 少しだけ笑った少女の息づかいが、戸田の耳に飛び込んできた。
 だろ、と戸田も短く返した。
「お姉ちゃんのこと、どれだけ知ってるの?」
「犯人と話した通話記録があること。自分から死を選んだこと」
 戸田はそこでことばを切った。短い沈黙は、少女が携帯電話の向こう側で何かを待っていることを意味していた。
「それだけ?」
 彼女は催促している。戸田は重い口を開いた。
「援助交際をしていたこと」
 そう、と言う短い返事が遠くから返ってきた。
 そして、もっと遠くから、短い一言が聞こえてきた。
「わたしのことは?」 
「犯人と話したかもしれないこと。お姉さんのことで苦しんでいること」
 戸田はそこでことばを切った。
 少女の長い沈黙は、彼女が携帯電話の向こう側で戸田の言わなかったことばを待っていることを意味していた。
「それだけ?」
「君が援助交際をしていること。だから、犯人と会うかもしれないこと」
 そう。また短いことばが返ってきた。戸田は間髪を入れずに畳み込んだ。
「もうひとつある。君が、日高秀子が、私と、戸田章三と会うこと」
 一瞬押し黙った携帯電話から、小さく笑った息づかいが飛び込んできた。
「とださんて、しょうちゃんなんだ」
 悪かったな、戸田は短く返した。
 そうでもない、と返ってきた。
「ねえ、わたし……。捕まるのかな」
「今は証拠がないから捕まらない。これからも証拠がなければ捕まえられない。そのためにも、私と会って話すんだよ」
「いつでも会ってくれる?」
「ああ。連絡をくれれば、いつでも、どこにいても、すぐに会いに行く」
 言いながら戸田は可笑しくなった。
 これは仕事上の会話ではないな、と。
 向こう側でも日高秀子がかすかに笑っていた。
 たぶん同じ思いを感じているのだろう。戸田は、直ぐに付け加えた。
「できるだけ早いほうがいい。危険だからね」
 わかった。
 そう言って日高秀子は電話を切った。
 戸田は管制室に確認を取ろうとして止めた。
 彼女からの連絡を待とう。
 所在地の把握は明日以降でも構うまい。
 今はまだ、彼女の気持ちを大切にすればいい。
 そう考えていた。

「よし。客引きの連中に当たるのは止めて、今夜は呑むだけにするか」
 戸田は、大きく伸びをした。
 また携帯電話が鳴った。
 登録はしていないが、記憶に残っている番号だった。
 しかし、彼女には自分の携帯番号は教えていない。
『津田さんだな』と戸田は小さく呟いた。
 今頃はお通夜だろうし、出ないわけにもいくまい。
 訳の分からない理由を付けて、戸田は携帯電話に出た。
 りんの声が戸田の胸に響いた。
 りんは、事前に情報を流したことの礼を口にし、明日が津田純子の葬式だと告げた。会葬者名簿で名前を見たので、来てくれたかと思ったとも言った。
 戸田は、香典を都留警部補に頼んで置いて良かった、とふと思った。
「章ちゃんの姿を探してしまいました」
 とりんは笑った。
 戸田にことばはない。 
 今は新幹線の中で、鹿箭島市内で実習中の生徒たちの付き添いに戻るところで、実習は土曜日の午前中までだと笑った。
「現地解散ですから、昼からは私も時間がとれます。会えませんか」
「用件は?」
 戸田は短く言った。りんの恥ずかしげに笑う息づかいが戸田の耳をくすぐった。
「会いたいから」
 戸田に返事は出来なかった。
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